まのこい天秤   作:雪無い

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4話『冬蝶記』

 

「掃除、か?」

 

 俺の問いかけに、目の前の少女は「その通りです!」と、まるで歴史的な大発見でも成し遂げたかのような勢いで頷いた。

 

「大鐘さん。名探偵の部屋が今、かつてないほどの混沌に支配されています。このままでは年越しを前に、私が未解決事件の資料の山に埋もれて消えてしまいます。なのでぜひ、大鐘さんの力を貸していただけると!」

 

 十二月後半戦。この学園の冬休みは、驚くほど開始が早い。

 まだクリスマス前だというのに冬季休暇が与えられた校舎全体を包む空気は、長期休み特有の浮ついた、それでいてどこか熱を失ったような気怠さに支配されていた。

 

 まだ人影のまばらな早朝の食堂。俺は温かいスープを啜りながら、静寂を味わっていた。そこへ突風のように現れたのが、お馴染み橘シェリーというわけだ。

 

「……掃除な。確かに年末の慣習としては間違っていないが、俺の手伝いが必要なほど悲惨なのか?」

「悲惨なんて言葉では足りません! 本棚は知恵の輪のように噛み合い、床は地雷原さながら。昨日も証拠品を探しているうちに、危うく自室で迷子になるところでした!」

 

 橘は必死な形相で、両手を広げて部屋の惨状を表現しようとする。年越し前に身の回りを清めるというのは、一般的な儀式なのだろうが、そもそも普段から整理整頓を心がけていれば済む話だ。しかし、断る理由も特に無い。暇をしていたところだ。

 

「わかった、手伝う。けど、女子寮は入ったらダメじゃなかったか? 二階堂に怒られるのはごめんだぞ」

「ご安心ください!休暇中の日中であれば、申請さえ通せば男子生徒の立ち入りも許可されています。それに今回は私一人ではありません。エマさんとハンナさんにも声をかけてありますから、健全な大掃除大会になりますよ!」

 

 橘は名案だと言わんばかりに胸を張る。

 女子三人に、男が一人。四人がかりで掃除をしなければならない部屋とは、一体どんな状態なのだと、俺は思わず遠い目をした。

 

「……なるほどな。わかった、昼からでいいな?準備済ませたら向かう」

「流石は大鐘さん。話が早くて助かります! では、後ほど寮のロビーで!」

 

 橘は再び嵐のように去っていった。

 俺は残りのスープを飲み干し、静かになった食堂で小さく溜息をつく。

 人生で初めて女子の部屋に入ることになった、冬休み初日である。

 

 

 

 

 

「なるほど。これはかなりの難事件だな」

 

 俺が少し真面目なトーンでそう告げると、橘は「むっ!」と頬を膨らませて抗議の声を上げた。

 

「大鐘さん、失格です! これは事件ではありませんよ!名探偵がさらなる高みへ至るための前向きな環境整備です!」

「いつもと立場が逆転しちゃったね……」

 

 隣で桜羽が控えめにツッコミを入れた。普段なら事件を求めて飛び回る橘を俺たちが宥める側だが、今日ばかりは俺が彼女の惨状という事件に首を突っ込む形になっていた。

 

「全く……。シェリーさん、あなたという人は、もう少し自分の居住空間というものに敬意を払えませんの?」 

 

 後ろから現れた遠野が、心底呆れ果てたような溜め息を吐き出した。

 そうして案内された橘の部屋は、一歩踏み込んだ瞬間に、視界の全てが情報の濁流に飲み込まれるような場所だった。

 壁際は天井まで届きそうな本棚に埋め尽くされ、そこには古今東西のミステリー小説が、背表紙を主張し合うようにぎっしりと詰め込まれている。床には事件の記事を切り抜いたであろう大量のスクラップブックが地層のように重なり、机の上には虫眼鏡や指紋採取用と思われる粉、出所不明の事件資料が山を成していた。

 決して不潔なわけではない。むしろ、橘なりにこだわりを持って配置されているのは伝わってくる。だが、客観的に見れば、それは整理整頓という概念が通用しない異空間だった。

 

「初めて入った女子の部屋がこれか。俺の人生経験に、また一つ強烈なデータが加わった」

「あはは……」

 

 桜羽からの、いたたまれないような同情の視線が突き刺さる。俺は腕を組み、どこから手をつけたものかと、まるで難攻不落の要塞を前にした軍師のような面持ちで立ち尽くした。

 

「……全く、相変わらずですわね。あなたの頭の中をそのまま形にしたような部屋ですこと」

 

 遠野は毒気を抜かれたように首を振る。俺は一度深く息を吐き、橘に向き直った。

 

「よし、橘。まずは選別だ。一つずつ手に取るから、お前が必要なものか、いらないものかを判断しろ。その後に分類して整理していく。いいな?」

「了解しました! 名探偵の直感で、瞬時に白黒つけてみせましょう!」

 

 橘の威勢の良い返事と共に、冬休みの静かな昼下がり、俺たちの大掃除という名の作戦が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 一時間ほどの格闘の末、ようやく床を埋め尽くしていたスクラップブックの地層が解消され、室内をまともに歩けるだけのスペースが確保された。

 

「ふぅ……。ようやく地面が見えましたわね」

 

 遠野が窓を開けると、冷たく澄んだ冬の空気が、紙埃の舞う室内を一気に洗い流していく。

 せっかくここまでやったのだからと、俺たちは日常の掃除ではつい敬遠しがちな、窓拭きや高い本棚の埃落としまで一気に片付けてしまうことに決めた。

 

「こういうのって、なんだか楽しくなっちゃうよね。みんなでひとつの目標に向かってる感じがしてさ」

 

 水を替えに行っていた桜羽が、こちらに戻ってきて柔らかく微笑んだ。

 

「そうだな。一人でやるのとは効率もモチベーションも違う」

 

 俺が同意すると、桜羽は「えへへ」と嬉しそうに目を細めた。その屈託のない笑顔に、少し疲れのあった空気がわずかに緩む。

 俺は本棚の上段に手を伸ばし、古い資料を整理し始めた。桜羽はその下で、棚の段を丁寧に拭いていく。

 

「桜羽、あまり身を乗り出すなよ。頭上の本が不安定だから、振動で落ちてくるかもしれない」

「うん、わかってる。気をつける──わわっ!?」

 

 返事と同時に、桜羽が自分の足をもつれさせた。

 重心が崩れ、彼女の体が俺の方へと倒れ込んでくる。俺は咄嗟に資料を置き、彼女の肩を支えようと手を伸ばした。

 だが、俺の指先が彼女の服に触れる直前。

 桜羽は俺が驚くほどの反射神経で、自らぐっと床を突き、俺に触れる前に踏みとどまった。 

 

「大丈夫か?」

「あっ、うん……」

 

 伸ばした俺の手と、彼女の肩の間に、空白が生まれる。

 一瞬、桜羽の視線が、少し離れた場所でカーテンを拭いていた遠野の方へ飛んだ。

 その瞳は、掴みかけた温もりをあえて手放したような、冬の夕暮れに似た淡い寂寥感を湛えていた。

 ほんのコンマ数秒。桜羽はすぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのように俺から少し距離を取った。その動作に、俺は言いようのない違和感を覚えたが、それを言葉にする術を持たなかった。

 

「足元注意だな。掃除前の惨状に比べれば足場は格段に増えてるから、もう大丈夫なはずだ」

 

 俺がぶっきらぼうに告げると、桜羽は頬を少し染めて照れ笑いを浮かべた。

 

「あはは……ごめんね大鐘くん。ボク、なんだかちょっと落ち着かなくて」

「大鐘さん今さらっと私の部屋をディスりませんでしたか?」

 

 掃除用具を抱えた橘が、頬を膨らませてジト目を向けてくる。

 

「事実だろ。さあ、次は本棚動かすんだったな」

 

 橘の不満げな声を適当に受け流しながら、俺は再び整理されたばかりの床をしっかりと踏みしめた。部屋の主役とも言える、壁一面を占拠した巨大な木製の本棚に目を向ける。中には重厚なハードカバーから薄い資料集までが、隙間なく詰め込まれていた。

 

「橘、それは二人で動かすぞ。下手に重心を崩すと危ない」

「いえいえ、大鐘さん。名探偵の辞書に不可能という文字はありません! これくらいなら私一人で問題ありません!」

 

 橘は自信満々に言うと、制止する間もなく本棚の脇に手をかけた。

 

「おい、待て──」

 

 いくら彼女に並外れた怪力があるとはいえ、これほど大きな本棚だ。中の本のバランスまでは制御しきれない。一人で強引に動かせばどうなるか、考えるまでもなかった。案の定、橘が力を込めた瞬間、本棚は不自然に傾き、棚板から溢れた本たちが一気に床へと滑り落ちた。

 

「わわわっ!? 私の推理資料たちが!」

 

 驚いた橘がさらに手を動かしたせいで、被害は拡大し、滝のような勢いでミステリー小説の山が床に散乱していく。

 

「……案の定だ」

 

 俺は思わず溜息をつき、散らばった本を避けながら彼女に歩み寄り、本棚を支え立て直した。

 

「怪我はないか? いいか橘、魔法だって万能じゃないんだ。物理的な重心の偏りまでは誤魔化せないぞ」

「うう……面目ありません。つい、共同作業はいかがなものかと思い……」

 

 先ほどまでの威勢はどこへやら、橘はしょんぼりと肩を落として謝った。

 

「……それはどういうことなんだ。まあ怪我がないならそれでいい。無茶するなよ」

 

 俺がポンと彼女の肩を叩くと、大きな音に驚いて作業を中断していた桜羽と遠野が、心配そうに駆け寄ってきた。

 

「大丈夫!? シェリーちゃん、大鐘くん、怪我してない?」

「あぁ、問題ない」

「全く、余計な手間を増やしてくれましたわね。……仕方ありませんわね。もう一度拾い直しましょう、シェリーさん」

 

 遠野が呆れ半分、慈しみ半分といった様子で床の本を手に取る。

 俺も彼女たちに倣って腰を落とし、ぶちまけられた本を拾い始めた。

 本棚の整理中、ふと目に入ったスクラップの片隅に、色褪せた標本の写真があった。羽を休める蝶のそれは、どこかなんとなく、遠野を思わせた。

 そんな時だった。本棚の奥、古い資料の隙間から滑り落ちた一枚の紙が、俺の視界に飛び込んできたのは。

 

「……なんだ、これ?」

 

 拾い上げた本と本の間に、その紙は挟まっていた。

 それは橘の趣味であるミステリーのスクラップでも、娯楽小説の一部でもなかった。無機質なフォントで記されたタイトルが、俺の目に留まる。

『魔法特性の調査――精神衛生における相関的項目』。

 

「あっ、それ懐かしいね、大鐘くん。ボクたちが入学した時に書かされたやつだよ」

 

 桜羽が俺の手元を覗き込み、屈託のない声で教えくれた。

 

「わたくしも覚えていますわ。入学の手続きと一緒に、そんなものを書かされましたわね」

 

 遠野も隣で、さして重要でもなさそうに頷く。

 俺は書面に目を落とした。

 

『魔法を使用した後、感情の高ぶりをどの程度感じるか』

『日常生活において、他者との意見の相違が起きた際、魔法による解決を想起するか』

 

 並んでいるのは、随分と踏み込んだ内容の質問事項だ。メンタルケアの一環なのだろうが、どこか粘着質な嫌らしさを感じる。

 

「あれ、そんなところに紛れ込んでいたんですね。すっかり忘れていました」

 

 橘がひょいと首を傾げる。

 

「わたくしも記入後返却されましたが……結局、これに何の意味があったのでしょうね。今更返されても困りますのに」

 

 遠野は心底どうでもよさそうに鼻を鳴らした。

 当然だが、俺にはこんな用紙を渡された記憶など一切ない。他の一般生徒たちも同様だろう。魔法という特殊な力を持つ彼女たちならではの、またもや変わったルールなのだろう。

 

「しかも、これと同じような内容の面談が今でも頻繁にあるよね。月に一回は呼ばれてるんじゃないかな」

 

 桜羽が何気なく言った言葉に、俺は少しだけ眉をひそめた。

 

「ええ。最近何か嫌なことはありましたか、悲しいことはありませんでしたか……なんて。まるで小学生を相手にしているみたいで、聞かれるこちらが恥ずかしくなりますわ」

 

 遠野は呆れたように肩をすくめた。

 悩みを聞き出すという体裁なのだろうが、多感な時期の女子高生に毎月そんなことを聞くのは、確かに少し過保護が過ぎる気がする。この学園は、彼女たちの心の揺らぎに対して、どうにも過敏なところがあるらしい。

 

「……まぁ、お前たちが大変なのはわかった。とりあえず、今はこいつらを棚に戻す方が先決だな」

 

 しかし、今はその違和感を口にするべきではないと判断し、俺は書類をそっと橘に返した。今は学園の事務的な不気味さよりも、目の前の片付けを終わらせることの方が重要だった。

 

 

 

 

 

「……ふぅ。ようやく、まともに生活できる空間になりましたわ」

 

 窓から差し込む夕光の中で、遠野が満足げに一つ、頷いた。

 先ほどまでの情報の濁流が嘘のように、部屋は見違えるほどきれいにまとまっていた。床を埋め尽くしていたスクラップブックは棚に整然と収まり、窓ガラスは冬の空を鮮明に映し出している。

 

「皆さん、本当にありがとうございました!」

 

 橘が晴れやかな笑顔で、淹れたての紅茶を並べる。その様子に、俺もようやく一息ついて椅子に深く腰を下ろした。

 

「だいぶ早い大掃除になったけど、橘は年末帰省するのか?」

「はい!クリスマスが過ぎたら帰る予定です」

「だから今日だったのか」

 

 橘にとっての実家がどのような場所なのか、俺は詳しくは知らない。だが、弾むような彼女の声を聞けば、そこが悪い場所でないことくらいは容易に想像できた。

 

「ボクも帰るかな。せっかくの長いお休みだし、家族の顔も見たいしね」

 

 桜羽も紅茶の湯気の向こうで、穏やかに目を細めた。

 休暇、帰省、団欒。そんな冬休みらしい言葉が部屋を彩る中、俺はふと、まだ何も口にしていない隣の少女に視線を向けた。

 

「遠野はどうするんだ?」

「……わたくしは、寮に残りますわ」

 

 遠野は伏せたまつ毛を微かに揺らし、寂しげな響きを帯びた声で答えた。

 その一瞬の横顔。文化祭の時、楽しげに去っていく姉妹を眺めていた時の、あのどこか遠くを見つめるような瞳が重なった。

 

「なら俺も残る」

 

 考えるより先に、言葉が口をついて出た。

 自分はどう過ごそうか、という迷いは、彼女の顔を見た瞬間に消し飛んでいた。理由は後から考えればいい。ただ、この少女を冬の静寂の中に一人きりで置いていくことだけは、あってはならない気がした。

 室内に、短い沈黙が流れる。

 橘が驚いたように目を丸くし、遠野が弾かれたようにこちらを凝視した。そんな中、最初に口を開いたのは桜羽だった。

 

「……そっか」

 

 桜羽は、何かを悟ったように小さく、けれど優しく微笑んだ。

 その微笑みには、俺の即答に対する驚きよりも、どこか納得したような、静かな温かさが宿っていた。

 

 遠野は、まるで予想だにしない方向から剛速球を投げ込まれたかのように、目を見開いて硬直していた。気高く、あるいは冷徹ですらあった翠色の瞳が、今は迷子の子どものように頼りなく揺れている。

 

「……あの、本当によろしいんですの? 大鐘さん」

 

 消え入りそうな、おずおずとした問いかけ。いつもの自信に満ちた、高飛車な彼女の面影はどこにもなかった。

 

「ああ。二ヶ月ちょっと前まで実家にいたんだ、わざわざこの短期間で往復する必要も感じないしな。それに、慣れない地で正月気分を味わうっていうのも、それはそれで楽しいはずだ」

 

 俺は、あらかじめ用意していたかのようにそれっぽい理由を並べ立てた。もちろん建前だ。だが、今の彼女に「お前を一人にしたくないからだ」などと直球を投げれば、それこそ彼女のキャパシティを越えてしまうだろう。

 俺の言葉を聞きながら、遠野の瞳が激しく揺れ、やがて何かを堪えるようにゆっくりと伏せられた。

 

「エマさんエマさん。今、『なら』って言いましたよね。考える間もなく即答でしたよね」

「うん……そうだね。一秒も迷ってなかったね……」

 

 橘と桜羽が、顔を寄せ合い、ひそひそと声を潜めている。だが、静まり返った室内ではその声は残酷なまでに明瞭に響いていた。

 

「……っ」

 

 その言葉の意図を汲み取ってしまったのか、遠野の白い頬が、夕焼けよりも鮮やかな朱に染まっていく。俺もまた、自分の出した結論のあまりの早さを他人に指摘され、猛烈な居心地の悪さに顔が熱くなるのを感じた。

 

「……んんッ! とにかく、俺は残る。決めたことだ」

 

 俺は無理やり咳払いをして、逃げるように視線を逸らした。

 そんな俺たちの様子を、桜羽と橘は面白がるでもなく、ただ温かいものを見守るような穏やかな笑顔で眺めていた。その眼差しは、どこか安堵感に満ちているようにも見えた。

 

「では、よろしくお願いしますね、大鐘さん。名探偵のいない間、しっかり調査を……いえ、冬休みを頼みましたよ!」

 

 橘がどこか確信めいた口調で、俺に託すように言った。

 

「大鐘くん、ハンナちゃんのこと、ちゃんと見てあげてね?」

 

 桜羽は少しだけ声を落として、慈しむようにそう告げる。その言葉には、少しの心配と、そして彼女自身が飲み込んだ淡い想いの残滓が、祈りのように込められている気がした。

 

 窓の外では、冬の太陽が最後の一筋を残して沈もうとしていた。

 

 

 

 

 

 橘の部屋を後にしてから外へ出ると、空気はすっかり冷え込んでいた。夕方だというのに陽光はとうに消え、学園を包むのは深い群青の夜気だ。

 俺は冷える指先をポケットに押し込み、静まり返った校舎へと足を向けた。冬休みが始まったばかりの校舎は、先週までの喧騒が嘘のように静まり返り、廊下には自分の足音だけが空虚に響いている。

 

 辿り着いたのは、生徒会室。

 一呼吸置いてから、俺は重厚な扉を二度、ノックした。

 

「どうぞ」

 

 中から返ってきたのは、迷いのない、凛とした明瞭な声だった。

 その声を聞いて、俺はわずかに胸を撫で下ろす。まだ残っていたか。「失礼します」と前置きし入室した。

 

「悪いな、こんな時間にいきなりやってきて」

「構わない。ちょうど事務作業に区切りがついたところだ」

 

 顔を上げた二階堂ヒロは、卓上灯の明かりの下で、いつものように非の打ち所のない端正な佇まいで俺を迎え入れた。

 冬服のネクタイを整え、疲れ一つ見せずに書類を整理する彼女は、この学園の秩序そのもののように見える。だが、その背後に窓から差し込む冬の夜闇が迫っているせいか、今日の彼女はどこか浮世離れした、危ういほどの透明感を纏っていた。

 

「それで、何の用だろうか」

 

 二階堂はペンを置き、組んだ指の上に顎を乗せて俺をじっと見つめた。その紅玉のような瞳は、俺がここへ来た理由をすでに見透かしているようでもあった。

 

「遅くなったが、返事をしに来た。この前の勧誘の件だ」

「ああ、聞こう」

 

 二階堂は椅子に深く腰掛け、俺の言葉を待つ姿勢を取った。卓上灯の淡い光が、彼女の冷静な横顔と、それに対峙する俺の影を壁に長く引き伸ばしている。肌を刺す緊張感が室内に満ちていた。

 

「生徒会入りの話……悪いが、断らせてくれ。今の俺には、それ以上にこの学園でやりたいことができたんだ」

 

 俺が真っ直ぐにそう告げると、二階堂は僅かに目を見開いた。驚きというよりは、俺の中に生まれた新しい意志を確認するような、深く鋭い眼差し。

 

「……そうか」

 

 二階堂は短く応じ、ふっと肩の力を抜いた。

 

「残念だよ。君のような視点を持つ人間がいれば、私の仕事も少しは楽になると思っていたんだがな」

 

 口では残念だと言いながらも、彼女の唇に浮かんだのは、どこか慈しむような優しい微笑みだった。それは、祝福のようにも見えた。

 

「せっかくの誘いを断って申し訳ない。期待に応えられなかった」

「いいさ、謝る必要はないよ。君のような男を私が縛ろうだなんて、分の悪い賭けだったようなものだ」

 

 二階堂は再びペンを手に取ると、手元の書類に視線を落とした。そして、独り言のような小さな声で、けれど確かな響きを込めてこう付け加えた。

 

「……君にとっては、それが一番良い選択なのかもしれないな」

 

 その言葉の真意を問う前に、二階堂は顔を上げ、いつもの冷徹な生徒会長の表情に戻っていた。

 彼女の視線は、俺を通り越して、誰もいない漆黒のグラウンドへと向けられている。

 

「君が見つけた『やりたいこと』……それが何であれ、精一杯やってみるといい。冬の夜は長い。迷っている時間は、私たちにはないのだから」

 

 俺は一礼して、生徒会室を後にした。

 廊下へ出ると、闇はさらに深まっていたが、俺の足取りは驚くほど軽かった。

 

 重力に抗う魔法も、未来を見通す術も俺にはない。

 けれど、誰に命じられるでもなく、この冬の底に踏みとどまる理由なら、今の俺の胸には確かに灯っている。

 窓の向こう、凍てつく群青の空に瞬く星々は、どこかあの少女の瞳の色に似ていた。





ハンナルートはヒロイン勢の中で一番物語が動かない話になるんですけど結構好きです。
次回は日曜日に更新できたらいいなって感じの顔してます。
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