まのこい天秤   作:雪無い

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ハンナ回ラストです。初の1万文字超え。


5話『冬蝶記PART2』

 

 十二月三十一日。街は新年を迎えるための活気と、冬将軍が本気を出したような身を切る冷気に包まれていた。行き交う人々が吐き出す息は白く、防寒具に身を包んだ買い物客たちが、年末特有の忙しなさで市場を埋め尽くしている。

 そんな喧騒の中、俺とハンナは肩を並べて歩いていた。

 

「ハンナ、一応確認しておくけど、食べられないものとかあったか?」

「特にありませんわ」

 

 ハンナはマフラーに顔を少し埋めながら、短く答えた。

 今日の目的は、今夜二人で囲む年越し鍋の食材調達だ。クリスマスを桜羽や橘と四人で賑やかに祝った後、二人が帰省してからは、俺とハンナの二人きりの時間が流れていた。ハンナに苦手な座学を叩き込まれたり、逆に俺のボードゲームに彼女を付き合わせたり、時には、俺の自主トレーニングまで手伝ってもらった。そんな穏やかな日々の積み重ねが、俺たちの距離を少しずつ、けれど確実に変えていた。

 

「というか、ヒカリさん。前々から気になっていましたけれど、なぜ年越しにお鍋なんですの? お蕎麦を食べるのが一般的じゃありませんか?」

 

 ハンナが不思議そうに首を傾げる。言葉とは裏腹に、その表情に不満の色はなく、単なる純粋な疑問といった風だ。

 

「いいか、ハンナ。鍋というのは、栄養学的に見て極めて合理的な調理法なんだ。肉や魚のタンパク質はもちろん、熱に弱いビタミン類もスープに溶け出すから余さず摂取できるし、野菜の嵩が減る分、食物繊維も大量に摂れる。アスリートにとっても、消化への負担を抑えつつ必要なカロリーを補給できる最強のソリューションなんだよ。さらに言えば、最後に蕎麦を投入すれば年越し蕎麦として完璧に成立する。一つの鍋で完結する効率の良さと栄養価の密度を考えれば──」

「……わかりました、わかりましたから! お鍋で結構ですわ、もう」

 

 俺のスイッチが入ったような早口を、ハンナが遮るように両手を振って制止した。

 彼女は、やれやれと言わんばかりに深く溜息を吐き出す。その呆れ顔すらも、どこか親愛の情を含んでいるように見えて、俺は少しだけ口角を上げた。

 

「ふふっ。ヒカリさんは、相変わらずですわね」

 

 ハンナは可笑しそうに目を細め、マフラー越しに小さく笑いかけた。その柔らかな表情には、この冬の寒さに負けない温かさがあった。

 

「とにかく、今日は鍋で年越しだ。ハンナにはもう少し体を作ってもらわなきゃいけないからな。栄養はしっかり摂ってもらうぞ」

「ふん、余計なお世話ですわ。わたくし、これでも健康体ですわよ」

 

 そう言いながらも、彼女の声に拒絶の響きはない。

 

 桜羽と橘が寮を去ってから、どちらからともなく、俺たちは互いを名前で呼び合うようになっていた。

 この関係がただの友達の範疇をとうに超えていることは、言葉にせずとも互いの肌に伝わっている。けれど、あえてそれを白日の下にさらして、今の心地よい空気感を壊そうとするほど、俺たちは若すぎるわけでも、無鉄砲なわけでもなかった。

 ただ、不意に視線が合えば自然と頬が緩み、歩幅を合わせることに違和感がない。緊張でぎこちなくなることもなく、いつもの延長線上のまま、少しだけ特別な二人の時間を楽しんでいた。

 

「というか……ヒカリさんは、いつもそこまでお食事に気を遣ってますの?」

「ああ。基本的にはな。学園の食堂でも、できるだけ栄養バランスには気をつけてる。……あとは量もとにかく取る。米は昼と夜、茶碗三杯分はおかわりするようにしてるな」

 

 俺がさらりと答えると、ハンナは驚いたように目を丸くした。

 

「三杯……? よくそんなに入りますわね……」

 

 野球から離れても、とにかく食べて体を増やし、走り込む習慣が抜けることはなかった。それが未練がましい執着なのかもしれないとは、自分でも薄々感じている。だが、人生の九割以上を野球という競技に捧げてきたのだ。今更、細胞のひとつひとつにまで染み付いた習慣を自分の中から引き剥がすことなんて、容易にできそうもなかった。

 

「……感心しますわ。立派な体ですものね」

「見習うと良い」

「もう、またそうやって」

 

 ハンナが、心底感心したように、それでいてどこか眩しいものを見るような眼差しを俺に向ける。そのまっすぐな称賛に、俺は少しだけ照れくささを感じながら、手に持った買い物袋を握り直した。

 

 そんな他愛ない会話を交わしながら歩いていた、その時だった。

 穏やかな冬の午後の空気は、背後から投げかけられた鋭い声によって、唐突に破られた。

 

「……そこの君、ちょっと待ってくれ……!」

 

 足を止め、俺たちは同時に振り返った。

 そこに立っていたのは、三十代半ばほどの、仕立ての良いコートを羽織った男だった。整えられた身なりは清潔感があり、その視線はまっすぐに、射抜くような強さで俺を捉えている。ただの人違いでも、道を尋ねようとしている風でもない。明らかに俺という個人に用がある、確信を持った眼差しだった。

 見た目からは特段の警戒心は抱かせない。だが、俺は無意識のうちにハンナの肩を抱くようにして自分の後ろへと回し、半歩前に出た。

 

「……何か、ご用でしょうか」

 

 俺は努めて平静を保ち、丁寧なトーンで問いかけた。

 だが、俺の立ち振る舞いを見た男は、むしろ満足げに目を細め、内なる確信をさらに深めたようだった。その顔に、パッと明るい喜びの表情が浮かぶ。

 

「その目、間違いない、やっぱり大鐘ヒカリ……大鐘ヒカリくんだね!?」

 

 男のテンションが一段跳ね上がる。

 あまりの勢いに、俺とハンナは思わず顔を見合わせた。困惑を隠せない俺たちの様子に気づき、男は「おっと」と声を漏らし、慌てて無作法を正すように居住まいを正した。

 

「いきなり失礼した。取り乱してしまって申し訳ない。決して怪しい者じゃないんだ。私は、こういうものでして……」

 

 男が恭しく差し出してきたのは、一枚のビジネスカードだった。

 それを受け取り、目を落とした俺の指先がわずかに強張る。そこに印字されていたのは、野球をやっていた頃の俺なら嫌でも目にしていた、見覚えのあるロゴ。

 かつて何度か取材を受けたこともある、国内有数の大手スポーツ専門誌の名刺だった。

 

「……はい、大鐘ヒカリで間違いありません」

 

 ここまで確信を持って詰め寄られ、身分も明かされては、今さら隠し通すのは不可能だった。俺は渋々といった様子で肯定の言葉を口にする。だが、こちらの胸中に広がる薄暗い雲などお構いなしに、記者の男はなおも興奮を募らせた。

 

「やっぱりそうか! ああ、ついに見つけたぞ! 元、城北シニアの主砲、そして中学日本代表の正捕手と、まさかこんな場所で会えるなんて!」

 

 男は感極まったように声を上ずらせる。

 

「世界大会での君の活躍は、今でも鮮明に覚えているよ。中学生離れしたバットコントロールに、外国の選手と比べても遜色の無い長打力……。何より、データの無い相手に対する対応だ。あの全てを見透かしたような目には震えたよ。とてつもないシミュレーション能力だ。本当に素晴らしかった!」

 

 立て板に水のようなベタ褒めの嵐。

 ふと視線を感じて隣を見ると、ハンナが「この早口、どこかで聞き覚えがありますわね」と言いたげな眼差しをこちらに向けていた。俺っていつもこんな感じなんだろうか…… 

 自分の姿を鏡で見せられているような気がして、俺は内心、少しだけ落ち込んだ。

 

「……あ、ありがとうございます。その、少し声のボリュームを落としていただけると」

 

 引き気味にそう告げると、記者の男はハッとしたように表情を引き締め、その瞳に僅かな陰りが落ちた。

 

「これは失礼。……だが、なぜ君ほどの選手が野球の舞台から消えてしまったんだ? 高校は、激戦区を避けて地方の古豪に進んだと聞いた。中学三年の時点で甲子園レベルに達していた君が、夏の全国大会で暴れるのを楽しみにしていたんだよ。それが、メンバー登録すらされていなかったと知った時は、本当に、激震が走ったんだ……」

 

 男の問いかけが、俺の心の底で沈殿していた澱を猛烈にかき乱した。

 それは、喉元までせり上がってくる、どす黒い鉄の味だった。

 周囲の喧騒は一瞬で遠のき、視界の端から急速に色が失われていく。かつての栄光も、期待も、それらすべてを放り出して逃げ出したあの日の光景が、冷たい泥流となって俺の思考を飲み込んでいった。

 おそらく、今の俺の表情からは先ほどまでの穏やかな空気は完全に消え失せ、死人のような青白さが張り付いていたはずだ。過去という名の重力に囚われ、一歩も動けなくなる感覚。

 

「失礼ですが、記者さん──」

 

 だが、その凍てついた停滞を、横から差し込んだ一筋の陽光が切り裂いた。

 俺が押し潰されそうになったその時、半歩後ろにいたハンナが、迷いのない足取りで俺の隣へと並んだ。彼女は俺の冷えた手をそっと握りしめ、そのまま優しくリードするように前へ出る。

 

「わたくしたちは今、一分一秒を惜しんで過ごしている、とても大切なデートの最中ですの。思い出話の続きは、また別の機会にしていただけませんかしら? せっかくの美しい大晦日ですもの」

 

 ハンナは毅然としていながらも、その声には一切の棘がなく、春の陽だまりのような温かな包容力が満ちていた。彼女の凛とした佇まいに、記者の男は毒気を抜かれたように立ち尽くし、やがて自分の無作法を恥じるように肩を落とした。

 

「……ああ、これは。本当に申し訳ないことをした。大晦日の、しかもこんな仲睦まじいお二人の時間を邪魔してしまうなんて。……記者として以前に、人として恥ずかしい限りです」

「いいえ。わかっていただければ、それで結構ですわ」

 

 ハンナが穏やかに微笑む。男はなおも申し訳なさそうに頭を下げていたが、ふと、思い直したように真剣な表情で俺の目を見つめた。

 

「……大鐘くん。これだけ、これだけは最後に聞かせてくれないか。君が表舞台から消えたのは……その、再起不能なほどの、重い怪我のせいなのかい?」

 

 その問いには、単なる好奇心ではなく、一人の野球ファンとしての切実な祈りが込められているように感じられた。俺は繋がれたハンナの手の温もりを支えにして、真っ直ぐに答える。

 

「……いいえ。怪我はしていません。どこも、悪くはないです」

 

 俺が丁寧にそう告げると、彼は「そうか……」と、心の底から安堵したように深く息を吐き出した。

 

「よかった。本当に、それだけが心配だったんだ。……大鐘くん。私と、そして君のプレーに魅了された多くの人間は、君がどこで何をしていようと、君という人間を応援している。野球をしていても、していなくてもだ。君が元気に、こうして素敵なお嬢さんと歩んでいることが分かっただけでも、私には十分すぎる収穫だよ」

 

 男は最後に、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔を浮かべた。

 

「良いお年を、大鐘くん。そしてお嬢さん。お邪魔しました」

 

 そう言い残し、男は雑踏の中へと消えていった。

 

「そういう人も、いるのか……」

 

 呆然と立ち尽くす俺の胸中には、不思議な余韻が広がっていた。

 あの日、全てを投げ出して逃げ出した俺を、世間は無責任な脱落者として指差しているのだとばかり思っていた。けれど、あの記者の瞳に宿っていたのは、濁りのない敬意と、一人の人間としての温かなエールだった。

 野球を剥ぎ取ったあとの俺を、そのまま受け入れてくれる誰かが、外の世界にもいたのだ。

 視界を覆っていたモノクロの霧が、少しずつ晴れていく。その瑞々しい色彩を運んできたのは、手元に伝わる力強い、確かな感触だった。

 

 ハンナが、俺の大きな掌を両手でグイと引っ張り、未来を拓くように力強く歩き出す。

 

「さあ、ヒカリさん。ずいぶんと寒くなってまいりましたわ。早く帰って、お鍋にしましょう?」

 

 振り返った彼女の瞳には、夕陽を反射したような、慈愛に満ちた柔らかな光が宿っていた。

 男の言葉で揺れ動く俺の心に無理に踏み込まず、けれど決して独りにはさせない。その細い指先から伝わる熱が、何よりも饒舌に今の俺を肯定してくれていた。

 

「……あぁ、わかった。帰ろう」

 

 俺は繋がれた手に力を込め、彼女の隣に並んだ。

 隣を歩くハンナの横顔を盗み見る。

 前を向かなきゃいけない時が、来たのかもしれない。

 野球を捨てた俺を逃亡者だと蔑む奴ばかりだと思っていた。けれど、野球をしていようがいまいが、俺という人間を肯定し、応援してくれる人がいる。そして何より、過去の濁流に呑まれかけた俺の手を、迷わず掴んで引き寄せてくれる人が、今ここにいる。

 

 俺一人のために、過去を呪うのはもう終わりにしよう。

 自分も、そして多くの傷を抱えているであろうハンナも、一緒に、前を向くために。

 俺は自分の心の内に、静かに消えない決意の火が灯るのを感じていた。

 

「……ハンナ」

 

 並んで歩き出し、少し落ち着いたところで俺は彼女の名を呼んだ。繋いだ手から伝わる鼓動が、先ほどよりも少しだけ速くなっている。

 

「……今日、帰ったら伝えたいことがある。俺のことを、もっと知ってほしいんだ」

 

 隠すことも、逃げることも、もうやめたかった。

 過去を丸ごと抱えた自分として、彼女と向き合う。それが、隣で微笑む彼女に対する、俺なりの誠実さの形だと思った。

 俺の言葉を聞いたハンナは、驚いたように瞬きをし、それから包み込むような優しい眼差しを俺に向けた。

 

「……はい。わたくしも、あなたのことをもっと深く知りたいと思っていましたわ。……帰りましょう、わたくしたちの場所へ」

 

 夕暮れ時の街を、二人の足音が重なり合いながら響く。

 これから話すことは、決して楽しい思い出ばかりじゃない。けれど、不思議と心は澄み渡っていた。

 

 

 

 

 

 部屋に戻り、さっそく二人で夕食の準備を始めた。

 換気扇の回る音と、まな板の上で野菜を切る規則正しい音が、冷え切った部屋を少しずつ温めていく。鍋の出汁がふつふつと煮立ち始めた頃、ハンナがふと思いついたように口を開いた。

 

「そういえば……ヒカリさん。年越しをこちらで過ごすと実家にお伝えした時、ご家族は何て仰ってましたの? 急なことでしたし、心配かけたんじゃありません?」

 

 白菜を鍋に投入しようとしていた俺は、苦笑いしながら答えた。

 

「ああ。最初は確かに驚かれたし、心配もされたよ。でも、ちゃんと理由を説明したらむしろ喜ばれた」

「喜ばれた?」

 

 不思議そうに首を傾げるハンナに、俺は少し気恥ずかしくなって視線を逸らした。

 

「女の子と一緒に過ごしたいって言ったら大喜びだった。勝利至上主義の野球マシーンだった男がようやく人間らしくなったってな。あっ、写真撮ってもいいか?見たい見たいってうるさいんだよ」

 

 俺がスマートフォンを構えると、ハンナは少しだけ意外そうに目を瞬かせ、それから控えめに頷いた。

 

「構いませんけれど……。マシーンなんて、先ほどの記者さんのお話もそうですけど、今のヒカリさんからは想像もつきませんわ」

 

 ハンナは出来上がった鍋の湯気を見つめながら、不思議そうに呟く。

 野菜がしんなりと沈み、肉の脂が美味しそうに浮いた鍋の準備はあらかた終わった。立ちのぼる香りと共に、部屋の空気はすっかり日常の温度を取り戻している。

 かつて勝利だけを最善と考え、他者との関わりを削ぎ落としていた機械は今、温かい鍋の傍らで、一人の少女の笑顔を写真に収めようとしていた。

 

「そのあたりも含めて、続きを話すよ」

 

 俺はカメラのシャッターを切ると、画面に映る少し照れくさそうなハンナを愛おしく眺めてから、静かに食事を始めた。

 

 

 

 

「さあ、冷めないうちに食べよう」

 

 そう言って、俺たちは温かい鍋を囲んだ。

 箸を進めながら、二人の間に置いたスマートフォンで、先ほど話題に上がった世界大会の動画を流す。しばらくの間、出汁の染みた白菜や肉の旨みを味わいながら、二人で画面の中のかつての俺を見つめていた。

 動画の中では、張り詰めた緊張感が漂うマウンドとバッターボックスの光景が続いている。不意に、俺は一度動画を一時停止させた。

 

「この時の状況を少し解説する。9回裏1点リード、2アウトランナー3塁。カウントはワンボールツーストライク。抑えピッチャーの制球がかなり荒れていて、逆に打者は相手チームの中で一番足が速い。内野安打どころか逸らした瞬間に同点っていうかなり窮屈な場面だ」

 

 俺は画面の中の、泥にまみれた背番号「2」を指差した。

 

「この、キャッチャーが俺」

 

 動画を再開する。ピッチャーが投げた速球は、ストライクゾーンを大きく外れ、ベースの遥か手前で叩きつけられるワンバウンドの暴投だった。球場が悲鳴に包まれる中、画面の中の俺は、微塵も動じず、流れるような動作で体を使ってその球をブロックし、平然とミットに収めた。

 さらには、三塁ランナーが飛び出しを見逃さないよう、一瞬だけ鋭い視線を向けて牽制する。

 

「すごい、すごいですわっ。あんなに恐ろしい球を、何事もなかったかのように」

 

 隣のハンナが身を乗り出すようにして声を上げる。画面の中の俺は、喜びを表に出すこともなく、淡々とボールを返していた。

 

「この後は何とか抑えて勝つことができた。急造のバッテリーだったが、俺が絶対に逸らさないことがわかってからこいつはキチンと投げることができた」

 

 俺が少し誇らしげに言うと、ハンナは画面の中の俺と、今の俺を交互に見比べて、感心したように吐息を漏らした。

 

「……今よりずっと、険しい目つきをしていますわね。まるで、周囲をすべて敵だと思っているような……」

「顔つきは確かにそうだが、実際はそうでもない。勝つためにできることは何でもするってのは結構楽しいんだ」

 

 かつての自分が、どれほど執念深く、どれほど純粋に勝利という最善に執着していたか。

 今も根本は変わっていないが、それを語る俺の言葉は、自分でも驚くほど穏やかだった。

 

「……ヒカリさん、あなた全然自分のこと話しませんのね」

 

 動画を見終えたハンナが、心底呆れたように溜息を吐いた。

 

「これほどまでの選手だったなんて、全く知りませんでしたわ」

「いや、野球をやってたってことは、出会った頃からちょくちょく話してただろ」

「ここまでとは思いませんわよ! 誇張抜きにプロの類ではありませんか。……他に、他にどういう特徴がありましたの? どんな選手でしたの」

 

 問い詰められ、俺は箸を止めて少し考え込んだ。

 

「そうだな……。それこそ、さっきの動画みたいに、球は速いけどコントロールがめちゃくちゃに荒いピッチャーの制御が得意だったように思う。暴投だろうが何だろうが、とにかく逸らさずに全部止めて、安定するのを待つ。打つのもそういうのが得意だった」

 

 すると、ハンナが何か得心のいったような顔をして、さらに深く、呆れたように肩をすくめた。

 

「……やっと納得しましたわ。あなたがどうして、シェリーさんやココさんと、出会ってすぐに打ち解けられたのか、ようやく理由がわかりましたわ……」

「あいつら、俺の中では荒れ球扱いかよ」

 

 「アンアンさんには絶対会わせられませんわ……」とボソリと呟くハンナを見て思わずツッコミを入れそうになる。俺の好みがもしそうだとしたらこいつが一番のクセ球ということになるのだが。

 もちろん、そんな言葉は口には出さない。代わりに俺は、温かい湯気が立ち上る鍋に視線を戻した。

 

 ……そろそろ、話さなきゃいけない。

 どうして俺が、あんなに大切だったはずの野球の舞台から逃げ出したのか。高校の時、俺の身に何が起きたのか。その一番暗い部分を、今この場で打ち明けようと、俺は重い口を開きかけた。

 けれど。

 

 (いや、違うな……)

 

 ふと、先ほど街中で彼女が俺の手を力強く繋いでくれた感触が蘇った。

 凍えそうだった俺を過去の泥沼から引き揚げてくれた、あの熱を帯びた温もり。あの瞬間、俺の中で曖昧だった感情の形は、はっきりとした輪郭を持って完成していた。

 過去の傷跡をさらけ出す前に、まず伝えるべきことがある。

 今の俺が、これからの未来を誰と一緒に歩きたいのか。

 

「……ハンナ」

 

 俺は、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

 過去を語るより先に、まずはこの想いを彼女の心に叩き込まなくてはならない。

 

「好きだ。ハンナ、これからも、ずっと一緒にいてほしい」

 

 自分でも驚くほど、真っすぐな告白だった。

 最初は、傷ついた彼女を守りたい、支えたいという義務感に近いものだと思っていた。だが、そんな言葉では今の想いは足りない。ただ純粋に、隣にいてほしい。彼女の笑顔を、誰よりも近くで見ていたい。結局、この好きという単純な言葉が、今の俺には一番しっくりときた。

 ハンナは一瞬、弾かれたように目を丸くし、箸を止めて固まった。

 沈黙が部屋を支配する。外では雪がしんしんと降り積もり、鍋の煮える音だけが聞こえていた。

 やがて、彼女の頬が火照ったように赤く染まる。けれど彼女は視線を逸らさず、慈しむような、ひどく優しい微笑みを浮かべた。

 

「……唐突すぎますわ、ヒカリさん。お鍋の最中に言うことではなくてよ」

 

 そう言いながらも、彼女の瞳には確かに喜びの光が宿っていた。

 

「でも、わたくしも……同じ気持ちですわ。あなたが好きです……あなたの優しさを一番近くで浴びていたい」

「ああ、ありがとう」

「でも……」

 

 通じ合ったはずの温かな空気の中に、ふと、鋭い冬の隙間風のような不安が混じった。

 ハンナは微笑んだまま、けれどその瞳の奥に、今にも消えてしまいそうな怯えを滲ませた。

 

「……ですが、ヒカリさん。わたくしのどこに、そんな魅力があるというのですか? わたくしは、あなたのように何かに打ち込んできたわけでも、誇れる過去があるわけでもありません。ただ……過去から逃げているだけの……」

 

 彼女は自分の細い指先を見つめ、膝の上でそれを強く握りしめた。

 

「こういうことを聞くのが、どれほど野暮で、あなたの真心を疑うような真似だとは分かっています。でも、怖い……いつかあなたが、わたくしの本当の醜さを知って、愛想を尽かしてしまうのではないかと……。そうなった時、わたくしは今度こそ、どこへも辿り着けずに消えてしまうのではないかと……っ」

 

 絞り出すような声は、微かに震えていた。

 文化祭が終わったあの日から。あるいは、二人で何気ない時間を過ごしているふとした瞬間に。

 ハンナは時折、この世のどこにも居場所がないような、透き通るほど悲しい瞳をすることがあった。何を見ているのか、何に怯えているのか、俺にはまだ触れさせてもらえない彼女の深淵。その寂しげな瞳を見るたび、俺の胸は締め付けられるような感覚に陥った。

 

「どこが好きか、なんて……」

 

 俺は少し困ったように笑い、視線を天井へ泳がせた。

 

「本当なら、お前のすべてを愛してるなんて格好つけたいところだけど、正直に言えば、俺はまだお前の知らない部分のほうが多いんだ。だから、教えてほしい、全部」

「……っ、ダメ、ですわ……教えたくありません。知ってしまったら、あなたはきっと……」

 

 ハンナは首を横に振り、逃げるように視線を落とした。

 静まり返った部屋の中で、テーブルの上に置かれた彼女の白い指先が、目に見えて小刻みに震えている。

 

 俺は震える彼女の手をそっと、けれど逃がさないように包み込んだ。

 

「さっきの動画、見ただろ?」

 

 驚いたように顔を上げたハンナの瞳を、俺は真っ直ぐに見据える。

 

「俺は、受け止めることが何よりも、誰よりも得意なんだ。どんな過去も、どんな思いも、絶対に逸らさない。……だから、俺に全部捕らせてくれないか」

「……っ……ああ……っ」

 

 ハンナの瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。

 彼女は俺の手を握り返し、声を殺して泣き始める。それは、誰にも受け止めてもらえないと諦め、独りで宙を漂い続けてきた彼女が、全身全霊で寄りかかれるものを見つけた瞬間だった。

 

「それに……お前を、消えさせたりなんてしない」

 

 腕の中にいる彼女の体温を感じながら、俺は確かな力を込めて言葉を紡いだ。

 

「文化祭の時に言ったこと、覚えてるか? 俺は受け止めるだけじゃなく、大事なものを探すのも得意なんだ。……たとえどこか遠くへ飛んでいったとしても、遠野ハンナっていう、世界で一番大事な人なんてすぐに見つけ出して、こうして抱きしめてやる。置いて行かせたりしない。俺には、それができるんだ」

 

 俺の捕球の技術も、執着心も、そのすべては、今この瞬間のためにあったのだと自分でも確信していた。

 

 俺の胸元で、ハンナが「ふふっ……」と、泣き声の混じった小さな笑い声を漏らした。顔を上げた彼女の瞳にはまだ涙が溜まっていたけれど、そこにあった絶望の色は、春の雪解けのように消え去っている。

 

「もう……こんな時にまで、そんな格好いいことを仰るのね。あれは、てっきりその場限りの冗談かと思っていましたのに……」

「冗談なもんか。俺はいつだって本気だ」

 

 部屋を支配していた重く暗い空気は、もうどこにもなかった。

 換気扇の回る音、鍋の残りの温かな匂い、そして窓の外で静かに降り積もる雪。すべてが、二人だけの「今」を祝福しているように感じられた。

 ハンナは少し照れくさそうに俺の胸から離れると、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめ返した。

 

「……では、聞いてくださる? 」

「あぁ、聞かせてくれ。俺の方こそ、話したいことが山ほどあるんだ。……一晩中でも、語り合おう」

 

 窓の外では、夜の深まりと共に雪がその白さを増していた。

 これまで二人の歩んできた道には、重く冷たい冬の帳が降りていた。

 誰にも触れさせぬよう凍てつかせた男の記憶と、誰の手にも届かぬよう空へと逃げ続けた少女の孤独。分厚い雪の下に埋もれていたそれらは、今日この時まで、決して溶け合うことのない氷の塊だったはずだ。

 けれど、差し出された手の温もりを知った今なら、この永い冬を超えていけるような気がした。

 それは、吹き荒ぶ雪原に舞い降りた、一羽の冬の蝶。

 行き場を失い、冷たい風に羽を震わせていたその小さな命は、ようやく安らげる場所──孤独な魂が差し出した、世界で一番温かい掌という名の地上を見つけたのだ。

 蝶が羽を休めるように、彼女が静かに唇を開く。浮き上がることのできる身体が、今はしっかりと椅子の感触を確かめるように、重力に従っていた。

 その言葉の一つひとつを、俺は一滴も零さぬよう、心の奥底で受け止めていく。

 

 遠くで響く除夜の鐘が、古い季節の終わりを告げていた。

 凍てついた過去を、新しい光が差し込むまで、二人の対話は静かに、どこまでも深く続いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 





ハンナルートはこれで終わりです。一番短い話ですが自分は結構気に入ってます。
劇的な展開も無く、大きく絶望したり曇る事も無い、ただ優しくて少しだけ前向けるようになるくらいの静かな恋愛ものが好きです。ハンナが適任かと思いました。


それと、ユーザーページを開いた記念に活動報告とかも書き始めたので興味ある人は読んでいってください。

次回もお楽しみに
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