まのこい天秤   作:雪無い

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 いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシ送ってくれると喜びます。

 
 最近文字数がどんどん増えていっててヤバめです。軽くつまめるラブコメを目指しているはずなんですが





エマ√
1話『エアポケット』


 

 十一月の半ば。冬の気配がいよいよその鋭さを増し、肌を刺すような静かな夜が学園を包み込んでいた。吐き出す息は白く染まり始め、街灯の光に照らされては闇に溶けていく。

 

 タン、タン、とアスファルトを叩く己の足音と、一定のリズムを刻む規則正しい心臓の音。それだけがこの静寂の中での道標だった。

 昔から、走るという行為は嫌いではなかった。余計な思考を削ぎ落とし、ただ前だけを見て身体を動かす。そうして得られる奇妙な高揚感と孤独は、俺にとって心地よい安らぎですらあった。

 

「……よし、今日はこのくらいにするか」

 

 きりのいいところでランニングを切り上げ、寮へと続く上り坂に差し掛かる。少しずつ身体の火照りが落ち着いていくのを感じながら歩いていると、少し先の暗がりに人影があることに気づいた。

 

「……二階堂?」

 

 小声で呟き、俺は自然と歩く速度を落とした。

 夜の闇に同化するような漆黒の長髪が月光を帯びて揺れるその後ろ姿は、相変わらず無機質なほどに美しい。だが、すぐに違和感が首をもたげた。

 

(……様子が変だ)

 

 背中越しでもわかる。彼女は、明らかに焦っていた。

 気配を殺すように近寄ってみれば、その足取りの異様さが際立つ。普段の凛とした歩調とは違い、前のめりな早歩き。何かに追われているのか、あるいは何かを急いでいるのかのような。

 俺は一気に距離を詰め、彼女の横に並んだ。

 

「よう、奇遇だな二階堂」

 

 声をかけると、彼女は僅かに肩を揺らし、流れるような動作でこちらを向いた。

 月光の下に晒されたその顔は、相変わらずの鉄仮面だ。驚きも、ましてや先ほど感じた焦燥も、表層には一切浮かんでいない。

 

「おや、大鐘か。こんな時間まで精が出るな。君のその向上心には感心させられるよ」

「ありがとう。そっちこそ随分遅いな。仕事、長引いたのか?」

「そんなところだ」

 

 二階堂はいつもと変わらぬ、落ち着いたトーンで言った。だが、その瞳の奥には、俺を煙に巻こうとする微かな迷いが揺れていた。

 

 二階堂の手元には、白いビニール袋が握られていた。彼女の急ぎ足に合わせて、カサカサと小刻みな音を立てている。不意に街灯の下を通り過ぎる際、その隙間から中身がチラリと見えた。

 大容量のボトルが数本。それに加えて、冷却シートのような箱の角も見えた。しかし、彼女の顔色からは、風邪のような気配は見えない。

 

「桜羽が体調でも崩したのか?」

 

 俺がそう切り出すと、二階堂は歩みを止め、端正な顔立ちをこちらへ向けた。

 その紅玉の瞳が、俺の思考の動きを透かそうとするかのように僅かに細められる。彼女は小さく鼻で笑うと、呆れたような視線を俺にぶつけてきた。

 

「……君の察しの良さは美点だと思っていたが、ここまで来ると少し気持ちが悪いな。私の脳内にでも潜り込んでいるのか?」

「そこまで言われると流石にショックなんだが」

 

 俺は言葉のナイフをまともに食らったような気分になり、思わず胸のあたりを押さえた。ただ状況証拠を繋ぎ合わせただけなのだが、彼女からすればプライバシーの壁を土足で乗り越えられたようなものだったのかもしれない。

 しかし二階堂ヒロという女が、その冷静な均衡を崩す場面。俺の知る限り、その原因はただ一点、桜羽エマに関すること以外に思いつかなかった。

 

「残念ながら、そんな便利な魔法は持ってない。けど、二階堂は結構わかりやすいぞ」

 

 俺が淡々と告げると、二階堂は「……む」と、意外な弱点を突かれたかのように微かに声を漏らした。

 その無防備な反応を見て、俺は過去の彼女の姿を反芻する。生徒会勧誘時の一件や、これまでの彼女の言動。それらを思い出せば、彼女の鉄壁の理性がどこで脆くなるのかは明白だった。

 

「……はぁ。君のことは、褒めるべきか呆れるべきか迷うな」

 

 二階堂は観念したように短く息を吐き出すと、握りしめていたビニール袋を少し持ち上げて見せた。

 

「お察しの通り、エマが熱を出してしまってな。幸い、それほど重いわけではないが……大事をとって、明日の文化祭本番は欠席させることにした」

「そうか……それは残念だな。あいつ、結構前から楽しみにしていたのに」

 

 文化祭の食べ物を楽しみだと目を輝かせていた桜羽の姿が脳裏によぎる。不運なタイミングでの発熱。今頃、彼女は一人静かな部屋で、祭りの準備に浮き立つ学園の気配を遠くに感じながら、天井を見上げているのだろうか。そう思うと、少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。

 

「これから看病か? 俺に何か手伝えることがあれば言ってくれ。追加の買い出しでも何でも」

 

 二階堂は袋の持ち手を握り直し、夜の静寂に溶け込むような深い溜め息を吐いた。街灯の下に立つ彼女の表情は、いつもの厳格な生徒会長としての仮面の裏に、どこか危うい自責の念を滲ませているように見えた。

 

「気持ちだけ受け取っておこう」

「……わかった。任せる」

 

 言葉遣いは柔らかいものの、そこには他者を寄せ付けない強い意思があるように感じた。

 

 十一月の冷たい風が二人の間を吹き抜け、身体の火照りを急速に奪っていく。二階堂は再び背筋を真っ直ぐに伸ばすと、迷いのない、けれどどこか急ぎ足な歩調で寮の方へと向き直った。

 

「大鐘、君も汗が冷える前に早く戻るといい。この時期に体調を崩すと長引くからな」

「ああ、そっちこそ。働きすぎて共倒れするなよ」

 

 

 

 二階堂と別れ、冷え切った身体を温めるように長めのシャワーを浴びた。湯気に包まれながら、ふと先ほど彼女が提げていた買い物袋の重みを思い出す。

 部屋に戻り、まだ湿り気のある髪をタオルで拭いながらベッドに仰向けになった。手に取ったスマートフォンの画面が、暗い室内をぼんやりと照らす。

 二階堂の話によると大した風邪ではなさそうだが、それでも楽しみにしていた文化祭を欠席するというのは、桜羽にとっては相当な痛手だろう。

 

(一言くらい、声をかけておくか……)

 

 お節介かもしれないが、放課後いつも顔を合わせている仲だ。俺はメッセージアプリを開き、短い文面を打ち込んだ。

 

『二階堂から聞いた。体調悪いんだってな。明日は残念だが、今は余計なことは考えずにゆっくり休んでくれ。返信はしなくて良い』

「……よし」

 

 既読を待つこともなく、俺はスマートフォンをサイドテーブルに置いた。

 返信不要と付け加えたのは、余計な体力を使わせたくないという俺なりの配慮だった。

 しかし、画面が暗転するよりも早く、バイブレーションが短く震えた。

 即座についた既読。そして、流れるように返信が届く。

 

『大鐘くん、ありがとう! 心配かけてごめんね。ボクの分まで、明日は全力で楽しんできて! お土産話、期待してるからね』

 

 文末には、いつものようにどこか抜けた雰囲気のスタンプが添えられていた。

 文面を見る限り、そこまでひどく落ち込んでいる様子はなさそうだ。軽い熱だと言っていたし、一晩寝れば少しは良くなるだろう。

 

「……お土産話、か」

 

 明日は特にやることが決まっているわけではないが、あいつが喜びそうな話題をいくつか拾ってくるとしよう。

 俺はスマートフォンの電源を落とし、静かな夜の闇に身を委ねて眠りについた。

 

 

 

 

 文化祭当日。

 学園内は、昨夜までの静かな夜が嘘のように、色鮮やかな装飾と喧騒に包まれていた。至る所から響く吹奏楽の音色、模擬店から漂う香ばしい匂い、そして生徒たちの弾けるような笑い声。

 クラスメイトに半ば強引に背中を押され、俺は廊下へと放り出された。

 彼らなりの配慮なのだろう。転校してきて間もない俺を気遣っての言葉に感謝はしつつも、いざ一人で放り出されると、どうにも所在なさが勝ってしまう。

 お祭りごとには、まともに参加したことがない。

 常に前を見て、身体を動かして、勝利を目指す。そんな日常を送ってきた俺にとって、ただ楽しむという抽象的な目的を掲げて歩くのは、地図を持たずに砂漠を彷徨うようなものだった。

 クラスの連中とはそれなりに仲良くはやれているが、それ以外の人間関係のほとんどを、あの少女たちに依存しているのだということを、突きつけられるような思いだった。

 

(……とりあえず、何か食うか)

 

 賑わう中庭へ出ると、様々な屋台が軒を連ねていた。

 焼きそばやたこ焼きといった定番もいいが、ふと目に留まったのは、甘い香りを漂わせているベビーカステラの屋台だった。普段はあまり口にしないが、今日のような日にはこういうものがいいのかもしれない。俺はそこへ足を運び、接客係らしき女子生徒に声をかけた

 

「これ、二袋ください」

「はーい!……って、えっ? 君、それ一人で食べるの?」

 

 注文を受けた女子生徒が、袋に詰める手を止めて目を丸くした。俺が指差したのは、明らかに複数人で分けることを想定した特大サイズの袋だったからだ。

 

「誰かと合流する感じ? 」

 

 首を傾げて言った彼女の言葉に、俺は少し考え込んだ。

 普通に自分で食べるつもりだった。だが、彼女の言葉で、昨夜のやり取りが脳裏をかすめた。

 

(……そうか。桜羽に持っていってやればいいのか)

 

 これなら、今は食欲がなかったとしても、冷やしておけば体調が戻った後にでも食べられるだろう。

 

「……まぁ、そんな感じです」

「そっかそっか! やっぱりね。君、かっこいいからおまけしといてあげるよ。はい、どうぞ!」

 

 彼女は茶目っ気たっぷりに笑い、袋がはち切れんばかりにカステラを詰め込んでくれた。

 「ありがとうございます」と短く感謝を伝え、俺はその場を去った。

 目的もなく彷徨っていた文化祭に、小さな目的が芽生えた。それだけで、少しだけ足取りが軽くなるのを感じる。

 自分の分として一つつまみ食いしてみると、蜂蜜の優しい甘さが口の中に広がった。なかなかに美味い。これならあいつも喜ぶだろう。

 俺は適当な場所に座ってスマートフォンを取り出し、メッセージを送った。

 

『起きてるか。体調はどうだ。お土産を買ったから、今から持っていっていいか。今は無理でも、体調が良くなったら食べてくれ』

 

 すぐに、返信が跳ね返ってきた。

 

『ええっ!? 悪いよ大鐘くん! ボクなら寝てれば治るし、せっかくの文化祭なんだからボクに構わず楽しんでて!』

 

 俺はすぐに次の言葉を打ち込む。

 

『もう買った。それに今はやることがないんだ。俺を助けると思って受け取ってくれ』

 

 しばらくの沈黙の後。

 承諾の返事と共に、部屋の位置が送られてきた。

 許可が取れたとなれば、少し張り切ってしまう自分がいた。

 カステラだけでなく、飲み物や、他にも何かあいつが好きそうなものを買い足していくか。

 女子寮は男子禁制だと聞いているが、何も部屋に上がり込もうというわけじゃない。受付に事情を話してドアノブにでもかけておけばいい。

 

「……よし」

 

 俺は喧騒の中、次なる獲物を探して再び歩き出した。

 

 

 

 

 

 賑わう学園の喧騒を背に、俺は女子寮に足を踏み入れた。

 校舎周辺の熱狂が届かないほど、寮の敷地内は静まり返っていた。いつもなら入り口付近にいるはずの寮監や係の生徒たちの姿も見当たらない。おそらく、今日ばかりは人手の足りない文化祭の運営に駆り出されているのだろう。

 受付で長々と事情を説明する手間が省けた。これなら、彼女の言う部屋まで行き、ドアノブに差し入れを引っ掛けてそのままスマートに撤退すれば何も面倒が発生せずに済む。

 そう自分に言い聞かせながらも、やはり少し緊張する。一歩足を踏み入れるごとに、胸の奥がわずかに騒ぐのを感じた。静かな廊下に、自分の足音だけが不自然に大きく響く。

 廊下を抜け、一階の奥へと進む。太陽の光が届きにくいその場所は、どこかひんやりとした空気が漂っていた。やがて、目的の番号を見つける。

 

「……ここか」

 

 俺は手に持った袋を握り直した。中からはまだ、蜂蜜の甘い香りが微かに漂っている。

 これをドアノブにかけて、メールを一通入れておけばいい。それで終わりだ。

 俺は息を殺し、音を立てないよう慎重に手を伸ばした。

カサリ、とビニール袋がドアに触れるか触れないかという、その時だった。

 

 カチャリ。

 

 無機質な金属音が、静寂を切り裂いた。

 俺の手が空中で凍りつく。

 ゆっくりと、内側からドアが開いていく。

 隙間から溢れ出してきたのは、寒い廊下の空気とは対照的な、熱を帯びた甘い香りと、微かな加湿器の霧。

 

「……あ、やっぱり」

 

 そこには、パジャマ姿で、熱のせいか少し潤んだ瞳をした桜羽エマが立っていた。

 いつもきっちりと整えられている白銀の髪は少し乱れ、無防備に肩にかかっている。少し上気した頬と、いつもよりぼんやりとした視線。

 

「大鐘くん……本当に、来てくれたんだね」

 

 予想外の至近距離。

 俺は差し入れを掲げたまま、思考を停止させた。

 目の前の至近距離に広がるパジャマ姿の破壊力に、俺の思考は一瞬で白濁した。

 いつもはどこかふわふわとした掴みどころのない彼女が、熱のせいでさらにその境界線を曖昧にしている。服の生地越しに伝わってくる柔らかな体温の気配と、乱れた白銀の髪から漂う甘い香り。その姿は、俺を直撃していた。

 

「……あ、あぁ。悪いな、無理に起き上がらせちまって。寝てたのか?」

「ううん、大丈夫。もう、ほとんど治ってるから」

 

 桜羽はとろんとした瞳で俺を見上げ、力なく微笑んだ。

 俺は動揺を悟られないよう、手に持っていたベビーカステラの袋を突き出すように差し出した。だが、それを受け取ろうとした彼女の指先が、俺の腕をそっと、けれど逃がさないように掴んだ。

 

「外、寒いよ? ……中で食べて? お茶、淹れるから」

「待て待て、流石にそれはまずいだろ」

 

 俺は必死に理性のブレーキを踏み込み、首を横に振った。ここまで来たのがバレただけでも相当怒られるだろうに、部屋にまで入ってしまったらいよいよ言い訳ができない。

 だが、俺の拒絶を聞いた桜羽は、掴んだ腕にわずかに力を込め、潤んだ瞳でじっと俺を見つめてきた。

 

「……ダメ、かな?」

「ぐっ……!」

 

 小さな、けれど切実な響き。

 その上目遣いに、俺の足元がふらついた。

 脳裏に、以前二人で買い物に出かけた時の記憶が蘇る。普段は橘や遠野と一緒ににいることで見えない、彼女の寂しがり屋な一面。

 外では今も、学園中が熱狂に包まれている。この静まり返った寮に一人きりで過ごす時間は、彼女にとってどれほど心細く、長いものだろうか。

 それを考えれば、ここで袋だけを渡して背を向けることが、果たして誠実な対応だと言えるのか。

 

「……わかった。少しだけだぞ」

 

 俺が観念して溜息をつくと、桜羽の顔にパッと花が綻ぶような、眩しいほどの笑顔が広がった。

 

「えへへ、ありがとう! ……さあ、入って入って」

 

 喜びを隠しきれない様子で俺の手を引く彼女に導かれ、俺はついに、後戻りできない一歩を踏み出した。

 

 

 

 部屋の中は、加湿器の出す白い霧と、ほのかに甘い香りに満たされていた。

 静かな密室。俺は勧められるままに椅子に腰を下ろし、目の前の光景にどうにか平静を保とうと努めていた。

 

 ベッドの上に浅く腰掛けた桜羽は、俺が買ってきたカステラを大事そうに一つずつ口に運んでいる。パジャマ越しでもわかるほど、彼女の纏う空気は柔らかく、そして熱っぽかった。

 

「ねえ、大鐘くん。文化祭はどう? 楽しめてるかな」

 

 もぐもぐと頬を動かしながら、桜羽が首を傾げて聞いてくる。

 潤んだ瞳でそんな無邪気な質問を投げかけられ、俺は少し言葉に詰まった。

 

「……正直に言うと、どう楽しめばいいのかよくわからない。お土産話の一つでも持ち帰れればよかったんだが、その自信がなかったから、代わりに土産を持ってきた」

「あはは、大鐘くんらしいね」

 

 桜羽は可笑しそうに目を細め、それからふと、遠くを見るような眼差しになった。

 

「でも、わかるかも。ボクも、前の学校の時はそんな感じだったんだ。あんまりお祭りとか得意じゃなくて」

「……前の学校も、二階堂と一緒だったんだよな?」

 

 俺が確かめるように聞くと、桜羽は「うん」と小さく頷いた。

 

「友達は少なかったけど……ヒロちゃんとは、とっても仲良しだったよ。二人でいれば、それだけでいいって思えるくらい。……でもね」

 

 カステラを持つ彼女の指先が、わずかに止まった。

 

「途中からかな。……ヒロちゃんとの間に、少しだけ壁があるように感じ始めて。優しくしてくれるのは変わらないんだけど、どこか遠くにいっちゃったみたいで」

「昨日は、二階堂に看てもらったんだろ?」

 

 俺が昨夜の二階堂の様子を思い出しながら尋ねると、桜羽は再び頷いた。

 二階堂が桜羽を嫌っているわけがない。避けているようにすら見えない。前からずっと気になっていた。昨夜、ビニール袋を握りしめて焦っていた彼女の姿は、どう見ても大事な友人を想う者のそれだった。仮面の裏側にあったのは、拒絶ではなく、もっと切実な何かだ。

 

「ヒロちゃんね、看病してくれる時……ホントに少しだけ、手が震えてたんだ。ヒロちゃんも、自分で気づいてないんじゃないかな」

 

 桜羽のその言葉に、俺の胸の奥で何かが静かに警鐘を鳴らした。

 二階堂は、桜羽を心から思いやり、大切にしている。それと同時に──彼女を、恐れている。

 大切に思っている相手に、なぜ怯える必要があるのか。

 その矛盾した感情の正体が、俺にはまだ掴みきれなかった。

 

「……なんだか、少し眠くなってきちゃった」

 

 ふわり、と。

 桜羽が重たそうに瞼を閉じかけ、身体を僅かに揺らした。

 熱のせいか、それともこの部屋に満ちる独特の空気のせいか。

 無防備に崩れようとする彼女の姿に、俺は咄嗟に身を乗り出していた。

 

「……大丈夫か」

 

 ふらりと身体を揺らした桜羽を支えようと、俺は椅子から立ち上がり、ベッドの傍らへ歩み寄った。

 重たげに閉ざされかけた彼女の瞼。その隙間から覗く桜色の瞳は、熱に浮かされているというより、深い夢の中に誘われているかのように潤んでいる。俺はためらいつつも、彼女の状態を確かめるためにそっと手を伸ばした。

 乱れた白銀の髪を指先で避け、その額に掌をあてる。

 

「……あ」

 

 桜羽が小さく声を漏らし、俺の冷たい手に吸い寄せられるように、すり寄ってきた。

 

「……熱は、もうほとんど引いてるみたいだな。でも、まだ本調子じゃない。悪いことは言わないから、もう横になるといい」

 

 掌から伝わってくる肌の感覚は、昨夜二階堂から聞いたほどの熱さは感じられない。だが、ここで無理をさせてぶり返されても困る。俺は彼女の肩に手を添え、ゆっくりと枕の方へ促した。そのまま額に当てた手をどけようとする。

 しかし、その瞬間だった。

 

「……ん、やだ。……もうちょっとだけ」

「お、おい……」

 

 桜羽が甘えるような吐息を漏らし、俺の手をぎゅっと抑えつけた。

 そのまま彼女は俺の掌を自分の額に、さらには熱を帯びた頬へと、引き寄せるように押し当てた。

 

「……冷たくて、気持ちいいの。……離さないで?」

 

 上気した頬を俺の手のひらに埋め、桜羽は安堵したように深く、長い吐息を漏らした。

 その潤んだ瞳がゆっくりと閉じられ、無垢な寝顔がすぐ目の前に迫る。

 

(……っ!)

 

 漂う、甘く、とろけるような花の香り。

 そして、彼女と接触している部分から、得体の知れない感覚が全身に浸透してきた。

 

 それは、背筋を凍らせるような拒絶反応ではなかった。

 むしろ正反対の、抗いがたい甘美な脱力感。

 身体の芯から何かがじわじわと吸い出され、代わりに何とも言えない心地よさが血管を駆け巡る。激しい練習の後に、熱い湯船に浸かって意識が遠のいていくような感覚。身体を構成するすべての関節が甘く溶け出し、意識の糸が一本ずつぷつぷつと切れていくような。

 思考の全てが霧散していく。

 立っているのが不思議なほど足取りが重くなり、視界がゆっくりと微睡みに支配されていく。

 数分、あるいは数十分。実際は数十秒だったが、時間の感覚すら曖昧な静寂の中で、俺はただ彼女に身を委ねそうになっていた。

 

 だが、ふと、重なっていた桜羽の手の力が緩んだ。

 規則正しい、穏やかな寝息。彼女が深い眠りに落ちたことを悟り、俺は濁った頭を必死に振り回して、磁石を引き剥がすように自分の手を彼女から遠ざけた。

 

「……はぁ……、はぁ……」

 

 掌が離れた瞬間、冷たい空気が入り込み、意識が急速に現実へと引き戻される。

 全身に鉛を詰め込まれたような重苦しさと、奇妙な虚脱感。

 俺はふらつく足元をどうにか支え、震える手で彼女の肩まで毛布をかけ直した。

 

「……何だったんだ、今のは」

 

 桜羽の寝顔から視線を外し、俺は自分の掌を見つめた。

 身体は酷く重い。まるで全力疾走を十セット以上繰り返した後のような、芯からの倦怠感。だが不思議と、不快感はなかった。むしろ、掌がじんわりと温かく、得体の知れない充足感に満たされている。

 ただの風邪の熱で、こんな風になるはずがない。

 

 思考の霧を振り払うように頭を振り、俺は残ったお菓子の袋を手に取った。このまま置いておいては、目が覚める頃には固まってしまう。

 俺は足音を殺して小さな冷蔵庫を開け、袋を中にしまった。

 これなら、熱が引いた後にでも食べられるだろう。

 

「……お大事に、桜羽」

 

 小さく呟き、俺は今度こそドアへと向かった。

 静かにドアノブを回し、廊下へと滑り出る。カチャリ、とラッチがはまる音に細心の注意を払い、ようやく一息ついた。

 

 だが、その安堵は、一瞬で凍りつくことになる。

 

「…………大鐘。なぜ、君がそこにいるのかな」

 

 心臓が跳ね上がった。

 ゆっくりと首を回すと、そこにはいつもの端正な顔立ちを、これ以上ないほど冷徹な色に染めた二階堂ヒロが立っていた。手には、桜羽のために買い足してきたであろうゼリーの袋。

 

「……奇遇だな、二階堂」

「……今回は奇遇ではない。ここは女子寮だ。なぜ、君がエマの部屋から出てくる」

 

 二階堂から立ち上るプレッシャーは、廊下の空気よりも冷たかった。

 俺は思わず一歩後ずさったが、彼女は逃がさないと言わんばかりに詰め寄り、据わった瞳を至近距離でこちらに向けてくる。

 

「ごめんなさい」

「せめて何か言い訳をしろ」

 

 怒り心頭で今すぐ生徒会権限を行使しそうな剣幕かと思いきや、二階堂は意外にも冷静に、そして冷徹に先を促してきた。俺はドアに背を預け、冷や汗を拭いながら正直に白状することにした。

 

「……文化祭、イマイチ乗り切れなくてな。俺にはああいうお祭り騒ぎを楽しむ才能がないみたいだ。それで、手持ち無沙汰に歩いていたら昨夜の話を思い出して……。せめて桜羽に文化祭の気分だけでも味わってもらおうと、差し入れを持ってきただけなんだ。部屋に入るつもりは無かった」

 

 俺の言葉を聞き、二階堂は視線を外し、長いため息を吐き出した。その表情には、怒りよりも呆れと哀れみの色が濃く浮かんでいる。

 

「……君は自分を何だと思っている。社交性が低いわけでも、友人がいないわけでもないだろうに、何を殊勝なことを言っているんだ」

「いや、本当なんだが……」

「それに、やることがなくて暇を持て余しているならなぜ私のところに来ない。私のデスクには、君が三日三晩不眠不休で働いても終わらないほどの作業が山のように積まれているんだ。いくらでも仕事を振ってやったというのに」

 

 確かに、最初からそれで良かったのかもしれないとぼんやり思う。そしたら、合法的に見舞いができたかもしれない。

 二階堂はドアの向こうを見るようにして続けた。

 

「それで、エマはどうした」

「ああ。さっきまで話してたんだが、急に眠くなったみたいでな。今はもうぐっすり寝てる。熱も引いてたし、心配ないと思う」

「……そうか。寝ているのなら、私が今入って邪魔をすることもないか」 

 

 二階堂は手に持ったゼリーの袋を見つめ、短く吐き捨てた。そして、獲物を定めるような鋭い視線を再び俺へと向け、俺の制服の襟を容赦なく掴んだ。

 

「大鐘。君は今やることがないと言ったな」

「え?」

「手が足りなくて困っていたところだ。今すぐ生徒会室で作業を手伝ってもらう。罰だと思え」

「ちょっと待ってくれ、手伝いはいくらでもする。けど頼む、後日にしてくれないか」

 

 この疲れた体に事務作業は堪える。しかし、二階堂は必死の懇願も意に介さず、俺を引きずるように歩き始めた。

 

「お咎め無しというわけにはいかないだろう。文句があるなら作業効率で示すように。あと、詳しく聞かせてもらうからな」

 

 

 結局、俺は祭りの喧騒が遠くに響く生徒会室へと強制連行された。

 目の前に積まれたのは、各出し物の収支報告書の束と、これから行われる後夜祭の備品チェックリストの山。

 

「終わるまで帰れると思わないように」

「…………」

 

 俺は絶望的な気分でペンを握った。

 身体が、異常に重い。

 先ほどまで桜羽の部屋で感じていた残影が、激務という名の現実と混ざり合い、強烈な疲労感となって全身を襲う。

 意識が遠のきそうになるのを、二階堂が放つ「仕事しろ」という冷たいプレッシャーで繋ぎ止める。

 外では楽しげな祭りの歓声が聞こえてくるが、今の俺にあるのは、ペンを走らせる音と、隣で冷徹にキーボードを叩く生徒会長の音だけだった。

 

「どうした、手が止まっているぞ」

「……はい」

 

 俺は重い頭を振り、終わりの見えない数字の羅列に再び視線を落とした。甘いひとときの代償は、あまりにも高く、そして重いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 





 ちょっと待って✋️大魔女様に関する質問をしようとしたそこの君!作者が泣いちゃうからその質問はストップ!
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