まのこい天秤   作:雪無い

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2話『クォンタムジャンプ』

 

 

「……っ、しっ!」

 

 掌に硬い衝撃が走る。

 俺が叩きつけたボールは、相手ブロックの指先を鋭角に掠め、誰もいないコートの隅へと突き刺さった。ダンッ、という乾いた破裂音が体育館に反響し、ワンテンポ遅れて敵チームの溜め息が漏れる。

 着地。バッシュが床を擦るキュッという音と共に、俺は膝を使って衝撃を逃がした。

 

 文化祭という非日常の熱狂が去り、学園には再びありふれた月曜日の空気が流れている。現在は体育の授業中。種目はバレーボールだ。ネットを挟んだ試合形式で、男子生徒たちの熱気が冷えかけた体育館を温めていた。

 

 得点が決まり、ハイタッチを求めてくる味方チーム。だが、俺は自分の右手をじっと見つめ、小さく首を傾げた。

 

「……なんか、調子悪いな」

 

 イメージ通りのコースには打てた。だが、踏み切る瞬間の体のバネが、ほんのわずかに遅れた気がした。最高到達点も数センチ低い。

 

「嫌味かコラ。今のスパイク、本職じゃねえか」

 

 背後からバシッと背中を小突かれた。クラスメイトの男子が、呆れ半分、賞賛半分といった顔で笑っている。

 俺は苦笑いで誤魔化したが、違和感は消えなかった。

 妙に身体が重い。風邪のような熱っぽさや関節の痛みはないのだが、身体の芯から燃料が少しずつ抜けていくような、得体の知れない倦怠感がまとわりついている。

 寝不足というわけでもないのに、どうも調子が上がらない。

 

 首を回して筋肉の張りを確かめていると、体育館の中央、男女を仕切るグリーンのネットの向こう側から、よく通る鈴のような声が飛んできた。

 

「大鐘くーん! かっこよかったよー!」

 

 声の主は、桜羽だった。

 彼女はネット際で大きく手を振り、満面の笑みをこちらに向けている。ジャージ姿の彼女は、先日の熱が嘘のように顔色が良く、動くたびに白銀の髪が健康的に跳ねていた。どうやら完全復活したらしい。その元気な姿に、俺の胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

「お~、素晴らしい跳躍力ですね。 今の、ハンナさんより高く飛んでたんじゃありませんか?」

「うっせーですわ! 」

 

 桜羽の隣には、目を輝かせる橘と、不服そうに頬を膨らませる遠野の姿もあった。

 橘の無邪気な煽りに、遠野が即座に噛み付く。三人はネット越しにわいわいとはしゃいでおり、その華やかな光景に男子生徒たちの視線が吸い寄せられていた。

 平和な光景だ。俺は重い身体を引きずりながらも、彼女たちに軽く手を振り返した。

 

「へぇ、使い魔が張り切ってら」

「あぁ!?」

 

 聞き捨てならない単語が鼓膜を打ち、俺は思わず素っ頓狂な声を上げて振り返った。

 使い魔? 誰が? 俺が?

 

「お前、橘シェリーの使い魔だろ? ほら、今手振ってた」

「いや、俺は文化祭で二階堂ヒロに連行されてたって聞いたぞ。下僕らしい」

 

 クラスメイトたちの無邪気な噂話に、俺は思わず額を押さえて天を仰いだ。

 転校初日の荷物から始まり、文化祭での連行。俺の学園内での評価は、いつの間にか人間としての尊厳を失い、魔法少女たちの所有物のような扱いへと悪化の一途を辿っているらしい。

 誰が使い魔だ。俺はただのクラスメイトであり、一応は健全な男子高校生だ。

 頭痛を堪えながら、噂の元凶の一人へと視線を向ける。

 仕切りのネットの向こう、バスケットボールコートのセンターサークル付近。

 

 そこに、二階堂が立っていた。

 脇にバスケットボールを抱え、背筋をピンと伸ばした彼女は、喧騒の中でも一際異彩を放っている。その紅玉のような瞳が、じっとこちらを見つめていた。

 距離があるせいか、その表情からは感情が読み取れない。怒っているのか、それとも監視しているのか。ただ、その視線には、単なる偶然とは思えない奇妙な熱量が宿っている気がした。

 

 不名誉なレッテルを貼られたせいもあってか、俺はその後の試合で、八つ当たりに近いパフォーマンスを見せた。

 普段ならセーブする場面でも跳び、拾い、打ち込む。身体の奥底にある得体の知れない重さを無理やりねじ伏せるように動き回った結果、俺のチームは圧勝し、周囲からは「どんだけ全力だよ」という呆れ混じりの視線と、「さすが」という称賛が入り混じった微妙な空気が残った。

 

 

 

 その日の放課後。

 夕焼けが窓ガラスを染める生徒会室は、静謐な空気に包まれていた。

 俺は直立不動の姿勢で、マホガニーの重厚な机の前に立たされていた。呼び出しを食らった生徒の典型的な図だ。

 

「……片付け?」

 

 俺は眉をひそめ、聞き返した。

 目の前には、書類の山に囲まれながらも、一切の隙を見せずにペンを走らせる二階堂の姿がある。

 夕日を背負ったそのシルエットは、この学園の支配者と呼ぶにふさわしい威圧感を放っていた。整った顔立ちには疲労の色など微塵もなく、ただ冷徹な職務遂行の意志だけがある。紅玉の瞳が書類から離れ、ゆっくりと俺を射抜いた。

 

「ああ、そうだ。旧校舎の備品倉庫だ。文化祭で使った資材や大道具が、分類もされずに押し込まれているらしい。それを整理し、不要なものを廃棄してもらいたい」

 

 二階堂は淡々と、事務的に告げた。

 旧校舎の倉庫。埃っぽい場所で、力仕事を含む整理整頓。

 

「まぁ良いんだが、一人でやるってのは骨だろ……」

 

 俺が少し渋った様子を見せると、二階堂はペンを止め、口の端をわずかに吊り上げた。それは、獲物を追い詰めた捕食者の笑みだった。

 

「おや、忘れたのか? 大鐘。君は先日、男子禁制の女子寮に侵入し、あろうことか風邪で寝込んでいる女子生徒の部屋に無断で上がり込んだ前科持ちだ。あの程度の事務作業で、罪が償えたと思っているわけではないだろうな?それに、手伝いはいくらでもすると言っていたが」

 

 ぐっ、と言葉に詰まる。

 痛いところを……いや、一番触れられたくない急所を的確に突かれた。桜羽の部屋での一件を持ち出されたら、俺に反論の余地はない。あれは確かに、この鉄の女に見逃してもらった恩義がある。

 二階堂の瞳には「拒否権はない」とはっきりと書かれていた。

 

「……わかったよ。やりゃいいんだろ、やれば」

 

 俺は観念して、重い溜め息と共に白旗を上げた。

 身体の気怠さは無視できないが、生徒会長に借りを返しておくに越したことはない。それに、ここで断って彼女の機嫌を損ねる方が、後々恐ろしいことになりそうだった。

 

 二階堂は俺の降伏宣言を聞くと、満足げに鼻を鳴らした。

 走らせていたペンを止め、書類の山から顔を上げる。その瞳には、先ほどまでの冷徹な業務モードとは異なる、どこか粘着質な色が混じっていた。

 

「ところで……」

 

 彼女の視線が、俺の顔ではなく、首元から肩、腕、そして足先へと、全身を舐め回すように移動した。

 まるで競走馬の品定めでもするかのような、あるいは美術品を鑑定するかのような目つきだった。

 

「今日のバレーボール、見事だったな。打点、反応速度、そして空中でのボディバランス……。さすがの身体能力だ」

「……さすが?」

 

 俺は眉をひそめて聞き返した。

 この学園に来てから、二階堂に見せた運動といえば、ランニングくらいのものだ。持久力ならともかく、瞬発力や跳躍力を彼女に見せた覚えはない。さすがという言葉が出るには、比較対象となるデータが俺には心当たりがなかった。

 俺の疑念を察したのか、二階堂はふいと視線を逸らし、コホンとわざとらしい咳払いをした。

 

「……言葉の綾だ。とにかく、その有り余った体力を、少しは学園のために有効活用してもらうぞ」

「はいはい、わかりましたよ……」

「ああ、私も仕事が落ち着いたら合流する。怪我の無いようにな」

 

 煙に巻かれた形になったが、これ以上突っ込む気力もない。俺は気のない返事をしながら、重い腰を上げた。

 

 やるならちゃんとやるか。俺は観念して、作業の段取りを頭の中で組み立て始めた。

 旧校舎の埃っぽい倉庫で、制服のまま作業するのは愚策だ。汚れるのは目に見えているし、何より動きにくい。

 俺は一旦、自分のクラスの教室に戻ることにした。ロッカーに放り込んであったジャージに着替えるためだ。

 放課後の教室は、予想通りもぬけの殻だった。夕陽が机と椅子をオレンジ色に染め上げているだけで、人の気配はまったくない。

 なのでそのまま着替え始める。ズボンをパパっと履き替え、ブレザーを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外した。

 上半身裸の状態になり、ロッカーから取り出したジャージに袖を通そうとした、その時だった。

 ガララッ、と。

 ノックも前触れもなく、教室の引き戸が勢いよく開かれた。

 

「大鐘くーん! 迎えに来たよ! ……って、あ」

 

 弾むような明るい声が、唐突に途切れた。

 入り口に立っていたのは、桜羽だった。

 彼女の手には、パステルカラーのラッピングがされた可愛らしい小袋が握られている。文化祭のお礼か何かなのだろう。

 だが、今の彼女の意識はその手土産にはない。桜色の瞳が、極限まで見開かれた。一瞬の静寂。

 

「あー、……すまん」

 

 俺は手早く腕を袖に通し、ジャージのファスナーを一気に引き上げた。

 その声で、桜羽はようやく呪縛が解けたように我に返った。

 

「あ、あわわわ……っ!?」

 

 彼女の顔色が、一瞬で茹でダコのように沸騰する。

 

「ご、ごごご、ごめんねっ!?見ちゃった……!」

 

 桜羽は両手で顔を覆い、指の隙間からこちらをガン見しながら、しどろもどろになって後ずさった。もう着たんだから隠す必要はないだろ。

 持っていた小袋を取り落としそうになりながら、あわあわと手足をバタつかせている。

 勝手に教室で脱いでいたのは俺だ。鍵もかけていなかったし、非はこちらにある。それなのに、まるで見てはいけない聖なるものを見てしまったかのような彼女の過剰な狼狽えっぷりに、俺は逆に冷静さを取り戻していた。

 

「すまん、気にするな。誰もいないと思って油断してた」

 

 俺が声をかけると、桜羽はまだ顔を真っ赤にしたまま、もじもじと指先を合わせている。

 

「う、ううん……ボクこそごめんね。ノックもしないで入っちゃって……」

 

 彼女は上目遣いに俺を見つめ、恥ずかしそうに頬を染めている。

 こういうシチュエーションは普通逆だよな、なんて考えながら、俺は話を切り替えることにした。

 

「それで、俺に何か用だったか? わざわざ教室まで来てくれるなんて」

「あっ、うん。そうなんだ」

 

 桜羽はハッとしたように顔を上げ、手に持っていたパステルカラーの小袋を俺に差し出した。

 

「今日、大鐘くん教室に来なかったでしょ? だから、この前のお礼をしたくて、ずっと探してたんだ」

 

 この前のお礼。文化祭でのことだろう。

 俺は袋を受け取った。中には可愛らしい包装の焼き菓子が入っているようだ。甘い香りが微かに漂う。

 

「ありがとう。わざわざ悪いな」

「ううん! ボクが渡したかっただけだから」

 

 桜羽は花が咲くような笑顔を見せた。その笑顔の無邪気さに、俺の身体の奥底にある重たい疲労感が、一瞬だけ和らいだような気がした。

 だが、彼女はふと小首を傾げ、俺の格好に視線を落とした。

 

「……でも、どうしてこんな時間にジャージに着替えてたの? 部活?」

「いや、違う。二階堂に捕まってな」

 

 俺は苦笑いしながら、生徒会長からの無慈悲な命令について説明した。

 文化祭の後始末。旧校舎の倉庫整理という罰ゲームじみた肉体労働。

 

「へぇー、そうなんだ……大変だね」

「全くだ。あいつの人使いの荒さには参るよ」

 

 俺が肩をすくめると、桜羽の瞳がキラリと輝いた。

 

「じゃあ、ボクも手伝うよ」

「は?」

 

 あまりに即座の決断に、俺は目をぱちくりさせた。

 

「いやいや、待てって。お前、先週まで熱出して寝込んでただろ。病み上がり人間に埃っぽい倉庫の片付けなんてさせられない。二階堂にバレたら俺が殺される」

「大丈夫、 もう全然元気だから。それに、大鐘くん一人じゃ大変でしょ? 二人でやったほうが早く終わるよ」

 

 桜羽は引く気配を見せず、ぐいっと俺の腕を掴んだ。

 その掌から伝わる体温が、妙に心地よく、そして同時に俺に甘い感覚をもたらす。

 

「でもな……」

「早く終わらせて一緒に帰ろう?」

 

 彼女の強引な、けれど抗いがたい笑顔に押され、俺は反論の言葉を飲み込んだ。

 結局、俺はこの少女の押しに弱いらしい。

 俺たちは夕暮れの廊下を並んで歩き、埃と静寂に包まれた旧校舎へと向かった。

 

 旧校舎に足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が肌を刺した。日が落ちかけ、外の気温は急速に下がっているらしい。すきま風の吹く古びた校舎は、まるで巨大な冷蔵庫のようだ。

 目的の倉庫の扉を、軋む音を立てて開け放つ。舞い上がった埃が、西日の残滓に照らされてキラキラと舞うのが見えた。

 中は、惨状の一言に尽きた。ベニヤ板、得体の知れないオブジェ、衣装の山、そして誰が作ったのかわからない巨大な段ボールの塊。文化祭の熱狂の残骸が、地層のように積み上げられている。足の踏み場を探すのがやっとという有様だ。

 

「うわぁ……。これ、すごいね。何がどこにあるのか全然わかんないや」

 

 隣で桜羽が、感嘆の声を上げた。

 普通なら眉をひそめるような惨状だというのに、彼女の声はなぜか弾んでいる。まるで探検でも始める子供のように、楽しげに埃の舞う室内を見回している。

 俺は思わずため息をつき、彼女に向き直った。

 

「……言わんこっちゃない。埃もすごいし、寒いぞ。病み上がりの人間にさせる環境じゃない。今からでも戻っていいぞ」

 

 俺は咳払いをしながら、再度撤退を促した。二階堂に見つかったら何を言われるかわからないし、何より彼女の体調が心配だ。

 だが、桜羽はぷうと頬を膨らませて、頑として首を横に振った。

 

「もうシェリーちゃんもハンナちゃんも帰っちゃったよ?……大鐘くんは、ボクのこと一人ぼっちにさせて平気なの?」

「ぐっ……」

 

 彼女は上目遣いで俺を見つめ、あざといくらいに首を傾げた。その瞳は拒絶を許さない甘い引力を放っている。

 この短期間で、彼女は俺の操縦法を完全にマスターしている気がする。

 

「……お前、そんなわがままなキャラだったか?」

「えへへ、どうかな?」

 

 俺が呆れて返すと、彼女は悪戯っぽく笑った。

 こうなったら梃子でも動かないだろう。俺は観念して、深く息を吐き出した。

 

「はぁ……わかったよ。手伝ってもらうなら、衣装とか小物とかの軽いのだけ任せる。重いのは全部俺がやるから、絶対に無理はするなよ」

「うん! 任せて!」

 

 桜羽は満面の笑みで大きく頷くと、さっそく袖をまくり上げて衣装箱の山へと向かっていった。

 その背中は、労働に向かうというよりは、宝探しに向かうような軽やかさだった。

 

 桜羽は満面の笑みで大きく頷くと、さっそく袖をまくり上げて衣装箱の山へと向かっていった。

 その背中は、労働に向かうというよりは、宝探しに向かうような軽やかさだった。

 

 俺たちは手分けして作業を開始した。

 俺は木材や大道具などの重量物を奥へと押し込み、スペースを確保していく。桜羽は手前で、乱雑に放り込まれた衣装や小道具を種類ごとに分類していた。

 静かな倉庫に、ガサゴソという衣擦れの音と、時折彼女が漏らす楽しげな鼻歌が響く。

 

「ねえねえ、見て見て大鐘くん」

 

 しばらくして、背後から弾むような声がかかった。

 俺は抱えていた段ボールを床に置き、汗を拭いながら振り返った。

 

「ん、どうし──」

 

 言葉が、喉の奥で詰まった。

 そこには、どこかのクラスが出し物で使ったのであろう、ふわふわした白猫の耳のカチューシャを頭につけた桜羽が立っていた。

 白銀のボブカットに、驚くほど馴染む白い猫耳。

 彼女は両手を握って招き猫のポーズを作り、小首をかしげて「にゃーん」と恥ずかしそうに、けれど確信犯的な笑みを浮かべていた。

 薄暗い倉庫の中で、その姿だけが発光しているかのような破壊力。

 可愛い。

 理屈抜きに、脳髄を直接揺さぶられるような可愛さが、俺の思考回路を焼き切ろうとしてくる。まただ。あの部屋で感じた時と同じ、甘く痺れるような脱力感が、背骨を駆け上がってくる。

 

「……すまん、今持ち合わせがない」

「どういうこと!?」

 

 あまりの衝撃に俺が財布を探す素振りをすると、桜羽は猫耳を揺らして目を丸くした。

 その破壊力に思考回路が焼き切れそうになったが、なんとか理性をつなぎ止める。これ以上見続けていたら、俺のライフポイントがゼロになりかねない。

 

「……それは禁止だ」

 

 俺は冷静さを装い、桜羽の頭に乗っていたカチューシャをひょいと取り上げた。そして何事も無かったかのように、その危険物を近くの小物箱へと封印した。

 

「作業再開」

「ふふっ、はーい」

 

 桜羽は楽しそうに笑い、再び衣装の山へと向き直った。

 俺は乱れた心拍数を落ち着かせるため、あえて過酷な労働を選ぶことにした。

 近くにあった、舞台装置の一部と思われる巨大な木製のパネルに手をかける。これなら雑念を払うのに十分な重量があるはずだ。

 ぐっ、と腰を入れて持ち上げる。

 ……重い。

 以前ならもっと軽々と持ち上げられたはずだが、やはり今日の身体は鉛のように鈍い。筋肉の繊維が悲鳴を上げているのがわかる。だが、桜羽の前で無様な姿は見せられない。俺は歯を食いしばり、気合でそれを持ち上げ、奥の棚へと運んだ。

 

「わっ、すごい。さすが男の子だね」

 

 背後から、純粋な感嘆の声が飛んできた。

 桜羽が手を止めて、俺の力仕事に見惚れている。その瞳はキラキラと輝き、尊敬の眼差しを向けていた。

 ただ荷物を運んだだけだ。特別な技術もいらない単純作業。それなのに、彼女に真っ直ぐ褒められると、顔が熱くなるのを感じた。

 俺は照れ隠しに咳払いをし、その熱さを誤魔化すように、無言で次の荷物へと手を伸ばした。

 

 その後も黙々と手を動かし続け、足の踏み場もなかったカオス空間は、辛うじて倉庫としての機能を取り戻しつつあった。完璧とは言い難いが、今日のところはこれで十分だろう。俺の体力も、なぜか異常な速度で底をつきかけている。

 

「それじゃ、そろそろ帰るか」

「そうだね、お腹も空いてきちゃったし」

 

 俺たちは服についた埃を払い、並んで出口へと向かった。

 重厚な鉄製の扉のノブに手をかけ、回す。

 ……回らない。

 

「……あれ?」

「どうしたの?」

「開かないな」

「えっ……?」

 

 桜羽が不安げに覗き込んでくる。

 鍵はかけていないはずだ。俺は少し力を込め、ガタガタと揺らしてみる。だが、扉は壁と一体化したかのようにびくともしない。外側で何かが倒れてつっかえているのか、あるいは古い校舎特有の立て付けの悪さで噛み込んでしまったのか。

 嫌な汗が背中を伝う。力づくでこじ開けようにも、今日の俺にはもうそのパワーが残っていない。

 俺はジャージのポケットに手を突っ込んだが、指先が触れたのは虚しく布地だけだった。

 しまった。スマホは制服のブレザーに入れたまま、教室に置いてきてしまったんだった。

 

「桜羽、スマホ持ってるか。誰かに連絡して、外から開けてもらおう」

 

 俺が振り返って尋ねると、桜羽は一瞬、きょとんとして瞬きをし、それから視線を泳がせた。

 ほんの一瞬、空白。

 彼女は何かを躊躇うように唇を引き結び、それから申し訳無さそうに眉を下げた。

 

「あ……ご、ごめんね。ボクも教室に置いてきちゃったみたい」

「む、そうか……。なら詰みだな」

 

 連絡手段がないとなると、外部への救援要請は不可能だ。だが、幸いなことに希望はある。

 

「まぁ仕方ない。二階堂が仕事が落ち着いたら合流するって言ってたから、それまで待てばいい」

 

 桜羽に手伝わせたことがバレれば、生徒会長の雷が落ちるのは確実だが、この冷え切った密室に一晩中閉じ込められるよりはマシだ。覚悟を決めるしかない。

 俺たちは資材の入った段ボールに腰掛け、救助が来るのを待つことにした。

 

 倉庫の中は、時間の経過と共に急速に冷え込んでいった。

 外からの風の音だけが聞こえる密室。俺たちは身を寄せ合うようにして、資材の上に腰掛けていた。

 沈黙が重いわけではない。ただ、隣に座る桜羽の存在感が、妙に大きく感じられる。

 

「……冷えるね、大鐘くん」

「ああ、そうだな」

 

 桜羽が身体をさすりながら立ち上がった。

 じっとしていられなくなったのか、彼女は暖を取るために少し身体を動かそうとしたようだった。だが、薄暗がりの中で足元の確認が疎かになっていた。

 床に乱雑に置かれたケーブルの束に、彼女の足が引っかかる。

 

「あっ……!」

 

 短い悲鳴と共に、彼女の身体がバランスを崩して前へと傾いた。

 その先には、硬そうな機材。

 

「桜羽……!」

 

 俺は反射的に手を伸ばし、倒れ込む彼女の身体を強引に引き寄せた。

 ドン、と鈍い音を立てて、俺たちはもつれ合うようにして体勢を立て直す。俺の腕の中に、桜羽の柔らかな身体がすっぽりと収まった。

 

「……っ、悪ぃ。怪我はないか?」

 

 心臓が早鐘を打つ。

 だが、その動悸は焦りからだけではない。

 腕の中に抱きとめた彼女の体温。甘い花の香り。それらが俺の嗅覚と触覚を刺激した瞬間、またしてもあの強烈な倦怠感が襲ってきた。

 頭の芯が痺れるような、抗いがたい眠気。支えている腕に力が入らず、彼女の体重以上の重さを感じる。

 

「う、うん……ありがと、大鐘くん。……ごめんね?」

 

 桜羽は俺の胸元で小さくなり、上目遣いに俺を見上げた。

 その距離、わずか数センチ。

 暗がりに慣れた目が、彼女の顔を鮮明に捉える。白銀の髪が乱れ、少し上気した頬が愛らしい。

 その頬に、黒い煤のような汚れがついているのが目に入った。先ほどの掃除の際についたのだろう。白い肌だけに、その汚れが余計目立って見えた。

 

「……顔、汚れてるぞ」

 

 俺は無意識に手を伸ばしていた。

 この甘い引力に思考を奪われていたせいか、あるいは彼女を守らなければという本能が暴走したのか。

 俺の親指が、彼女の頬に触れる。

 

「えっ……」

 

 桜羽の肩がビクリと跳ねた。

 俺の指先が、その汚れを拭おうと優しく肌をなぞる。

 熱い。指先から伝わる彼女の体温が、俺の理性を溶かしていくようだ。

 ふと、桜羽の瞳が揺れた。

 彼女は俺の手の感触を受け入れるように、ゆっくりと、そしてギュッと目を閉じた。

 震える睫毛。少しだけ上向きになった顎。

 

「……っ」

 

 俺の指が止まる。

 甘美な誘惑が、疲弊しきった俺の脳内を支配しそうになる。正常な判断力が、泥のような眠気と熱に飲み込まれていく。

 ダメだ、と思いながらも、俺の身体は金縛りにあったように動かない。

 

 限界だった。

 精神的な理性と、肉体的な生命力。その両方が、根こそぎ削ぎ落とされていた。

 指から伝わる熱が、血管を逆流して心臓を麻痺させる。

 

「……っ、ぐ……」

 

 踏ん張ろうとした膝が、笑うように力を失った。

 まるで電源を落とされたロボットのように、俺の身体が重力に従って崩れ落ちる。支えていたはずの桜羽を巻き込み、俺たちは背後に積まれていた体育用のマットへと倒れ込んだ。

 ドサッ、という柔らかく重たい音が、静寂に響く。

 視界がぐるりと回転し、気がつけば俺は仰向けになり、その上に覆いかぶさるような体勢で桜羽がこちらを見下ろしていた。

 

「……大鐘くん?だ、大丈夫……?」

「あ、あぁ……」

 

 至近距離にある彼女の顔。

 乱れた白銀の髪が、俺の頬をくすぐる。

 どいてくれ、と言わなければならない。だが、口が開かない。身体が重く、指一本動かすことができない。

 桜羽は身じろぎもせず、潤んだ瞳で俺をじっと見つめていた。その瞳の奥には、無邪気さと背中合わせの、底知れない空腹のような色がゆらりと揺らめいている。

 

「ねぇ、大鐘くん……」

 

 彼女の指が、俺の胸元を這う。ジャージのファスナー越しに、心臓の鼓動を確かめるように。

 

「今日の体育の時間、みんな言ってたよね。大鐘くんは、使い魔だって」

 

 甘く、蕩けるような声が、鼓膜を震わせる。

 

「でも……違うよね?」

 

 桜羽が顔を近づけてくる。吐息がかかる距離。

 彼女の桜色の瞳が、俺の視界全てを埋め尽くす。

 

「大鐘くんは、ヒロちゃんのものでも、シェリーちゃんのものでもないよね?」

 

 蠱惑的な響きだった。

 普段の彼女からは想像もつかない、暗いものを孕んだ問いかけ。

 それは確認ではなく、呪文のように俺の意識を縛り付けていく。

 思考が白く濁る。抗う気力すら、彼女の瞳に吸い込まれて消えていく。

 俺は、誰のものだ?

 そんなことはどうでもいい。ただ、この甘い泥沼に沈んでしまいたいという欲求だけが、理性を塗りつぶそうとしていた。

 逃げられない。俺は抵抗を諦め、重たい瞼を閉じかけた。

 

 その時だった。

 

 倉庫の扉の向こうから、何やらズズズと、重いものを引きずるような音が響いた。

 続いて、ガチャリと金属が回る音。

 俺と桜羽の動きが、ピタリと止まる。

 

 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重厚な鉄扉がゆっくりと外側から開かれた。

 冷たい風と共に、廊下の明かりが薄暗い室内に差し込んでくる。

 逆光の中に、人影が立っていた。凛とした立ち姿。

 

「……すまない、待たせたな大鐘」

 

 入ってきたのは、二階堂ヒロだった。

 彼女は額の汗を拭いながら、どこか安堵したような、それでいて申し訳なさそうな声で告げた。

 

「外にあった脚立が倒れて、ドアノブに引っかかっていたようだ。建付けが悪いせいで完全にロックされていたらしい。中で困っていなけれ──」

 

 そこまで言いかけて、二階堂の言葉が凍りついた。

 彼女の紅玉の瞳が、一点に釘付けになる。

 体育用マットの上。

 仰向けに倒れ、顔を紅潮させ、息も絶え絶えになっている俺。

 そして、その上に覆いかぶさり、今にも唇を重ねんばかりの距離で密着している桜羽エマ。

 どう見ても、決定的な瞬間だった。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 完璧な沈黙が、倉庫を支配した。

 二階堂の顔から、先ほどまでの助けに来た生徒会長としての表情が抜け落ちていく。

 彼女の視線が、俺と桜羽の間を数回往復し、そして再び俺の顔に戻った時。

 

 カラン。

 

 乾いた金属音が、静寂を裂いた。

 二階堂の手から、倉庫のマスターキーが滑り落ち、冷たいコンクリートの床に転がった音だった。

 彼女は口を半開きにしたまま、彫像のように硬直している。その瞳は、信じられないものを見たショックと、理解を超えた事態への混乱で激しく揺れていた。

 

(あぁ……終わったな)

 

 俺は、ゆっくりと目を閉じて天を仰いだ。

 体力も、気力も、言い訳をする酸素すら残っていない。

 これから始まるであろう、生徒会長による地獄の説教と尋問の時間を思い、俺は静かに覚悟を決めた。

 

 





飛ばしすぎだぞエマ!と叫びながらやらせてもらってます
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