まのこい天秤   作:雪無い

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 今回はエマお休み回です。


3話『ミッシングハート』

 

 あの倉庫片付け事件から一夜明けた、放課後。

 昨夜は時間が遅かったこともあり、「詳しい話はまた後日」と、とんでもない目で見られながら帰されたが、予想通り翌日の放課後に二階堂からの呼び出しを受けていた。

 最近、自分の教室よりもこの生徒会室に来る頻度が高い気がする。もはや常連客と言ってもいいかもしれないが、残念ながら振る舞われるのは紅茶ではなく、鋭利な刃物のような視線による尋問だ。

 

「……だから、あれは本当に不可抗力なんだ。ドアが外から開かなくなって、暗がりで転びそうになった桜羽を助けようとしたら、足がもつれて……その、マットの上に倒れ込んでしまっただけだ。他意はない」

 

 俺は直立不動の姿勢で、昨日起きた不幸な事故の経緯を説明した。

 二階堂は、組んだ手の甲に顎を乗せ、じっと俺を見据えていた。その紅玉の瞳は、俺の表情筋の動き一つも見逃さないとばかりに鋭い。

 事実は事実だ。ドアノブに脚立が引っかかっていたのは彼女自身も確認しているし、やましいことは何もない。だというのに、彼女の放つ絶対零度のプレッシャーを浴びていると、無実の罪でも「すいませんでした」と土下座したくなるから不思議だ。冷や汗が背中を伝う。

 永遠にも感じる沈黙の後、二階堂はふぅ、と小さく息を吐き、ゆっくりと口を開いた。

 

「……そうか。君の言い分は、わかった」

 

 二階堂は感情の読めない声で冷たく言い放った。

 その氷のような態度に、俺は背筋を正す。どんな処罰も受け入れる覚悟である。

 

「……問題も、怪我も無かったのなら良い。今回のことは不問にする」

「えっ?」

 

 予想外の言葉に、俺は間の抜けた声を漏らした。

 

「なんだ、その顔は。……私の認定に不服でも? それとも、実は事故に見せかけた計画的犯行だったとでも言うつもりか?」

「い、いや。間違いない。事故だ。完全に不可抗力だ」

 

 二階堂の鋭い返しに、俺は慌てて首を横に振った。

 だが、内心では驚きを隠せずにいた。まさか、こんなにあっさりと信じてもらえるとは。あの決定的な現場を見られておきながら、彼女は俺の言葉を疑う素振りすら見せない。

 そういえば、以前女子寮に侵入して見つかった時もそうだった。あの時も散々絞られはしたが、俺の主張自体は、二階堂はすぐに受け入れてくれた。どうにも俺は彼女に信用されすぎているように思う。フッと緊張感が消え、二階堂は書類に目を落とした。

 

「まぁ、私が任せた事だからな……それに、昨日エマから散々聞かされている。耳にタコができるほどにな」

「えぇ……じゃあこの尋問いらなかっただろ……」

 

 俺がそう口にした瞬間、二階堂の瞳から温度が消えた。もう一度顔を上げ、氷の刃のような鋭い視線でギロリとこちらを睨みつけてくる。心臓がキュッと縮み上がるような、物理的な痛みを伴う威圧感。

 

「文句の一つくらい言わせろ。……そもそも、なぜエマに手伝わせる。あの子は病み上がりだぞ? それを、あろうことか暖房もない倉庫で、二人きり」

「ごめんなさい」

 

 ぐうの音も出ない。それはその通りだと、俺は観念して深く頭を下げた。

 本人がやりたがったとはいえ、病み上がりの桜羽を巻き込み、埃っぽい倉庫で作業させたのは事実だ。それに、閉じ込められている間の倉庫は底冷えがしていた。あいつの風邪がぶり返していないと良いのだが。

 

「……はぁ。大鐘、私は君に何度も忠告しているはずだ。エマとは深く関わりすぎるな、と」

 

 責めるでもない、真剣な眼差し。そのまま二階堂は続けた。

 

「いいか、これは他でもない、君自身のためを思って言っているんだぞ」

 

 その言葉に嘘がないことは、鈍い俺でもなんとなく感じ取れた。

 彼女がそう口を酸っぱくして言うのは、単なる友人への独占欲や嫉妬などではないことくらい、痛いほど伝わってくる。二階堂は、本気で俺の身を案じているのだ。

 そして、その理由も……

 

「……まぁ、いい」

 

 二階堂は、溜め込んでいた毒気を吐き出すように、深く、長く溜め息をついた。これ以上説教をしても暖簾に腕押しだと判断したのか、あるいは単に疲れたのか。彼女は気を取り直すように居住まいを正した。

 

「ところで大鐘。話は変わるが……来週から期末テストが始まるのは知っているな?」

「あ、あぁ……そうだな」

 

 俺の心臓が、先ほどの説教とは別の種類の嫌な音を立てた。痛いところを突かれた、という反応だ。倉庫の件が片付いたと思ったら、次は現実的な脅威が目の前に迫ってきている。

 

「転校してきて初めての定期試験だ。自信のほうはどうだ?」

 

 正直に言えば、勉強はまるでダメだ。

 中学時代からペンを握る時間は極端に少なかった。授業は休憩時間のつもりでいた。今でこそ授業は真面目に聞いてはいるが、基礎が抜け落ちている部分も多い。

 二階堂はなぜか俺のことをやたらと高く買っている節があるが、ここで変に見栄を張っても、答案用紙が返ってくればすぐにバレる嘘だ。

 

「……いや、全然ダメだ。赤点回避できるかどうかも怪しいレベルだな」

 

 俺は観念して、白旗を上げるように素直に答えた。

 それを聞いた二階堂は、意外なものを見るように少しだけ目を大きくした。俺が文武両道だと思っていたのだろうか。

 

「……変なところで予想外な男だな、君は」

 

 二階堂は呆れたように小さく息を吐くと、机上の書類をトントンと整えた。

 

「いいだろう。君の学力は私が底上げしてやる。赤点を取られて補習になれば、私の手伝いができなくなるからな」

「えっ、教えてくれるのか?」

 

 俺は驚いて聞き返した。

 生徒会長としての激務に加え、風紀の維持、さらには俺のような問題児の監視。彼女の多忙さは、そばで見ている俺が一番よく知っている。

 

「悪い、二階堂。気持ちはありがたいが、お前そんな時間あるのか? 忙しいだろ」

「心外だな、私だって一人の学生だ」

 

 二階堂は不敵にふっと笑い、鞄を手に立ち上がった。

 

「生徒会業務にかまけて学業をおろそかにするなど、本末転倒も甚だしい。勉強の時間くらい捻出して見せるさ」

「……なるほどな。参ったよ」

 

 俺は素直に敬意を表した。

 おそらく彼女の時間は、一般的な学生よりも遥かに短いはずだ。その限られた時間の中で、トップの成績を維持し、さらに他人の面倒まで見ようというのだ。その精神性には、ただただ頭が下がる。

 

「ついて来い。場所を変えるぞ」

「どこへ行くんだ?」

「特別教室だ。ちょうど他にも、手のかかる連中の面倒を見ることになっていてな。……君はついでだ、ついで」

 

 二階堂の背中を追い、俺たちは放課後の校舎を歩いた。

 連れて行かれたのは、美術室などが並ぶ特別棟の一室だった。

 ガラリと扉が開かれる。一見すると、机と椅子が並ぶごく普通の空き教室だ。だが、正面のホワイトボードには、授業の板書とは似ても似つかない、極彩色の幾何学模様がびっしりと描かれていた。

 その色彩の洪水を背にするようにして、一人の女子生徒がぺたぺたと近寄ってきた。

 

「あっ、ヒロちゃんだぁ〜。お勉強やだよぉ〜」

 

 独特な色彩感覚をまとった少女だった。

 真っ白な髪の、前髪部分だけが鮮やかな虹色に染まっている。目深に被ったベレー帽の下から覗く瞳は、右がピンク、左が金色のオッドアイ。制服の至る所に絵具のシミがついており、彼女自身が歩くアートのようだ。

 そして何より、小さい。背丈は遠野と同じくらいだが、柔らかい表情からまるでマスコットのようなサイズ感を思わせる。

 そんな小柄な彼女の手には、キャップの外れた水性ペンが一本、頼りなげに握られていた。

 

「……おい、あれ」

 

 俺は背後にあるホワイトボードを見て、思わず声を漏らした。

 彼女が握っている水性ペン。それで描かれたであろう幾何学模様の落書きが、ボードの上をうねうねと這うように動いているのだ。

 俺は挨拶も忘れて、吸い寄せられるようにホワイトボードへと近づいた。

 

「すごいな……これ魔法だよな。なんで動いてるんだ? サイコキネシスみたいに無理やり動かしてる感じじゃないな。インクの周辺の空気が揺らいでいない。 摩擦でボード上の埃も舞ってない。ボードの表面を滑ってるっていうより、インクそのものが意思を持って流れてるみたいだ。描いた絵を動かしてるんじゃなくて、インクそのものに干渉してるのかこれは」

 

 目の前の現象に夢中になり、ブツブツと分析を口にしていた、その時だった。

 ドンッ、と背中に軽い衝撃が走った。

 腎臓破りのような一撃に、俺は「ぐっ」と呻いて振り返る。そこには、無言で俺の背中に拳を突き当てている二階堂の姿があった。

 

「どうしたいきなり……。正しくないぞ大鐘。先に自己紹介だ」

 

 またやってしまった。探求心がブレーキを壊して礼儀を置き去りにしてしまった。俺は一言謝り、苦笑いで自嘲した。

 二階堂は一つ咳払いをすると、気を取り直して少女に向き直った。

 

「ノア。この男は大鐘ヒカリ。……私の友人だ。今日は彼にも勉強会に参加してもらう」

 

 二階堂の口から、はっきりと友人という言葉が出たことに、俺は少し面映ゆさを感じて鼻の下をこすった。

 

「のあはのあだよ〜」

 

 城ケ崎は間延びした口調でそう言うと、ペタペタと俺に歩み寄ってきた。

 俺は「よろしく」と短く返し、彼女の目線に合わせるように屈んで、インク塗れの手を握った

 

「……なぁ、ホワイトボードのアレ、ノアの魔法か? 『液体を動かす』っていう解釈で合ってるか?」

 

 握手もそこそこに、俺は我慢できずにホワイトボードの蠢くインクを指差して尋ねた。

 ノアは俺の指差した先を目で追い、パチパチとオッドアイを瞬かせると、無邪気に頷いた。

 

「そうだよ〜」

 

 あっさりと肯定されたが、これはとんでもない能力だ。

 液体の粘度や表面張力を無視してコントロールしているのだとしたら、応用範囲は計り知れない。もう少し詳しく、操作できる液体の種類や条件について聞いてみたいところだが──。

 チラリと横を見ると、二階堂が「早く席につけ」と言わんばかりの圧を放っている。これ以上雑談を続けていたら、今度はスリッパが飛んできそうだ。俺は大人しく引き下がることにした。

 

「……んぅ……」

 

 その時、教室の奥──積み上げられた画材の陰から、何か小さな獣が呻くような声が聞こえた。

 教室の隅、画材やクッションが積み上げられた一角がもぞもぞと動いた。

 毛布代わりの巨大な羊のぬいぐるみを押し退け、一人の少女が気だるげに上半身を起こした。

 

 色素の薄い、透き通るような銀髪は寝癖でふわふわと広がり、眠気まなこをこする仕草は小動物のようだ。その顔立ちはあまりに可憐で、まるでガラスケースに飾られた人形がそのまま動き出したかのような錯覚を覚える。

 あまりに小柄で華奢なため、着崩しているというよりは、ぶかぶかの制服に着られているような印象だった。

 彼女はトロンとしたジト目でこちらを睨むと、手元にあったスケッチブックを素早く開き、サラサラとペンを走らせてこちらに突きつけた。

 

『わがはいの安眠を邪魔するとは、万死に値する』

 

 その幼い容姿からは想像もつかない尊大な言葉遣い。スケッチブック越しに伝わってくる怒りなオーラに、俺は思わずたじろいだ。

 だが、二階堂は眉一つ動かさない。

 

「君も勉強だ、アンアン」

 

 二階堂は脅迫文を無視してスタスタと歩み寄ると、抵抗する間も与えずに少女の脇の下に手を入れ、ひょいと持ち上げた。まるで猫かぬいぐるみを扱うような手つきだ。

 手足をバタつかせる少女をそのまま運び、二階堂は慣れた手つきで席へと着かせた。

 

「さあ、始めようか」

 

 その声には、一切の拒否権を認めない絶対的な響きがあった。

 ノアとアンアンは、この世の終わりのような顔を見合わせ、渋々と席に着く。机を二つ向かい合わせにした配置だ。二階堂がノアの隣に陣取り、監視体制を整える。そして必然的に、俺はアンアンの隣に座ることになった。

 

「俺は大鐘だ。よろしくな、アンアン、で合ってるよな」

 

 俺が隣に腰を下ろして声をかけると、アンアンはジト目で俺を一瞥し、フンと鼻を鳴らしてぷいとそっぽを向いた。

 全身から敵対的であるというオーラがトゲのように発せられている。まるで懐かない猫か、気難しいお姫様だ。

 ……なるほど。これは骨が折れそうだ。だが、なぜだろう。その拒絶反応すらも、どこか心地よい挑戦状のように感じてしまう自分がいた。俺は苦笑いを浮かべ、教科書を開いた。

 

 聞くところによると、この特別教室は、二階堂が生徒会権限で手続きを行い、ノアとアンアンの作業場兼休憩所として用意した場所らしい。創作活動に没頭したり、静かに眠ったりするためのサンクチュアリだ。

 ただし、その使用許可と引き換えに提示された条件が、「定期的に二階堂の監視下で勉強すること」だったというわけらしい。

 

 

「……大鐘、小テストの答案用紙は持っているか?」

「ああ。確か鞄の奥に……これだ」

 

 俺は直近の小テスト用紙を取り出し、皺を伸ばしてから二階堂に手渡した。

 赤の直しが入った惨憺たる結果だ。直視するのも恥ずかしい点数だが、二階堂はそれをパラパラと数秒めくっただけで、「ふむ」と短く唸り、机の上に置いた。

 

「傾向は掴めた。わかっていたことだが、君は頭が悪いわけじゃない。論理的な思考力はあるが、それを表現するための基礎用語と単語力が圧倒的に不足している」

「……一瞬見ただけでそこまでわかるのか?」

「解答のプロセスを見ればな。記述問題での構成は悪くない。ただ、英単語のスペルミスや、歴史の年号などの単純暗記で点数を落としているだけだ。……いいか、君はとにかく暗記に集中しろ。体系的な理解が必要な箇所は私が補足する。暗記がしづらいと思ったらすぐに質問すること」

 

 的確すぎる分析と指示に、俺は舌を巻いた。

 俺の学力の傾向と対策や思考の癖を、テスト用紙数枚から完全に見抜いている。やはりこの女、ただの優等生ではない。指揮官としてのスペックが桁違いだ。

 それからしばらく、教室にはカリカリというシャーペンの音だけが響く……はずだった。

 

「のあ、わかんないなぁ」

「……ノア。さっき教えたばかりだろう。遊んでないで手を動かせ」

 

 感心している俺の向かいでは、早くもノアが集中力を切らして体を揺らし始めていた。二階堂の眉間に、くっきりと深い皺が刻まれる。

 

 カオスな空間だ。俺も自分の課題に向き合おうとテキストを開きかけた、その時だった。

 コクリ、と。

 隣に座っていたアンアンの頭が、船を漕ぐように大きく揺れた。

 彼女の手から力が抜け、握られていたペンが机の端から滑り落ちる。

 俺は視線をテキストに向けたまま、反射的に左手を伸ばし、空中でそのペンを掴み取っていた。

 

「……っ」

 

 アンアンがビクリと肩を震わせ、大きく目を見開いた。

 ペンが床に落ちる音で目が覚めるはずだったのに、視界から消えたそれが、いつの間にか隣の男の手に収まっているのだから無理もない。

 

「ほら。……まだ寝起きで辛いか?」

 

 俺は掴み取ったペンを、そっと彼女の手に戻した。

 咎めるでもなく、ただ体調を気遣うように小声で囁く。彼女はキョトンとした顔で俺とペンを交互に見つめ、コクンと小さく頷いた。

 

「セーフだ。もし床に落として音を立ててたら、あそこの鬼教官に課題を倍にされてたところだったな」

 

 俺が口に人差し指を当て小声でそういうと、アンアンの肩が小さく震えた。

 マスクのような無表情が崩れ、口元がわずかに綻ぶ。音にならない、けれど確かな笑みだった。そんな俺たちのやり取りを、二階堂は呆れ果てたような、それでいてどこか珍しいものを見るような半眼で見下ろしていた。

 

「まったく。集中力が散漫だな……」

 

 彼女はこれ以上言っても無駄だと悟ったのか、ペンを置いてガタリと椅子を引いた。ポケットから財布を取り出し、教室の出入り口へと足を向ける。

 

「少し休憩にしよう。私が飲み物でも買ってくる」

 

 二階堂が教室を出ていくと、張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。

 嵐が去った後のような静寂の中、俺は隣のアンアンに視線を戻した。彼女は二階堂がいなくなったことで完全に警戒を解いたのか、机に突っ伏すのをやめ、ペンをいじり始めていた。

 

「……ん、そのペン」

 

 ふと気になり、俺は彼女の手元を指差した。

 先ほど俺が拾ったペンだ。遠目にはただの高級そうな万年筆に見えたが、近くで見るとそのグリップ部分が、指の形に馴染むほどに摩耗しているのがわかった。黒い塗装が剥げ、地金の真鍮が鈍く光っている。

 ただ勉強で使っているだけにしては、あまりにも使い込まれている。

 

「随分と年季が入ってるな。勉強熱心……ってわけじゃなさそうだし、何か別のことに使ってるのか?」

 

 スケッチブックに使ってるペンとは別のもののようだし。 俺が尋ねると、アンアンは少し驚いたようにペンを見つめ、それからスケッチブックを引き寄せた。

 サラサラとペン先が走る音が心地よい。

 

『小説を執筆している。高尚な趣味だ』

 

 彼女はふふんとスケッチブックを掲げて見せた。

 俺は素直に感嘆した。

 この儚げな見た目と、文豪のような口調。なるほど、ピッタリだ。文学少女というのは彼女のためにある言葉かもしれない。

 

「へえすごいな。そのペンのグリップ、そこまで削れるには相当な筆圧と執念がいるもんな」

 

 俺がそう尋ねると、アンアンは急に視線を泳がせ、バツが悪そうに身じろぎをした。

 先ほどまでのドヤ顔はどこへやら、彼女は少し躊躇いながらスケッチブックにペンを走らせる。

 

『未だかつて、完成した試しがない』

「……そうなのか?」

 

 意外な事実に俺が瞬きをすると、彼女は慌てたようにページをめくり、続きを書き殴った。

 

『プロットは神懸かっている』

 

 書き終えるや否や、彼女はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせた。

 書けないのではない、あえて書いていないだけだと言わんばかりの態度だ。

 

「なるほどな。まあ、わかるよ。初めての作品ってのは、どうしても丁寧に仕上げたくなるもんだからな。妥協できないのは、それだけ熱意がある証拠だろ」

 

 アンアンは俺の言葉に、その折れそうなほど細い首をコクコクと縦に振った。肯定の意を示すその仕草は、小鳥がついばむようで愛らしい。

 

「完成させたら、是非読ませてくれよ。まぁ、とりあえず今は勉強を頑張ろうぜ。小説以外の結果が、小説の自信にも繋がるはずだ。かっこいい語彙や言い回しを覚えたら、きっと執筆のモチベーションにもなる」

 

 その言葉は、文学少女の琴線に触れたらしい。

 アンアンはハッとしたように目を見開くと、ふんす、と鼻息荒くペンを握り直した。単純だが、凄まじいやる気だ。彼女は猛然と教科書を開き、食らいつき始めた。

 

 アンアンがやる気を出したのを見て、俺は正面のもう一人の問題児に目を向けた。

 ノアは、いつの間にか分解したボールペンの芯からインクを取り出し、紙の上で動かして遊んでいる。黒い液体が生き物のようにうねうね動いている。

 

「すごいな。それ、液体なら何でも動かせるのか?」

「うん。ジュースでも雨でも、なんでも絵になるよ」

 

 ノアは悪気なく答えるが、その言葉には彼女の魔法の制約がはっきりと表れていた。

 彼女にとって液体はあくまで画材であり、それを動かす行為は描画でなければならないのだ。

 逆に言えば、その認識の枠さえなければ、彼女はあらゆる液体を自在に操る脅威的な能力者になり得るということだ。

 

「なぁノア。その空中を透明なキャンバスだと思ってみたらどうだ? 平面じゃなくて、空間そのものに立体的な絵を描くイメージで」

「?」

「そこに見えない壁があると思って、インクを乗せてみるんだ」

「……?よくわからないけど、やってみるね」

 

 俺の提案に、ノアは小首を傾げながらも、実践してみせた。

 彼女が指先を指揮者のように振ると、紙の上を動いていたインクが一度球体に戻り、そこから複雑な螺旋を描いて伸び上がった。

 ぐにゃりと空間が歪むような錯覚。インクは重力に逆らって空中で静止し──。

 ポタッ。

 数秒も持たずに、インクは形を崩して紙の上に垂れてしまった。

 

「あっ、落ちちゃった……」

「惜しかったな。でも、確かに制御できてたぞ。ノア、絵描くの好きか?」

「うんっ」

 

 俺はティッシュで跳ねたインクがついたノアの頬を拭きながら、内心で確信を得ていた。

 やはり、魔法には術者の認識が深く関わっている。

 絵は平面に描くものという観念を、空間もキャンバスになり得ると書き換えただけで、彼女の干渉領域は拡張されたのだ。

 

「これなら、描くための表現の幅がもっと広がるな」

「へーすごーい。もっと練習したいな」

「いい心がけだ。ただ、その幅っていうのは、勉強でも身につくはずだぞ」

 

 俺はここぞとばかりに、放り出されていた教科書を彼女の手元に引き寄せた。

 

「数学や国語で論理を勉強すれば、描く時に感覚と理屈を両取りできる。物理の法則を知れば、液体のリアルな動きを再現できるかもしれない。多くを知ることは、そのまま画材を増やすことと同じだ」

 

 俺は逃げ道を塞ぐように、じっとノアの瞳を見つめた。

 ノアは俺の真剣な眼差しに、きょとんと小首をかしげた。少しの間、オッドアイをパチパチと瞬かせていたが、やがてその理屈を彼女なりに消化したらしい。

 

「うん。のあ、がんばるね?」

「おう、帰ってきた二階堂をビックリさせてやろうぜ」

 

 ノアは素直に頷くと、放り出していた教科書に再び向き直った。

 隣では、アンアンがすでに辞書と格闘している。俺も自分の課題に取り掛かる。

 今度こそ、教室にカリカリとペンを走らせる音だけが響き始めた。

 

 ガララッと、教室の扉が開く音がした。

 

「待たせた。……む?」

 

 缶コーヒーと紙パックのジュースを買って戻ってきた二階堂が、入り口で立ち止まった。

 彼女の瞳が、教室内の光景を捉えて驚愕に見開かれる。

 そこには、一心不乱に教科書を読むアンアンと、数式をアートの一部のように解き始めたノア、そして黙々とペンを動かす俺の姿があった。

 

「…………」

 

 二階堂の視線が、俺へと向けられる。

 彼女は驚きながら呆れたように、しかしどこか満足げに口元を緩めた。

 

「そういえば、得意分野だったな」

 

 小声で呟く二階堂。

 彼女の俺を見る目がまた少し変わった気がして、何かが積み上がった様な気がした。

 

 

 

 しばらくして勉強会が終わり、俺たちは一息つくことにした。

 缶コーヒーとジュースで乾杯し、少し張り詰めていた脳を休める。

 すると、アンアンがおもむろにスケッチブックをめくり、サラサラとペンを走らせて俺に突きつけてきた。

 

『貴様、なかなか見どころがある。特別に、わがはいの忠実なる騎士として雇ってやってもよいぞ』

「……騎士?」

『名誉なことである。感謝しろ』

 

 アンアンはふんす、と鼻を鳴らして胸を張った。どうやら、俺はお眼鏡にかなったらしい。

 

「ね〜ね〜、こんどのあの絵のモデルになってほしいな」

 

 反対側からは、ノアが身を乗り出して俺の袖を掴んできた。

 

「……まあ、いいぞ。二人とも、今回の期末テストで赤点を回避して、いい点数が取れたらな。ご褒美として考えてやる」

 

 俺が交換条件を出すと、二人は顔を見合わせて「ん〜!」「むぅ……」と唸りながらも、やる気に満ちた目で頷いた。

 俺は満足してコーヒーを啜った。

 

「……おい」

 

 その時、横から底冷えするような声が飛んできた。

 二階堂だ。彼女はジトっとした半眼で、俺を睨め付けていた。

 

「生徒会の勧誘には一向に首を縦に振らないくせに、随分と安売りするんだな、君は」

「いや、これはあくまで勉強のモチベーション維持のための……」

 

 二階堂は不服そうに唇を尖らせた。それが少し面白く、俺は思わず苦笑してしまった。

 

 

 勉強会がお開きになり、俺は帰り道を一人で歩いていた。

 外はすでに茜色から群青へと変わりつつある。

 ふと、俺は自分の掌を握りしめ、開いて、また握った。

 

「……調子いいな」

 

 身体が軽い。

 ここ最近は、泥のような倦怠感が身体の芯にまとわりついているはずだった。鉛のように重い手足を引きずって帰るのが日課になっていた。

 だが、今日はどうだ。

 思考はクリアで、足取りも羽が生えたように軽い。まるで憑き物が落ちたかのようだ。

 

「…………」

 

 健康そのものだ。喜ぶべきことのはずだ。

 だというのに、なぜだろう。

 俺の胸の奥には、ぽっかりと穴が空いたような、得体の知れない不安が渦巻いていた。

 この軽さは、自由の証か。それとも嵐の前の静けさなのか。

 俺は消え入りそうな夕陽を背に、逃げるように早足で帰路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 





負けたいまのさばキャラランキング
1位城ケ崎ノア
2位桜羽エマ
3位月代ユキ

すみません何でもないです。


気難しい女の子ほど燃える系主人公ですが、アンアンとノアのルートは無しでございます。ごつ。
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