まのこい天秤   作:雪無い

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いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシ送ってくれると嬉しいです。
基本的に重たい話にはならない予定です。快晴まのさばプレイヤーなので


4話『スカアレットラバー』

 

 十二月も半ばを過ぎ、学園を重く覆っていた期末テストという名の暗雲はすっかり晴れ渡っていた。迫り来る冬休みと、それに伴うクリスマスや年末のイベントを前にして、校舎を吹き抜ける冷たい風とは裏腹に、生徒たちの間にはどこか浮き足立った、緩やかな空気が漂っている。

 俺は今、久しぶりに放課後の魔法クラスの教室で、いつもの席に深く腰を下ろしていた。ここ最近、放課後といえば生徒会室か特別教室に缶詰になっていたため、こうして何の目的もなく椅子に背を預けている時間がひどく贅沢に感じられる。俺の口元は、自分でもわかるほど自然と緩みっぱなしだった。

 

「……なんだか今日は、ずいぶんと上機嫌ですわね大鐘さん。気持ち悪いくらいニヤニヤしていらっしゃいますわよ」

「あっ、それ私も思ってました! 今日は大鐘さんから、事件を解決した直後の私のような達成感のオーラが漂っています!」

 

 正面の席で優雅にティーカップを傾けていた遠野が、呆れたような、それでいて少し面白がるような視線をこちらに向けてくる。その横では、橘が虫眼鏡でも覗き込むような仕草で俺の顔をまじまじと観察していた。お前が事件解決してる所見たことないが。

 いつもならここに、もう一人白銀の髪を揺らす少女がいるはずなのだが、桜羽は職員室にちょっとした用事があるらしく、今は席を外している。もうじき戻ってくるとは言っていた。

 

「ふっ、まあな。……これを見てくれ」

 

 俺は鞄の中からクリアファイルを取り出すと、もったいぶった手つきで中の紙束を机の上に扇状に広げてみせた。

並べられたのは、今日返却されたばかりの期末テストの答案用紙だ。

 国語、数学、英語、歴史……どれもこれも、赤点を示す忌まわしい朱色の文字は一つもなく、全ての教科で学年平均点を数点から十数点ほど上回る数字が記されている。俺にとっては、まさに死線を潜り抜けた証とも言える輝かしい戦果だ。

 橘と遠野が、興味深そうに身を乗り出して机の上の紙束を覗き込んだ。

 

「おお〜っ! これは素晴らしいですね!」

「……えっと? これがどうかしましたの?」

 

 パチパチパチ!と、手放しで大袈裟な拍手を送ってくれる橘に対し、遠野は答案の点数と俺の顔を交互に見比べながら、心底不思議そうに翠の瞳を瞬かせていた。

 

「いえ、確かに赤点はありませんけれど……ごくごく普通の、平均的な点数ではありませんの? なぜあなたがそんなに胸を張っているのか、わたくしには理解しかねますわ」

 

 遠野の口調に嫌味はなく、ただ純粋な疑問だけが浮かんでいる。

 そんな彼女の疑問を解消するように、隣で橘が「チッチッチ」と得意気に人差し指を振った。

 

「いえいえ、ハンナさん。私、以前大鐘さんのお勉強を少しお手伝いしたことがあるんですけど……その時の凄惨たるや、それはそれは凄まじく壊滅的だったんですから! それを思えば、この全教科平均点越えという結果は、奇跡的な大躍進、まさに目覚ましい成長と言わざるを得ません!」

「ふっ、そういうことだ遠野」

「あなた、今結構バカにされてましたわよ。ご自覚はおあり?」

 

 橘の言葉に少々のトゲが含まれていた気もするが、今の俺の耳には心地よい賛辞としてしか響かなかった。中学以降の初めてテストでまともな数字を叩き出したという事実が、ただ純粋に嬉しかったのだ。

 もちろん俺の性分として、この程度の平均点に満足して立ち止まるつもりは毛頭ない。だが、激務の合間を縫ってしごいてくれた二階堂への義理も多少は果たせたわけだし、今日という日くらいは、このささやかな勝利の余韻に浸って喜んでもバチは当たらないだろう。

 

「なるほど……。大鐘さんにも、明確に苦手な分野というものがありましたのね」

 

 遠野は俺の答案用紙をパラパラとめくりながら、意外なものを見るように目を丸くしていた。

 

「しかし、あの絶望的な初期状態からこの短期間で、一体どうやってここまで持ち直したんですか? 」

 

 身を乗り出して探求心に目を輝かせる橘と、同じく興味深そうに耳を傾ける遠野。俺は二人の視線を正面から受け止めながら、さも当然のことのように、なんでもない風を装って種明かしをした。

 

「特別なことはない。二階堂にみっちり勉強を見てもらってただけだ」

 

 ピタリ、と。

 和やかだったティータイムの空気が、急激に零下まで凍りついた。

 遠野が手にしていたティーカップをソーサーに戻す音が、カチャリとやけに冷たく響く。彼女の翠色の瞳からスッと温度が消え失せ、底知れない呆れと非難が入り混じったジト目が、真っ直ぐに俺を射抜いた。

 

「……最近、放課後になってもちっともこちらの教室に顔を出さないと思っていましたら。あなた、ヒロさんに……」

「そういえば、最近大鐘さんと生徒会長がよく一緒にいるという噂、学園内でまことしやかに囁かれていましたね。なるほど、繋がりました」

 

 ため息交じりに扇子を広げる遠野の横で、橘がポンと手を打って納得したように頷く。

 「……そういうことでしたのね」と遠野が小声でポツリと呟きながら、橘と共に机の上の答案用紙を改めて見つめ直す。その鋭い視線が、ふと一枚の用紙の端でピタリと止まった。何かに気づいたらしい二人が、サッと顔を見合わせる。

 

「大鐘さん、これは一体なんでしょう?」

 

 橘がスッと指差したのは、国語のテスト用紙の右下、ぽっかりと空いた余白部分だった。

 そこには、採点者の赤ペンとは全く異なるインクで、妙に達筆な『夏目アンアン』というサインと、芸術的で躍動感のある蝶のイラストが堂々と描き込まれていた。どう見ても学業とは関係のない、フリーダムすぎる痕跡だ。

 

「ああ、それか。ここに来る途中、廊下でノアとアンアンに会ってな。あの二人とも一緒に二階堂のところで勉強してたから、約束通りテストの結果を見せてやったんだ。そうしたら、二人して『ご褒美だ』って言って、わざわざ俺の答案に書き込んでくれたんだよ」

 

 点数を見て誇らしげに鼻を鳴らしていたアンアンと、楽しそうにインクを操って蝶を描き出したノアの姿が脳裏に蘇る。手のかかる子どもたちに報いることができたような気がして、俺はそんな微笑ましい光景を思い出しながら、自然と口元に柔らかな笑みを浮かべていた。

 しかし、俺の感傷とは裏腹に、二人の視線は非難一色であった。

 

「あなた……ヒロさんはともかく、ノアさんとアンアンさんまで……」

「そういえば、大鐘さんが他の方を下の名前で、しかも呼び捨てにするなんて珍しくありませんか? 」

 

 パチン、と大きな音を立てて扇子を閉じた遠野が、肩をワナワナと震わせている。その横で、橘は顎に手を当てて探るようなジト目をこちらに向けてきていた。

 ただテストの結果を報告して、ついでに仲良くなった少女たちとの微笑ましい交流を語っただけだというのに。突然向けられた疑惑の眼差しに、俺は縮こまるしか無かった。

 

「あなた、エマさんというものがありながら……! 結局のところ、白くて可愛い子なら誰でもいいんですの!?」

「人聞きが悪すぎるだろ! 誤解だ!」

 

 あまりに理不尽で飛躍した遠野の弾劾に、俺はたまらず大声を上げて反論した。

 だが、頭の中で瞬時に状況を整理してみて、俺は冷や汗をかいた。黒髪だがそれと対比するように白い肌を持つ二階堂、白い髪を持つノアとアンアン、そして白銀の髪を揺らす桜羽。

 誓って言うが、本当にただの偶然なのだ。しかし、こうして外側から並べ立てられると、俺の性癖が特定の属性に極振りしているという凶悪な状況証拠が完成してしまっている。

 

「言い訳は見苦しいですわ! 現に、最近あなたがちっとも構ってくれないせいで、エマさんがずっと寂しそうにしていましたのよ!」

「うぐっ……」

 

 その一言は、俺の胸のど真ん中を鋭く、そして的確にえぐった。

 赤点を回避するために二階堂のスパルタ指導に付きっきりだったのは紛れもない事実だ。結果として、放課後の時間を桜羽たちと過ごす機会は激減していた。

 俺が自分の課題にかまけている間、ただでさえ寂しがり屋な彼女を放置してしまっていたのだ。俺の手をギュッと握って離さなかった彼女の心細さを、俺は完全に等閑にしていたことになる。

 反論の言葉は喉の奥に引っ込み、代わりにチクリとした重い罪悪感が胸の奥に広がっていった。

 

 俺の押し黙った態度を、痛いところを突かれたゆえの肯定と受け取ったのだろう。遠野はガタッと勢いよく席を立ち上がると、閉じた扇子の先端をビシッと俺の鼻先に突きつけた。

 

「大鐘さん。あなたのその浮ついた根性を叩き直し、エマさんへの誠意を示すためにも……今度の休日、責任を持って彼女をデートに誘いなさい!」

 

 高圧的な命令口調だが、その翠色の瞳の奥には、友人を心から案じる優しさが透けて見えている。隣では、橘が少し驚いた様子で遠野を見上げていた。

 言われるまでもない。俺だって、あいつにこれ以上寂しい顔をさせたくはないのだ。

 文化祭の夜に見せた無防備な表情や、一緒にいたときに見せる無邪気に喜ぶ顔が脳裏に浮かぶと、俺の中で自然と腹は決まっていた。

 

「……わかったよ。降参だ、言う通りにちゃんと誘うから」

 

 俺は両手を軽く上げて、白旗を振るポーズをとった。

 自分の不甲斐なさを棚に上げて断る理由など、端から持ち合わせていない。むしろ、こうして背中を押してくれたこのお節介な二人に感謝すべきだろう。

 

「ふん、わかればよろしいのですわ」

「決まりですね! では、最高の一日をプロデュースするために、綿密なデート計画を立てましょう!」

 

 遠野が満足げに扇子を収めてふわりと席に座り直すと、橘が身を乗り出して机の上にノートを広げた。

 そこからは、どこへ行くべきか、何を食べるべきかという喧々諤々の議論が交わされた。俺一人で考え込んでいたら間違いなく的外れなプランを組んでいただろうから、彼女との付き合いが長く、好みを熟知しているであろう二人の存在は率直に言ってめちゃくちゃ助かる。

 そうして三人で頭を突き合わせ、いくつかの候補を絞り出しながら、あっという間に時間が過ぎていった。

 二人の的確なアドバイスに感謝しながら真剣に話し込んでいると、ふいに教室の空気が動いた。

 

「……あれ? みんな、どうしたの?」

 

 気配もなく、いつの間にか教室に戻ってきていた桜羽が、不思議そうに首を傾げて立っていた。密談を聞かれたかとビクッと肩を跳ねさせる遠野と橘。桜羽は俺たちが固まっているのを見て、一瞬だけその桜色の瞳に、不安の翳りを落とした。

 

 俺はごまかすのをやめ、真っ直ぐに立ち上がって彼女に向き直った。

 

「エマ。今度の休日、俺とデートしよう」

「えっ……デ、デート……? ボクと、大鐘くんが?」

 

 唐突な名前呼びと直球の誘いに、桜羽は目を丸くして固まった。だが、すぐにその白い頬が林檎のように真っ赤に染まり、パッと喜びの光が瞳に弾ける。

 俺のあまりにド直球すぎる切り出し方に、背後の遠野と橘もポカンと口を開けていた。二人はすぐに顔を寄せ合い、ヒソヒソと内緒話を始める。

 

「……いくら何でも、直球すぎますわね。ムードも何もあったものではありませんわ」

「まぁ、大鐘さんってそういうところありますから」

 

 後ろから聞こえてくる呆れ声など、今の俺にはどうでもよかった。目の前でモジモジと指先を合わせる桜羽の反応だけが、何よりの答えだ。

 

「う、うん……! 行く、行きたいな。ボク、大鐘くんとデートしたい……っ」

 

 弾むような声と、とろけるように甘く柔らかい笑顔。それを見た瞬間、俺の胸の奥で燻っていた罪悪感がすっと溶け、代わりにじんわりとした温かさが広がっていくのを感じた。

 俺が彼女の喜ぶ姿に見とれている背後で、橘が遠野の袖を軽く引き、誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた。

 

「……でも、ハンナさん。本当によかったんですか?」

「構いませんわ。……あんな嬉しそうな顔を見せられたら、口を挟むなんて野暮というものですわ」

 

 そんな二人の密やかなやり取りなど露知らず、俺は今週末の約束に向けて、ただ目の前の少女と微笑み合っていた。

 

 悪い二階堂。お前の言いつけ、また破ることになりそうだ。

 

 

 

 そして迎えた、約束の休日。

 見上げれば、今にも雪が落ちてきそうなほどに重く、鉛色をした冬空が広がっていた。吐く息は白く、防寒具なしでは数分と外にいられないほどの冷え込みだ。

 駅前の待ち合わせ場所に向かうと、そこには既に、人混みの中でも一際目を引く見慣れた少女の姿があった。

 

「あ、大鐘くん!」

 

 俺の姿を認めるなり、エマは寒さで少し赤くなった顔をほころばせ、手袋に包まれた両手を小さく振った。

 今日の彼女は、白を基調としたフワフワの冬服に身を包んでいた。厚手の白いダッフルコートのフードには、彼女の白銀の髪とよく似合う柔らかなファーがあしらわれている。首元には淡いピンク色のマフラーが巻かれ、華奢な足元は暖かそうなショートブーツで整えられていた。まるで雪の精霊か何かのように、冬の景色に見事に溶け込みながらも、彼女だけが特別な光を放っているように見えた。

 

「待たせた。……それにしても、やっぱり可愛いな、エマは。よく似合ってる」

「も、もう! 大鐘くんってば、いきなりそういうこと言うんだから……っ」

 

 俺が素直な感想を口にすると、桜羽はマフラーの襟元に顔の半分を埋めるようにして俯き、照れ隠しに小さく肩をすぼめた。

 モゴモゴとくぐもった声で抗議してくるが、その桜色の瞳は嬉しそうに揺れており、マフラーから覗く耳の先までほんのりと赤く染まっている。その無防備で愛らしい反応に、俺の胸の奥がトクンと高く鳴った。

 

「……何だか、思い出すね。こうして二人で待ち合わせするの」

 

 照れを誤魔化すように上目遣いでこちらを見上げてくる彼女の言葉に、俺も自然と頷いていた。

 まだこの学園に転校してきて間もない頃、二人で休日の買い出しに出かけた日のことだ。あの時も、彼女の私服姿に柄にもなく動揺し、浮き足立ってしまった記憶がある。だが、あの頃の曖昧な距離感とは違う。今日は明確に、俺から彼女を誘ったデートなのだ。

 

「それじゃ、いこっか? えへへ」

 

 エマは悪戯っぽく微笑むと、自然な動作で俺の隣に並び、その小さな両手で俺のコートの袖口をきゅっと掴んだ。

瞬間、彼女が触れた部分から、甘く痺れるような微熱がじんわりと流れ込んでくるのを感じた。冬の寒さを忘れさせるような、とろけるような心地よさ。

 同時に、ふっと足元が浮き上がるような軽い立ちくらみを覚えたが、俺はそれを「待ち合わせに急いで歩いてきたせいだ」と、あるいは「至近距離の彼女に緊張しているせいだ」と自分に言い聞かせて、小さく頭を振った。

 

「ああ」

 

 俺は彼女の温もりを心地よく感じながら、袖を引かれるままに休日の賑わう街へと足を踏み出した。

 

 

 

 休日の水族館は、暖房の効いた館内特有の生ぬるい空気と、家族連れやカップルたちの絶え間ない喧騒に包まれていた。

 薄暗い照明の中、巨大な水槽が放つ青白い光だけが、行き交う人々の顔を水底に沈んだようにぼんやりと浮かび上がらせている。

 

「わぁ……大鐘くん、見て見て! すごく綺麗!」

 

 俺の半歩後ろを歩く桜羽が、弾むような声を上げた。

彼女の両手は、はぐれないようにと、俺の右腕を包み込むようにギュッと握りしめられている。先ほどからずっとだ。

 彼女が俺の腕に触れている部分から、直接血管にシロップを注射されているような、甘く痺れる熱が流れ込み続けている。

 そしてそれに反比例するように、俺の身体の奥底からは、確かな何かが音を立てて削り取られていく感覚があった。

 足の裏が、ふんわりと宙に浮いているように覚束ない。

 視界の端が、水槽の青い光に溶け込むように白く霞み始めている。

 

(……これは、ただの人混み酔いなんかじゃない)

 

 俺の冷静な思考の片隅が、警告のサイレンを鳴らし続けていた。

 寮や倉庫での出来事。そして、エマが俺から離れていた数日間の、嘘のようにクリアだった体調。

 それらの事実を繋ぎ合わせれば、答えは明白だった。

 この猛烈な脱力感と、抗いがたい眠気をもたらしているのは、他でもない、隣で無邪気に笑うこの少女なのだと。二階堂が口を酸っぱくして警告していた理由は、これだったのだ。

 

「あっちも行ってみよ? ね、大鐘くん!」

 

 エマが、俺の腕をぐいと引っ張る。

 その瞬間、ドクンと心臓が重く跳ね、俺は思わず小さくよろけた。

 

「あっ、ごめんね。引っ張りすぎちゃった?」

「……いや、大丈夫だ。床が少し滑るだけだ」

 

 心配そうに俺の顔を覗き込むエマの桜色の瞳。そこには、俺を害そうとする悪意など微塵もない。ただ純粋に、俺といるこの時間を楽しんでいるだけの、曇りのない喜びだけがあった。

 彼女は、自分が俺を蝕んでいることに気づいていない。

 

(……だから、なんだっていうんだ)

 

 俺は奥歯を強く噛み締め、膝の震えを気力でねじ伏せた。

 彼女が俺を求めてくれている。この温かな腕で、俺という存在を繋ぎ止めてくれている。

 過去の栄光も、逃げ出した挫折も関係ない。ただの大鐘ヒカリとして、これほどまでに真っ直ぐに必要とされている。

 その事実が、俺の身体から抜け落ちていく生命力よりも、遥かに心地よかった。

 

「あ、クラゲだっ」

 

 ふわりと漂うミズクラゲの水槽の前で、桜羽は立ち止まった。

 青い光に照らされた彼女の横顔は、水底の妖精のように透き通って見えた。

 彼女は水槽に額をくっつけるようにして、ゆらゆらと漂うクラゲをじっと見つめている。

 

「クラゲって、自分じゃ上手く泳げないんだって。水流に流されるだけ」

 

 ぽつり、と。

 彼女の小さな唇から、ひどく心細そうな声が漏れた。

 俺の腕を握る手の力が、さらに一段階、ギュッと強くなる。

 

「だからね……」

 

 青い光の中で、彼女が俺を見上げた。

 その瞳に宿る感情。

 瞬間、俺の視界が一気に白く反転しそうになった。

立っているのがやっとの強烈な倦怠感が、背骨を駆け上がってくる。

 このまま彼女に身を預けてしまえば、どれほど楽だろうか。

 

「……バカ言え。お前は流されてなんかない」

 

 俺は、もう片方の手で、俺の腕にしがみつく彼女の冷たい手を上からそっと、けれど力強く包み込んだ。

 

「俺が、お前の手を引いてるんだ。お前が迷わないように、ずっと隣を歩いてる。……だから、安心しろ」

 

 甘い毒が全身を巡る感覚を、俺は愛おしさという感情で無理やり上書きした。

 彼女の毒を、俺は逸らさずに受け止める。

 それが、俺にできる唯一の、そして最大の表現なのだから。

 

「……えへへ、うんっ」

 

 俺の言葉に、エマは花が綻ぶような最高の笑顔を見せた。

その笑顔を見守りながら、俺は鉛のように重い足を引きずり、彼女と共に次の水槽へと歩みを進めた。

 

 水族館の順路をすっかり回り終えた頃には、俺の足元はさらに覚束なくなっていた。

 館内に併設されたカフェスペースへ移動し、窓際のテーブル席に腰を下ろすと、暖房の効いた室内の空気とコーヒーの香りがどっと肺に流れ込んでくる。少しだけ緊張の糸が緩んだせいか、ドッと疲労感が全身にのしかかってきた。

 

「ねえ大鐘くん。 さっきのイルカのショー、すっごくかっこよかったよ」

 

 向かいの席に座ったエマが、目をキラキラと輝かせながら身を乗り出してきた。

 先ほど大水槽で行われていたイルカショーでのことだ。観客参加型の輪投げコーナーで、偶然指名された俺が投げた輪を、イルカが見事に空中でキャッチしたのだ。

 

「ありがとな。まぁ、あのくらいの距離なら楽勝だ」

「他のお客さんは全然届いてなかったからすごいよ!大鐘くんの投げた輪っか、イルカさんすっごく嬉しそうに捕ってくれてたね」

 

 少し照れ隠しに強がる俺に対し、エマは無邪気に両手で拍手をしてくれる。

 捕球が俺の得意分野だが、投げるのも一応は本職だ。彼女がこんなに喜んでくれるなら、少し肩に力を入れた甲斐があったというものだ。

 運ばれてきた注文の品を見て、俺は小さく息を吐いた。

 エマの前に置かれたのは、フルーツと生クリームが山のように盛られた特大のパンケーキ。そして俺の前には、クラブハウスサンドイッチとブラックコーヒーだ。

 普段の俺なら、このくらいのサンドイッチなど三口で平らげて、さらにエマのパンケーキを半分横取りしてもまだ足りないくらいには食べる。アスリートとしての胃袋の容量は、激しい運動から離れた今でもそう簡単には縮まないからだ。

 

 だが、サンドイッチを手に取ったものの、それを口に運ぶ手が酷く重い。

 食欲という、生きるための根源的な欲求そのものが、靄がかかったように薄れているのだ。胃の腑が泥沼を飲み込んだように重く、食べ物を受け付けるのを拒否しているような、奇妙な感覚。

 明らかに異常だ。身体の芯から生命力という名の燃料が、底の抜けたバケツのようにこぼれ落ちている。

 

「……? 大鐘くん、あんまり食べてないよね? もしかして、お腹空いてない?」

 

 俺の手が止まっていることに気づいたのか、パンケーキを頬張っていたエマが小首を傾げた。

 その桜色の瞳が、純粋な心配を帯びてこちらを覗き込んでいる。

 

「いや、ちょっと喉が渇いてただけだ。コーヒーを先に飲みたくてな」

 

 俺は慌ててマグカップを手に取り、ブラックコーヒーを喉に流し込んだ。苦味で無理やり意識を覚醒させ、誤魔化すようにサンドイッチを一口齧る。

 砂を噛むような味気なさを気合で飲み込むと、エマはホッとしたように表情を緩めた。

 

「そっか。大鐘くん、いつもたくさん食べるもんね。……あ、そうだ! ボクのパンケーキも、半分こしよ?」

「え? いや、俺は……」

「はい、あーん」

 

 俺の制止など最初から聞こえていないかのように、エマはフォークで大ぶりのパンケーキを切り取ると、たっぷりのクリームをつけて俺の口元へと突き出してきた。

 テーブルから身を乗り出し、期待に満ちた目で俺の唇を見つめている。

 この状況で断れる男がいるだろうか。いや、少なくとも俺には無理だ。

 

「……あ、あぁ。もらうよ」

 

 俺は観念して口を開け、差し出されたフォークからパンケーキをパクリと受け取った。

 口いっぱいに広がる強烈な甘さ。糖分が脳に回れば少しは気力が戻るかと思ったが、現実は逆だった。甘露を飲み込んだはずなのに、なぜか身体の内側からゾクッとした寒気が走り、目眩が一段階強くなる。

 ヒュッ、と視界の端が白く飛んだ。

 テーブルの上のグラスの水滴が、二重にも三重にもぼやけて見える。

 

「えへへ……美味しい?」

 

 不意に、ひどく甘ったるい声が鼓膜を撫でた。

瞬きをして焦点を合わせると、エマが両手で頬杖をつき、俺の咀嚼する顔をうっとりとした熱い視線で凝視していた。彼女は自分のパンケーキを食べるのも忘れ、ただ俺の口元だけを見つめている。

 どこか粘着質で重みのある響き。

 その言葉が耳から入り込んだ瞬間、俺の胸の奥で、カチリと何かを告げるスイッチが入る音がした。

 

(……くそっ)

 

 テーブルの下で、俺は自分の太ももを強くつねった。

 痛覚で鈍い意識を繋ぎ止める。

 まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。

 デートはまだ終わっていない。エマのこの最高の笑顔を、俺の不調で台無しにするわけにはいかないのだ。

 

「……ああ、すごく美味いよ。エマが食べさせてくれたからかな」

 

 俺は、絞り出すような声でそう答え、精一杯の強がりで笑ってみせた。

 視界は白く霞み、自分がどんな表情をしているのかも定かではない。それでも、俺は、全身全霊で受け止めることだけを選んだ。

 

「もう……大鐘くんってば」

 

 エマが照れたように笑い、再び自分のパンケーキへとフォークを伸ばす。

 その屈託のない笑顔を見ながら、俺はコーヒーカップを握る手にギリギリと力を込め、迫りくる限界の波を必死に押し返していた。

 

 

 

 水族館とカフェを出た後も、俺たちは冬の街を歩き回った。

 イルミネーションに彩られた並木道を歩き、冷たい風の中で他愛のない会話を交わす。限界はとうに超えていたはずなのに、隣で花が咲くように笑うエマを見るたびに、不思議と足が前へと出た。

 だが、誤魔化しきれない代償は、雪だるま式に俺の身体を蝕み続けていた。

 気がつけば、空はすっかり群青色に沈み、街灯が落とすオレンジ色の光が白く吐く息を照らしている。賑やかだった繁華街を抜け、学園の女子寮へと続く人通りの少ない静かな坂道に差し掛かっていた。

 あと少しで、彼女を送り届けられる。

 そう安堵しかけた時だった。

 

「……大鐘くん」

 

 半歩先を歩いていたエマの足が、ふわりと止まった。

 振り返った彼女は、繋いでいた俺の右手を、自分の両手で包み込むように大切に握り直す。

 街灯の淡い光の下。見上げる彼女の桜色の瞳が、夜の闇の中でも濡れたように潤んで光っていた。底冷えのする風が吹いているというのに、彼女の小さな掌から流れ込んでくる熱だけが、火傷しそうなほどに熱い。

 

「今日は、すっごく楽しかったね」

「……ああ、そうだな。楽しかった」

「ボクね……」

 

 エマは少しだけ俯き、自らの胸に抱き込むように俺の手を引き寄せた。

 ひどく甘く、静かで、それでいて恐ろしいほどの重力を持った声が、冬の空気に溶け出していく。

 

「ずっと、こうしていたいな」

 

 彼女が顔を上げる。

 そこにあったのは、純度百パーセントの執心。俺という存在の全てを欲しがり、同時に自分の全てを委ねようとする、無防備で狂おしいほどの執着だった。

 

 ドクンッ、と。

 

 その言葉が鼓膜を打った瞬間、俺の心臓が警鐘のように大きく、痛いほど跳ねた。

 直後、視界が強烈なフラッシュを浴びたように、真っ白に裏返る。

 

(……あ)

 

 限界だった。

 気力だけでどうにか繋ぎ止めていた生命維持の糸が、脳の奥底でプツリと音を立てて千切れるのがわかった。

 彼女の俺への思いが、全霊が、最大出力となって俺の身体の残された燃料を根こそぎ食い破ったのだ。

 身体から全ての感覚が抜け落ちたかと思えば、今度は地球の中心から暴力的な力で引っ張られるような、凄まじい重圧が襲いかかってくる。

 

(……ごめん、エマ)

 

 朦朧とする意識の中で、俺の胸を占めたのは激しい後悔と申し訳なさだった。

 彼女の投げ込んでくる猛毒を、最期まで何事もないように受け止めきりたかった。自分が相手を蝕んでいるという残酷な真実に、この無邪気な笑顔の主を直面させたくはなかったのだ。

 けれど、俺がここで倒れれば、嫌でも彼女に気づかせてしまう。自分が俺を壊してしまったのだと、彼女の心を深く傷つけることになってしまう。

 

「……ご、め……」

 

 せめてそう伝えようと動かした唇からは、掠れた空気の音しか漏れなかった。

 安心させるように笑いかけようとした頬の筋肉は完全に麻痺し、ついに、重くなった膝が折れる。

 ドサッ、という鈍い音が、まるで他人事のように遠くで響いた。

 アスファルトの冷たさが頬を打つ。

 倒れ込む俺の指先から、力なく、エマの温かい手がすり抜けていった。

 

「……え? 大、鐘くん……?」

 

 視界を埋め尽くす、純白の世界。

 最後に聞こえたのは、悲鳴すら上げられず、茫然と立ち尽くすエマの震える声だけだった。

 そのひどく怯えたような響きは、目の前の異常事態に対する恐怖と、その原因が自分にあるかもしれないという、残酷な真実に触れかけた絶望の色を帯びていた。

 「お前は悪くない」と手を伸ばすことも叶わず、俺の意識は深い闇の底へと完全に沈み込んでいった。

 

 

 





ラストスパートにつき、なんと、明日も投稿が発生。やっぱり祝日がある週は余裕違います。
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