まのこい天秤   作:雪無い

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いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。エマ編ラストです。ミスにより再投稿です


5話『オーバーライトキャンバス』

 

 鼻を突く消毒液の匂いと、微かに響く規則正しい電子音で、俺はゆっくりと重い瞼を押し上げた。

 視界を覆っていた真っ白な靄が晴れると、見知らぬ無機質な天井が目に飛び込んでくる。背中から伝わる硬いマットレスの感触。どうやら、どこかの病院のベッドの上らしい。

 

 身じろぎした音で俺が目を覚ましたことに気づいたのか、すぐに白衣姿の医師が病室に入ってきた。

 医師の手際の良い診察と、それに続く状況説明は、すべてが事務的で淡々としたものだった。ここが学園近くの総合病院であること。昨夜、道端で倒れた俺が救急搬送されてきたこと。

 そして、医師の口から告げられた俺の症状は、医学的には全く説明のつかない不可解なものだった。

 外傷やウイルスの感染といった異常は一切見られない。ただ、身体を動かすための基礎的なエネルギーが完全に枯渇しており、まるでフルマラソンを何本も連続して走り抜いたかのような極度の疲労状態に陥っていたのだという。

 

 だが、それも運び込まれた直後までの話だった。

 医師の言葉通り、現在の俺の身体からは、あの泥のような重さも、息が詰まるような倦怠感もすっかり消え失せている。念のために行われた精密検査でも異常は全く見つからず、今はもう生命の危機はおろか、後遺症の心配すらない健康な状態まで回復しているとのことだった。

 安静にするよう告げて医師が病室を去ると、部屋には再び静寂が下りた。

 俺はベッドの上でゆっくりと上体を起こし、自分の両手を握って、開いた。

 驚くほどに身体が軽い。指先までしっかりと力が入り、視界も恐ろしいほどにクリアだ。

 

「…………」

 

 俺は、掛け布団を強く握りしめた。

 この身体の軽さは、つまりそういうことだ。

 俺の命を削っていたあの甘い猛毒が、今は完全に断たれているという残酷な証明。

 俺が倒れたあの瞬間、彼女はすべてを理解してしまったのだろう。自分が、相手の命をすり減らしていたのだという、逃れようのない真実を。

 最後に聞いた、エマのあの震える声が脳裏に蘇る。

 隠し通せなかった自分の不甲斐なさと、今頃一人でどれほど傷つき、自分を責めているか想像もつかない彼女への罪悪感で、胸の奥がギリギリと締め付けられた。

 

 コンコン、と。

 不意に、静寂を破るように控えめなノックの音が響いた。

 

「どうぞ」

 

 短く返すと、静かにドアが開く。姿を現したのは、二階堂ヒロだった。

 しかし、そこにいつもの隙のない、冷徹な生徒会長としての威厳に満ちた佇まいはなかった。その端正な顔立ちには、どう取り繕っても隠しきれないほどの暗く沈んだ疲労と、痛切な後悔の色が色濃く影を落としている。

 

「……今は、大丈夫か」

 

 かすれた、絞り出すような声だった。

 

「ああ。医者も言っていた通り、嘘みたいに何ともない。すっかり元通りだ」

 

 俺は努めて普段通りの声で答え、ベッドの脇に置かれた丸椅子に視線を向けた。二階堂は無言のままゆっくりと歩み寄り、腰を下ろす。彼女は膝の上で両手を強く組み、何かをひどく躊躇うようにしばらく視線を落としていた。

 

「……悪い、二階堂。お前の言いつけを破った」

 

 その沈黙に、俺は頭を下げた。

 彼女は何度も俺に「エマと深く関わるな」と警告していたのに、それを無視してデートに向かい、結果としてこんな形で倒れてしまった。この結果に後悔は無いが、彼女の忠告を無下にしたことへの、純粋な謝罪だった。

 しかし、二階堂は俺を責めるでもなく、ただ静かに、懺悔を聞く修道女のようにゆっくりと顔を上げた。

 

「……いつから、自覚があったんだ?」

 

 主語はなかったが、それが何を指しているのかは明確だった。俺の身体を限界まで削り取っていた原因──エマの魔法についてだ。

 

「……文化祭の時だ。あいつが熱を出して、部屋に見舞いに行った時」

 

 俺の答えを聞いた二階堂は、ハッとしたように紅玉の瞳を大きく見開き、それからギリッと悔しげに唇を噛み締めて深く俯いた。組まれた指先が、血の気が失せるほど白く力んでいる。

 

「そんな前からだったのか……。君という男は、本当に自分というものを見せないやつだな。……限界を迎えるまで平然と隠し通すなんて」

 

 非難というよりは、あまりに無謀な俺の我慢強さに呆れ、そしてそんな状態の俺に気づけなかった自分自身を責めるような響きだった。

 どんな状態でも余裕を見せようとするのは染み付いた職業病のようなものだった。

 二階堂は、膝の上で組んだ手をさらにきつく握りしめ、懺悔するようにゆっくりと口を開いた。

 

「君も、もう分かっているとは思うが……」

 

 苦しげな前置きをしてから、彼女はエマの抱える残酷な真実を語り始めた。

 

「エマの魔法は、特定の個人に対する強烈な執着や、深い愛情をトリガーにして発動する。対象となった人間の生命力や気力を、本人の意思とは無関係に……無自覚のまま吸い取ってしまうんだ。相手を想えば想うほど、その身を削り、壊してしまう。そういう、呪いのような力だ」

 

 静かな病室に、二階堂の震える声が響く。俺は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。

 

「私が、エマを避けていた理由も……そこにある」

 

 二階堂の紅玉の瞳が、過去の痛みを思い出すように歪んだ。

 

「前の学校で、私たちはよく一緒にいた。誰よりも仲が良かったと自負している。だが、エマと一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、私自身も原因不明の激しい苦痛に襲われるようになった。……最初は、それがエマの魔法のせいだとは確信できなかった。何しろ、彼女自身に全く自覚がなかったからな。ただの自分の過労だと思い込もうとした」

 

 そこで一度言葉を切り、二階堂は自らの無力さを嘲るように、力なく口角を上げた。

 

「だが、いよいよごまかしがきかなくなり、真実に気づいてしまった時……私は、どうしても彼女にそれを伝えることができなかった」

 

 二階堂が、ふらりと顔を伏せる。鉄壁の生徒会長としての顔が崩れ、等身大の、友人を傷つけまいと苦悩する一人の少女の素顔がそこにあった。

 

「あんなにも優しくて、純粋で、誰よりも寂しがり屋な彼女に……『君は、人を吸い尽くす魔女だ』と、誰が言える? 自分の存在が大切な人間を傷つけていると知ったら、あの子がどれほど絶望するか……。だから私は、理由も告げずに、ただ物理的な距離を置くという卑怯な逃げ方しかできなかった。エマから、目を背け続けたんだ」

 

 二階堂は自嘲するようにそう吐き捨てた。

 

「……自分がしたことが、全くの逆効果で正しくないことなど、わかっていたさ」

 

 だが、すぐにその紅玉の瞳に強い光を宿し、真っ直ぐに俺を射抜いてきた。まるで、自分と同じ過ちを繰り返させまいと、必死に手を伸ばすように。

 

「大鐘、もう身をもって思い知っただろう。彼女の魔法は、君の強靭な精神力や肉体でどうにかなる代物ではない。これ以上、エマと深く関わってはいけない」

 

 彼女は身を乗り出し、切羽詰まったように言葉を重ねる。

 

「今からでも遅くない。君も、私のように仕事でも何でも理由をつけて距離を置けばいい。一時的に彼女を傷つけることになっても、それが君とエマの命を守るための……唯一の方法なんだ」

 

 二階堂は身を乗り出し、切羽詰まったように言葉を重ねる。

 

「君がいなくなることが、この学園にとって、そして私にとってもどれほどの損失か……。君にはまだ、なすべきことが……」

 

 理路整然と損失や道理を並べ立てようとして、けれど二階堂は途中で言葉を詰まらせた。膝の上で組んだ指先が、白くなるほど強く震えている。

 やがて彼女は、これまでの鉄壁の仮面を剥がし落とすように、力なく視線を伏せた。

 

「……いや。今の言い方は、正しくないな」

 

 静かな病室に、震える吐息が漏れる。

 

「私は……ただ、君にいなくなってほしくないんだ」

 

 それは、生徒会長としての警告ではなく、一人の少女としての悲痛な叫びだった。

 初めて見る、二階堂ヒロの脆く、悲しげな表情。

 その真摯な想いは痛いほど伝わってきた。

 だが。

 

「……ごめんな、二階堂」

 

 俺は、彼女の必死の言葉を遮り、ひどく静かな声で答えた。

 その響きに、二階堂は信じられないものを見るように大きく目を見開き、息を呑んだ。

 

「な、なぜだ……? 君は自分が死にかけていたのが分かっていないのか? このままエマのそばに居続ければ、今度こそ本当に」

「俺はもう、自分の心に嘘をつきたくないんだ」

 

 驚愕と動揺で言葉を続ける二階堂に、俺は確かな重みを持って告げた。

 死にかけるほどのを味わった。俺の身体を削り取る猛毒の強烈さは、誰よりもよく理解している。

 それでも、俺の心のど真ん中は、はっきりとこう叫んでいた。

 あの無邪気で、寂しがり屋で、俺を必要としてくれる少女の隣に、ずっと居たいと。彼女の笑顔を、誰よりも近くで見守っていたいと。

 

「確かに、お前の言う通りに離れれば、エマは誰かを傷つける罪悪感から解放されるし、俺もこれ以上危険な目に遭わずに済む。安心で、安全な最適解なのかもしれない」

 

 俺は掛け布団をギュッと握りしめ、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

「でも、それは俺の最善じゃないんだ」

 

 逃げ出し、自分自身の本音から目を背けて生きてきた日々。すべてを投げ出し、空っぽになった俺が、この学園でようやく見つけた大切なもの。

 

「それが結果的にどんな結末を迎えようと……たとえ間違っていたとしても、どんなに身勝手だとしても、今度こそ俺は、自分の心に間違っていたくない。すべてを投げ出したあの日から、そう決めたんだ」

 

 俺は、ただ真っ直ぐに、揺るぎない意志を持って二階堂の瞳を見つめ返した。

 その視線を受け止めた二階堂は、何かを言いかけようとして口を半開きにしたまま固まっていた。彼女の瞳の奥で、驚き、戸惑い、そして微かな諦めのような感情が複雑に交錯しているのが見て取れた。

 

 しばらくの沈黙の後、二階堂は張り詰めていた肩の力をふっと抜き、深く、長く息を吐き出した。彼女の瞳から先ほどの切羽詰まった色は消え、代わりにどこか安堵したような、諦めが混じった柔らかな光が灯る。

 

「……君は、ひどい男だ」

 

 ぽつりとこぼれたその声は、いつもの凛とした生徒会長のそれではなく、ただの一人の少女としての響きだった。

 

「せっかく私が何度も忠告をしているというのに……私の言う事を、何一つ聞いてやくれない」

 

 二階堂の顔には、今にも泣き出しそうな、それでいて心底救われたような、不器用な笑みが浮かんでいた。鉄壁の理性が、俺の身勝手な決意の前に完全に白旗を上げた瞬間だった。俺はそんな彼女の顔を見て、安心させるように笑いかける。

 

「大丈夫だ。お前の不安は、何一つだって的中させてやらない」

 

 俺は力強く断言した。

 

「だから、お前はエマと仲直りする準備でもしておけばいい」

「エマ、と……」

「それに、知ってるか? 俺って結構すごいやつなんだぜ」

 

 俺のあけすけな自惚れを聞いて、二階堂は小さく肩を震わせた。

 

「……知っているさ、そんなことくらい」

 

 涙を堪えるように震えた声で、彼女はふわりと優しく微笑んだ。その表情は、俺がこの学園に来てから見た中で、一番綺麗で、等身大の人間らしい顔だった。

 

「それで、肝心のエマは今どこにいる?」

 

 俺が尋ねると、二階堂は目元を軽く指先で拭いながら答えた。

 

「女子寮の自室だ。君が倒れたことでひどく取り乱していて……今は部屋にこもって泣いているはずだ」

「そうか。……なら、急がないとな」

 

 俺はベッドからバサリと布団を退けた。「おい、まだ安静に……」と止めようとする二階堂を制し、床に足を下ろして立ち上がる。身体は羽が生えたように軽く、全く問題なく動く。

 

「なぁ、二階堂。今回は女子寮に入る許可、貰っていいか?」

 

 俺が冗談めかして尋ねると、彼女はあっけにとられたように目を瞬かせ、やがて可笑しくてたまらないといった様子で笑い声をこぼした。

 

「ふふっ……まったく……」

 

 ひとしきり笑った後、二階堂は呆れ果てたように首を振り、真っ直ぐに俺を見た。

 

「君はノアやアンアンより、よっぽど手のかかる問題児だな」

「生徒会長の公認ってことでいいな。じゃあ、行ってくる」

「ああ。……行ってこい、大鐘」

 

 二階堂の温かい見送りを受けながら、俺は病室のドアを開け放ち、迷いのない足取りで病院の廊下へと駆け出した。目的地はただ一つ、冬空の下で俺を待つ、あの少女の元だ。

 

 

 

 肺に流れ込む冬の冷気は刃のように鋭かったが、病院から女子寮へと向かって全速力で駆け抜ける俺の身体は、驚くほどに軽かった。

 アスファルトを蹴るたびに生まれる推進力。息を切らしてもすぐに回復していく心肺機能。かつての、万全だった肉体の感覚がそこにあった。

 だが、その健康的な軽さこそが、今の俺にとっては最も残酷な焦燥の種だった。俺がこうして息を吹き返しているという事実は、俺の身体を削り取っていたあの甘い猛毒が完全に断ち切られたことを意味している。つまり、彼女が自ら、俺とのつながりを恐れてその想いを封じ込めてしまったということだ。

 どれほど自分を責め、あの小さな身体を震わせているのか。それを想像するだけで、心臓がギリギリと締め付けられ、足の回転は自然と速くなった。

 見慣れた女子寮の壮麗なエントランスが見えてくる。

 本来ならば男子禁制の聖域だが、今の俺に躊躇いはない。生徒会長の公認という免罪符もある。エントランスの重厚なガラス扉へと続くアプローチに足を踏み入れた瞬間、そこに立ち尽くす二つの見慣れたシルエットが目に入った。

 

「大鐘さん……!」

「大鐘さん! もう、抜け出してきたんですか!?」

 

 身を寄せ合うようにして待っていたのは、遠野ハンナと橘シェリーだった。

 俺の姿を認めるなり、二人は弾かれたように駆け寄ってくる。遠野の翠色の瞳には強い安堵の光が浮かび、橘は信じられないものを見るように目を丸くしていた。

 

「遠野、橘。……お前ら、こんな寒いところで何やってるんだ」

「何をやっているも何もありませんわ! あなたが倒れたと聞いて、いてもたってもいられずに……それにしても、本当にもうお身体は大丈夫なんですの? 病院のベッドで絶対安静にしていなければならない状態だとばかり……」

 

 遠野は俺の顔色を伺うように、心配げに眉をひそめた。その声には、いつもの高飛車な響きは鳴りを潜め、純粋な友人を案じる震えが混じっている。

 橘もまた、虫眼鏡を取り出す余裕もなく、ただただ俺の無事を確かめるように頷いている。

 

「ああ、ピンピンしてる。医者も首を傾げるくらい、完全回復だ」

 

 俺が胸を叩いてみせると、二人はホッと胸を撫で下ろした。しかし、すぐにその表情には複雑な陰りが落ちた。

 

「……ヒロさんから、聞きましたわ」

 

 遠野が、扇子を両手で握りしめながら、ぽつりとこぼした。

 

「エマさんの、魔法のこと。……あなたが今日まで、たった一人で耐え続けて、倒れてしまったことも」

「名探偵としたことが、一生の不覚です……。一番近くにいて、大鐘さんの体調の変化にも、エマさんの魔法にも気づけなかったなんて……」

 

 橘が悔しげに俯く。二階堂は、俺が目を覚ますまでの間に、この二人にも事の顛末をすべて話していたらしい。

 自分たちがデートの背中を押した結果、俺が命の危機に瀕したのだと、少なからず責任を感じているのだろう。だが、それは違う。俺が自分で選び、受け止めた結果だ。

 

「お前たちが責任を感じる必要は全くない。俺が自分で選んで、限界まで隠し通しただけだ。だから……」

 

 俺は姿勢を正し、二人の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「これからも、仲良くしよう」

 

 深く、頭を下げる。

 自分の魔法の正体を知ったエマは、間違いなく自分自身を『人を傷つける存在』だと定義し、他者との関わりを絶とうとするはずだ。俺だけじゃない。この学園でようやく見つけた、遠野や橘といった大切な友人たちからも、自ら距離を置こうとするだろう。

 それだけは、絶対に防がなければならない。

 俺の懇願に、短い沈黙が降りた。

 俺の不器用な言葉を受け取った遠野と橘は、一瞬だけ顔を見合わせ、それから弾けるような笑顔を咲かせた。

 

「……当たり前ですわ。わたくしたちを、誰だと思っていますの?」

 

 凛とした、誇り高い声だった。

 

「わたくしたちは、 仲間ではありませんか。無意識に人の精気を吸い取るくらい、よくある些事ですわ」

「その通りです、大鐘さん!」

 

 遠野の言葉を引き継ぐように、橘が胸を張って一歩前に出た。

 

「エマさんの魔法くらい、かわいいものです。今更気にするようなことじゃありません!」

 

 全く気にしていない。いや、気にしないと強烈な意志を持って宣言してくれている。

 彼女たちの言葉の端々に滲む、特異な環境で結ばれた固い絆。互いのいびつさを受け入れ、それでも隣にいることを選んだ彼女たちの芯の強さに、俺は胸が熱くなるのを感じた。

 

「……お前達は最高の友人だな」

「当然ですわ。……さあ、こんなところでわたくしたちに油を売っている暇はありませんわよ」

 

 遠野が扇子で、女子寮の奥へと続く廊下を指し示した。

 

「早く行ってあげなさい。エマさん……自室に戻ってから、ずっと泣いていますわよ」

「扉の向こうから、謝る声がずっと聞こえていました。……名探偵の出番はここまでです。大鐘さん、見事な解決編を期待していますよ」

 

 橘が、ウィンクと共に背中を力強く押し出してくれる。

 俺は二人に力強く頷き返した。

 

「ああ。任せておけ」

 

 短い言葉にすべての感謝を込め、俺は再び駆け出した。

 目指すは、この寮の奥深く。

 膝を抱えて泣いているであろう、あの少女の元へ。

 

 

 

 重い鉄扉のような女子寮の自室のドアは、鍵もかけられずに少しだけ隙間を開けていた。

 迷わずノブを握り、勢いよく部屋の中へと踏み込む。

 真っ昼間だというのに、部屋の分厚いカーテンは固く閉ざされ、冷え切った暗闇が広がっていた。

 視界が暗さに慣れると、部屋の真ん中に乱雑に荷物が詰め込まれたトランクケースが転がっているのが見えた。そして、ベッドの脇の暗がりで、自らの身体を抱きしめるようにしてうずくまる、小さな白い影。

 

「エマ」

 

 俺が名前を呼ぶと、ビクッとその肩が大きく跳ねた。

 ゆっくりと顔を上げた彼女の桜色の瞳は、ひどく赤く腫れ上がり、とめどない涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。俺の姿を視界に捉えた瞬間、彼女の顔に浮かんだのは喜びではなく、明確な恐怖だった。

 

「お、大鐘くん……? なんで、病院にいるはずじゃ……」

「すっかり治ったから抜け出してきた。お前がこんなところで一人で泣いてるって聞いたからな」

 

 俺が一歩、ベッドの方へ足を踏み出した瞬間。

 エマは弾かれたように後ずさり、壁に背中を打ち付けた。

 

「こないでッ!!」

 

 空気を切り裂くような、悲痛な叫びだった。

 

「こないで、大鐘くん……お願いだから、ボクに近づかないで。ボクは、ボクの魔法は……大鐘くんの命を削ってた。ボクが、大鐘くんを殺しかけたんだ……!」

 

 震える両手で自らの顔を覆い、エマは嗚咽を漏らした。

 俺が倒れたあの瞬間、彼女は自らの抱える呪いの正体に気づいてしまったのだ。自分がヒロを遠ざけ、そして今度は、最も愛したはずの少年の命を無自覚に奪おうとしていたという残酷な真実に。

 

「一緒にいたら、大鐘くんのことまで壊しちゃう。だから、もうボクなんかに関わらないで……ッ!こんなの、魔女だ……!」

 

 自らをひどく呪い、全てを拒絶するその言葉。

 だが、俺の足は止まらなかった。トランクケースを跨ぎ、彼女が縮こまる壁際まで一直線に歩み寄る。

 

「大鐘くん、だめっ……!」

 

 逃げ場を失い、懇願するように首を振るエマ。俺はその小さな身体を、力強く、腕の中に掻き抱いた。

 瞬間、ゾクリと背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走る。

 彼女の身体に触れた部分から、再び俺の生命力が急激に吸い出されていく感覚。恐怖と拒絶でパニックに陥った彼女の感情が、暴走した魔法となって俺の身体に牙を剥いているのだ。

 

「離して、お願いだから離して! また大鐘くんが倒れちゃう!」

「暴れるな。……俺は絶対に離さない」

 

 泣き叫びながら俺の胸を叩くエマの腕をホールドし、俺はさらに強く彼女を抱きしめ込んだ。

 強烈な目眩が視界を揺らす。だが、不思議と恐怖はなかった。俺の頭の中は、かつてないほどに冴え渡っていた。

 

 期末テスト前の、あの騒がしかった勉強会の光景が脳裏に蘇る。

 真っ白な髪の幼い少女が、無邪気にインクを操り、空中に絵を描き出そうとしたあの瞬間。あの時、彼女が俺に見せてくれた魔法の論理。

 魔法の形を決めるのは、ルールや法則じゃない。術者自身の認識だ。

 エマの魔法が俺を削る毒になっている理由。それは、彼女の俺に対する愛情が、『今この瞬間の俺』というたった一つの点にだけ固執し、閉じ込めようとするものだったからだ。

 

 明日俺がいなくなってしまうかもしれないという恐怖。孤独への恐れ。それらが彼女の執着を重く、粘着質なものに変え、俺という存在そのものを自分の中に飲み込んで同化しようとする『吸精』の魔法にすり替わってしまっていた。

 

 なら、話は単純だ。彼女のその歪んだ認識を、俺が力ずくで書き換えてやればいい。

 

「エマ、俺の目を見ろ」

 

 俺は、俺の胸に押し付けられていた彼女の顔を両手で包み込み、無理やり上を向かせた。

 涙で滲んだ桜色の瞳と、至近距離で視線を交ませる。

 

「お前は、自分が俺を壊す魔女だと思い込んでる。だから、お前のその恐れが、お前自身の魔法を呪いにしてるんだ」

「ちがう、ボクは……!」

「違わない。いいか、エマ。昨日自分の魔法の正体に気づいたばっかりのくせに、勝手に全部を決めつけて諦めるな。お前の魔法は、人を殺すためのものなんかじゃない」

 

 俺は薄れゆく意識を気力で繋ぎ止めながら、言葉に熱を込めた。

 彼女の怯えきった心の一番深いところへ届くように、真っ直ぐに、はっきりと。

 

「お前は、一人ぼっちになるのが怖くて、俺という『今』にしがみつこうとした。俺の全部を自分の手の届くところに閉じ込めておきたくて、無意識に俺を飲み込もうとしてたんだ」

 

 図星を突かれたのか、エマの瞳が大きく見開かれた。

 

「俺を見るな。……いや、俺という点だけを見るのをやめろ」

 

 俺は彼女の冷たい頬を親指でそっと撫でた。

 

「お前が執着するべきなのは、俺だけじゃない。俺とお前がこれから一緒に歩いていく未来だ」

「み、らい……?」

「そうだ。明日の放課後、どこへ行くか。来週のクリスマス、ケーキは何を食べるか。来年の春、どの桜を見に行くか……俺たちには、これからいくらでも一緒に過ごす時間があるんだ。お前は何も焦る必要はないし、俺を閉じ込める必要もない。俺はどこにも行かない。ずっと、お前と一緒に未来を歩くんだからな」

 

 閉じた執着を、外に向かって開かれた希望へと変える。

 今この瞬間を繋ぎ止めるための鎖ではなく、明日へ続く道を一緒に描くためのキャンバスへ。

 

「……大鐘、くん」

「ほら、想像してみろ。明日は何がしたい? 来年はどこに行きたい?」

 

 俺の問いかけに、エマの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 彼女はしゃくりあげながら、俺のコートの胸元を小さな両手でギュッと掴んだ。

 

「……あしたは、また、あのカフェのパンケーキが食べたい。……クリスマスは、大鐘くんと、イルミネーションが見たい……来年の春は……」

 

 彼女の言葉が紡がれるたび。未来を思い描くたび。

 俺の身体を侵食していたあの耐え難い悪寒が、嘘のように薄れていく。

 

「もっと先も……再来年も……ずっと、大鐘くんと一緒にいたい……っ!」

「ああ。ずっと一緒だ」

 

 彼女がそう泣き叫んだ瞬間だった。

 俺の身体から抜け落ちていた力が、ピタリと止まった。

 いや、止まっただけではない。俺の身体から奪うばかりだった彼女の魔力が、今度はじんわりと温かい熱を伴って、俺の身体の中へと流れ込んできたのだ。

 それは春の陽だまりのような、ひどく優しくて、絶対的な安心感に満ちた温度。俺と彼女の間で、生命力と魔法が循環し、一つに溶け合っていくような奇跡的な感覚。

 

「……え、これ……大鐘くん、ボク……」

 

 自分自身の魔法の変化に気づいたのだろう。エマが信じられないといった様子で、俺の胸元を見上げた。

 

「ほらな、言っただろ。お前は魔女なんかじゃない」

 

 俺は大きく息を吐き出し、安心させるように笑いかけた。

 冷たく重かった呪いは、今、完全な愛へと昇華されたのだ。彼女の純粋な想いが、ただの温もりとして俺を包み込んでいる。

 

「これなら、いくらくっついてても平気だ。むしろ、寿命が延びそうなくらい心地いい」

「……ばか。大鐘くんの、ばかっ……!」

 

 エマは、堰を切ったように声を上げて泣き出した。

 だが、その涙にもう悲壮感は微塵もなかった。彼女は俺の胸に顔を埋め、まるでこれまでの不安や恐怖をすべて洗い流すように、子供のように泣きじゃくった。

 俺は彼女の髪を優しく撫でながら、窓から差し込み始めた冬の柔らかな日差しに目を細めた。

 もう、何も隠す必要はない。何も耐える必要はない。

 俺たちがこれから描いていく未来のキャンバスは、きっと、驚くほど色鮮やかで、どこまでも広く続いているはずだから。

 

 

 

 

 

 

 あれから数日が過ぎた、穏やかな冬の日の午後。

 俺は校舎の二階、誰もいない渡り廊下の窓から、眼下に広がる中庭の景色をぼんやりと見下ろしていた。

 視線の先。枯れ木が並ぶ中庭のベンチには、二人の少女が並んで座っている。

 白銀の髪を揺らすエマと、二階堂ヒロだ。

 二人は時折、楽しげに肩を揺らして笑い合っていた。二階堂の顔には、この学園を統べる冷徹な生徒会長としての仮面は欠片もない。ただの等身大の少女として、かつて最も親しかった友人にだけ向けていたであろう、ひどく穏やかで優しい表情が浮かんでいた。エマもまた、これまでの空白の時間を埋めるように、堰を切ったようにたくさんの言葉を紡ぎ、ころころと表情を変えている。

 すれ違っていた二人の時間が、再び重なり、動き出している。

 その光景を特等席から眺めながら、俺は自然と口元を緩ませていた。

 

「ん……」

 

 ふいに、エマが何かの気配を感じたのか、ぱちりと顔を上げてこちらを見た。

 二階の窓枠に肘をついている俺の姿を認めた瞬間、彼女の顔にパッと満開の花が咲いたように明るい喜びが弾ける。

 

「ヒカリくーんっ!」

 

 窓ガラス越しにも聞こえてきそうなほど元気な口の動きで俺の名前を呼ぶと、彼女は立ち上がり、ちぎれんばかりに大きく両手を振ってきた。

 そのあまりに真っ直ぐで無防備な反応に、隣に座っていた二階堂も気づいてこちらを見上げる。

 二階堂は、俺の姿と、尻尾を振る子犬のようになっているエマを交互に見比べると、やれやれと呆れたように小さく肩をすくめた。だが、その唇には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいる。

 二階堂は「ほら、行ってこい」とでも言うように、穏やかに微笑みながらエマの小さな背中をポンと軽く叩いた。

 エマは嬉しそうに何度も頷き、二階堂にぺこりと手を振ってから、弾むような足取りでこちらに向かって走り出した。

 真っ白な冬服が、一直線に俺のいる校舎の入り口へと吸い込まれていく。

 

 俺はそれを見届けてから、ゆっくりと窓際から離れ、彼女を迎え入れるために廊下を歩き出した。

 もう、迫り来る足音に構える必要はない。

 俺の胸にあるのは、命を削られるような感覚でも、息が詰まるような悪寒でもない。あの吸精の呪いは、互いの未来を信じることで、温かく穏やかな愛の魔法へと書き換えられたのだから。

 

 今度こそ、真っ向から受け止めてみせる。

 足早に階段を駆け上がってくる愛おしい足音を聞きながら、俺はこれから彼女と共に描いていく、果てしなく広がる未来に思いを馳せていた。

 

 

 

 

 






クセになってんだ、結局純愛着地にするの

エマルート完結です。ありがとうございました。色々と難儀なルートでした。エマ編余談が活動報告にあります。興味がある方は是非。

次回はナノカルートです。よろしくお願いします
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