いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシ送ってくれると嬉しいです。
ナノカルートです。お察しの方も多いでしょうが、ナノカルートは過去編をやります。しかしそんなに長くも暗くもならない予定です。むしろラブコメの自由度が少し高くなります。
今回もよろしくお願いします
1話『嘘つきミットと解けない魔法』
息が詰まるような、ひどく蒸し暑い夏の匂いがした。
視界は狭く、金網越しのようなくぐもった世界。
左手には、ずっしりとした革の重みがある。本来なら、それは俺と誰かを繋ぐための、信頼の重さだったはずだ。
だが、マウンドに立つ影は、俺に向かって白球を投げ込んではこなかった。
代わりに突きつけられたのは、無数の指先だった。
『こいつだ』
ノイズのように歪んだ声が、四方八方から俺を囲むように響く。
信じていた者たちの顔が、泥に塗れたように黒く潰れている。彼らが突きつける震える指先は、俺の胸を、顔を、そして構えたはずの左手のミットを真っ直ぐに指差していた。
違う。俺はただ、勝利のための最善を選んだだけだ。
沈黙という嘘を飲み込んで、すべてを腹の底に隠そうとした。俺たちはチームだったじゃないか。
声を出そうとしても、喉には泥が詰まったように音にならない。
やがて、その無数の指先が、鋭い切っ先となって俺の全身を突き刺しにくる───
「……っ!」
弾かれたように上体を起こす。
口から微かな喘鳴が漏れ、肺が急激に酸素を求めて大きく膨らんだ。
視界に飛び込んできたのは、ひび割れた青空でも、俺を断罪する先端でもなく、見慣れた寮の自室の白い天井だった。
「……はぁ、はぁ……夢か……」
乱れた呼吸を整えようとするが、心臓は狂ったような早鐘を打ち続けている。全身にべっとりとまとわりつく嫌な汗の冷たさが、ここがもうグラウンドではないことを、残酷なほど明確に教えてくれていた。
左手に視線を落とす。
無意識のうちにシーツを強く握りしめすぎて、指の関節が痛んでいた。あの使い込まれたミットの重みはもうない。だが、掌の奥底には、泥の感触と鈍い痺れがこびりついて離れなかった。
「……最悪な目覚めだ」
掠れた声が、静まり返った部屋に虚しく落ちる。
サイドテーブルに置かれたスマホの画面に触れると、まぶしい光と共に『午前4時15分』という無機質な数字が浮かび上がった。
外はまだ、白み始めてすらいない。深い秋の夜の底だ。
顔を覆い、大きく息を吐き出す。
どうして今になって、あんな生々しい夢を見たのか。
今日から始まる、学園の文化祭。
ここ数日、学園全体が浮き足立ち、どこに行っても祭りに向けた熱気と喧騒が渦巻いていた。あの熱狂、集団がひとつの目的に向かって一つになる空気。
誰かと何かを成し遂げるための、熱。
かつての俺が何よりも愛し、そして最後に俺を焼き尽くしたあの熱気が、学園中に充満している。それが、心の奥底に封じ込めていた泥をかき混ぜ、トラウマという形をとって浮上してきたのだ。
もう一度ベッドに横になろうとしたが、背中に張り付いた冷たい汗の不快感と、目を閉じれば再びあの無数の指先が現れそうな恐怖に阻まれた。
俺は重い体をベッドから引き剥がし、洗面所へと向かった。
蛇口をひねり、凍りつくように冷たい水を両手ですくって顔に叩きつける。一度、二度、三度。
水滴が滴る顔を鏡で見つめる。そこには、ひどく疲労の色を濃くした、見知らぬ男のような自分の顔があった。
いつまでも過去に縛られた惨めな男の顔だ。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟いた。
この学園へ逃げてきてから、橘の事件探しに付き合ったり、桜羽たちの買い出しを手伝ったりと、それなりに俺も「この学園の日常」に馴染んできたつもりだった。
だが、いざ本番という非日常の熱気の中に身を投じるには、今の俺はあまりにも過去の冷たさに引きずられすぎている。
今日一日、あのお祭り騒ぎの中で笑みを浮かべて過ごせる自信は、到底なかった。
窓の外、薄暗い空が少しずつ紫に染まり始めている。
俺はどこか誰もいない、静かで、人熱の届かない場所に行きたかった。
文化祭の開幕を告げる放送が鳴り響いたのを合図に、校内は一気に非日常の色に染まりきった。色とりどりの装飾が施された廊下、模擬店から漂ってくる甘い匂いと油の跳ねる音、そして行き交う生徒たちの浮き足立った声。
学園全体がひとつの生き物になったかのように、とてつもない熱気を放っている。誰もがこのお祭り騒ぎの中心にいて、自分たちの作り上げた時間を楽しもうと全力を注いでいた。
『大鐘くんは転校してきたばっかりだし、演劇の準備もあんまり参加できなかったでしょ? だから今日は、お客さんとしてしっかり楽しんできなよ!』
朝のホームルームが終わるなり、クラスメイトの一人にポンと肩を叩かれ、俺はあっさりと教室から放り出されてしまった。
彼らに悪気がないのは百も承知だ。転校してきて日が浅い俺への、純粋な配慮だったのだろう。だが、今の俺にとってはその気遣いがひどくもどかしかった。
「……あいつら、いい奴らだよな」
一人歩く廊下で、小さく毒づくように、しかし感謝を込めて呟いた。
最悪の悪夢で目覚め、泥のような疲労感とトラウマを引きずったまま迎えた今日。正直なところ、こういう時こそ適当な裏方仕事でも押し付けられて、息をつく暇もないほど動き回っている方がずっと気分が紛れたはずだった。忙殺されていれば、余計な過去を思い出す隙間も生まれない。
だが、真っ直ぐに向けられた善意を突っぱねて「仕事をくれ」と言うほど、俺は無粋な人間にはなれなかった。「ああ、楽しませてもらうよ」と、ひどくぎこちない作り笑いを返して受け取るしかなかったのだ。
行く当てもなく校舎を歩き回るが、どこへ行っても人、人、人だ。
楽しげな笑い声、客引きの呼び込み、遠くで響く軽音楽部のベースの重低音。
だが、その喧騒は今の俺にはまったく心地良くなかった。
集団がひとつの目的に向かって熱を帯びるこの空気。それがどうしても、かつてのグラウンドの熱気がフラッシュバックしてしまう。歓声が上がるたびに、グラウンドの砂埃や泥の匂いが鼻先を掠めるような錯覚に陥り、呼吸が浅くなるのを感じた。
(……ダメだな、今日は)
このまま人の波に呑まれていれば、本当にあの悪夢の続きを見てしまいそうだった。
どこか、少しでも静かな場所へ。人熱の届かない場所へ。
そう思って足を向けたのは、校舎の階段だった。昇る生徒は誰一人としていない。上へ、上へと向かうにつれて、祭りの喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに自分の足音だけがはっきりと聞こえるようになってきた。
辿り着いたのは、最上階のさらに奥。
立ち入りが禁止されているわけではないようだが、こんな日にわざわざ足を運ぶ物好きなどいないだろう。
俺は冷たい金属の感触を確かめながら、屋上へと続く重い鉄扉をゆっくりと押し開けた。
「……」
ギィ、という鈍い音と共に視界が開け、俺は思わず目を細めた。
学園に来てから、屋上へ足を踏み入れたのはこれが初めてだった。
吹き抜ける風の冷たさを覚悟していたが、予想に反して、肌を撫でる空気は驚くほど優しかった。十一月だというのに、今日の空は高く澄み渡り、雲ひとつない青空から降り注ぐ日差しは柔らかくて暖かい。いわゆる小春日和というやつだ。
フェンス越しに見下ろす中庭では、米粒のような人間たちがひしめき合っているのが見える。しかし、ここまで来るとあの喧騒も、まるで遠い異国の出来事のような、フィルターのかかった微かな環境音でしかなかった。
「……静かだ」
コンクリートの床に反射する陽光が、悪夢で芯から冷え切っていた俺の体を、少しだけ溶かしてくれるような気がした。
俺はフェンスから少し離れた、給水塔の陰になっている日だまりを見つけ、そこに背中を預けるようにして腰を下ろした。
給水塔の冷たい金属と、コンクリートが吸い込んだ太陽の熱。その二つが混ざり合った独特の温度が、背中からじんわりと全身へ伝わってくる。
目を閉じると、微風が髪を優しく揺らしていった。下から微かに聞こえてくる吹奏楽部の演奏や、マイク越しのくぐもった歓声が、まるで遠い波の音のように心地よいBGMへと変わっていた。
「……」
重力に逆らえなくなった瞼が、ゆっくりと落ちてくる。
思考が徐々に輪郭を失い、ウトウトとまどろみの淵へと引きずり込まれそうになる。
無理もない。俺は今日、午前四時過ぎという最悪な時間にあの悪夢で叩き起こされてから、一睡もしていなかったのだ。精神的な疲労に加えて、この絶対的な睡眠不足。今日が始まってからずっと無意識のうちに張り詰めていた警戒の糸が、人熱から切り離されたこの静寂と、十一月とは思えない小春日和の暖かさによって、ぷつりと切れてしまったらしい。
(少しだけ……休むか……)
誰に言い訳をするわけでもなく、心の内でそう呟いた。
ここは誰も来ない。あの泥にまみれたグラウンドでもないし、俺を断罪するやつらもない。ただ、穏やかで、少しだけ暖かすぎる屋上だ。
抗いようのない睡魔が、体を心地よく重くしていく。
泥のように濁っていた意識が、陽だまりの温もりに溶けていくのを感じながら、俺は深い、本当に深い眠りの底へと沈んでいった。
「……ん、あ……」
どれくらい眠っていたのだろうか。
首筋を撫でる風が少しだけ冷たさを増したのを感じて、俺はゆっくりと重い瞼を開けた。
太陽の位置がわずかに傾き、給水塔の影が少しだけ形を変えている。遠くから響く文化祭の喧騒は相変わらずだが、眠る前よりは頭の中がずっとマシになっていた。あの泥まみれの残滓も、陽だまりの熱でいくらか薄まっている。
深く息を吐き出し、体を起こそうとした、その時だった。
視界の内、屋上のフェンス際に、見知らぬ人影がぽつりと立っていることに気がついた。
学園の生徒だろうか。フェンスに寄りかかるようにして立ち、下界のお祭り騒ぎを見下ろすでもなく、ただ遠くの空を静かに見つめて黄昏れている。
その小柄な背中からは、祭りの熱気とは完全に切り離された、ひどく静かで影のある空気が漂っていた。
「……ん、誰だ?」
寝起きの掠れた声が、無意識に口からこぼれ落ちていた。
コンクリートに響いたその微かな音に反応し、フェンス際の少女がゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
彼女を構成するすべての要素が、この明るい屋上において、あまりにも異質だったからだ。
まず目を引いたのは、顔の下半分をすっぽりと覆い隠す黒いマスク。そして、制服に合わせるようにして着込まれた、ダボついた黒いパーカー。頭まですっぽりとフードを被っており、周囲の光をすべて吸い込んでしまいそうな深い闇を纏っている。
フードの隙間からこぼれ落ちているのは、無機質な灰色の髪だった。内側から毒々しいほどの赤色が見え、前髪には無造作にクロス状のヘアピンが留められている。
首元のチョーカーと相まって、どこか退廃的で、周囲を激しく拒絶するような鋭い棘を全身から放っていた。
だが、何よりも俺の思考を停止させたのは、その瞳だった。
黒いマスクと灰色の前髪の間からこちらを射抜く、鮮烈な双眸。
それはまるで、暗闇の底で燃え盛る炎のような、恐ろしいほどに純度の高い赤い目だった。
冷ややかでありながら、奥底にはすべてを焼き尽くしそうな熱を秘めている。その強烈な視線に真っ直ぐ射すくめられる。
「…………」
彼女は何も言わない。ただ、燃え上がるような赤い瞳で、不意に目を覚ました俺という存在を、値踏みするように静かに見つめ返している。
少女との出会いは、文化祭の熱狂から遠く離れた静かな屋上で、こうして唐突に幕を開けたのだった。
「チッ……起きたのかよ」
黒いマスク越しでもはっきりと分かるほど、彼女は露骨に不機嫌な顔つきになり、鋭く舌を鳴らした。そのまま俺への興味を完全に失ったかのように、ぷいとそっぽを向いて再びフェンス越しの空へ視線を戻す。
「なら、さっさと出てけ。ウチの邪魔だ」
突き放すような、ドスの効いた冷たい声。その威圧的な響きに、まどろんでいた頭が段々とクリアになってきた。
この退廃的で攻撃的な見た目には、見覚えがある。
放課後、俺がいつものように橘たちの所へ顔を出した時、入れ違いで教室から足早に出て行く彼女の姿を何度か見かけたことがあった。集団を嫌うようにいつも一人で行動しており、すれ違いざまに俺の顔を見るなり、心底迷惑そうな、ゴミでも見るような鋭い目で睨みつけてきていたはずだ。
確か、橘か桜羽が呼んでいた彼女の名前は──
「……紫藤アリサ」
ぼそりと、記憶の底から引きずり出した名前を口にした。
「あァ?」
即座に、地を這うようなドスの効いた声が返ってきた。
再びこちらを振り返った紫藤の燃え上がるような赤い瞳が、苛立ちと明確な敵意によって細められる。ポケットに両手を突っ込んだまま、肩をいからせてこちらを睨み下ろしてくる様は、まるで縄張りを荒らされた野良猫のようだ。
だが、俺の顔を正面からじっと睨みつけたことで、彼女の瞳の奥にわずかな気付きの色が混じった。
「……あー。桜羽たちとよくつるんでる、あの目障りな転校生か」
吐き捨てるようにそう言うと、紫藤は忌々しそうに眉をひそめた。
「まぁ何でもいい。ウチの視界に入るな。とにかく出てけ」
忌々しそうに目を逸らし、ピシャリと突っぱねるように言い放つ。フードの奥から覗く鋭い視線は、これ以上の干渉を一切拒絶する明確な意思表示だった。
「そう言うなよ。何度か顔合わせたことのある仲だろ」
「その仲だから出てけっつってんだろうが」
地を這うような低い声で即答された。黒いマスクの奥で、赤い瞳が燃えるようにギラリと睨みを利かせる。
俺はゆっくりと立ち上がると、衣服についた埃を払い、フェンスの方へと歩み寄った。紫藤の警戒をこれ以上煽らないよう、数メートルほどしっかりと距離を空けた位置で立ち止まり、彼女と同じようにフェンスへと背中を預ける。
「……何で近寄ってくるんだよ」
「さぁな、なんでだろうな」
「それ以上近寄ったらマジで殴るからな」
ギリッと奥歯を噛み締めるような、本気の凄みがこもった声だった。ダボついたパーカーのポケットに突っ込まれたままの両手が、いつでも臨戦態勢に入れるように微かに動いたのが分かる。
俺はそれ以上距離を詰めることはせず、静かに下界の喧騒へと視線を落とした。
紫藤アリサ。
口を開けば棘だらけで、言動こそ激しく俺を突っぱねている。だが、実のところ力ずくで俺を追い出そうとするような強行手段には出てこない。それどころか、無視すればいいものをこうして律儀に会話にも応じてくれている。
何より、俺が邪魔だったのなら、寝ている俺を蹴り飛ばしてでもさっさと起こせばよかったはずだ。だが彼女は、俺が自分で目を覚ますまで、この屋上でそっとしておいてくれたのだ。
言葉の暴力性とは裏腹な、その妙に不器用な振る舞い。
不良のように周囲を威圧し、色々なものを嫌悪しているように見える彼女は、こうして文化祭の日に人気のない場所に一人で佇んでいる。
俺はこの不機嫌な少女のことが少しだけ気になり始めていた。
「なぁ、なんでこんな所にいるんだ?今、文化祭だろ」
ふと、思いつきのように問いかけてみた。
紫藤は俺の方を一瞥し、信じられないというように鼻で笑った。
「どの口が言ってんだ……おめえもここで寝てただろうが。んなくだらねぇ行事に興味なんてあるかよ」
吐き捨てるように言う彼女の赤い瞳は、下の階から聞こえてくる音楽や歓声に対して、軽蔑というよりは完全にシャットアウトしている冷淡さを持っていた。黒いマスクの奥で小さく息を吐き出す姿は、まるでこの世界すべてと関わりたくないと言っているようだ。
「でも、律儀に登校はしてるんだから参加すればいいだろ」
「ウチだって、こんなとこ来たくて来てるわけじゃねぇよ」
ギリッと奥歯を鳴らすような声。
彼女の肩が微かに上下し、苛立ちを抑えきれない様子だった。
「てか、じゃあなんでお前は……」
そこまで言いかけて、紫藤の言葉がピタリと止まった。
彼女の燃え上がるような視線が俺の顔をじっと見つめ、何かを探るように細められる。
「……いや、いい」
紫藤はゆっくりと視線を逸らし、再びフェンス越しの空を見上げた。
「泣きそうな顔して寝てたヤツに聞いても仕方ねえ……」
フードの奥から聞こえたその声は、先ほどまでの威圧的なトーンとは違う、ひどく小さな呟きだった。
自分がそんな顔をして寝ていたという事実に、俺は内心ひどく動揺していた。
無意識のうちとはいえ、そんな無様な姿を晒していたなんて。だがそれ以上に俺の思考を占めたのは、そんな俺の様子を見て、起こさずに放っておいてくれた紫藤の不器用な気遣いだった。
威圧的で口が悪く、周囲のすべてを嫌悪しているように振る舞いながら、泣きそうな顔で寝ている男を気遣えるそのアンバランスさ。彼女のそんな歪さに、俺は不思議と強く興味を惹かれていた。
「……なぁ、紫藤。俺と文化祭回らないか」
「はぁ?何でそうなんだよ」
唐突な俺の誘いに、紫藤は本気で意味がわからないというように眉間を寄せた。
「ほら、俺も今日の文化祭、全然乗り気じゃなかったからさ。乗り気じゃない奴同士で回れば、意外と悪くない感じで楽しめるかもしれないだろ」
「どんな理屈だよ……バカじゃねえのか」
紫藤は呆れ果てたように深く溜め息をつき、黒いマスクの上からでもわかるほど思い切り顔をしかめた。パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、面倒くさそうに肩をすくめる。
だが、俺を射抜くその赤い瞳からは、先ほどまでの剣呑な棘が抜け落ちており、ただ呆気にとられたような色が浮かんでいた。
「……その調子なら問題ねぇだろ。ほら、さっさと行け」
シッシッと犬でも追い払うような素振りをみせる。
言葉こそ相変わらず乱暴で冷たかったが、その声の響きは、最初に俺を怒鳴りつけた時よりもほんの少しだけ穏やかな温度を含んでいた。
「わかった。ありがとな、紫藤。また話そうぜ」
「……チッ」
背中に短く鋭い舌打ちを浴びながら、俺は屋上の鉄扉へと向かって歩き出した。
ドアノブに手をかけ、一度だけ振り返ると、紫藤はすでに俺への興味を完全に失ったように、再びフェンス越しの空をじっと見つめていた。
ギィ、と重い音を立てて扉を開け、階段を下りる。
不思議なものだ。屋上に逃げ込んできた時のような、息の詰まるような冷たさは、紫藤と話したことで気がつけば少しだけ薄れていた。
屋上の鉄扉を閉め、俺は再び喧騒の渦中へと戻ってきた。
階段を降りるにつれ、遠ざかっていた祭りの熱気が再び肌にまとわりついてくる。だが、先ほどまで感じていた息苦しさは不思議と和らいでいた。あの不器用な不良少女とのやり取りが、俺の強張っていた神経を少しだけ解してくれたのかもしれない。
目的もなく特別棟の廊下を歩いていると、前方からやけに目立つ二人組が歩いてくるのが見えた。
「えっ、オーガってナノカのカレシじゃなかったん?」
「ええ、付き合っていないわ」
一人は、極彩色の存在感を放つ少女、沢渡ココ。制服をラフに着崩し、トレードマークの猫耳ヘッドフォンを首にかけ、ウルフカットの髪を跳ねさせながら歩いている。
そしてその隣には、静かな影のように佇む黒髪の少女、黒部ナノカ。
台風のような沢渡の隣で、黒部はどこか困ったような、けれど少しだけ慣れた様子で静かに歩調を合わせている。正反対な二人の組み合わせは、この雑多な文化祭の中でも一際目を引いた。
俺が声をかけようか迷っていると、目ざとい沢渡が先にこちらに気づいた。琥珀色の瞳が悪戯っぽく輝く。
「あ、噂をすればオーガじゃん」
沢渡が俺を見つけた瞬間、琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせ、ビシッと指を差してきた。
オーガ。最近沢渡が勝手につけた俺のあだ名だ。大鐘を縮めただけだが、響きがいかつすぎる。
「よぉ、二人とも。奇遇だな」
「ええ」
黒部が短く答える。ふわりと安堵の色を浮かべるのがわかった。彼女の灰色の瞳が合うだけで、少しだけ肩の力が抜ける気がした。
だが、そんな穏やかな空気はすぐに猫娘によって掻き回される。ココはジロジロと俺の周囲を見回し、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「なになに〜? オーガ、もしかしてぼっちなん?」
核心を突くような一言がグサリと刺さった。
図星だ。悪夢で早朝に目覚め、クラスからも放り出され、屋上で一人黄昏れていたのだから、完璧なぼっちだ。だが、それを正直に言うのも癪だった。
俺は屋上での出来事を思い出し、少し自虐的な冗談を混ぜて返すことにした。
「……ああ。さっき女の子に声かけたら、秒でフラれてきたところだ」
「ぶっ! ギャハハハハ! マジ!?」
ココが腹を抱えて爆笑した。遠慮という概念が存在しない笑い声だ。
黒部だけが「えっ……?」と本気にして心配そうな顔をしているのが申し訳ない。
「ダッサ! オーガまじダサすぎ! 文化祭マジック期待して撃沈とか、キモオタの極みじゃん! ウケるんですけど!」
沢渡はひとしきり笑ったあと、涙を拭う仕草をしながら俺の背中をバンと叩いた。
「ま、ドンマイっしょ。誘うのもフラレるのも経験値だって。その無様な勇気に免じて、あてぃしがイイネ押しといてやんよ」
「……どうもありがとう。なら、その経験値稼ぎついでにお前らと回らせてくれよ。このままだと俺の精神が持たない」
「うわっ、早速ターゲット変更かよ。切り替え早すぎだろ。ま、いーけどさ」
彼女はスマホを取り出し、インカメラで髪型をチェックしながら軽口を叩く。その強引で奔放な明るさが、今の俺にはありがたかった。
「黒部も、いいか?」
「ええ」
黒部がはにかむように小さく頷く。
その控えめな表情と、沢渡の騒がしい笑い声。
正反対な二人の間に挟まれ、俺はいつの間にか文化祭の人の波へと連れ出されていた。
そこからの時間は、まさに怒涛だった。
沢渡ココという台風の目と、その中心で静かに佇む黒部ナノカ。この奇妙なトライアングルは、文化祭の空気をあっという間に支配していった。
まず連行されたのは、中庭の野外特設ステージだった。
マイクを持った放送部員が『我こそは学園最強! 腕相撲大会、飛び入り参加者募集中!』と声を張り上げている。
「ほら、オーガ行けし!」
「えぇ……」
止める間もなく、俺はステージの上に押し上げられていた。
そして十数分後。
『優勝は、大鐘ヒカリーーー!!!』
実況を背に俺はガッツポーズをしながら、ステージから戻ってきた。
対戦相手が誰だったかも覚えていない。ただ、朝の鬱憤を晴らすように相手をなぎ倒していったらいつの間にか優勝していた。
意気揚々と二人のもとへ戻る俺を、沢渡は半歩、いや三歩くらい引いた目で見下していた。
「……うわ、マジで引くわ。ガチゴリラかよ……ドン引きなんですけど」
「失礼だな。テクニックだ」
「いやいや、あの筋肉だるま相手に秒殺とか人間辞めてるって。……こんなのがあてぃしの熱心なリスナーとか、普通に身の危険感じるんですけど」
「さすがだわ大鐘くん」
次に連れていかれたのは、焼きそばの香ばしい匂いが漂う大食い大会のステージだった。
「ほら、オーガ」
「またかよ」
沢渡に背中を押され、俺は再びステージ上の丸椅子に座らされていた。
目の前には山積みの焼きそば。開始の合図と共に、俺は無心で箸を動かした。味わう余裕などない。ただ、目の前の障害を排除するという一点において、今の俺の集中力は研ぎ澄まされていた。
数分後。
『優勝はこの男! 大鐘ヒカリーーー!!!』
周囲のどよめきと実況を背に、俺は軽く手を上げながらステージを降りた。
戻ってきた俺を迎えたのは、さっきよりもさらに冷ややかな沢渡の視線だった。
「……カバかよ。ドン引きなんですけど」
「失礼だな、テクニックだ」
「何のテクニックだよ!ダイソンかよ!」
「さすがだわ大鐘くん」
俺はまたしても手に入れた勝利賞品の山を受け取った。
その後も、俺たちは校舎中を練り歩き、いつの間にか文化祭が終わりを告げようとしていた。
夕暮れ時、茜色に染まった校舎を背に、手には収まりきらないほどの優勝賞品や景品の入った袋を提げながら、俺はふと立ち止まった。
「……俺、めちゃくちゃ楽しんでね?」
「今更かよ」
屋上で会えそうなまのさばキャラNo.1紫藤アリサ。
気性が荒いと見るやすぐに構いにいく主人公さん……
しかし例によってアリサルートはありません。ごつ。
過去の話ばっかりやっても寂しいのでこのルートではサブヒロインがいっぱい登場します。ナノちゃん頑張って