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野球パートは完全に趣味です。本作のナノちゃんは銃を撃たないので代わりに投球をさせようという話。ココちゃんをぶん投げてるからボールくらい投げられる
文化祭という名の巨大な嵐が過ぎ去り、学園には再び凪のような静寂が戻ってきていた。
日曜日の正午。秋の陽光が穏やかに降り注ぐ裏庭には、文化祭の喧騒の名残もなく、ただ乾燥した空気と、乾いた音が断続的に響いている。
──パンッ。
使い込まれた革が白球を噛み潰す、小気味よい音。
この数週間で、俺にとってはこの音が何よりの安らぎになっていた。
「いいぞ。今度はもう少し強めに投げてみてくれ」
「……こう、かしら」
黒部が細い腕を懸命に振り抜く。
放たれたボールは、彼女の全力ゆえか少しシュート回転して俺の少し横へ逸れた。俺は最小限のステップでその軌道にミットを合わせ、吸い込まれるように音を鳴らす。
「だいぶ良くなったな。これなら、草野球の助っ人くらいなら十分務まるぞ」
「……そうかしら」
黒部の表情に大きな変化はない。だが、その声色には春の雪解けのような微かな熱が混じり、僅かに頬が上気しているのがわかった。彼女なりに、自分の上達を喜んでいるのが伝わってくる。
俺は軽く手首を返して、ボールを黒部の胸元へ放った。
黒部はそれを両手でしっかりと受け止めると、掌の中の白球をじっと、まるで未知の宝石でも眺めるような真剣な眼差しで見つめた。
「どうした?」
「大鐘くん……私も、そろそろ覚える頃じゃないかしら」
顔を上げた黒部の瞳は、これまでの練習とは一線を画す、鋭く澄んだ輝きを宿していた。そのあまりの真剣さに、俺は思わず背筋を伸ばす。
「因果を捻じ曲げ打者を討つ──
「うん……?」
一瞬、思考が停止した。
ゴーストバレットってなんだよ。
ファンタジーか、あるいは学園のどこかで秘密裏に行われている魔法の儀式か?あまりにも場にそぐわない単語の羅列に、俺は言葉を失った。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。風が落ち葉をさらっていく音だけが虚しく響いた。
黒部は、自分が口にした言葉が、俺の野球脳というフィルターを通過できずに空中で凍りついているのを察したらしい。
俺は数秒のフリーズを経て、ようやく彼女が構えた指の形と、その抽象的な言葉を結びつけた。
「……あっ、変化球のことか?」
「…………ええ」
黒部は短く返事をすると、見る間に耳の裏まで真っ赤に染め、視線を泳がせた。
さっきまでの、世界の真理を語るようなミステリアスな雰囲気はどこへやら。今はただ、自分の趣味をうっかり露呈してしまった少女の、初々しい気まずさだけがそこにある。
最近わかったことだが、黒部は意外と愉快なやつである。
俺は喉の奥まで出かけた笑いを必死に飲み込みながら、赤面して俯く黒部を見つめた。そのアンバランスな魅力に、俺の口元は知らず知らずのうちに緩んでいた。
「……んんっ。それじゃ、いくつか手本を見せる。気に入ったものを教えてくれ」
俺は左手にはめていた使い込まれたキャッチャーミットを外し、傍らの地面の上にコロンと転がした。代わりに、受け取ったボールを左手に持ち替える。
野球において、捕手や内野手といったポジションは送球の都合上、圧倒的に右投げが有利とされている。俺も元々は生粋の左利きだったのだが、扇の要であるキャッチャーというポジションを務めるためだけに右投げへと矯正した。
だが、純粋にボールを投げることだけを目的とするピッチャーを務める時、その絶対的な感覚においてのみ、俺は本来の利き腕である左手を使う。右腕に染み付いたのはあくまで実戦的な送球の技術であり、ボールの縫い目に細かな変化と命を吹き込む投球の繊細な感覚は、生まれ持った左手の中にしか存在しないからだ。
「それじゃあまず──」
左手の指先でボールの縫い目の感触を確かめ、防球ネットに向かってゆっくりと振りかぶる。
ストレートを投げる時と全く同じ、力強い腕の振り。だが、左手から勢いよく放たれたはずの白球は驚くほど遅く、打者の手元にあたる空間へ届く直前で、ふっと重力に逆らえなくなったように空中で急減速し、沈み込んだ。
「これがチェンジアップ。基本的にはこれがオススメだ」
ネットからボールを回収しながら解説する。ストレートと同じ腕の振りで投げてタイミングを外すこの球種は、腕力に頼らずともボールの握り方一つで変化を生み出せるため、女の子の筋力でも比較的投げやすい。
俺は再び土の上に立ち、ボールの握りを変えた。
「次はこれだ」
再び振りかぶる。今度はストレートに近い軌道を描いて飛んでいき、ネットに突き刺さる直前で鋭く右バッターのインコース側へと小さく変化した。比較的簡単に覚えられる球種の一つだ。
「こいつがツーシーム。打者の手元で少しだけ芯を外すように沈む。そして──」
ボールを握り直し、三度目のモーションに入る。
今度は腕の振りを少し緩やかにし、手首の角度を変えた。左手の指先からふわりと抜け出したボールは、一度ふわりと空中に高く浮き上がり、そこから大きな弧を描いて急激にブレーキをかけながらネットの低い位置へと沈み込んだ。見事な放物線を描くスローカーブだ。
「最初に覚えるならこのくらいだな。どれがいい?」
俺が尋ねると、黒部は口元に指を当て、真剣な眼差しでネットと俺の左手を交互に見つめた。彼女の灰色の瞳の奥で、今の3つの球の軌道が何度も巻き戻され、再生されているようだった。やがて、彼女は静かに口を開く。
「最後の、ふわっとしたボールがいいわ」
「カーブか。確かに、因果が捻じ曲がってる感じがするな」
「…………」
「すまん、からかった」
俺の不用意なからかいの言葉に、黒部は何も言わず、耳の先まで一気に朱に染め上げた。口をキュッと結び、恨めしそうな、それでいて羞恥に耐えきれないような潤んだ瞳でこちらを見つめる。普段のミステリアスで静謐な彼女からは想像もつかないほど、年相応の少女の反応だった。
俺が苦笑交じりに謝罪すると、黒部はぷいとそっぽを向いてしまったが、その横顔にはまだ微かな朱が残っていた。
「よし、それじゃあカーブの握りを教える。ちょっと、手を出してみてくれ」
「……手、かしら?」
「ああ」
戸惑いながらも、黒部は恐る恐る自分の右手を差し出してきた。
俺はミットを外した左手で、彼女の白く華奢な手を取る。ひんやりとした、滑らかな肌の感触。その柔らかさに一瞬だけ思考が乱れそうになるが、俺はすぐに捕手としての観察眼にスイッチを切り替え、彼女の手のひらと真剣に向き合った。
「……失礼するぞ」
「……んっ」
俺が彼女の指の関節を軽く曲げたり、親指と人差し指の開き具合を測るように指の腹でなぞると、黒部の肩がビクッと跳ねた。距離が近い。彼女の香りが、秋の乾燥した空気に混じって鼻腔をくすぐる。
黒部は俺から顔を逸らし、俯き加減で目を白黒させているが、俺の目は彼女の手のひらと指先の構造に釘付けになっていた。
一見すると折れてしまいそうな細い指だが、関節が非常にしなやかで、広く動く。それに、手首のバネが女子にしては随分としっかりしている。
「黒部、お前……指がすごく柔らかいな。あと、手首のスナップが鍛えられてる」
「そう……?」
「ああ。カーブみたいに指先でボールを切るような感覚が必要な球種には、このしなやかさが最高の武器になる」
俺が感心して熱弁を振るうと、黒部は少し染めたまま蚊の鳴くような声で頷いた。完全に野球脳になっていた俺は、自分が年頃の女の子の手を執拗に撫で回しているという事実を、この時は完全に失念していた。
「よし、大体わかった。実際に投げてみよう」
俺は彼女の手に白球を渡し、カーブ特有の握り方、人差し指と中指を縫い目に沿わせ、抜くように投げる形を教えた。
「このまま、手首を無理に捻ろうとせず、リリースする瞬間に指先からボールを縦に滑らせるようにして投げてみてくれ」
「……いくわ」
黒部は教えられた通りの握りで、ぎこちないフォームながらも一生懸命に腕を振った。
──ポスッ。
だが、放たれたボールは手元で情けなくすっぽ抜け、放物線を描くどころか、あさっての方向へと力なく転がっていった。
「あ……」
「惜しいな。手首に力が入りすぎてる。変化させようと意識しすぎて、ボールを投げようとしてるんじゃなくて手首を捻ろうとしてるんだ。あと、腕を気にしてるからか足の運びがいつもと違う」
俺は転がったボールを拾い上げ、もう一度彼女に手渡した。どう伝えれば、彼女の感覚に落とし込めるだろうか。
俺は少し考え、ひとつのイメージを提示した。
「確か、料理するって言ってたよな」
「?……ええ」
「リンゴの皮を剥く時の感覚を思い出してみてくれ」
「リンゴの……?」
「ああ。包丁を持った手首をガチガチに固定して無理やり捻ったりしないだろ? 指先の柔らかいスナップを使って、皮が途切れないようにスルスルと刃を滑らせていくはずだ。あの繊細な指先の使い方……ボールの縫い目を、包丁の刃に見立てて、リンゴの丸みに沿ってスッと撫で斬るようなイメージだ」
黒部はハッとしたように目を丸くし、自分の手のひらの中にあるボールをじっと見つめた。彼女の頭の中で、キッチンの光景とグラウンドの放物線がカチリと結びついた音が聞こえた気がした。
「……リンゴを、撫で斬るように」
呟きながら、黒部はもう一度大きく深呼吸をした。
目つきが変わる。先ほどの羞恥も戸惑いも消え、そこにあるのは未知の技術を習得しようとする純粋な探究者の瞳だった。
「……いくわ」
しなやかな手首が振られ、指先がボールの縫い目を美しく撫でる。
放たれた白球は、今度はすっぽ抜けることなく空中へと舞い上がった。そして、頂点に達した直後──まるで目に見えない糸で真下へ引かれたように、急激なブレーキを伴ってふわりと弧を描き、俺の構えたミットのど真ん中へと吸い込まれた。
少し甘いが、綺麗なカーブ特有の心地よい捕球音が、裏庭の静寂に響き渡った。
「……できた」
黒部が自分の右手を信じられないといった様子で見つめ、それからパッと顔を上げて、今日一番の輝くような表情を俺に向けた。
太陽が少し傾き始めた頃。
俺たちはその後も、無心でキャッチボールを続けていた。黒部は何度かに一回は良いカーブを描いて俺のミットにボールを収めるようになり、その度に控えめながらも嬉しそうな顔を見せていた。
「よし。そろそろ終わりにしよう」
俺がミットを下ろして声をかけると、黒部は小さく息を吐き出して頷いた。
「……ええ、そうね」
水道で軽く顔と手を洗い、二人で並んで木陰のベンチに腰を下ろす。
隣に座る黒部は、かなり疲労している様子だった。静かに肩で息をしており、額にはうっすらと汗が滲んでいる。慣れない指先の使い方と手首の捻りは、女の子の細い腕から想像以上に体力を奪っていたらしい。
「腕、出してくれ」
俺が唐突にそう言うと、黒部は不思議そうに小首を傾げながらも、素直に右腕を差し出してきた。
俺はその白く細い前腕を両手で包み込むようにして持ち、張っている筋肉を親指の腹でゆっくりと押しほぐしていく。
「……あっ」
不意の接触と、ツボを突かれた痛みに、黒部が微かな、少し甘い声を漏らして肩を跳ねさせた。
「っと、ごめん。痛かったか?」
「ううん……少し、びっくりしただけ」
「普段使わない筋肉を使ったからな。手首や前腕への負担が大きい。しっかり解しておかないと、明日筋肉痛で腕が上がらなくなるからやっておいたほうがいいんだ」
本当は肩や肩甲骨周りもマッサージしてやった方がいいのだが、年頃の女子に対してそこまで踏み込むのはさすがに自重した。黒部も抵抗することなく、されるがままに腕を預けてくれている。
しばらくの間、秋の風がグラウンドの砂を撫でる音だけが二人の間に流れた。
「……なぁ、黒部」
腕をほぐす手を止めないまま、俺はぽつりと呼びかけた。
「なんでこんなに、真剣に付き合ってくれるんだ?」
ずっと心の奥底にあった疑問だった。
元々は、彼女が無くしたリボン探しを手伝ったことへのお返しとして、俺の壁当てに付き合ってもらったのが始まりだ。だが、そのお返しの期間なんてとうの昔に過ぎている。それなのに、彼女は文句一つ言わず俺の球を受け続け、あろうことか変化球まで覚えたいと言い出した。
隣を見ると、黒部は差し出していない方の左手で、自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
「……好き、だから」
その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。
思わず解していた手を止め、ドキリとして彼女の横顔を見つめる。
黒部は少しだけ目を伏せ、灰色の瞳を揺らしながら言葉を続けた。
「大鐘くんが、野球を好きなのが……わかるから」
その声のトーンには、単なる推測や気遣いを超えた、確信めいた何かが含まれていた。
「あなたが、いつ、元の場所へ戻っても大丈夫なように。……それを、手伝いたいと思ったの」
その瞬間、俺の脳裏に彼女の持つ魔法がフラッシュバックした。
──幻視。触れたものの過去を視る力。
彼女はいつも俺の投げたボールに触れている。そして、過去の染み付いたミットにも触れている。おそらく彼女は、俺の泥まみれの過去を、あの光景を、断片的に知っているのだ。
それでも彼女は、俺の過去を暴こうとも、哀れむように触れようともしない。
決して自分から積極的に話すのが得意ではないだろう彼女が、俺の傷を気遣い、一生懸命に言葉を選びながら、ただ、手伝いたいと真っ直ぐに伝えてくれている。
その優しすぎる献身が、俺の胸の奥を静かに、けれどひどく強く締め付けていた。
慣れない変化球で完全に体力を使い果たし、足取りもおぼつかなくなった黒部を、俺は彼女の寮の部屋の前まで送り届けた。
別れ際、疲労困憊のはずの彼女が、それでもどこか誇らしげに右手を握りしめていたのが印象的だった。
自室に戻り、時計を見上げる。時刻はまだ夕方にもなっていない。休日の午後を持て余すには少々微妙な時間帯だった。
キャッチボールにつきっきりだったとはいえ、俺の体力はまだまだ有り余っている。このまま部屋でくすぶっているよりは、夕食までに少しでも体を動かして腹を空かせておきたいところだ。
ふと、先ほど裏庭で黒部が紡いだ言葉が脳裏に蘇った。
不器用で、けれど真っ直ぐな彼女の献身。俺の泥まみれの過去を知りながら、それでも俺が再び野球を再開できるようにと、その細い腕で俺のボールを受け止めようとしてくれた。
その事実が、凍りついていた俺の胸の奥に、確かな熱を灯していた。
今の俺の掌に残っているのは、あの日の冷たい泥の感触ではない。黒部が懸命に投げてきた、不格好で、けれど温かい白球の重みだった。
俺はスポーツバッグを肩に引っ掛けると、その熱を噛み締めるようにして学園の敷地の外へと歩みを出した。
「……久々に、やるか」
誰にともなく呟いた声は、思いのほか澄んでいた。
ボールを投げるだけじゃない。今日は、ボールを打ち返したい気分だった。
街のバッティングセンターへ行こう。そう決断し、俺は休日の賑やかな通りへと足を向けた。
休日の午後の街は、家族連れや友人同士の笑い声で溢れ、賑やかな活気を見せていた。
だが、今の俺にはその明るすぎる光景と喧騒が少しだけ眩しすぎた。
大きな通りから一本外れた、人通りの少ない少し薄暗い裏路地。喧騒から逃れるように歩いていた俺は、そこにぽつんと佇む小柄な影を見つけた。
紫藤アリサだ。
黒いマスクに、深く被ったパーカーのフード。そこから覗く灰色の髪と、内側に潜む毒々しい赤のインナーカラー。休日の明るい街並みにおいて、彼女の存在はまるでそこだけ光が欠落しているかのように異質で、ひどく退廃的だった。
彼女はポケットに両手を突っ込んだまま、足元に転がっていた小石を、まるでこの世界のすべてを憎悪しているかのような鋭いモーションで蹴り飛ばした。
カラン、と無機質な音が路地に虚しく響く。
俺は賑やかな通りから外れ、紫藤の側へと歩み寄った。
「紫藤」
「あァ?」
地を這うような不機嫌な声とともに、フードの奥の燃え盛るような赤い瞳がこちらを睨みつける。だが、その視線の先が俺だとわかると、彼女は露骨に顔をしかめて鋭く舌打ちをした。
「……またおめえかよ。どこにでも湧いてきやがって」
忌々しそうに吐き捨てる紫藤に、俺は構わず距離を詰めた。
「ちょうどよかった。紫藤、これから少し俺に付き合え」
「はァ!? なんでウチがおめえなんかに付き合わなきゃなんねえんだよ。バカじゃねえの」
即座に牙を剥く紫藤。その瞳には明確な拒絶の色があった。
「そう言うなよ。一緒に文化祭サボった仲だろ」
「その仲だからだって言ってんだろうが。……てか、テメエは随分と楽しんでたらしいじゃねえか」
フードの奥の赤い瞳が、恨めしそうにこちらを射抜く。
どうやら、俺が沢渡たちに引きずり回されて各所の大会を荒らし回った噂は、お祭り騒ぎから最も遠い場所にいたはずのこの不良少女の耳にも届いていたらしい。
「まぁ、それは置いといてだな」
「置いとくな」
「今からバッティングセンターに行く。お前も来い」
「……なんでウチがそんなもんに付き合わなきゃなんねえんだよ」
紫藤は心底嫌そうな顔をして、深くため息をついた。パーカーのポケットに突っ込まれた両手には、ギュッと力が入っているのがわかる。
「テメエがバット振るのを眺めて、何が面白いんだよ。だいたい、ウチみたいなのが隣にいたって空気悪くなるだけで、ちっとも楽しくねえだろうが」
威嚇するようなドスの効いた声。だが、その言葉の端には、棘だらけの態度とは裏腹な、ひどく卑屈な自嘲の色が滲んでいた。
「楽しくなくていい」
「……はァ?」
俺が即答すると、紫藤は本気で意味がわからないというように眉間を寄せ、赤い瞳を丸くした。
彼女は勘違いしている。俺にとって、これから向かう場所は決して楽しむための娯楽施設じゃない。
ずっと逃げてきた過去と向き合い、前を向くための、俺の最初のバッターボックスだ。
黒部の言葉で熱を取り戻したとはいえ、いざその場所に一人で立てば、また、バットを振れずに逃げ出してしまうかもしれない。
だからこそ、誰かにいてほしかった。
無理に励ますでもなく、事情を根掘り葉掘り聞くでもなく、ただそこに不機嫌なまま立っていてくれる存在が。
「お前を楽しませる気もないし、俺もただ無心でボールを打ちたいだけだ。……だから、別に楽しくなくていい。お前にはただ、そこにいてほしいんだ」
俺の言葉に、紫藤の赤い瞳がわずかに揺れた。
いつもなら「ウザい」「消えろ」と突っぱねるはずの口が、微かに開いたまま言葉を失っている。
「…………」
紫藤は気まずそうにスッと視線を逸らし、黒いマスクの上から口元を隠すように顔を背けた。それから、何かを噛みしめるように今日一番の特大の舌打ちを路地に響かせた。
「……チッ。マジで意味わかんねえ。バカじゃねえの」
吐き捨てるように言った後、彼女は路地の壁から背中を離した。
「……今日だけだからな。ウチの機嫌損ねたら、マジで殴るからな」
「ああ、肝に銘じておくよ」
相変わらずの物騒な脅し文句。
だが、歩き出した俺の少し後ろを、だるそうに、けれど確かな足取りでついてくるその小柄な影を見て、俺は小さく息をつき、バッティングセンターへと向かう大通りへ足を踏み出した。
バッティングセンター特有の、すえたゴムと機械の油の匂いが鼻腔を突く。
薄暗いケージの中に立ち、俺は深く息を吐き出してバットを構えた。
──カァンッ!!
鼓膜を劈くような甲高い金属音が、狭い空間に爆音となって響き渡る。
放たれた白球は一直線にネットの奥深くに突き刺さり、的のど真ん中を激しく揺らした。
(……悪くない)
久しぶりにバットを握り、打席に立った時は少しだけ身構えていた。
だが、杞憂だった。一定の球速、一定の間隔で放り込まれるマシンの球は、俺を陥れたような悪意ある変化も嘘もない。ただ物理法則に従って飛んでくるだけの、純粋な的だ。
生きた人間が投げる球に比べれば、タイミングを合わせるのも弾き返すのも、拍子抜けするほど簡単だった。走り込みをやめていないからか、下半身の衰えもあまり感じない。
何より、無心でバットを振るという行為が、俺の中に溜まっていた澱を少しずつ外へ叩き出してくれるような感覚があった。
──カァンッ! ──カァンッ!
その後も、俺は黙々と飛んでくるボールを打ち返し続けた。
やがてマシンの機械音が止まり、1ゲーム終了のアナウンスが流れる。
軽く汗ばんだ首筋を拭いながらケージの外へ出ると、待合用のパイプ椅子にだらしなく座っていた紫藤が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「……なんつー音出してんだよ。親の仇でも殴ってんのかテメエはよ」
黒いマスク越しでもわかるほど露骨に顔をしかめ、ぼそりと小さくぼやく。
呆れているようでもあり、少しだけ引いているようでもあった。
「ただのテクニックの問題だ。芯で捉えれば、力なんてなくてもあれくらい飛ぶ」
「……ふん、理屈っぽいヤローだ」
紫藤は忌々しそうに視線を逸らし、再びポケットの中で手を丸めた。
俺は自販機で買ったスポーツドリンクを煽りながら、彼女の小柄な姿を見下ろした。ただ黙って俺のバッティングを見つめていた彼女の赤い瞳には、退屈さよりも、得体の知れないものを見るような微かな好奇心が混じっているように見えた。
「よし。次は紫藤、お前の番だ」
「……はァ!?」
唐突な指名に、紫藤は本気で嫌そうな声を出して俺を睨みつけた。
「なんでウチがそんなバカみてえに棒切れ振り回さなきゃなんねえんだよ。冗談じゃねえ、ウチは見てるだけで……」
「いるだけでいいとは言ったが、せっかく来たんだ。一度くらい振ってみろ。お前、色々と溜め込んでるものがありそうだし、ストレス発散にはちょうどいいぞ」
俺は最も軽くて短い初心者用のバットをラックから抜き取ると、紫藤の胸元に半ば強引に押し付けた。
「あァ!? ウチの機嫌損ねたら殴るって言ったの忘れたのかよ!」
「全部空振りしたら殴ってもいいから、とりあえず一番遅い80キロの打席に入ってこい」
「……ッ、テメエ、マジで後悔させてやるからな……!」
ギリッと奥歯を鳴らしながらも、紫藤はバットを奪い取るようにして立ち上がった。
威嚇するように肩を怒らせながら、最も球速の遅いケージへと足を踏み入れる。その不機嫌な背中を見て、俺は思わず小さく吹き出しそうになった。
コインを投入し、マシンが稼働する。
紫藤は教えられたこともない適当な構えで、重そうにバットを握りしめた。足幅はバラバラ、脇は空きっぱなし。
「バットが妙に似合うな」
「どういう意味だコラ!」
他意は無い。
ピッチングアームが回り、ボールが射出される。
「ふざけんな、こんなの──おらァッ!」
紫藤はヤンキー漫画の喧嘩キックのような掛け声とともに、全身の力任せにバットを振り回した。
──ブォンッ!
ボールはバットの遥か上を通過し、ネットに吸い込まれる。
完全にタイミングを外された紫藤は、自分のフルスイングの遠心力に振り回され、あわや尻もちをつきそうになって派手によろけた。
「……ッ、クソが! なんだよ今の!」
「力みすぎだ。ボールを殺す気で振っても当たらないぞ」
俺はケージの入り口から声をかけた。
「うるせえ! 指図すんな!」
「バットが重いんだ、もっと短く持て。グリップの少し上あたりだ」
「チッ……こうかよ!」
悪態をつきながらも、紫藤は俺の言う通りにバットを短く握り直した。素直ではないが、無視して自己流を貫くほど意固地ではないらしい。
「足は肩幅に開け。構えた時、脇を軽く締めるんだ。腕の力だけで振ろうとするな、腰を回すイメージを持て」
「う、うるせえな! 次は絶対当ててやる……!」
第二球。
紫藤はボールを赤い瞳で鋭く睨みつけ、今度は大振りせず、コンパクトにバットを押し出した。
──ガコッ!
「痛ッ!?」
金属バットの根元に当たったボールは、鈍い音を立ててボテボテとネットの前へ転がった。
芯を外した強烈な痺れが手に伝わったのだろう、紫藤は「いってぇ!」とバットを取り落としそうになりながら手を振っている。
「惜しい。当たったじゃないか」
「手がビリビリすんだろうが! テメエ、ハメやがったな!」
「芯で捉えれば痛くない。ボールをよく見て、頭をできるだけ動かさないように。次は飛ぶぞ」
俺がなだめるように言うと、紫藤は「……チッ」と大きな舌打ちをして、再びバットを握り直した。
痛みを訴えながらも打席から出ようとしないその姿には、先ほどの自己嫌悪にまみれた退廃的な空気はもうない。あるのは、ただ目の前のボールをどうにかして打ち返してやろうという、不器用な負けん気だけだった。
「……見てろよ。あの機械、絶対にぶっ壊してやる」
威圧的で物騒なセリフを吐きながら、紫藤は構え直す。
それから数球、空振りと鈍い当たりを繰り返した後──。
──カァンッ!
今日一番の、澄んだ金属音が鳴り響いた。
紫藤の振り抜いたバットがボールの芯を捉え、白球はライナー性の軌道を描いて見事にネットの奥へと突き刺さった。
「……!」
紫藤の赤い瞳が見開き、自分の両手に残る確かな感触と、飛んでいったボールの軌道を呆然と見つめている。
「どうだ。悪くない感触だろ」
「…………」
紫藤はこちらを振り返り、何かを言いかけては口をつぐみ、少しだけ気まずそうに顔を背けた。
「……チッ。うるせえ、手が痛ぇんだよ……」
相変わらずの悪態だったが、マスクの奥の瞳はどこかスッキリとしたように細められ、手にあるバットを少しだけ愛おしそうに握り直していた。
バッティングセンターを出ると、休日の街はすっかり茜色に染まり始めていた。
「……ッてー。マジで全身痛ぇんだけど。全部テメエのせいだからな」
隣を歩く紫藤は、気怠そうに肩や手首を回しながら、恨めしそうな赤い瞳でこちらを睨みつけてきた。
普段使わない筋肉をフル稼働させ、怒りに任せて何度もバットを振り回したのだから無理もない。あの後も何度かやっていたし。
「いきなりフルスイングなんかするからだ。今日は帰ったら、ゆっくり風呂に浸かっておけよ」
「うるせえ、指図すんな。……あー、マジで最悪だ」
悪態をつきながらも、その足取りはバッティングセンターへ向かう前の、あの路地裏にいた時の重苦しいそれとは違っていた。周囲のすべてを憎悪し、自分自身さえも拒絶していたような退廃的な空気は薄れ、どこか憑き物が落ちたように軽くなっている気がした。
俺は歩調を合わせながら、隣の小柄な影に向かって口を開いた。
「紫藤」
「あァ?」
「今日はありがとな。お前が付き合ってくれたおかげで、ちゃんとバットが振れた。……助かったよ」
俺が素直に礼を口にすると、紫藤は不意を突かれたようにピタリと足を止めた。
黒いマスクの上からでもわかるほど、赤い瞳が微かに泳いでいる。彼女は俺の顔からサッと視線を逸らすと、居心地が悪そうに深くフードを被り直した。
「……気持ち悪ぃこと言ってんじゃねえよ。ウチは横で突っ立ってただけで、何もしてねーだろうが」
「それでもだ。……いい気分転換になった。また行こうぜ」
俺が少しだけ笑ってそう告げると、紫藤は信じられないものを見るような目で俺を一瞥した。
そして、今日一番の、鋭くもどこか不器用な音が夕暮れの街に響く。
「……チッ。誰が二度と行くかよ、バカ」
吐き捨てるようにそう言って、紫藤はポケットに両手を突っ込んだまま足早に歩き出した。
照れ隠しの混じったその小さな背中を追いかけながら、俺は心地よい筋肉の疲労感を噛み締めていた。
いや、信じてください。何とかするんで、マジで