いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシ送ってくれると嬉しいです。
今回は毎度お馴染みテスト勉強回です。勉強回はわちゃわちゃするから楽しくて好きです。
報告アリです。アリサとココの個別ルート、書きます。書かせてください。理由はもし自分がこの作品の読者だったとしたら、アリサとココルートが無いことに間違いなくブチギレるからです。
シェリーとヒロが終わってからになりますがよろしくお願いします。
「ここ、単語のスペルが間違っているわ。eじゃなくてaよ」
「あっ、またやっちまったか」
「大丈夫よ。焦らなくていいわ、ひとつずつ確実に覚えていきましょう」
期末テスト期間。それは、冬休みを目前に控えた学生たちに等しく降りかかる試練の時だ。浮き足立つ気持ちと焦燥感が入り交じり、学園全体がどこかそわそわとした独特の空気に包まれている。
いつものキャッチボール中、俺がふと「テストが不安だ」とこぼしたところ、黒部が勉強を教えてくれることになったのだ。
意外というべきか、あるいは彼女の静かで真面目な印象通りというべきか、黒部の成績はかなり良いらしい。運動や普段の立ち振る舞いでは不器用な部分も見える彼女だが、こと机に向かう座学となると話は別のようだ。俺の隣に座り、ノートを覗き込むように寄り添いながら、とても丁寧に、根気よく教えてくれる。
「黒部は頼りになるな」
「ふふっ、いつもとは逆の立場ね。……私のことはお姉ちゃんと呼んでくれても構わないわ」
「呼ばん」
ピシャリと即答すると、黒部は小さく肩を揺らして「残念ね」と微かに、けれど確かに微笑んだ。愉快なやつだ。
二人で並んで机に向かい、時折肩が触れ合うほどの距離で一つのノートを共有する。黒部の透き通るような黒髪から、微かに甘い香りが漂ってくる。俺たちは特に気負うこともなく、ごく自然に、静かで穏やかな時間を共有していた。
「……甘いですわ。甘ったるくて仕方ありませんわ……」
「私達、いったい何を見せられてるんでしょうか?」
「ナノカちゃん、あんな柔らかい顔するんだ……」
ふと顔を上げると、向かい合わせにくっつけた正面の机から、じっとりとした三つの冷ややかな視線が突き刺さってきた。
放課後、集中して勉強するのに都合が良い場所をと考えた結果、普段からいるこの教室を借りることになったのだ。そこには当然のように桜羽、遠野、橘のいつもの三人が居座っており、どうせならということで、成り行きで一緒に勉強会を開くことになっていた。
しかし、今の彼女たちの目は完全にテキストではなく、俺と黒部の方へ向けられている。
「んんッ!……うるさい。お前らも手を動かせ、今は勉強だ」
「ふん、まぁ真面目なのは良いことですけど」
俺がわざとらしく咳払いをして誤魔化すと、遠野はツンとそっぽを向きながらも、渋々といった様子でシャープペンシルを握り直した。
「でもでも、お二人にはいったいどういった交流があったんでしょうか?」
俺のわざとらしい咳払いなど意に介する様子もなく、橘は興味津々といった風に身を乗り出してきた。その瞳は、隠しきれない好奇心でキラキラと輝いている。
橘のその真っ直ぐな問いかけに、俺はシャープペンシルを指先で弄りながら言葉に詰まった。
別に、放課後に二人きりでキャッチボールをしていることを、頑なに秘密にしているわけではない。だが、それをどう説明したものかとひどく悩んだのだ。ただ「キャッチボールをしている」と言えば、「なぜ?」「どうしてその二人で?」と、さらなる追及を受けるのは火を見るより明らかだ。あの静かで心地よい裏庭の空気を正確に言語化して彼女たちに伝えるのは、ひどく骨が折れる作業に思えた。
俺が上手い言い訳を見つけられず返答に窮して黙り込んでいると、隣から静かな声が降ってきた。
「文化祭を一緒に回ったわ」
それは、なんでもない事実を告げるような、黒部のひどく落ち着いた声だった。彼女は俺の困惑を察して庇ってくれたのか、ノートから視線を外すことなく、淡々とそう答えた。
その一言で、橘はパッと顔を輝かせ、深く納得したようにポンと手を打った。
「なるほど。 文化祭を一緒に、そういうわけでしたか。それはもう、急接近するのも頷けますね」
学園の一大イベントである文化祭。男女が共に時間を過ごす理由としては、それ以上なく納得のいく、そして彼女たちのロマンチックな想像力を大いに掻き立てる模範解答だったらしい。橘はウンウンと一人で頷き、完全に自分の中で都合よく辻褄を合わせたようだった。
「そういえば大鐘くん、文化祭すごく大活躍だったんだよね。腕相撲とか、色んなところで噂になってたし」
橘の言葉に同調するように、桜羽が思い出したように声を上げた。彼女の言う通り、あの日は成り行きで色々な出し物に首を突っ込み、やたらと体力と腕力を使う羽目になった記憶がある。
「ん、まあな。……あれはただの成り行きだ」
当時のドタバタを思い出して少し気恥ずかしくなり、俺は誤魔化すように短く返し、軽く首の後ろを掻いた。これ以上この話題を掘り下げられると、今度は俺のガチゴリラエピソードまで掘り返されかねない。
「ほら、無駄話はそこまでだ。桜羽も橘も、そのページ終わってないだろ」
「はい、ここは大人しく勉強に戻りましょう!」
橘がクスリと笑いながらペンを握り直すのを皮切りに、桜羽と遠野も再び自分のテキストへと視線を落とした。
やがて教室には、再びカリカリと芯が紙を擦る音や、ページをめくる微かな音だけが響き始める。放課後の静寂が戻ってきた空間で、俺はふと隣を見やった。黒部は相変わらず涼涼とした表情でテキストに向かっているが、その耳元がほんの少しだけ朱に染まっているような気がした。俺は小さく息を吐き、再び彼女と共有しているノートの英単語へと意識を引き戻した。
勉強が進む穏やかな放課後の静寂は、唐突に乱された。
バンッ! という乱暴な音が響き、教室の後ろ扉が勢いよく開け放たれる。まるで発生したての台風がそのまま屋内へ飛び込んできたかのような凄まじい勢いで現れたのは、沢渡ココだった。
「おいオーガどういうことだよこれ!」
教室中の空気をビリビリと震わせるような大声。彼女は周囲の目など一切気にすることなく、血相を変えて俺と黒部が並んで座る席へとズカズカと真っ直ぐに突進してくる。その手には、画面が明るく点灯したスマートフォンが強く握りしめられていた。
「沢渡、どうした急に」
「どうしたじゃねえって! これ! 見ろ!」
俺の冷静な問いかけを食い気味に遮ると、沢渡はドンッ! と俺の目の前の机にスマートフォンを叩きつけるように置いた。
そのただならぬ剣幕と大きな音に、テキストに向かっていた桜羽や橘、遠野の三人も「何事か」と身を乗り出して画面を覗き込んでくる。
そこに表示されていたのは、学園の生徒たちがこぞって利用しているという、学園内SNSのタイムラインだった。俺自身はアカウントすら持っていないため全く縁のない代物だが、画面の中央にデカデカと表示されている『それ』は、否が応でも俺の視線を釘付けにした。
「えっ、これって大鐘くんと、レイアちゃん……?」
画面を見た桜羽が目を丸くして、信じられないものを見るように声を震わせる。
「おお〜! これは決定的な証拠ですね!」
対照的に、橘は面白くて仕方がないといった様子で目を輝かせ、パチパチと手を叩かんばかりのテンションでさらに前のめりになった。
画面に映し出されていたのは、中庭の木漏れ日の中、俺が蓮見レイアの肩や腰のあたりに手を添え、密着するように立っている一枚の写真だった。
もちろん、先日俺が彼女の投球フォームを修正指導していた際の一コマに違いないのだが……巧妙に切り取られた画角のせいで、完全に恋人同士が睦み合っているかのような親密な空気を醸し出している。おまけに、写真の中の蓮見は俺を見つめて、花が咲いたような心からの笑顔を浮かべていた。
極めつけは、その写真の上に躍る『特ダネ! 我らが貴公子・蓮見レイア、今話題の転校生と熱愛発覚か!?』という、悪意と野次馬根性のみで構成されたような下世話な見出しだ。
「レイアっちとデキてるとか、あてぃし何にも聞いてねぇんだけど!」
沢渡がバンバンと机を叩きながら、信じられない裏切りに遭ったとばかりにギャーギャーと噛み付いてくる。
「あなた、レイアさんにまで手を出してましたの……?」
遠野はといえば、氷点下の視線を俺に向け、ジロリと見つめてきた。完全に事実として受け止めている目だ。遠野はなんだかんだで素直だから、丸め込まれやすい部分がある。
「お前らな……少しは落ち着け」
俺は深く、ひどく深く、今日一番の重い溜め息をついた。こめかみのあたりを指で揉み解しながら天を仰ぐ俺の前で、桜羽が「ど、どうしよう、大鐘くんとレイアちゃんが……!」と、完全に勘違いの泥沼にハマったままオロオロと視線を彷徨わせている。
「思いっきり誤解だ。勝手に話を進めるな」
俺はこれ以上ないほどきっぱりと、呆れ果てた声で否定した。
「じゃあこれどう説明すんのさ!」
沢渡はなおも食い下がり、机の上のスマホの画面をトントンと指先で強く叩く。
俺が事の顛末を説明しようと口を開きかけた、その時だった。
「あっ、ちょっと待って。この画面の端っこ……見切れてるのって、もしかしてヒロちゃん?」
おずおずと声を上げたのは、俺と沢渡の間からスマホを覗き込んでいた桜羽だった。彼女は画面を二本指で器用にピンチアウトして拡大し、写真の右端、フレームアウトギリギリの場所を指差した。
そこには、学園の制服を着て腕組みをして立っている人物の、特徴的な肩のラインと凛とした横顔のほんの一部が、かろうじて写り込んでいた。画角と被写界深度のせいでぼやけてはいるが、見知った者が見れば間違いなく生徒会長の姿だとわかる。
「よく気づいたな桜羽。その通り、そこで見切れてるのは二階堂で合ってる」
俺は我が意を得たりとばかりに深く頷いた。さすがは桜羽だ。おっとりしているようにみえて、目端が利く部分がある。彼女の良い所だ。
「やっぱりそうだよね。でも、どうして大鐘くんとレイアちゃんとヒロちゃんが一緒にいたの?」
「この冬、始球式で投げることになった蓮見に、ピッチングの指導をしてたんだよ。俺が触れてたのは、ただのフォームの修正だ。それ以上でも以下でもない。二階堂は付き添い」
「あっ、そうだったんだ」
「そういうことでしたの……申し訳ないですわ」
俺が淡々と事実を告げると、ギャーギャーと騒ぎ立てていた沢渡の動きがピタリと止まった。
「えっ、そゆこと?ホントに」
「本当だ。嘘をついてどうする」
事の真相を聞かされた沢渡は、ポカンとした顔で目をぱちくりと瞬かせた。
そして、それまで張り詰めていた空気を一気に吐き出すように、ふうっと長く大きな息を漏らす。
「はぁ〜……良かった〜……」
憑き物が落ちたように深い安堵の表情を浮かべ、心底安心したように胸を撫で下ろす沢渡。だが、直後に自分の漏らした言葉と周囲の視線にハッと気づき、顔を真っ赤にして勢いよく顔を上げた。
「い、いやちげえし!別に何にも良かねえし!そういうんじゃねえから!」
誰に聞かれたわけでもないのに、バンバンと両手を振り回して必死に否定し始める。
耳まで赤くして一人でじたばたと慌てふためく台風を前にして、桜羽が呆れたような、生温かいような視線を送りながらポツリと呟いた。
「ココちゃん、一人で大騒ぎしてる……」
沢渡のやかましい独り相撲と桜羽たちの呆れ声が交差し、教室を包んでいた妙な緊張感はすっかり霧散していた。
だが、ふと隣に視線を戻した俺は、先ほどからひどく不自然なほど静まり返っている黒部の存在に気がついた。
「……そう、よね」
ぽつりと、テキストの余白に落ちた染みのように、小さく微かな声が漏れた。
元々、感情を大きく表に出すタイプの人間ではない。顔の造作が端正すぎるがゆえに、周囲の人間が一見すれば、普段の涼やかな無表情と大差ないように見えるだろう。しかし、放課後幾度もキャッチボールを重ね、彼女と同じ空気を吸う時間が長くなってきた今の俺には、痛いほどにはっきりとわかってしまった。
ノートを見つめる伏せられた長い睫毛の微かな震えも、シャープペンシルを握る白い指先が少しだけきつく強張っていることも。
それは間違いなく、深く傷つき、悲しみに沈んでいる者の声だった。
「大鐘くんが前を向けるなら、それは……私じゃなくても……」
自分に言い聞かせるような、独り言のように紡がれたそのか細い言葉に、俺の心臓が嫌な音を立てて大きく跳ねた。
大きく表情を崩して泣き出したり、沢渡のように声を荒らげて責め立ててきたりするわけではない。ただ、静かな湖面が波打つように、彼女の内に秘められたひどく透明な悲しみがひたひたと伝わってくる。
黒部は、過去に囚われていた俺が再び前を向けるようにと、不器用ながらもずっとキャッチボールに付き合ってくれていたのだ。彼女にとってあの時間は、ただの気まぐれや遊びではなく、俺の心を救い出すための彼女なりの真摯な寄り添いだったはずだ。
それなのに、俺は彼女の知らない場所で、学園の誰もが憧れるような完璧で美しい才能にあふれた生徒達に、野球を教えていた。黒部からしてみれば、自分が懸命に不器用に繋ぎ止めようとしていた俺の居場所を、あっさりと他の誰かが代わってしまったように見えたのだろう。
自分はお役御免なのだと、自分ではなくても救える人間がいるのだと。ひどく静かに、痛ましいほど健気に身を引こうとしている彼女が、俺の胸の奥をギュッと締め付けた。
この学園に来てからというもの、俺は何かと周囲から誤解されることが多かった。橘の荷物持ちだの使い魔だの、あるいは生徒会長である二階堂の手下だのと、あることないこと好き勝手な噂を立てられてきた。
別に、それが嫌だったというわけじゃない。どれも一時的な話題だし、他に面白そうな目新しい話題ができれば、すぐに収まるくらいの小さなものだ。名も知らない他人が俺の噂を並べ立て、どう評価しようが全く興味がなかったのだ。俺自身に何かしらの実害があったわけでもない。今回の蓮見との騒動だって、事実ではない以上、二階堂に頼めば風化していくはずだ。
けれど──黒部にだけは、俺のことを少しでも誤解されたくないと、強烈にそう思った。他の誰でもない、彼女にだけはちゃんと俺という人間を正しく理解してほしい。
普段は感情を大きく見せない彼女の、静かに悲しむ顔を見ていると、胸の奥が軋むように痛み、どうしようもない後悔のような気持ちでいっぱいになるのだ。
「……黒部、違うんだ」
気がつけば、俺は無意識のうちに隣に座る彼女の手を取っていた。
ひんやりとした柔らかな体温。不格好に逃げ回っていた俺を、文句一つ言わずにいつも真っ直ぐに受け止めてくれる、白くて細い、華奢な手。
突然俺に手を握られ、黒部は弾かれたように顔を上げ、驚きに微かに揺れる涼やかな瞳で俺を真っ直ぐに見つめ返してきた。すぐそばで息を呑む沢渡や、目を丸くして固まる橘たちの存在など、今の俺の頭からは完全にすっぽりと抜け落ちていた。
「蓮見に野球を教えていたのは、あくまで蓮見のためだ。……俺がそういう人間だっていうのは、お前もよく知ってるはずだろ」
俺が真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んでそう告げると、黒部はハッとしたように小さく息を呑み、わずかに見開かれた目を瞬かせた。
「あっ……」
その微かな感嘆の吐息で、彼女の脳裏に、俺たちの始まりの夜の記憶が鮮明に蘇ったのがわかった。
冷たい夜の風が吹く学園の敷地内で、彼女が大切な黒いリボンを落として一人で探し回っていた、あの夜のことだ。「迷惑はかけられない」と頑なに俺の協力を拒む黒部をよそに、俺は半ば強引に暗がりの中へ足を踏み入れ、植え込みを這いずり回って一緒にリボンを探し出した。
頼まれなくても、相手が遠慮していても、困っている姿を見れば放っておけずに勝手に行動してしまう。あの夜に俺が見せた強引なまでの立ち振る舞いと、今回の蓮見に対するピッチング指導の根源は全く同じものだ。黒部の中で、俺のその不器用なお節介の性質が、一本の線で確かに繋がったはずだった。
俺が蓮見に手を貸したのは、彼女がマウンドに立つことに真剣だったからだ。そこに特別な感情など、入る余地は微塵もない。
「誰かのために動きたいと思うのが俺だけど……でも、俺が黒部に野球を教えるのは、他でもない、俺自身のためなんだ」
その言葉を紡いだ瞬間、黒部の華奢な肩が、びくりと小さく跳ねた。
強く握りしめたままの右手から、彼女の微かな体温と、わずかに速くなった脈の鼓動がじんわりと伝わってくる。先ほどまで彼女の表情を重く覆っていた薄暗い悲哀の靄が、俺の言葉を熱源にして、少しずつ、けれど確実に晴れていくのがわかった。
透き通るような黒糸の髪が揺れ、ひどくすがるような、揺らぐ視線で俺を見つめ返してくる。
「俺がわがままでいたいと思うのは、お前相手だけなんだ」
過去に深く縛られ、大好きな野球から逃げ出した。そんな俺が唯一、心の鎧を脱ぎ捨てて、素の自分を曝け出せる場所。ただの野球好きに戻って、ひたすら白球の感触を慈しむことができる時間。
それは、黒部ナノカという静かな少女が、あの誰もいないグラウンドで、俺の投げる球を不器用ながらも真っ直ぐに受け止めてくれるからこそ成り立つものだった。彼女のためなんかじゃない。俺は俺自身が救われたくて、彼女との泥臭いキャッチボールを心底望んでいるのだ。
俺の嘘偽りのない、エゴイスティックな本音を聞いて、黒部の表情が劇的に変わった。
普段の感情の起伏が乏しい、氷の令嬢のような静謐な面影は完全に鳴りを潜めた。その白いキャンバスのような頬は、まるで熟れた果実のように一瞬にして真っ赤に染まり上がっていく。
隠しきれない深い安堵と、胸の奥底からとめどなく湧き上がるような純粋な喜び。少しだけ潤んだ瞳を揺らしながら見せたその表情は、これまで俺が見てきた彼女のどんな顔よりも柔らかく、脆く、そして、息を呑むほどに愛らしいものだった。
「だから、これからも……俺のわがままに付き合ってほしい」
祈るように、半ば懇願するようにそう告げた俺の手を、黒部は少しだけ震える指先で、きゅっと力強く握り返してくれた。
「……うんっ」
心底嬉しそうに、花が綻ぶような笑みを浮かべて、黒部は深く頷いた。
周囲の喧騒すらも完全に遮断された、甘く、ひどく満ち足りた静寂。
真っ赤に染まった顔を隠すこともできず、ただ嬉しそうに微笑む黒部と、彼女の細く白い手を握りしめたままの俺。まるでこの教室の中に、俺たち二人だけしか存在していないかのような錯覚に陥るほどの、濃密で心地よい空気がそこには漂っていた。
「……う、うぐぅ……っ! なにやってんだよ、あてぃしはぁ……ッ!」
唐突に、致命傷を負った獣のような悲痛なうめき声が空気を切り裂いた。
弾かれたようにハッと我に返り、俺たちは慌てて繋いでいた手をパッと離す。黒部は耳の先どころか首筋まで茹でダコのように真っ赤にしたまま、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、ノートの上に深くうつむいてしまった。
恐る恐る視線を横にずらすと、俺たちの席に乗り込んできたはずの沢渡が、力なく机の上に崩れ落ちていた。
バンバンッ!と、八つ当たりのように力なく机を叩きながら、ギリギリと歯を食いしばっている。そして、向かいの席では桜羽、遠野、橘の三人が、まるで信じられない儀式でも目の当たりにしたかのように、完全に口をポカンと開けて綺麗に静止していた。いつもなら嬉々として食いついてくるはずの橘すら、言葉一つ出てこないほどの純度百パーセントの呆然自失である。
静まり返った教室内には、突っ伏した沢渡のぶつぶつとした恨みがましい呟きだけが不気味に響いていた。
「なんであてぃしが……極上のアシスト決めてんだよぉ……」
沢渡は机に顔を押し付けたまま、深い絶望の底から絞り出すように呻いている。
よく聞こえなかったが、何かを死ぬほど悔やんでいるらしい。だが、当の俺には彼女が何に対してそこまでダメージを負っているのか、さっぱり理解できなかった。誤解は解けたのだから、安堵することはあっても絶望する理由などないはずだ。
「オーガは乙女ゲーみたいな顔面で、乙女ゲーみたいな激ヤバセリフ吐くし……ナノカはびっくりするくらいチョロいし……」
沢渡はうわ言のようにブツブツと呪詛を吐き続けている。
「なんだよこのクソゲー……そんなの、わかるわけないし……。あてぃしのルート、スタート前から負けてんじゃん……」
ついに完全に独自のゲーム用語まで飛び出し、沢渡は両手で頭を抱え込んでしまった。
やっと聞こえた乙女ゲーみたいな顔面という言葉に俺は内心で首を傾げる。自分の顔がどういう造形をしているかなど意識したこともないが、少なくともそんな甘ったるいジャンルに分類されるようなものではないはずだ。
どうにも腑に落ちないが、これ以上彼女の謎のゲーマー心理を深掘りしても事態は解決しそうにない。
「何だかよくわからんが、疑問は解消したんだし勉強に戻るぞ。沢渡、お前もせっかく来たんだから参加しろ」
俺はひどく実務的にそう告げると、黒部とは反対側にある自分の隣の椅子をガラッと引いた。
その的を射ない俺の言葉に、沢渡は勢いよく顔を上げ、般若のような形相でこちらを睨みつけてきた。
「はぁ!?オーガ、お前マジで言ってんの!?今のあてぃしの残りHP考えろよ!ゼロどころかマイナス振り切ってんだよ!いったい誰のせいだと思ってんの!」
橙色の瞳の端にうっすらと涙を滲ませながら、牙を剥いてギャーギャーとキャン吠えしてくる。だが、誰のせいと言われても、何が何やらわかっていない俺としては対応のしようがない。
「とりあえず座れよ。お前も最近ゲームばっかりで成績マズイんだろ。赤点なんか取ったら、二階堂にこってり怒られるぞ」
「うぐっ……! それはっ……! そうだけどさぁ……!」
二階堂ヒロの説教という恐怖のカードを切られると、沢渡は悔しそうに唸り声を上げた。
引かれた椅子と、未だに顔から火が出そうなほど赤面して固まっている黒部を交互に見比べ、沢渡は「あーっ!」とわしゃわしゃと派手に自分の頭を掻き回す。沢渡の中で、凄まじい葛藤が繰り広げられているのがわかった。
散々うんうんと悩み、ぶんぶんと首を振って何かを振り払った沢渡は、やがて半ばヤケクソ気味に叫んだ。
「あーもうわかった! やればいいんでしょ! やれば!」
ドカッ!と乱暴な音を立てて、沢渡は俺の隣の席に座り込んだ。
そして、カバンからテキストを引っ張り出すと同時に、机の下で俺の脛をゲシゲシと容赦なく蹴り飛ばしてきた。
「痛っ、お前何すんだ」
「うっさいアホ!ゴリラ!ほら、座ってやったんだから早く教えろよ!」
「言っとくが、俺は結構アホだぞ」
「んなことわかってっし!アホ!」
理不尽な八つ当たりと蹴りを食らいながら、俺は深く、今日一番の重いため息をついた。
隣では沢渡が、テキストを開きながら「どんな拷問だよぉ……マジでクソゲー……」と、未だに小声でぶつぶつと文句を垂れ続けている。
そんな騒がしい俺たち三人の様子を見て、正面の席でようやく石化から立ち直った桜羽たちが、これ見よがしに顔を突き合わせてヒソヒソと内緒話を始めた。
「ココちゃん……なんだか可哀想……」
「大鐘さん、絶対そのうち刺されますよねー」
「ええ。その推理だけは、間違いなく当たってますわ」
ひそひそ声のくせに、俺にだけははっきりと聞こえる絶妙な音量で放たれる容赦のない言葉たち。
刺される覚えなど全くない。俺はもう一度息を吐き出すと、静かに英単語の羅列へと視線を落とした。
色々あったが、ようやく本来の目的であるテスト勉強が再開されたのだった。
ポケットの中で、ブーと短くスマホが震えた。
ペンを置き、こっそりと画面を確認すると、通知画面には二階堂ヒロからのメッセージが表示されていた。
『SNSの騒ぎは、すでにこちらで対処を始めている。私の確認不足で面倒な事態に巻き込んでしまって、本当にすまない。事態の収拾は私が請け負う。君が動く必要はない』
相変わらず、文面からでも彼女の生真面目さと毅然とした態度が伝わってくるような、固い文章だ。
本来なら俺や蓮見が動くべきなのかもしれないが、学園内SNSのアカウントすら持っていない当事者である俺が下手に弁明するより、生徒会長であり事情を正確に把握している彼女に一任した方が、間違いなく火消しは早いはずだ。
すべての後始末を丸投げしてしまうのは少し申し訳ない気もしたが、ここは彼女に素直に甘えることにした。
『すまん、助かる。よろしく頼む』
それだけ短いお礼のメッセージを打ち込んで送信し、俺はスマホの画面を暗くしてポケットへと滑り込ませた。
結構お気に入りの回です。ココちゃんごめんねって言いながら書いてました。口説くシーンは毎回筆が乗る乗る……えっ、口説くシーンも7回書けるんですか!?誰か助けてくださいって感じです