まのこい天秤   作:雪無い

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 いつも感想評価誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシくれると嬉しいです

 ナノカルートの追加エピソードです。ココちゃんゲーム回とテスト勉強回の間にこんなお話がありましたよって感じです。お姉ちゃんの名前出るの超絶待ってました。






【追加エピソード】3.5話『なのちゃんとお姉ちゃん』

 

 放課後のグラウンドには、冷たい風が吹いていた。

 校舎の影は長く伸び、土の上に薄い青色の影を落としている。部活動の声も遠く、俺と黒部の間には、ボールが革に収まる乾いた音だけが規則正しく響いていた。

 

「行くぞ」

「……ええ」

 

 俺が軽く腕を振ると、ボールは低い軌道で黒部の胸元へ吸い込まれていく。

 

 ぱしん、と。

 小気味いい音が返ってくる。黒部は少しもたつきたがらもしっかり捕球し、ほんの少しだけ間を置いてから、こちらへ投げ返してきた。

 綺麗な球だった。

 速すぎず、遅すぎず。けれど、指先にしっかりと意思が乗っている。受ける側の胸元へ、迷わず届く球。

 最初の頃と比べると、ずいぶん変わったと思う。

 

「……どうしたの?」

 

 俺が少し見ていたせいか、黒部が首を傾げた。

 

「いや。いい球投げるようになったなと思って」

「……そう」

 

 短い返事。けれど、黒部の視線は少しだけ逸れた。俺は笑いそうになるのを堪えながら、もう一球投げた。

 今度は少しだけ外へ逃げる球。黒部は一歩横へ動き、丁寧にグラブを出した。

 ぱしっ、と音がした直後。

 

「……あ」

 

 黒部が小さく声を漏らした。

 見ると、グラブの捕球面の紐が一本、緩んでいる。完全に切れてはいないが、革紐が伸び、隙間ができていた。

 

「大丈夫か?」

 

 俺は歩み寄り、黒部の手元を覗き込んだ。

 

「……紐が、少し」

「ああ。だいぶ使い込んでるな」

「古いものを借りてるから」

 

 黒部はグラブを外し、少しだけ名残惜しそうに掌の上で見つめた。

 その横顔は、普段と同じく静かだった。けれど、そこにある感情は何となく分かった。

 

 ただの道具ではない。

 何度もボールを受けて、投げて、少しずつ手に馴染ませてきたものだ。借り物でも、彼女にとってはちゃんと時間の積み重なったグラブなのだろう。

 

「応急処置ならできるが、そろそろ紐交換した方がいいな」

「……そう」

 

 黒部はグラブの紐を指先でなぞった。それから、少しの沈黙のあとで、俺を見上げる。

 

「大鐘くん」

「どうした?」

「今度、付き合ってもらえるかしら」

 

 あまりにも自然な言い方だったので、一瞬、何に付き合うのか分からなかった。

 黒部はグラブを胸元に抱え直し、静かに続ける。

 

「そろそろ、自分用のグラブが欲しいと思っていた頃だから」

「……」

 

 その言葉が、思っていた以上に胸に来た。

 自分用のグラブ。それはつまり、黒部がこれからも投げるつもりでいるということだ。

 俺は、少しだけ返事が遅れた。

 

「……もちろん付き合う」

 

 そう答える声が、自分でも分かるくらい弾んでいた。黒部が瞬きをする。

 

「嬉しそう」

「嬉しいからな」

「……そう」

 

 黒部はまた視線を逸らした。けれど今度は、口元がほんのわずかに緩んでいた。

 

「なら、お願いするわ」

「ああ。ちゃんと選ぼう。手に合うやつを」

 

 俺がそう言うと、黒部はグラブをもう一度見下ろし、小さく頷いた。

 

「……ええ」

 

 冬の風が、グラウンドを吹き抜ける。

 俺たちはそのあと、紐の緩んだグラブを気にしながらも、もう少しだけキャッチボールを続けた。

 ぱしん、と乾いた音が鳴るたびに、次の休日の予定が少しずつ現実になっていく気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 休日のショッピングモールは、午前中だというのにすでに多くの人で賑わっていた。

 家族連れ、学生同士、買い物袋を提げた客たち。吹き抜けの広場には明るい音楽が流れ、ガラス張りの天井から差し込む光が、白い床を柔らかく照らしている。

 

 俺は待ち合わせ場所に指定した大型書店の前で、スマートフォンの時刻を確認した。

 約束の五分前。俺が少し早く着いたつもりでも、先に待っていそうな気がしていた。まだ彼女は来ていない。

 そう思って顔を上げた時、人混みの向こうに、小さな黒い影が見えた。

 

 最初は、黒部だとすぐには分からなかった。

 

 黒いキャスケット帽。肩口でふわりと揺れる黒髪。白いブラウスの上から、淡いグレーのカーディガンを羽織っている。下は黒を基調にした段のあるスカートで、歩くたびに柔らかく裾が揺れていた。肩には小さなショルダーバッグ。足元もきちんと整っていて、全体的に落ち着いた色合いなのに、どこか丁寧で、普段よりずっと女の子らしく見える。

 

 いつもの制服や、キャッチボールの時の動きやすい服装ばかり見ていたせいだろうか。

 新鮮だった。というか、かなり来た。

 

 黒部ナノカという少女は、普段から静かで、表情の変化が少なくて、どこか夜の水面みたいな雰囲気がある。けれど今日の格好は、その静けさをそのまま外へ出したようだった。派手ではない。目立つための服ではない。それなのに、視線が自然と引き寄せられる。

 

 黒い帽子の影から覗く白い肌。いつもより少しだけ整えられた髪。胸元で控えめに揺れるリボン。袖口から覗く細い指。

 

 俺は思わず視線を逸らした。

 キャッチボールの時は、ボールの軌道や肩の動きばかり見ている。だから、こういうふうに真正面から女の子として意識させられると、どう反応すればいいのか分からなくなる。

 

 その黒部が、俺を見つけて足を止めた。ほんの少しだけ目を細める。それから、こちらへ静かに歩いてきた。

 

「待ったかしら」

「いや。今来たところだ」

 

 反射的にそう答えてから、俺はもう一度、彼女の姿を見てしまった。

 黒部は不思議そうに首を傾げる。

 

「……どうしたの?」

「いや」

 

 言葉が詰まる。

 グラブを選びに来ただけだ。今日は別に、そういう意味の外出ではない。ないはずだ。少なくとも、黒部はそういうつもりで誘ったのだろう。

 けれど、だからといって何も言わないのは違う気がした。

 

「その服、似合ってる」

 

 言った瞬間、自分でも少し驚いた。黒部も、少しだけ目を見開いた。

 

「……そう」

 

 返事は短かった。

 いつもの黒部らしい、感情の読み取りにくい声。けれど、帽子の下から覗く耳の先が、ほんの少し赤くなった。

 

「動きにくくないか?」

「大丈夫。……今日は、投げないから」

「まあ、そうだな」

「でも」

 

 黒部は、ショルダーバッグの紐を両手で軽く握り直した。

 

「大鐘くんに見てもらうから、少しだけちゃんとしたの」

 

 それは、ほとんど独り言みたいな声だった。けれど、俺の耳にははっきり届いた。

 胸の奥を、何かがまっすぐに叩いた気がした。

 

「……そうか」

「ええ」

 

 黒部はいつものように淡々と頷く。だが、その横顔はほんの少しだけ、誇らしげにも見えた。

 俺は咳払いを一つして、モールの案内表示へ目を向ける。

 

「スポーツ用品店は三階だったな。早速そこでいいか?」

「ええ」

 

 黒部は小さく頷き、すっと隣に並んだ。とても近い。

 人混みではぐれないため。たぶん、それだけの理由だ。

 それだけのはずなのに、さっきから俺の心臓は、妙に余計な仕事をしている。

 

「行きましょう」

「ああ」

 

 俺はできるだけ平静を装って頷き、黒部と並んで歩き出した。

 今日はグラブを選びに来ただけだ。

 そう自分に言い聞かせながらも、隣を歩く彼女の黒いスカートが揺れるたび、俺はどうにも視線の置き場に困るのだった。

 

 

 

 

 自動ドアを抜けると、革とゴムと新品の布地が混ざったような匂いがする。壁一面にはバットが並び、奥には野球用品の棚が広がっていた。グラブ、スパイク、ボール、手入れ用のオイル。懐かしいものばかりで、足を踏み入れた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

 

「……いろいろあるのね」

 

 隣で黒部が小さく呟く。

 

「ああ。グラブだけでもポジションで結構違うからな。気になるポジションはあるか?」

 

 聞くと、黒部は迷わず答えた。

 

「ピッチャー」

 

 その返事は、彼女にしては珍しいくらい早かった。

 

「投げたいのか」

「ええ」

 

 黒部は棚に並んだグラブを、じっと見つめている。

 

「大鐘くんに、投げるから」

 

 静かな声だった。けれど、その言葉には妙に重みがあった。

 俺は一瞬だけ返事に困り、それからグラブの棚へ視線を戻した。

 

「なら、投手用だな」

 

 黒部は少し器用さに欠ける部分があると思う。細かいいくつもの動作を同時に処理するより、一つの動きに集中する方が良い。連携や複数の工程が連続する守備よりも、最初から投げることだけに意識を置けるピッチャーの方が合っている気がした。

 

 何より、黒部の球は綺麗だ。速さだけではない。自分の中にある感情を、まっすぐ相手に届けるような球。受けていると、投げることそのものに向いているのだと分かる。

 

「投手用なら、この辺りだ。内野用より少し大きめで、握りを隠しやすい。あとは手の大きさと、革の硬さだな」

「やっぱり、詳しいのね」

「まぁな」

 

 俺がいくつかグラブを手に取り、黒部の手の大きさに合いそうなものを選んでいく。黒部は一つ一つ、慎重に手を入れていた。

 その仕草が少しだけぎこちない。普段、借り物のグラブを使っていた時とは違う。これは自分のものになるかもしれない。そう思っているからか、彼女は革を傷つけないように、指先でそっと確かめるように触れていた。

 

「これは?」

「少し大きい。手首が遊んでる」

「……これは」

「悪くない。でも革が硬すぎるな。慣らすのに時間がかかる」

「じゃあ、これは?」

 

 黒部が手に取ったのは、棚の少し奥に置かれていたグラブだった。

 左右どちらの手にも対応できる、少し変わった形のもの。

 投手用としては珍しいが、完全にないわけではない。利き手を限定しない作りで、捕球面の形も左右対称に近い。

 

「両利き用か」

「……これがいいわ」

 

 黒部は、そのグラブに手を入れたまま言った。

 

「珍しいな。右でも左でも使えるタイプだけど、普通はどちらかに絞った方が扱いやすいぞ」

「分かってる」

 

 黒部は自分の手元を見つめていた。

 

「でも、これがいい」

 

 理由は聞かなかった。黒部がそう言う時は、もう決めている時だ。それに、彼女がわざわざ両利き用を選ぶことには、きっと彼女なりの意味があるのだろう。

 

「なら、それにしよう」

「いいの?」

「ああ。手にも合ってる。軽すぎず、重すぎない。最初は少し扱いにくいかもしれないけど、きっと馴染む」

 

 黒部はグラブを胸元に抱えた。ほんの少しだけ、表情が明るくなったように見えた。

 目元も口元もほとんど変わっていない。けれど、長く一緒にいると分かる。黒部は今、かなり気分が上がっている。

 

「……買うわ」

「決断早いな」

「欲しかったから」

 

 レジで会計を済ませる間も、黒部は袋に入ったグラブから目を離さなかった。

 店員に手入れ用のオイルとボールも勧められたので、それも一緒に買う。初めての自分用の道具としては、悪くない一式だ。

 

 店を出てすぐ、黒部は袋からグラブを取り出した。

 

「大鐘くん、投げに行きたいわ」

「今?」

 

 黒部は当然のように頷いた。

 新しいグラブを片手に、わずかに目を輝かせているように見える。

 その気持ちは分かる。新しい道具を買ったら、すぐ使ってみたくなる。

 

 ただ。俺は彼女の姿を上から下まで見た。

 黒いキャスケット帽。淡いカーディガン。綺麗に揺れるスカート。小さなショルダーバッグ。完全に休日のお出かけ用の服装だ。

 

「……その格好でか?」

 

 黒部は自分の服を見下ろした。

 

「……投げられない?」

「投げられなくはない。けど、今日はやめておこう。スカートだし、汚れたら困るだろ」

「少しだけ」

「少しだけで終わる顔じゃない」

 

 俺が言うと、黒部は黙った。図星だったらしい。

 

「それに、最初はちゃんと慣らしてからの方がいい。いきなり硬いまま使うと、変な癖がつく。今日は道具を買う日。投げるのは次にしよう」

 

 黒部はしばらくグラブを見つめていた。それから、少しだけ残念そうに頷く。

 

「……分かったわ」

 

 そう答えると、黒部はグラブをもう一度大事そうに袋へ戻した。

 その声は相変わらず静かだった。けれど、どこか満足げだった。

 

 俺はその横顔を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 黒部が、自分の道具を持つ。そして俺に投げる日を、楽しみにしている。

 それだけで、今日ここへ来た意味は十分すぎるほどあった。

 

 

 

 グラブを買い終えたあとも、俺たちはしばらくスポーツ用品店の中を見て回っていた。

 せっかく来たから、という黒部の提案だった。もっとも、提案した本人は新しいグラブの入った袋を胸元に抱えたまま、どこか満足げな顔をしている。あれだけで今日の目的はほとんど果たされたのだろう。

 

 野球用品の棚を抜けた先に、バット売り場があった。

 金属バット、木製バット、トレーニング用の重いものから、少年用の軽いものまで。壁にずらりと並ぶその光景を見て、俺は思わず足を止めた。

 

「少しだけ見ていっていいか?」

「ええ」

 

 言いながら、俺は一本の金属バットを手に取った。

 グリップに指をかけた瞬間、懐かしい感覚が手のひらに戻ってくる。

 ミットとは違う重み。腕の延長にある硬い一本の線。ボールを受ける道具ではなく、打ち返すための道具。

 

 近くには、スイングスピードを測れる小さな試打コーナーが設置されていた。安全用のネットに囲まれたスペースで、センサーの前で素振りをすると速度が表示されるらしい。

 

「やるの?」

「いや、気になっただけ」

「……見たいわ」

 

 黒部は即答した。

 俺はバットを持ったまま、彼女を見る。

 

「俺のスイングを?」

「ええ」

 

 その目は静かだった。

 けれど、グラブを選んでいた時と同じくらい真剣だった。断る理由はなかった。

 

「じゃあ、一回だけな」

 

 試打コーナーに入る。

 足元のマットに立ち、軽くバットを構えた。

 以前なら、この時点で胸の奥に重たいものが沈んでいたはずだ。野球の動作を身体に戻すたび、過去の記憶まで一緒に引きずり出されるようで、どこか息苦しかった。

 だが今は、不思議とそうでもない。

 紫藤を連れてバッティングセンターに通い始めたからだろうか。

 俺は息を吐き、バットを軽く揺らした。

 

「……大鐘くん」

 

 ネットの外から、黒部がこちらを見ている。その視線を感じた瞬間、少しだけ背筋が伸びた。

 格好悪いところは見せたくない。そう思ってしまった自分に、少し笑いそうになる。

 

 足を開く。グリップを握り直す。肩の力を抜く。

 見えない投球を、頭の中に描いた。

 黒部が投げる球。静かで、まっすぐで、どこか深いところから届く球。

 

 それを、打つ。

 

「っ──!」

 

 バットが空気を裂いた。乾いた音が、ネットの内側に鋭く響く。遅れて、測定器の電子音が鳴った。

 表示された数字を見て、近くを通りかかった店員が「おっ」と声を漏らす。

 自分でも、思ったより悪くない数値だった。

 

「……ちゃんと振れるもんだな」

 

 俺がそう呟くと、黒部は何も言わずにこちらを見ていた。普段より少しだけ、目が大きく開いている。

 

「どうした?」

 

 ネットから出ると、黒部は小さく瞬きをした。

 

「……速い」

「まあ、経験者だからな」

「空気が切れていたわ」

「そんな大げさな」

 

 俺が苦笑すると、黒部は視線をわずかに逸らした。そして、ほとんど息に混じるくらいの小声で呟く。

 

「……グリムリーパーね」

「え?」

 

 聞き返した瞬間、黒部の肩がぴくりと跳ねた。

 

「何でもないわ」

「今、グリムリーパーって言わなかったか?」

「……幻聴よ」

 

 黒部はきっぱりと言い切った。だが、その耳は少し赤い。

 なるほど。今のは、踏み込まれたくない領域だったらしい。

 変化球を教えた時もそうだったが、彼女にはそういう趣味があるのだろうか。

 

「鎌、みたいな?」

「……言ってないわ」

「かっこいいもんな、死神」

「忘れてちょうだい」

「悪くないと思う。空気を刈る感じは、ちょっと分かる」

「忘れて」

 

 二度目は少しだけ強かった。

 黒部は買ったばかりのグラブの袋を抱え直し、ぷいと横を向く。

 表情はほとんど変わらないのに、明らかに照れているのが分かった。

 俺はそれ以上からかうのをやめた。ただ、胸の奥が少し温かかった。俺のスイングを見て、黒部がそんな言葉を漏らした。それが、妙に嬉しかった。

 格好いいと言われたわけではない。むしろ、かなり独特な表現だった。

 けれど、黒部の中にある何かに、俺の振ったバットが届いたのだと思えた。

 

「……また、振る?」

 

 黒部が横を向いたまま尋ねる。

 俺は笑いながら、もう一度バットを握り直す。

 

「ああ。もう一回だけ」

 

 そう言って試打コーナーへ戻ると、黒部は今度こそ隠す気もないほど真剣な目で、俺の構えを見つめていた。

 

 

 バット売り場を離れてからも、俺の中には妙な熱が残っていた。

 少し懐かしくなって、一本バットを握っただけ。バッティングセンターに通い始めていたとはいえ、本気で何かを取り戻したつもりはなかった。

 なのに、測定器の数字を見た店員が驚き、近くにいた客が足を止め、黒部がもう一度見たがったため、思った以上に場が盛り上がってしまった。

 

「……さて」

 

 スポーツ用品店の前に出たところで、俺はモールの吹き抜けを見下ろした。

 

「思ったより早く終わったな」

「そうね」

 

 黒部は新しいグラブの入った袋を、大事そうに胸元へ抱えている。

 表情はいつも通り静かだが、さっきから時々、袋の中を確認するように視線を落としている。

 かなり気に入ったらしい。

 

「このまま帰るには早いし、どこか寄るか?昼飯にはまだ少し早いが」

 

 俺が聞くと、黒部は少しだけ考えるように視線を横へ流した。

 

「見たいものがあるわ」

「何だ?」

「料理道具よ」

 

 黒部は趣味はたしかお菓子作りだった。

 本人の雰囲気にも合っている。静かなキッチンで、分量をきっちり量り、淡々と作業を進める黒部。粉をふるう姿や、オーブンの前で焼き上がりを待つ姿は、容易に想像できる。

 派手さはなくても、確かなものを少しずつ形にしていく作業は、黒部に似合う気がした。

 

「いいな。行こう」

「いいの?」

「もちろん。今日は買い物に付き合う日だからな」

「助かるわ」

 

 黒部は小さく頷いた。

 それから俺たちは、フロア案内を確認して生活雑貨の店へ向かった。

 白い照明に照らされた店内には、食器、調理器具、保存容器、ラッピング用品まで、見ているだけで用途の分からないものが山ほど並んでいた。

 

 黒部はその中で、すぐに空気を変えた。

 さっきまでグラブを選んでいた時とは、また違う集中の仕方だった。

 小さな泡立て器を手に取り、重さを確かめる。シリコンベラの先端を指で押して、弾力を見ている。ステンレスのボウルを持ち上げて、深さと角度を目で測る。

 

 ひとつひとつの動きが、丁寧だった。

 俺には違いがほとんど分からない道具たちを、黒部は真剣に見比べている。値段だけではなく、手に持った時の感覚や、洗いやすさ、収納のしやすさまで考えているようだった。

 

「本格的だな」

 

 思わずそう言うと、黒部は手にしていた小さな粉ふるいから目を上げた。

 

「そうかしら」

「ああ。俺には違いがわからない」

「違うわ」

 

 即答だった。

 

「使いやすい道具だと、作業が乱れにくい。作業が乱れないと、味も安定する」

「なるほど」

 

 野球道具と同じだな、と少し思った。どれも、ただの物ではない。やりたいことを形にするために、身体と感覚を繋ぐものだ。

 

「……大鐘くん」

「ん?」

「これ、どう思うかしら」

 

 黒部が見せてきたのは、小さな焼き菓子用の型だった。花のようにも、星のようにも見える形をしている。

 

「可愛いんじゃないか」

「味には関係ないけれど」

「でも、食べる時に少し嬉しいだろ」

 

 そう言うと、黒部は型を見つめたまま、少しだけ黙った。

 

「……そうね」

 

 その声が、わずかに柔らかかった。

 黒部がお菓子を作る姿を想像して、やっぱり似合うと思った。

 静かで、丁寧で、言葉は少ないけれど、ちゃんと誰かのことを考えている。派手な料理ではなく、少し小さくて、手のひらに収まるような焼き菓子を黙々と作っているイメージが鮮明に浮かんだ。

 

「今度、作ったら食べさせてくれ」

 

 何気なく言うと、黒部の指が止まった。

 

「もちろんよ」

 

 返事は短い。けれど、黒部はその焼き型をそっと買い物かごへ入れた。

 

 その時だった。

 すぐ近くの通路で、カタン、と軽い音がした。何かが床に落ちた音だ。

 反射的にそちらを見ると、通路の角に一人の少女が立っていた。

 

 淡い銀色の髪。黒いリボン。整った顔立ち。ぱっと見ただけなら、どこか近寄りがたいほど綺麗な少女だった。彼女の足元には、落としたらしい小さな計量スプーンのセットが転がっている。

 

 その少女は、こちらを見たまま完全に固まっていた。いや、正確には、俺ではない。黒部を見ていた。

 黒部もまた、その少女に気づいて目を瞬かせた。

 

「……あっ」

 

 黒部が、ぽつりと呟く。

 その瞬間、少女の顔から血の気が引いた。

 彼女は足元に落ちた計量スプーンのことなど忘れたように、震える指で黒部を指差す。

 

「な、なのちゃん……!?」

 

 少女は、愕然としていた。

 買い物中に偶然知り合いを見つけたというより、存在するはずのないものを目の当たりにしてしまったみたいな顔だった。落とした計量スプーンのセットが床の上で小さく揺れているのに、それを拾う余裕すらないらしい。

 

「……お姉ちゃん」

 

 黒部が、ぽつりと呟いた。

 

 その声は小さかった。けれど、いつもよりほんの少しだけ弾んでいた。

 俺は思わず、隣に立つ黒部を見る。

 黒部の表情は、普段と大きく変わらない。驚いているようにも、慌てているようにも見えない。けれど、その目元はわずかに柔らかく、口元もほんの少しだけ緩んでいた。

 

 お姉ちゃんと聞いてすぐ、彼女の目元が黒部に少し似ていることに気づいた。

 驚いた時の瞳の開き方や、言葉を探すように唇がわずかに動くところ。黒部が感情を強く表に出したら、もしかするとこんな顔になるのかもしれない。

 

 俺がそんなことを考えていると、黒部がこちらを向いた。そして、無言で俺の肩をつついた。

 

「黒部のお姉さん?」

「ええ」

 

 黒部は小さく頷いた。

 

「黒部ホノカ。私の、姉よ」

 

 少しだけ声が低い。照れているのか、姉の前だからなのか、黒部は必要最低限の紹介だけをして、それから少しだけ視線を逸らした。

 自己紹介をするべきだろうか。

 そう思って一歩前に出ようとしたところで、黒部ホノカと紹介された少女が、ようやくこちらへ視線を移した。

 

 白い指先が、胸元のリボンをぎゅっと掴んでいる。

 

 綺麗な顔立ちなのに、今は目を大きく見開き、完全に混乱していた。けれど、その視線だけは鋭い。俺を上から下まで一瞬で観察し、まるで危険物かどうかを判定するように細められる。

 

「……男の子」

「はい」

 

 反射的に返事をしてしまった。

 すると、お姉さんはさらに衝撃を受けたように一歩後ずさった。

 彼女はもう一度、黒部を見る。

 今度は責めるような、問い詰めるような、それでいて信じたくないものを確認するような目だった。

 

「なのちゃん」

「どうしたの?」

「今日は、お友達と遊びに行くって言ってたよね」

「うん、言ったよ」

「男の子だったの!?」

 

 お姉さんの声が、店内に響きそうな勢いで跳ね上がった。

 近くにいた客がちらりとこちらを見る。俺は少しだけ肩身が狭くなったが、黒部は相変わらず淡々としていた。

 

「そう」

「そう、じゃないよ!?お姉ちゃん、何も聞いてないんだけど!?」

「お友達よ?」

「男の子とは聞いてないもん!」

 

 お姉さんは両手で頭を抱えた。

 見た目の落ち着いた印象とは違い、かなり表情がよく動く人らしい。声も明るく、反応も大きい。黒部と姉妹だと言われなければ、性格だけではまず結びつかなかったかもしれない。

 

 けれど、黒部の方も、いつもと少し違っていた。

 俺や沢渡と話す時よりも、ほんの少しだけ遠慮がない。姉相手には、少し口調が変わるのか。

 そう思うと、なんとなく嬉しくなった。黒部の知らなかった一面を、また一つ見られた気がしたから。

 

 そんなことを考えていると、お姉さんは頭を抱えたまま、こちらを睨んでいた。正確には、睨もうとしていた。

 けれど、その瞳は動揺で揺れていて、威圧感よりも混乱の方がずっと勝っている。現実をまだうまく飲み込めていないらしい。

 

 とりあえず、俺はこれ以上警戒させないよう微笑んでおくことにした。

 

「はうっ!」

 

 お姉さんが妙な声を漏らした。

 

「……じゃなくて、君!名前は!?」

「大鐘ヒカリです。妹さんには、いつもお世話になっております」

 

 俺は軽く頭を下げた。

 

「あっ、礼儀正しい。……じゃなくて!」

 

 お姉さんは一瞬だけ感心しかけた顔になったが、すぐにぶんぶんと首を振って自分を取り戻した。

 

「うちのなのちゃんと何してたのかな!?」

 

 情緒が忙しい人だ。

 俺が答えるより先に、黒部が一歩前に出た。そして、持っていた紙袋の口を少しだけ開き、中に入った新しいグラブをお姉さんへ見せる。

 

「野球をしたくて、買い物に付き合ってもらってたの」

「な、なのちゃんが、スポーツ!?なのちゃんが!?」

 

 お姉さんの声が裏返った。

 その反応は、俺には少し意外だった。だが、考えてみれば当然かもしれない。物静かで、元々の趣味がお菓子作りなのだ。どちらかというと普段はインドアなのだろう。

 

「それは、その……健全!とても健全だけど!でも、待って、なのちゃんが自分用のグラブを欲しがるくらい野球好きだったなんてお姉ちゃん聞いてない!」

「言ってないから」

「またそれ!」

 

 彼女は胸を押さえ、よろめくように一歩下がった。

 

「なのちゃんが……なのちゃんが染められちゃったんだ……。男の子に……でも健全……!健全なのが逆に受け止めきれない……!」

「お姉さん、大丈夫ですか」

「君のお姉さんじゃありません!」

 

 お姉さんが即座に食いついてきた。

 

「まだ認めてません!なのちゃんとお休みの日にお出かけする男の子なんて、お姉ちゃん審査では要観察対象です!」

「要観察……」

「そうです!油断したらなのちゃんを遠い世界に連れていきそうな顔をしてます!」

「そんな顔してますか」

「してます!礼儀正しくて、真面目そうで、なのちゃんが自分から庇いそうな顔してます!」

 

 それはもうほとんど褒め言葉ではないだろうか。俺が返答に困っていると、黒部が静かに息を吐いた。

 

「お姉ちゃん」

 

 その一言で、お姉さんの動きが止まる。

 黒部はグラブの入った袋を胸元に抱いたまま、まっすぐに姉を見た。

 

「私が決めたことだから」

 

 声は静かだった。けれど、揺らがなかった。

 

「このグラブ、私が欲しいと思ったの。連れてこられたりしたわけじゃないの」

「な、なのちゃん……」

 

 お姉さんの表情が、少しずつ変わっていく。

 さっきまでの大げさな混乱が、ゆっくりとほどけていく。代わりに浮かんだのは、驚きと、寂しさと、どうしようもない嬉しさが混ざったような顔だった。

 黒部はほんの少しだけ、柔らかく微笑んだ。

 

「もう、守られてばっかりじゃないからね」

 

 その言葉は、お姉さんに向けられたものだった。

 ずっと黒部を心配して、守ってきた姉にだけ届けばいい、そういう声だった。

 お姉さんの瞳が、みるみるうちに潤んでいく。

 

「な、なのちゃん……そんな……そんな顔で……お姉ちゃんに……」

 

 彼女をは口元を押さえた。

 

「成長してる……!なのちゃんが、お姉ちゃんの知らないところで成長してる……!」

 

 そして、次の瞬間。

 

「なのちゃんが反抗期だぁぁぁぁ!」

 

 彼女はわんわん泣きながら、通路の向こうへ駆け出した。反抗期ではないだろう。

 

「お姉ちゃん!?」

「今日はダメ!お姉ちゃん、今日はこれ以上受け止めきれない!帰って心の整理をします!」

 

 途中で一度だけ振り返り、彼女はびしっと俺を指差した。

 

「ヒカリくん!」

「はい」

「お姉ちゃん、まだ認めませんからね!」

 

 店内に響くほどの大きな声だった。

 けれど、その直後。お姉さんは少しだけ顔を背け、聞き逃しそうな小さな声で付け加えた。

 

「……でも、ありがとね」

 

 それだけ言うと、お姉さんは涙目のまま、今度こそ本当に走り去っていった。

 残された俺たちの足元には、彼女が落とした計量スプーンのセットだけが転がっている。

 

「……忙しい人だったな」

「うん」

 

 黒部は静かに頷いた。

 俺は床の計量スプーンを拾い上げ、お姉さんが消えた通路の先を見た。彼女が買ったものだ。軽く拭いて、黒部に手渡した。 

 

「良いお姉さんだな」

 

 そう言うと、黒部は少しだけ目を細めた。

 

「うん」

 

 短い返事。けれど、その声はとても穏やかだった。

 

「自慢のお姉ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 








 書店コラボの服はとても嬉しいよねの回。ノアとミリアは難しい系なので書くのが難しいです。

 メルルより先にお姉ちゃん登場したってほんまですか
 次はナノカルート後日談を投稿します。とても面白くなる予定です
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