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またもやナノちゃん不在回。しかも趣味回
重くのしかかっていた期末テストという名の暗雲は、ようやく学園から去っていった。
黒部をはじめとする少女たちが、放課後の教室で手取り足取り、それこそ甲斐甲斐しく勉強を教えてくれたおかげで、なんとか赤点という最悪の事態を回避することができた。それどころか、想定より遥かに高い点数が返ってきた。俺の壊滅的な基礎学力に愛想を尽かさず、連日付き合ってくれた彼女たちの根気強い指導がなければ、今頃俺は補習地獄の底で呻いていただろう。
テスト返却が終わると同時に、学園は逃げるような早さで冬休みに突入した。
十二月も中旬から下旬。本格的な冬将軍の到来を告げるように、街を吹き抜ける風は刃のように鋭く冷たくなっていた。どんよりとした鉛色の空の下、コートの襟を立てて歩く人々の吐く息は一様に白く、年末特有の忙しなさとクリスマスを控えた浮き足立った空気が、冷え切った街全体を覆い尽くしている。
ここ最近はずっと机にかじりついてばかりだった。凝り固まった身体と脳をリフレッシュさせるため、気晴らしに俺は街の外れにあるバッティングセンターへと足を運んでいた。
色褪せた自動ドアを抜けると、むせ返るような機械の油の匂いと、フロアの隅で焚かれている石油ストーブの匂いが混ざり合った、この場所特有の空気が鼻腔を突く。冬のバッティングセンターは客足もまばらで、ピッチングマシンの稼働する重低音と、時折響く鈍い打球音だけが、ひんやりとした広い空間に空虚に反響していた。
俺は空いている待合のパイプ椅子に荷物を置き、硬く冷え切った身体をゆっくりとほぐし始めた。
アキレス腱をしっかりと伸ばし、肩甲骨周りの筋肉を意識しながら大きく腕を回す。関節が小さな音を立てるのを聞きながら、軽くステップを踏んで足先の感覚を確かめ、血流を全身に行き渡らせていく。
そうして少しずつ体温を上げながら、何気なくネット越しに他のケージを眺めていた時のことだ。
視界の端、少し離れた打席に、見覚えのある小柄な背中があることに気がついた。
黒のダボついたパーカーのフードをすっぽりと被り、そこから毒々しい赤のインナーカラーが混じった灰色の髪が覗いている。周囲を激しく拒絶するような、ひどく退廃的で影のあるそのシルエットは、間違いなく紫藤アリサのものだった。
彼女が入っているケージの上の電光掲示板は、『100キロ』の数字を赤々と光らせている。
以前、俺が半ば強引に打席に立たせた時は、一番遅い80キロのマシンだったはずだ。それが今日は、誰に言われるでもなく自らの意志でここへ足を運び、あろうことか球速のランクまで上げている。
機械の警告音が鳴り、ピッチングアームが回転して白球が勢いよく射出された。
紫藤は俺が教えた通りにバットを短く持ち、ボールを鋭い瞳で睨みつけながら懸命にバットを振り抜いた。
だが、さすがに100キロのスピードに対してスイングの始動が追いついていない。振り遅れたバットはボールを押し込むことができず──。
──ガコッ!
芯を完全に外し、金属バットの極端な根元付近にボールが直撃した鈍く重い音が、ケージ内に響き渡った。威力を失ったボールが、ボテボテと情けない軌道でネットの前に転がる。
「……だぁクソっ!」
マスク越しのくぐもった声で、紫藤は忌々しそうに悪態をついた。
根元で打たされたせいで、強烈な痺れが両手に走ったのだろう。彼女は痛みに顔をしかめながらバットから右手を離し、痺れを散らすように激しく手をブンブンと振っていた。
俺は自分の打席に入るのを後回しにして、影から紫藤のバッティングをしばらく見守ることにした。
空振りと打ち損じを繰り返しながらも、彼女は決して途中でバットを投げ出そうとはしなかった。痛む手をさすりながら、飛んでくるボールを赤い瞳で鋭く睨みつけ、食ってかかるように何度もスイングを繰り返している。その不格好だが熱のこもった姿から、俺はなぜか目が離せなくなっていた。
やがて規定の球数が終わり、マシンの駆動音が止まる。
紫藤は「ふぅ……」と小さく息を吐きながらバットをラックに戻し、ケージの外へと出てきた。
その瞬間、待合スペースのパイプ椅子に座ってこちらを見ている俺と、バッチリ目が合った。
紫藤の動きがピタリと止まる。そして、彼女の顔面がこれ以上ないほど露骨に歪み、心底嫌そうな、そして猛烈に動揺した表情へと変わった。
「な……ッ!? てめえ、なんでここにいんだよ! マジでストーカーかよ、見てんじゃねえよ!」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はただの常連で、息抜きに来ただけだ。あの日『誰が二度と行くかよ』って言ってたから、まさかいるとは思わなかったんだ」
痛いところを的確に突かれた紫藤は、黒いマスクの上からでもわかるほど顔を赤くし、バツが悪そうにサッと視線を逸らした。パーカーのポケットに両手を突っ込み、身を縮めるようにして鋭く舌打ちをする。
あんなに悪態をついていたくせに、一人でこっそり通って、しかも球速を上げて練習していたのだ。そのいじらしい事実がなんだか無性に面白くて、そして何となく嬉しくて、俺はどうしても口元が緩むのを抑えきれなかった。
「……あァ!? てめえ、何ニヤニヤしてんだよ! 気持ち悪ィんだよ、ぶっ飛ばすぞ!」
「いや、悪い。でも、前よりずっと良くなってるじゃないか。構えもサマになってきたし、ボールをしっかり前で見ようとしてるのが伝わったぞ」
真っ直ぐに褒められた紫藤は、一瞬だけ毒気を抜かれたように虚を突かれた顔をした。だが、すぐに照れ隠しのように眉間に皺を寄せ、フードを深く被り直して俺から顔を背けた。
「……うるせえ。知ったような口きいてんじゃねえよ。80キロの時は当たるようになったけど、100キロ超えたら全然前に飛ばなくなってイラついてた。あんなの、どうやって打つんだよ……」
苛立ちを隠せない声色でぼやく紫藤。だが、苛立ちながらも彼女は、自分の手のひらをじっと見つめ、何かを確かめるように指を曲げ伸ばししていた。
その白く小さな手のひらは摩擦で赤く腫れ上がり、指の付け根には不慣れなバットを何度も振り込んだ証である、真新しい傷の痕がいくつもできていた。
口では文句を言いながらも、彼女がどれだけ真剣にこの場所でバットを振り込んでいたのか。その痛々しい手が、何よりも雄弁に物語っていた。
「単純にスイングスピードが足りてないだけだな。球威に力負けしてるし、振り始めが間に合ってないんだ」
俺が率直に原因を指摘すると、紫藤はピクッと眉をひそめた。
スイングスピードを上げるというのは口で言うほど簡単ではない。バットを速く振るためには、単なる腕力だけでなく、下半身で作ったパワーを腰、体幹、そして腕からバットへと無駄なく伝える連動性が必要になる。それらを身につけるには、相応のトレーニングと反復練習が不可欠なのだ。
そんな現実的な、ある意味で身も蓋もない俺の解説を聞き、紫藤はあからさまに機嫌を悪くして、黒いマスクの上からでもわかるほど眉間に深いシワを刻んだ。
「チッ……理屈ばっかこねやがって。ムカつく。じゃあどうすりゃ打てるようになるんだよ」
「地道に素振りをして身体の使い方を覚えるか……もしくは、座学。見て自分の中で具体的なイメージを掴むかだな」
俺がそう言って手元のスポーツバッグからバット用の手袋を取り出すと、紫藤は訝しげに赤い瞳を細めた。
「……じゃあ、見せろよ。てめえのその偉そうなスイングをよ」
「この前俺が打ってるの、すぐ後ろの椅子から見てただろ」
「あァ? あの時はこんな棒切れ振り回すのなんて興味無かったから、ちゃんとは見てねえよ。音だけだ」
吐き捨てるように言い放ち、紫藤はそっぽを向いた。
裏を返せば、今は興味があるということだろうか
そう口に出して突っ込めば、間違いなく「誰が興味あるか!」と怒り出して蹴りの一つでも飛んできそうだった。俺はせっかくの彼女のやる気を削がないよう、あえて余計なことは言わずに黙っておくことにした。
「わかった。俺も打ちにきたわけだしな。ちゃんと見てろ」
「……うっせえ」
照れ隠しのように顔を背けた紫藤を促し、俺はバッティングエリアの奥へと歩を進めた。
ダボついたパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、紫藤が少し距離を空けてついてくる。俺が立ち止まったのは、フロアの最奥にある打席の前だった。
見上げた電光掲示板には、『140キロ』の文字が赤々と点灯している。このローカルなバッティングセンターにおいて、最速に設定されたケージだ。
「おい、そこは……」
紫藤が赤い瞳を見開き、かすれた声を漏らした。自分が手も足も出なかった100キロよりも、さらに40キロも上の未知の領域。
「どうせなら一番速いの見ていけ」
俺は硬貨を投入機に滑り込ませ、ラックからバットを引き抜いてケージの中へと足を踏み入れた。
打席に立ち、ホームベースの感覚を足の裏で確かめるようにマットを軽く擦る。両手にはめたバッティンググローブの感触を確かめ、グリップを握り直した。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら構えに入る。
その瞬間、俺の中で日常のスイッチが切り替わる。
視界が極限まで狭まり、マシンの射出口だけが鮮明に浮かび上がる。周囲の雑音は遠のき、自分の心音と、これから飛んでくる白球の軌道だけが世界を支配した。
ウィィィン……ガコンッ。
機械特有の駆動音が鳴り、ピッチングアームが鋭く振り下ろされた。
放たれた140キロの白球は、紫藤が打っていた球とは次元の違う、風を切り裂くような唸りを上げて迫り来る。
だが、俺の目にははっきりとその縫い目の回転まで見えていた。
左足を踏み込み、下半身で作った巨大なエネルギーを、腰、体幹、そして両腕へと一気に伝達させる。
無駄な力みは一切ない。ただ、最短距離でバットを出し、ボールの中心を完璧に撃ち抜く。
──カァァァンッ!!!!
耳を劈くような、爆発的な金属音がケージ内に轟いた。
芯で捉えられた白球は、打たれた瞬間に弾丸と化し、一直線にネットの奥深くに突き刺さる。的のど真ん中を打ち据える、ドゴォッという重い衝撃音がワンテンポ遅れて響き渡った。
ケージの外で見ていた紫藤が、ビクッと肩を跳ねさせ、黒いマスクの奥で息を呑むのが視界の端に映った。だが、俺の意識はすでに次の一球へと向かっている。
次々と射出される140キロの速球を、俺はただ弾き返し続けた。
力任せに振り回しているわけではない。紫藤に見せるために、あえて下半身の主導と、無駄のないフォロースルーを意識して、基本に忠実で滑らかなスイングを繰り返す。
それでも、身体に染み付いたアスリートとしての筋繊維が放つ打球は、暴力的なまでのスピードと破壊力を伴ってネットを揺らし続けた。
バットが空気を切り裂く鋭い風切り音と、ボールを粉砕するかのような快音だけが、薄暗いバッティングセンターを支配する。額にうっすらと汗が滲み、吐く息が白く熱を帯びていく。
ただ純粋な、野球という競技への熱だけをバットに乗せて。
やがて規定の20球が終わり、マシンの駆動音が静かに停止した。
「……よし」
最後のスイングの余韻を残したまま、俺はゆっくりと構えを解き、深く長い息を吐き出した。
心地よい疲労感と、掌に残る確かな芯の感触。
汗を拭いながらケージの入り口へと振り返る。
そこには、フェンス越しに俺のバッティングを食い入るように見つめていた紫藤が、まるで魔法にでもかけられたように硬直して立っていた。
ポケットから手は抜け落ち、黒いマスクの上から覗く赤い瞳は、極限まで見開かれている。
この前のように「興味がない」と目を逸らす余裕など微塵もない。本物の凄みと、圧倒的な力を目の当たりにした者の、純粋な驚愕と畏怖の表情がそこにあった。
「どうだった」
軽く息を整えながら、俺はバットを元のラックへと戻し、ケージの扉を開けて外へ出た。
「……こんなもん、参考にできるかよ」
呆然と立ち尽くしていた紫藤は、ハッと我に返ったように小さく後ずさりし、掠れた声を漏らした。
いつも彼女の全身から発せられている、周囲を威嚇するような刺々しい空気はすっかり鳴りを潜めている。黒いマスクの上から覗く赤い瞳は小刻みに揺れ、圧倒的な暴力にも似た本物のスイングを目の当たりにして、ただ純粋に気圧されているようだった。
「そうか? 結構見せるのを意識してたつもりだったんだが。まぁでも、俺とお前じゃ体格差とかもあるし、そのまま参考にするのは難しいか」
「別にそう言う意味じゃ……。チッ、まぁいい。飲み物買ってくる」
何かを反論しようとして言葉を飲み込んだ紫藤は、バツが悪そうに深くフードを被り直した。そして俺から逃げるように踵を返すと、フロアのずっと奥にある離れた自動販売機の方へと足早に歩き去っていく。
小さな背中見送ってから、俺は待合スペースのパイプ椅子にどっかと腰を下ろした。
少しばかり張り切りすぎたせいで、疲労感が全身の筋肉にじんわりと広がっていく。俺は目を閉じ、長く息を吐き出しながら、火照った身体をゆっくりと休ませていた。
そうして静かな休息の時間を過ごしていた、その時だった。
ウィィン、と自動ドアが開き、けたたましい笑い声と共に数人の集団がバッティングセンターに入店してきた。
足音の響き、服の上からでもわかる鍛えられた肉体。一目見ただけで、彼らがどこかの高校の運動部で、それも間違いなく現役でバリバリ鍛え込んでいる連中だとわかった。彼らの手には、この店の備え付けではない、使い込まれた自前の金属バットが握りしめられている。
俺は何気なく彼らの方へ視線を向け──そして、彼らが肩から下げている揃いのエナメルバッグの側面を見た瞬間。
全身の血の気が、一気に足元へと引いていくのを感じた。
「……は?」
そこに刺繍されていたのは、見間違えるはずもない、俺がかつて身を置いていた学校のロゴマークだった。
そして、騒ぎながら歩いてくる彼らの顔は、俺と同じ学年の、かつてのチームメイトたちそのものだったのだ。
俺が驚愕のあまりパイプ椅子に張り付けられたように静止していると、ふざけ合いながら歩を進めていた四人組も、こちらからの異様な視線に気がついた。
彼らの顔から、先ほどまでのヘラヘラとした笑みが一瞬にして消え失せる。
「お前、大鐘か?」
「は? マジかよ!? なんでこんな所に……」
元チームメイトたちの間に、ざわめきと、明らかな動揺が広がった。
無理もない。俺がかつて在籍していた地方の学校は、ここから遠く離れた県にある。当然、この場所は彼らの生活圏内ではない。
この近くで冬合宿でも張っていて、その息抜きで街へ降りてきたのだろうか。
ぐるぐると頭の中を疑問が駆け巡るが、俺の喉はカラカラに乾ききり、声の出し方を忘れたかのように言葉が出てこなかった。ただ、足元からじわじわと、何か気色の悪いものが這い上がってくるような錯覚に囚われている。
俺が顔を強張らせたまま黙り込んでいると、四人の中でも一際体格の良い、かつては俺とバッテリーを組んだこともある男が、顔に明確な敵意を張り付かせてこちらへズカズカと詰め寄ってきた。
「おい、無視してんじゃねえ。何とか言えよ」
見下ろすように投げかけられた声には、隠しきれない嫌悪感が混じっていた。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼らの顔を順番に見渡した。誰の瞳にも、裏切り者を見る冷たい光が宿っている。
「……別に。お前らに言う事なんて、何もないだろ」
俺は感情を押し殺し、極めて平坦な声でそう言い放った。
それか俺にできる精一杯の防衛本能だった。
「何だとコラ!」
だが、その冷めた態度が、彼らの逆鱗に完全に触れたらしい。
男の顔が怒りで真っ赤に染まり、エナメルバッグを床に放り出すと同時に、俺の胸ぐらを両手で乱暴に掴み上げてきた。ギリッと襟首が締まり、身体が前へと引き寄せられる。
「おい、やめとけって! こんな所で問題起こしたらマズイだろ!」
後ろにいた別のチームメイトが慌てて制止に入り、掴みかかった男の腕を引っ張る。
だが、彼の怒りの炎はそれしきの制止で収まるようなものではなかった。俺の胸ぐらを握る手はブルブルと小刻みに震え、その目に浮かんだ敵意はさらに鋭さを増していく。
「ふざけんな! お前が身勝手な暴力沙汰なんて起こすから、チームがめちゃくちゃになったんだろうが!」
叩きつけられたその言葉は、あまりにも純粋で、真っ直ぐな怒りだった。
彼らの中では、俺が暴力を振るい、俺がチームの和を乱し、俺がすべてを壊した悪人なのだ。彼ら自身は本気で「自分たちは被害者だ」と信じているからこそ、その怒りには一点の曇りも、疑いもない。
善意の刃が、俺の胸の奥底を無残にえぐっていく。暗く、重い感情が胃の腑に溜まり続けていくのを、俺はただ無抵抗に受け止めるしかなかった。
「お前のせいで、夏の予選は初戦敗退だ! 3年の先輩たちの進路も、夢も、全部お前がぶち壊したんだぞ! なのに……テメエはこんな所でヘラヘラ遊んでんのかよ! 罪悪感とかねえのかよ、このクズが!」
男の怒号が、静かなバッティングセンターに響き渡る。
反論は、なかった。
俺の選択、結果的に誰一人幸せにせず、彼らを敗北の底へ叩き落としてしまったのは、紛れもない事実だったからだ。俺はただ、胸ぐらを掴まれたまま、じっと彼らの憎悪に満ちた視線に耐え続けていた。
「おいてめえら、人のツレに何手ェ出してんだ」
地を這うような、底冷えのする低い声がフロアに響き渡った。
声のした方へ視線を向けると、そこには両手にスポーツドリンクのペットボトルを握りしめた紫藤が立っていた。
深く被ったフードの奥、黒いマスクの上から覗く赤い瞳は、いつも俺に向けている威圧的な態度とは次元の違う、剥き出しの殺気を孕んでいた。獲物の喉笛を食いちぎらんばかりのその鋭い眼光を放ちながら、彼女は躊躇うことなく真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。
「あ?」
唐突に現れた異様な凄みを持つ小柄な少女に、胸ぐらを掴んでいた男が一瞬だけたじろぎ、俺の襟首からパッと手を離した。
拘束が解け、俺は小さく咳き込みながら紫藤と向き直った。
「紫藤……」
「大鐘、なんで黙ってやられてんだよ。ウチがちょっと目ぇ離した隙に、雑魚に絡まれてんじゃねえぞ」
紫藤は忌々しそうに舌打ちをすると、俺を背中に庇うようにして半歩前に出た。手にしたペットボトルを近くのテーブルにドンッと乱暴に置き、パーカーのポケットに両手を突っ込んで元チームメイトたちを鋭く睨み上げる。
「……なんだよ、お前。大鐘の彼女か?」
「はっ、女に守られてるとか、お前何にも変わってねえじゃねえか。相変わらずダセえな大鐘」
紫藤の凄みに一瞬だけ怯んだ男たちだったが、相手が小柄な少女だと分かると、すぐにニヤニヤとした下劣な嘲笑を浮かべ始めた。彼らの中で、俺はチームを裏切った卑怯者というレッテルが完全に貼り付いている。だからこそ、どんな言葉をぶつけても許されると信じて疑っていないのだ。
「テメェら……マジでぶっ殺されてえのか?」
紫藤の赤い瞳が極限まで細められ、ギリッと奥歯を鳴らした。ポケットから手を出そうと、肩が微かに動く。本気で殴りかかろうとする彼女の喧嘩へのハードルは、一般の高校生とは比べ物にならないほど低い。
それがわかったからこそ、俺は咄嗟に手を伸ばし、紫藤の細い肩をガシッと掴んで引き留めた。
「やめろ、紫藤。手を出すな」
「離せッ! こいつら、さっきからナメた口ききやがって……!」
「いいから。お前が怒ることじゃない」
俺の縋るような言葉に、紫藤は「チッ」と大きな舌打ちをして、悔しそうに肩をすくめた。
だが、その俺の行動が、男たちの神経をさらに逆撫でし、歪んだ優越感を刺激してしまったらしい。
「おいおい、なんだよその女。下品なインナーカラーまで入れて、マスクで顔隠して……いかにも頭の悪そうな底辺のヤンキーじゃねえか」
「大鐘、お前もすっかり落ちぶれたな! モテモテだった外様のエリートが、今じゃこんな柄の悪い不良女とつるんでバッセンで遊んでるのかよ!」
「類は友を呼ぶってやつだな。暴力沙汰起こすようなクズには、そういうクズ女がお似合いってことだろ!」
ゲラゲラと下品な笑い声が、バッティングセンターの天井に反響する。
彼らの言葉は、俺自身に向けられたものではなく、俺を庇おうとしてくれた紫藤アリサの存在そのものを、否定し、嘲笑うものだった。
ドクン、と。
俺の心臓が、これまでとは全く違う、冷たくて重い音を立てた。
俺自身が暴力を振るった裏切り者として罵られるのは、別に構わなかった。
事実がどうであれ、チームの崩壊を防げなかったのは俺の責任だ。彼らが何も知らずに俺を憎むのは、ある意味で正当な報いとも言える。過去からの断罪は、甘んじて受け入れる覚悟があった。
だが、彼らの口から吐き出された汚い言葉は、俺の大切な今を汚した。
不器用で、口が悪くて、すぐに手を上げようとする不良少女。けれど、マメができるまで懸命にバットを振り、泣きそうな俺を気遣ってくれた、この学園で出会った大切な日常の一部。
何も知らない部外者の彼らが、紫藤をクズと見下し、嘲笑うことだけは、絶対に許せなかった。
「……おい」
気がつけば、俺の声は、自分でも驚くほど低く、絶対零度の冷たさを帯びていた。
俺の態度が一変したことに気づき、ゲラゲラと笑っていた元チームメイトたちの動きがピタリと止まる。
俺は紫藤の肩から手を離し、ゆっくりと、彼らの正面へと歩み出た。かつて同じユニフォームを着て、同じグラウンドで汗を流した彼らを、見下すような視線で射抜いた。
「お前らが夏の予選で初戦敗退したのは、俺がチームをめちゃくちゃにしたからじゃない」
静まり返ったフロアに、俺の低く冷徹な声が響いた。
感情を荒らげるでもなく、ただ冷徹な事実を突きつけるようなそのトーンに、元チームメイトたちは一瞬だけ言葉を失い、ポカンと口を開けた。
「……は? お前、何言って……」
「単に、お前らが必死じゃなかったからだ」
相手の言葉を遮り、俺は一歩だけ距離を詰めた。
彼らの顔に浮かぶ困惑が、徐々に屈辱と怒りへと変わっていくのがわかる。それでも、俺は言葉を止める気はなかった。紫藤を侮辱された怒りが、胸の奥底に封じ込めていた彼らへの、そして自分自身への苛立ちを完全に引きずり出していた。
「ライバルが少ない地区だから、全国常連だからって、どこかに驕りがあったから足を掬われたんだ。当たり前の話だ。お前らに勝てば、全国の可能性が高くなる。少なくて大きいチャンスに懸けてる、泥臭くて必死な選手たちを心の底で舐めてたからだろうが」
「て、てめえ……!」
「地元じゃその学校の野球部所属ってだけでチヤホヤされてデカい顔してた、その報いだろうが。他の学校の選手に対する敬意も警戒も薄い。自分たちが負けるはずがないと思い込んで、相手を分析することすら怠った。負けて当然だろ」
俺の言葉は、かつて彼らと共にグラウンドに立ち、扇の要からチームの空気全体を俯瞰していたからこそ突きつけることのできる、鋭利な刃だった。
図星を突かれた男たちは、顔を紅潮させ、ギリギリと歯を食いしばった。握りしめられた拳が震えている。
「その証拠に、秋大会だってそこから何も学んでない。なんだあのザマは。夏を俺のせいにして、あれはどう説明する」
「……ッ!」
致命的な一言だった。
秋季大会。新チームとなって初めての公式大会での無様な敗退。それを指摘された瞬間、男たちの顔から完全に余裕が消え去り、剥き出しの殺意に近い怒りが浮かび上がった。
(……あぁ、クソ)
言い放ちながら、俺の胸の奥でひどく冷たい自嘲が渦を巻いた。
退学して、逃げ出して、すべてを捨てたつもりでいたくせに。俺はわざわざ前の学校の、こいつらの秋大会の試合結果を気にして調べていたのだ。
どれだけ見栄を張っても、過去に囚われて未練たらしくグラウンドの幻影を追いかけているのは、他でもない自分自身だった。その惨めな事実が、俺の言葉に更なる暗い熱を持たせていた。
「てめえ、ふざけんなよ……! 部をぶっ壊した疫病神のくせに、偉そうに説教垂れてんじゃねえ!」
一番大柄な男が、ついに堪忍袋の緒が切れたように怒号を上げ、拳を振り上げて俺に飛びかかろうとした。
俺は避けることも防御することもせず、ただ真っ直ぐにその振り下ろされる拳を見据えた。ここで殴られるなら、それでも構わない。
「おい、やめろって!! バカ!!」
だが、その拳が俺の顔面を捉える直前、背後にいた別のチームメイトが必死の形相で男の腕に組み付いた。
「離せ!! こいつマジでぶっ殺す!!」
「周りを見ろ! ここで俺たちが問題起こしたら、春大会も出られなくなるぞ! こいつと同類になる気か!」
その悲痛な叫びに、振り上げられた拳がピタリと空中で止まった。
男がハッとして周囲を見渡すと、バッティングセンターにいた数少ない客たちや店員が、尋常ではない騒ぎに気づいて遠巻きにこちらへ不審な視線を向けていた。
彼らは、名門校の看板を背負った現役の選手だ。ここで一般客を巻き込むような暴力沙汰を起こせば、俺が抜けただのなんだのという次元ではなく、野球部そのものが休部や廃部に追い込まれかねない。その現実を突きつけられ、男はワナワナと全身を震わせながら、ゆっくりと拳を下ろした。
「……クソがッ!」
行き場のない怒りを壁に叩きつけるように、男は床に転がっていた自前のエナメルバッグを乱暴に拾い上げた。
「行くぞ! こんなやつと同じ空気吸ってたらこっちまで腐るからな!」
彼らは吐き捨てるように仲間を促し、出口へと向かって足早に歩き出した。
だが、自動ドアを抜ける直前。大柄な男が一度だけ足を止め、肩越しにこちらを忌々しそうに睨み据えた。
「……覚えとけよ大鐘。俺たちはな、お前と違って殴ったりしねえからよ!」
自分たちこそが正義であり、清廉な被害者であると信じて疑わない、これ以上ないほど残酷な捨て台詞。
男たちはそのまま足早にバッティングセンターから退店し、冷たい冬の夜の闇の中へと消えていった。
ウィィン、と自動ドアが閉まり、フロアには再びピッチングマシンの駆動音だけが虚しく響き始める。
張り詰めていた空気が一気に弛緩し、俺は糸が切れた操り人形のように、すぐ後ろにあったパイプ椅子へと力なく崩れ落ちた。
呼吸が浅く、早い。
吐き出した言葉の毒が、そのまま俺自身の内臓を焼いているような感覚だった。
「…………」
隣に立つ紫藤は、ポケットに手を入れたまま、無言で俺を見下ろしていた。
驚きと、得体の知れないものを見るような複雑な瞳で、抜け殻のように座り込む俺をじっと見つめている。
彼女の目には、今の俺はどう映っているのだろうか。
惨めな思考が、静かなフロアのBGMに混ざって、ぐるぐると脳内を回り続けていた。
アリサ、それはメインヒロインのムーブじゃないか?
まだもう少し続きます。あと2話です。次回投稿は水曜で、最終話を土日のどちらかに出します。
偶然だとは思うんですけどテスト勉強回は投稿すると毎回ランキングに載ってちょっと面白いです。お勉強ラブコメディに路線変更かな