まのこい天秤   作:雪無い

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 いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシ送ってくれると嬉しいです。

 シリアスパートはさっさと終わらせるがモットーなので、連日投稿です。ナノちゃんルートは構成が一番最初に出来たルートなので書くのが楽だったりします





6話『氷の焚火と夜明けのピッチ』

 

 俺はパイプ椅子に深く腰を沈めたまま、まるで全身の骨を抜かれたかのように俯いていた。胃の腑の底には、吐き出した言葉の猛毒と、突きつけられた過去の残骸が重く、冷たく横たわっている。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。

 沈黙を破ったのは、俺のすぐ斜め前に立っていた紫藤の、地を這うような、けれど今までで一番静かな声だった。

 

「……ウチは、おめえの過去になんざ、これっぽっちも興味ねえよ」

 

 顔を上げると、ポケットに両手を突っ込んだ紫藤が、黒いマスク越しに俺を真っ直ぐに見下ろしていた。その赤い瞳には、いつものような威嚇の色も、ましてや同情や憐憫の色もない。ただ、揺るぎない一つの事実を突きつけるような、強い光が宿っていた。

 

「でもな。おめえが暴力沙汰なんてくだらねえもんを起こしてないことくらい、ウチにはわかる」

 

 俺はわずかに息を呑んだ。

 あいつらは、かつて同じグラウンドで汗を流し、同じ釜の飯を食ったチームメイトだ。俺のプレーを一番近くで見ていたはずの彼らが、俺を疑い、俺を断罪した。それなのに、出会って間もなく、俺の背景など何も知らないこの少女が、どうしてそんなにも断言できるのか。

 

「あいつらの言う通りだよ。ウチは、ロクでもねえ喧嘩ばっかりやってきた、どうしようもねえ底辺のクズだ。……人を殴る時の拳の握り方も、自暴自棄になって暴れ狂う奴の目つきも、嫌ってほど知ってんだよ」

 

 紫藤は自嘲するように小さく鼻で笑い、そして、一歩だけ俺へと歩み寄った。

 

「でも、大鐘。おめえは違うだろ。さっきのあのスイングは……あんなバッティングは、何か一つのことに懸けて、真剣に向き合ってきたやつにしか絶対にできねえ。他人を傷つけるためにつけた力じゃない」

 

 彼女は自分の手のひらをそっと開き、バットを振り込みすぎて赤く腫れ上がり、傷があちこちについたその指先を見つめた。

 

「ウチも……最近ここに通ってバット振るようになって、少しだけわかったんだよ。あんな真っ直ぐで綺麗なスイングするやつが、誰かを理不尽に殴ったりするわけがねえってな」

 

 その言葉は、どんな慰めの言葉よりも深く、強く、俺の心の最も柔らかい部分を打ち抜いた。

 世間の大人たちも、信じていたチームメイトたちも、俺に暴力のレッテルを貼り付けて切り捨てた。だが、本物の暴力と荒んだ世界を知っている野良猫のようなこの少女だけが、純粋な野球の痕跡から、俺の潔白を信じてくれたのだ。

 胸の奥に分厚く張り張っていた氷が、メシリと音を立ててひび割れていくのを感じた。

 

「……紫藤」

「なんだよ」

「少し、場所を変えよう」

 

 俺はゆっくりと立ち上がり、スポーツバッグを肩に担いだ。

 誰にも語るつもりはなかった。泥にまみれた過去。だが、彼女になら、いや、彼女にだけは、今ここで本当のことを話さなければならないような気がした。

 

 バッティングセンターを出ると、外はすっかり日が落ちて、刺すような冬の夜気が街を包み込んでいた。

 俺たちは無言のまま並んで歩き、大通りから少し外れた場所にある、薄暗い児童公園へと足を踏み入れた。街灯の頼りない光だけが、色褪せた遊具と冷たい地面を照らしている。

 俺は一番端にある木製のベンチに腰を下ろした。紫藤も少しだけ距離を空けて、その隣に座る。

 

「……冷えるな」

 

 吐く息が真っ白な煙となって夜空に溶けていくのを見上げながら、俺はぽつりと呟いた。

 身体の芯まで凍りつきそうな寒さだったが、これから口にする話を思えば、この冷たさすら今の俺には必要な気がした。

 

「……チッ。世話の焼けるヤローだな」

 

 隣で短く鋭い舌打ちが聞こえた。

 紫藤がポケットから右手をスッと取り出すと、その指先が小さく弾かれた。

 

 ──ボッ。

 

 微かな発火音と共に、彼女の開いた掌の上に、ソフトボールほどの大きさの炎がふわりと浮かび上がった。

 薪が爆ぜるような音はしない。ただ、揺らめくオレンジ色の光が、黒いマスクで覆われた紫藤の顔と、俺の横顔を柔らかく照らし出す。

 

「……お前の魔法、パイロキネシスだったのか」

「……わりぃかよ。物騒でクズなウチにはお似合いの力だろ」

「いや。……すごく、温かい」

 

 俺が素直な感想をこぼすと、紫藤は「うるせえ」とそっぽを向いたが、俺たちの間を漂うその炎は、まるで小さな焚き火のように、凍えそうだった俺の身体と心を確かな熱でじんわりと温め始めていた。

 魔法は術者の心を映す鏡なのだろうか。すべてを焼き尽くす恐ろしい炎ではなく、こうして人を温めるために繊細に制御されたこの火の温もりこそが、紫藤アリサという少女の本質に他ならない。そう思った。

 パチパチという幻聴すら聞こえてきそうなその優しい光を見つめながら、俺はゆっくりと口を開いた。

 

「……俺がいたのは、地方の野球名門校だった。野球留学は少なくて、地元の有力選手はほとんどそこに集まる。ライバルが少ないから全国の常連だった。俺は他県の選手だったがそこに入って、入学後すぐにレギュラーのキャッチャーを任されたんだ」

 

 それは、誰にも触れさせまいと固く封印してきた、遠い夏の日の記憶。

 俺は隣で静かに炎を灯し続けてくれる少女に向けて、静かに、すべてを語り始めた。

 

「俺は、キャッチャーのくせに、周りの人間をちゃんと見ようとしていなかったんだ」

 

 自嘲気味な笑みが、自然と口からこぼれた。

 宙に浮かぶ炎の揺らめきを見つめながら、俺はゆっくりと、胸の奥底に溜まっていた泥を吐き出すように言葉を紡いでいく。

 

「グラウンドの上で、試合の時だけ全体が見えていればそれでいいと思ってた。よそ者だった俺は、野球の実力さえ示してチームを勝たせれば、それで信頼関係が結べるんだと高を括ってたんだ。……もっとちゃんと、グラウンドの外でも、一人の人間として信頼されるように向き合えば良かった」

 

 それが、俺が犯した最大の過ちだった。

 夏の予選直前の、遠征先での夜。

 忘れ物を取りに戻った俺が目撃したのは、血を流して倒れる相手と、それを取り囲む3年生のレギュラー数名の姿だった。

 即座に通報しようとした俺に、先輩たちは必死に泣きついてきた。「バレれば出場停止になる」「部員全員のこれまでの努力と夢が終わってしまう」「大会が終わったら絶対に自首するから、見逃してくれ」と。

 

 俺は迷った。だが、最終的に選んだのは、チームが甲子園へ行くための最適解だった。俺は彼らの罪ごとすべてを腹の底に飲み込み、沈黙することに決めたのだ。チームの勝利のために。

 しかし、事態は最悪の方向へ転がった。被害者側から学校へ告発があり、事件が明るみに出ようとしたのだ。

 その時、窮地に立たされた先輩たちが選んだのは、唯一の目撃者であった俺を生贄にすることだった。

 

『一年生で、よそ者の大鐘が暴走して喧嘩を起こした。自分たちは止めようとしたが間に合わなかった』 

 

 彼らはそう口裏を合わせ、現場にいた俺にすべての罪をなすりつけた。

 野球部を運営する大人たちや学校側にとっても、それは渡りに船だった。地元出身の主力選手たちが起こした集団暴行事件とするより、よそから来た一年生一人が起こした喧嘩として処理する方が、圧倒的に傷が浅く済むからだ。

 彼らは地元の選手と名門の看板を守るために隠蔽工作を図り、被害者側にも裏で手を回し、見事なまでに俺一人が加害者となるシナリオを完成させた。

 

 俺は今でも夢に見る。

 昨日までボールを交わしていたチームメイトたちから向けられた、無数の断罪の指先を。本来なら俺のミットに向けられるはずだった信頼の証が、俺を異物として弾き出し、突き刺すための凶器に変わっていたあの光景を。

 

 自分で言うのもどうかと思うが、俺はその理不尽なシナリオをひっくり返し、彼らの嘘を暴くこともできただろう。

 だが、そんな気力すら湧かなかった。

 捕手というポジションは、何よりチームを、投手を信じなければ成り立たない。それなのに、俺はもう、あのチームの誰一人として信じることができなくなってしまったからだ。疑心暗鬼にまみれたミットで、彼らの球を受けることなど到底不可能だった。

 

 俺は一切の弁明をすることなく、泥を被ったまま野球部を退部した。

 だが、名門のシード校であったチームは、夏の予選を初戦敗退という無残な結果で終えた。そして俺は、「勝手な暴力沙汰で部を乱し、チームを敗北に追いやった元凶」として、野球だけが取り柄だったその学校の生徒や街の人間から激しい攻撃を受けることになったのだ。

 俺が選んだ沈黙という最適解は、結果的に誰一人幸せにすることなく、俺自身の居場所を完全に奪い去った。

 そうして俺は、逃げるようにこの学園へとやってきた。 

 

「……だから、決めたんだ」

 

 静かな夜の公園に、薪の爆ぜるような微かな音が響く。

 紫藤の魔法が作り出す温かい炎が、俺の凍えきった心臓をゆっくりと溶かしてくれている気がした。

 

「それからはもう、組織のためとか、誰かの都合に合わせた最適解を選ぶのはやめようって。たとえ間違っていたとしても、自分が信じられる、自分自身の最善を選ぼうと。それが結果誰かのためになったらいいなって……この学園に来てからは、そればっかり考えてる」

 

 入学初日に、橘の推理という楽しみを奪ってでも即座に解決を選んだのも。支柱がへし折られていた事件で橘が犯人だと決めつけられた時も。

 桜羽や遠野、橘、そして黒部たちと向き合う時、二度とあんなすれ違いを起こさないよう、ひどく慎重に、相手を一人の人間として理解しようと努めてきたのも。

 すべては、あの泥にまみれた絶望を、取り返しのつかない後悔を、二度と繰り返さないためだった。

 

 俺の長くて重い独白が終わり、公園には再び静寂が降りた。

 隣に座る紫藤は、俺の言葉を遮ることも、相槌を打つこともなく、ただ黙って炎を灯し続けてくれていた。黒いマスクの奥の赤い瞳が、揺らめく光を反射して静かに燃えている。

 

「……これが全部だ。さっき会ったやつらは俺と同じ一年。詳しい事情は知らない。完全な被害者だ」

 

 俺が小さく息を吐き出してそう言うと、紫藤はポケットに突っ込んでいた左手をギリッと強く握りしめた。

 そして、静かな夜気を震わせるような、低く、押し殺した怒りの声が漏れた。

 

「ふざけんな……」

 

 ギリッと、強く歯を食いしばる音がした。

 紫藤の掌で優しく揺らいでいた炎が、彼女の感情に呼応するように、ボワッと一瞬だけ大きく、熱く燃え上がった。

 

「なんで……なんでそんな理不尽、黙って受け入れてんだよ! てめえは何も悪くねえだろうが! なんで全部被って、一人で逃げなきゃなんねえんだよ!」

 

 静かな公園に、紫藤の怒声が響き渡った。

 それは、俺を責める言葉ではなかった。ただ純粋に、俺が受けた理不尽に対する、俺の代わりのような激しい怒り。本物の不良である彼女が、誰よりも真っ直ぐに「そんなのおかしい」と吠えてくれている。

 その不器用で荒々しい優しさに、俺は力なく、自嘲気味に笑うしかなかった。

 

「……俺はキャッチャーだからな。最後まで、チームを信じたかったんだよ。……でも、誰も信じられなくなった時点で、俺の野球はもう終わってたんだ」

 

 俺が静かにそう告げると、紫藤は悔しそうに顔を歪め、スッと掌の炎を握り潰すようにしてかき消した。

 急に暗くなった視界の中で、彼女の赤い瞳だけが暗闇に浮かぶようにこちらを睨みつけている。

 

「……このふざけた話、他に知ってる奴はいんのかよ」

 

 絞り出すような声で問われ、俺は冬空に浮かぶ白い息を見上げながら、ある一人の少女の顔を思い浮かべた。

 

「一人だけ……俺が何も言わなくても、全部知ってくれてる奴がいる。黒部だ」

「……あいつか」

「ああ。あいつは……不器用で、静かで……でも、俺の泥まみれの過去を知った上で、文句一つ言わずに俺の球を一生懸命捕ろうとしてくれるんだ」

 

『元の場所へ戻れるように、手伝いたい』

 

 そう言って、痛む腕を隠しながら俺のボールを真っ直ぐに見つめてくれた黒部ナノカの姿を思い出すと、ささくれ立っていた心が不思議と静まっていくのを感じた。

 俺のその穏やかな声色を聞いて、紫藤は何かを察したように、大きく舌打ちをした。

 

「……チッ」

 

 紫藤は乱暴にベンチから立ち上がると、すぐそばにあった自動販売機へと足早に向かい、硬貨を叩き込むようにしてボタンを押した。

 ガコン、と落ちてきた小さなスチール缶を拾い上げると、彼女は俺の元へ戻り、その缶を俺の胸元へと無造作に押し付けてきた。

 

「っと……」

 

 受け取ったのは、熱いくらいに温められたブラックコーヒーだった。掌から、ジンジンとその熱が伝わってくる。

 

「寒ィからウチはもう帰る。てめえはそこで、ちょっと頭冷やしてろ」

 

 熱い缶コーヒーを押し付けておいて「頭を冷やせ」という、ひどく矛盾した、彼女らしい乱暴な捨て台詞。

 

 紫藤は深くフードを被り直した。そのまま踵を返して公園の出口へと向かおうとする紫藤の小さな背中に向けて、俺は両手で缶の熱を包み込みながら真っ直ぐに声をかけた。

 

「紫藤」

 

 ピタリと、彼女の足が止まった。振り返ることはせず、ただ背中越しに俺の言葉を待っている。

 

「さっき、お前は自分のことクズだって言ってたけど……俺は、お前のことクズだなんてこれっぽっちも思ってないからな」

 

 冬の静寂の中、俺の言葉がはっきりと響く。

 

「俺の過去を知って、俺のために本気で怒ってくれた。……紫藤は俺にとって、すごくいい奴だ。俺を信じてくれて、ありがとな」

 

 暗闇の中で、彼女の肩がわずかにビクッと跳ねたのがわかった。

 数秒の短い沈黙。紫藤はやはり振り返らなかった。ただ、黒いパーカーのフードを両手でさらに深く被り直し、顔をすっぽりと隠すように少しだけうつむいた。

 

「……チッ。キモいこと言ってんじゃねえよ、バーカ」

 

 震えるような、精一杯の照れ隠しが混じった悪態。

 それが彼女なりの返事だった。

 紫藤はそのまま足早に歩き出した。駅や繁華街のある方向ではなく、学園の女子寮へと続く暗い夜道の方へ。ポケットから乱暴にスマホを取り出すのが見えたが、彼女は今度こそ振り返ることなく、一直線に闇へと消えていった。

 

 俺は一人ベンチに残され、手の中にある缶コーヒーの熱を両手で確かめながら、静かに、静かに自分の心と向き合っていた。

 

 

 

 

 

 紫藤の小さな背中が冬の闇に溶けてから、どれほどの時間が経っただろうか。

 公園の街灯が頼りなく瞬く下で、俺はすっかりぬるくなってしまった缶コーヒーを両手で包み込んだまま、ただ静かに白い息を吐き続けていた。

 

 紫藤に過去を吐き出したことで、心の奥底で固く結ばれていた澱が少しだけ解けたような気はする。だが、それと同時に、自分がいかにあの凄惨な夏から一歩も前に進めていないかを、改めて突きつけられたような虚脱感に支配されていた。

 

 ザッ、ザッ、と。

 

 静寂に包まれた公園の砂利を踏む、複数の足音が近づいてくる。

 それも、一つや二つではない。揃いのスパイクのような、重く規則正しい足音だ。

 

「……見つけたぞ、大鐘」

 

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 街灯の光の下に姿を現したのは、先ほどバッティングセンターで顔を合わせたばかりの、かつてのチームメイトたちだった。

 彼らの顔には、先ほどの怒りと屈辱が色濃く残っている。俺の放った言葉というナイフに深くえぐられたプライドが、到底治まることはなかったのだろう。彼らは俺を追って、この暗い公園まで足を運んできたのだ。

 

「……まだ何か用か」

 

 俺が座ったまま冷徹に問いかけると、一番大柄な男が、肩で風を切るようにずかずかと歩み寄り、俺を見下ろした。

 

「あのまま逃げると思ったか? 偉そうに説教垂れやがって……俺たちのプライドをコケにして、タダで済むわけねえだろ」

「だが言ったはずだ、俺たちはお前と違って暴力なんて最低な真似はしねえってな。俺たちは野球部だ。てめえのその腐った性根、野球で完全に叩きのめして分からせてやる。明日の昼、お前のその新しい学園のグラウンドを借りて勝負しろよ」

 

 怒りに満ちていたが、男はかつて俺が犯したとされる『暴力事件』を皮肉るように、ねっとりとした声で言い放った。その後ろに立つ他のメンバーたちも、薄ら笑いを浮かべて俺を見下ろしている。

 

 野球で決着をつける。

 言葉の響きだけを聞けば、いかにもスポーツマンらしい正々堂々としたものに聞こえるかもしれない。だが、彼らが今この状況でそれを持ち出した理由は、あまりにも明白で、残酷だった。

 男の提案を聞いた直後、後ろの連中が堪えきれないといった様子でゲラゲラと下品な笑い声を上げた。

 

「おいおい、無理言うなよ。勝負って言っても、こいつ一人じゃねえか」

「あ、そうだった! 悪りぃ悪りぃ、お前にはもう、一緒に野球やってくれるチームなんて無いんだったな!」

 

 ゲラゲラと、彼らの嘲笑が冬の夜空に響き渡る。

 俺は缶コーヒーを握る手に、ギリッと力を込めた。

 

「お前みたいな暴力しかないクズの球を捕りたいキャッチャーもいなけりゃ、お前のミットに投げ込みたいピッチャーなんて、この世に一人もいねえもんなぁ!」

「あのヤンキー女にでも投げてもらうか? ああ、あいつはバット振り回すしかできねえか!」

 

 彼らの嘲笑が、冷たい夜気に乗って俺の鼓膜を容赦なく打ち据える。

 反論の言葉は、またしても喉の奥で詰まった。

 俺にはもう、帰るべきチームがない。一人でグラウンドに立つことすら許されない、ただの敗残者だ。

 あの日、俺に向けられた無数の断罪の指先が、再び脳裏にフラッシュバックする。

 泥にまみれたミット。誰も信じられない世界。

 足元から這い上がってくるような絶望感に、俺はただギリッと奥歯を噛み締め、俯くことしかできなかった──

 

 

 

 

「──いいえ。そんなこと、絶対にないわ」

 

 唐突に。

 凍てつくような冬の空気を凛と切り裂く、澄んだ声が公園に響き渡った。

 男たちの嘲笑がピタリと止まる。

 全員の視線が一斉に声のした方角──公園の入り口へと向けられた。

 街灯の淡い光の中に立っていたのは、一人の少女だった。

 

 透き通るような黒糸の髪を夜風に揺らし、普段の静謐な佇まいからは想像もつかないほど、肩で大きく息をしている。部屋着の上に薄手のコートを羽織っただけの無防備な格好で、マフラーすら巻いていない。女子寮からここまで、寒さも人目も気にせず夜の街を全力で走り抜けてきたのは明白だった。

 

「……黒部」

 

 俺が呆然とその名前をこぼすと、彼女はこちらを見て、安心させるようにふわりと、ひどく柔らかく微笑んだ。

 そして、俺を取り囲む大柄な男たちに全く臆することなく、真っ直ぐに歩み寄ってくる。

 

「なんだお前……さっきの不良女の仲間か?」

「引っ込んでろ! 部外者が口出ししていい問題じゃ……」

 

 威嚇するように声を荒らげる元チームメイトたち。

 だが、黒部は彼らの言葉など一切意に介さず、俺の目の前までやってくると、冷え切った俺の左手を、彼女の両手でギュッと力強く包み込んだ。

 彼女の掌はひどく温かくて、微かに震えていた。

 

「大鐘くんのキャッチャーミットは、私が知っている中で、一番優しくて、一番頼りになる場所よ」

 

 それは、ただの反論ではなかった。

 彼女が幻視という魔法を通じて、俺のボールから、俺のミットから、これまでに受け取ってきたすべての想いを代弁するような、確固たる真実の響きだった。

 黒部はゆっくりと振り返り、俺を嘲笑っていた元チームメイトたちを、静かで、けれど絶対に揺るがない灰色の瞳で真っ直ぐに射抜いた。

 

「彼には、私がいるわ」

 

 細く華奢な少女の身体から放たれたその言葉は、どんな剛速球よりも重く、男たちの傲慢な空気を完全に制圧していた。

 

「私が、大鐘くんのピッチャーよ」

 

 

 

 

 

 

 





 これはメインヒロインの風格。
 このシーンが書きたくてですね、爆速で仕上げました。
 スポ根ラブコメが性癖なんです。

 次最終回です。ラストスパートなので、早めの更新がありえます。かっこよく締めたいですね。
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