いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシ送ってくれると嬉しいです。
ナノカルート最終回です。この回長すぎてびっくりしちゃった。
ラブコメのスポ根回が好きなので書くのが楽しかったルートです
雲一つない、ひどく澄み切った冬の青空だった。
肌を刺すような冷たい空気が肺を満たすたび、自分が今、紛れもなくグラウンドの上に立っているという事実を鮮明に自覚させられる。
この寒空の中でも、マウンドとホームベースの間だけは、まるで真夏のような異様な熱気を帯びている。
俺はホームベースの真後ろで深くしゃがみ込み、使い込まれたキャッチャーミットを左手にはめて、その重みを確かめるようにポンと一度叩いた。
視線の先、マウンドの上に立っているのは、泥にまみれた野球とはおよそ無縁に見える、華奢で色白な少女。黒部ナノカだ。彼女は学園のジャージ姿で、手にした真新しい硬球の縫い目に、教えた通りのしなやかな指先を添えて静かにこちらを見つめている。
三塁側のベンチからは、かつてのチームメイトたちが、獲物を品定めするような表情を浮かべながらこちらを睨みつけていた。彼らは全員、揃いのユニフォームではなく動きやすいジャージ姿だが、手にしている自前のバットと放つ威圧感は、間違いなく鍛え上げられた現役アスリートのそれだった。
対して一塁側のベンチには、俺たちを見守る少女たちの姿があった。
両手を組んで祈るように見つめる桜羽。扇子を口元に当てて険しい表情の遠野。珍しく虫眼鏡をしまって固唾を呑む橘。爪を噛みながらウロウロと落ち着きなく歩き回る沢渡。今日たまたま空いていたという蓮見。そして、ベンチの最前列では、腕を組んでこの異常な勝負の手筈を行った生徒会長、二階堂ヒロの凛とした姿があった。
彼女たちはこの勝負に参加するわけではないが、この話を聞いてすぐ応援に駆けつけてくれた。
なぜ、こんな漫画のような無謀な真似をしているのか。
俺はミットの中で拳を握りしめ、昨夜の凍てつく公園での出来事を思い返していた。
──昨夜。
『私が、大鐘くんのピッチャーよ』
黒部のその静かで、けれど揺るぎない宣言を聞いて、元チームメイトたちは一瞬きょとんとした後、腹を抱えて下品な爆笑を上げた。
『おいおい、何人女出てくるんだよお前は。女に守られるだけじゃ飽き足らず、今度は素人の女にボール投げさせる気かよ!』
『傑作だな! キャッチボールのお遊びなら他所でやれよ! 俺たちは本気で野球で叩きのめしてやるって言ってんだぜ?』
彼らの言葉は容赦なく黒部を嘲笑い、俺の傷をさらにえぐろうとしてきた。
俺が黒部を庇って前に出ようとした、まさにその時だった。
『正しくないな。夜更けの公園で、他校の生徒が我が校の生徒を囲んで、随分と騒がしい』
暗闇を切り裂くような、冷徹で威厳に満ちた声。
現れたのは、制服姿の二階堂ヒロだった。彼女は一切の躊躇なく男たちの間を割って入ると、俺と黒部の前に立ち塞がり、冷ややかな視線で男たちを一瞥した。
後で聞いたことだが、公園から去った紫藤が、黒部を呼びに行っていたらしい。二階堂もその場にいたため、同行したとのことだ。
『な、なんだお前……』
『私は彼らが所属する学園の生徒会長だ。外部の人間が我が校の敷地周辺で徒党を組み、生徒に絡むというのなら、今すぐ警察とそちらの学校に連絡を入れるが……どうする?』
二階堂の理路整然とした脅しに、男たちの顔色が一瞬にして変わった。春の大会を控えた彼らにとって、警察沙汰は絶対に避けなければならないタブーだ。
『ち、違う! 俺たちはただ、こいつと野球で決着をつけようと……』
『野球、か』
男の言い訳を鼻で笑うと、二階堂はスッと目を細めた。
『いいだろう。過去の因縁を野球で晴らしたいというその理屈、受け入れてやる。幸い、明日のグラウンドは空いている。特別練習という名目なら、明日の昼、学園での勝負を手配してやろう』
『は……?』
『ただし、こちらは大鐘と彼女の二人だけだ。まともな試合になるはずがない。だから、勝負のルールはこちらで指定させてもらう』
二階堂は一切の反論を許さない口調で、冷酷なまでにシンプルなルールを提示した。
『1イニング限りの変則ルールだ。守備や走塁は無し。投手と捕手、そして打者の3人のみで行う。勝敗は「攻撃側が3アウトを取られるまでに、何人の打者が打席に立てたか」で決める。先攻は君たち全員。何人でも構わない。後攻は大鐘一人。君たちと大鐘で決着をつけるというならこれがいいだろう。安打か凡打かの判断は各々で行うように』
つまり、相手が何点取ろうが、何十回打席に立とうが、俺達が3アウトを取るまで相手の攻撃は終わらない。そして裏の攻撃で、俺がたった一人でその打者数を上回るまでアウトにならずに出塁し続ければ、俺達の勝ちとなる。
常軌を逸した圧倒的なハンデ戦だ。男たちは二階堂の提案を聞くや否や、再び見下すような笑みを浮かべた。
『ハッ……なんだそのふざけたルール!』
男の一人が嘲笑いながら一歩前に出た。
『素人の女ピッチャーと、ブランクのあるキャッチャーのバッテリーだろ? こっちの攻撃は、全員ホームラン打ち続けて一生終わらせてやらねえよ。もしこっちが守ることになったら、大鐘一人なんて三振3つで即ゲームセットだ!』
『なら、不服はないな?それと、何かを賭けるのは許さない。決めるのは勝敗だけだ』
『十分だ。明日の昼、逃げんじゃねえぞ!』
男たちは捨て台詞を吐き、今度こそ夜の闇へと消えていった。
残された俺は、黒部をこんな悪意の標的に晒すわけにはいかないと猛反対した。だが、彼女は決して俺の左手を離さず、ただ真っ直ぐに俺の目を見つめ返した。
『大鐘くん。私は魔法で、あなたの過去も、あなたがどれだけ野球を愛しているかも、全部視てきたわ。……だからこそ、他の誰かじゃ嫌なの』
『え……?』
『あなたがもう一度キャッチャーミットを構える時、その場所に一番最初にボールを投げるのは、絶対に私でありたい。私じゃなきゃ嫌。……これは、私のわがままよ。私が、あなたのピッチャーになりたいの。私が、あなたを野球に引き戻すから』
普段は控えめで物静かな彼女が、初めて俺にぶつけてきた強烈なエゴだった。
その真っ直ぐな独占欲のような熱に触れた瞬間。固く閉ざされていた俺の心は、どうしようもないほどあっけなく、強引にこじ開けられてしまったのだ。
『……わかった。勝とう』
冷たい風が肌を撫でる。
俺はキャッチャーボックスに深くしゃがみ込み、左手のミットを顔の前に構えた。
使い古された革の匂いが、不思議と今はひどく心地よい。
バッターボックスには、一番打者として、ピッチャーである大柄な男が、金属バットをこれ見よがしに揺らしながら薄ら笑いを浮かべて立っている。
「おい大鐘。お前、どうせ衰えてんだからせいぜい怪我しないようにな。あの女子をなぐさめる準備でもしとけよ」
男の挑発に、俺は一切の表情を変えることなく、マウンドに立つ黒部ナノカへ真っ直ぐに視線を向けた。
距離は18.44メートル。その遠く離れたマウンドの上で、彼女は大きく深呼吸をし、俺の構えたミットに向かって小さく頷いた。
かつて俺が失った信頼。信じられなくなったバッテリーの絆。
それは今、この静かな少女との間で、確かに結ばれようとしていた。
「プレイボールだ」
俺の低く響く声を合図に、過去との決着をつけるための、長くて過酷な1イニングが幕を開けた。
黒部は、良い球を投げてくれる。マウンドからストライクゾーンに投げ込むだけなら十分にこなしてくれる。
しかし、相手は全国常連の名門校の選手たちだ。対する黒部にとって、バッターボックスに生きた人間が立つのはこれが生まれて初めての実戦形式。まともな勝負になるはずがない。
この絶望的な状況下で、少しでも勝率を上げるために、俺ができることは何か。
「アドバイスだ。大会の時みたいに、油断はしないほうがいい」
「あぁん?」
打席でバットを構えるかつてのチームメイトに、俺はマスク越しに声をかけた。
「あいつは、俺が育てたピッチャーだ。女子だからって舐めてると痛い目見るぞ」
努めて自信に満ちた声で言い放つ。ハッタリでも何でもいい。相手の思考にわずかでもノイズを混ぜてバットを鈍らせることができれば、それが俺たちの武器になる。
俺はミットを構え直し、マウンドの黒部へサインを出した。
決して彼女を不安にさせないよう、絶対の信頼を込めて真っ直ぐに見つめる。俺の意図を真っ向から受け止めた黒部は、小さくコクリと頷いた。
彼女が静かに振りかぶる。
しなやかな腕が振られ、指先から放たれた白球が、パシッと俺のミットに収まった。
コースはど真ん中の甘い位置。球速も、決して速くはない。黒部が息を吐いて胸を撫で下ろした。
「……なんだ、ただの棒球じゃねえか」
打席の男が鼻で笑い、余裕ぶってバットを揺らした。
だが、それでいい。
黒部にとって生まれて初めての実戦での一球目が、すっぽ抜けることなくしっかりとストライクゾーンに入った。そして何より、俺のハッタリによって相手が勝手に警戒し、最初の一球目を様子見で見逃してくれたこと。それこそが最大の目的だった。
俺は立ち上がり、黒部へゆっくりとボールを返球した。
次だ。ここからが本当の勝負になる。
再びキャッチャーボックスにしゃがみ込み、右手の指を動かして次のサインを出す。要求するのは、彼女が裏庭での特訓の末に習得したあの変化球。
マウンド上の黒部は、小さく、だが力強く頷いた。手元のボールの縫い目に、しなやかな人差し指と中指を沿わせるように握り替えたのが遠目にもわかる。リンゴの皮を撫で斬るような、あの独特で繊細な指先の感覚。
彼女は再び大きく振りかぶり、白く細い腕を鞭のようにしならせた。
指先から抜け出した白球は、一球目のストレートとは全く違う軌道を描く。ふわりと空中に浮き上がり、打者の目線を上へと吊り上げた直後、重力に急激に引かれるようにしてベースの手前で鋭く沈み込んだ。
「なっ……!?」
完全にストレートにタイミングを合わせていた打者の男は、手元で急激にブレーキがかかり、視界から消えるように落ちたボールに全く反応できなかった。ビクッと膝を突っ張らせたまま、ただ呆然と見送るしかない。
パシッ、と。小気味良い捕球音が、冬の乾燥したグラウンドに響き渡った。見事なスローカーブ。これでツーストライクだ。
「て、てめえ……今のボール……」
打席の男が、信じられないものを見るような目で俺とマウンドの黒部を交互に睨みつけた。素人の女子が投げるただの遅い球だと完全に舐めきっていたところへ、予想外の落差を持つ変化球を見せつけられ、明確な動揺がその顔に浮かんでいる。ストライクになったのは完全にたまたまではあるが、当たり前だという顔をしておく。
(よし……いける)
俺が黒部に出した三球目のサインは、もう一度、スローカーブ。
緩急を見せるのではなく、同じ球を続けることで、無理矢理打ちにくる相手のタイミングを完全に外す。こいつなら間違いなく強く振ってくる。久しぶりに会った俺への対応を見るに、打ちたがる癖は健在だろう。カーブの出来次第にはなるが、タイミングを外せるはずだ。
黒部が投球モーションに入る。一球目、二球目と寸分違わない、滑らかで丁寧なフォーム。
放たれた白球が再びふわりと宙を舞う。
打者は完全に「ストレートが来る」とヤマを張っていた。力み返った両腕がバットを猛烈なスピードで振り抜く。しかし、そこにはまだボールは到達していない。
「クソッ……!」
男の焦燥に満ちた声が漏れる。完全に泳がされた体勢のまま、バットの軌道がボールの下っ面を掠めた。
情けない摩擦音と共に、白球は真上へと打ち上げられた。
バックネット方向へフラフラと上がる、滞空時間の長くないファウルフライ。
「……ッ!」
視界を遮るキャッチャーマスクを乱暴に剥ぎ取り、後方のグラウンドへと放り捨てた。
冬の青空を背景に、白い点となって舞い上がるボールの軌道を瞬時に計算する。落下点はキャッチャーボックスから数メートル後方、ファウルゾーンの砂の上。
土を蹴り上げ、背走する。落下点に滑り込むようにして膝をつき、差し出した左手のミットを頭上へと思い切り伸ばした。
使い込まれた革が、落ちてきた白球を一切の狂いなく包み込む。落球の心配など微塵もない、完璧な捕球だった。
「アウト、ワンアウトだ」
俺が立ち上がり、ミットの中のボールを見せつけるように高く掲げると、三塁側のベンチからは水を打ったような静寂が広がった。あれほど俺たちを嘲笑い、ヤジを飛ばしていた元チームメイトたちが、信じられないものを見たというように言葉を失っている。
俺はボールを黒部へ山なりに返球しながら、マスクを拾い上げて再び顔を覆った。
正直に言えば、黒部のスローカーブは、彼女の少ない手札の中で最強の切り札だ。本来なら勝負所の最後まで隠しておきたい球種だった。
だが、あえてこの最初の打者から連投させたのには理由がある。
一つは、黒部の体力問題だ。慣れない指先のリリースと手首の捻りを必要とする変化球は、ただでさえ素人の彼女の細い腕から急速にスタミナを奪っていく。疲労が溜まって握力が落ちれば、カーブはすっぽ抜けてただの打ちごろの球に成り下がる。彼女の体力がまだ万全なうちに、この最も精度を要求される球種を確実に見せつけておきたかったのだ。
そしてもう一つは、相手の脳裏に強烈なノイズを植え付けるため。
ただの遅いストレートしか来ないと舐めてかかってくるのと、「いつあのカーブが来るかわからない」と警戒しながら打席に立つのとでは、バットの振り出しに天と地ほどの差が生まれる。
切り札として最後まで隠し持つより、最初に見せつけて常にあると意識させる方が、結果的に相手のフルスイングを鈍らせ、この先の絶望的な防衛戦における大きな盾となるはずだった。
しかし、俺の思惑通りに都合良く事が運んだのは、ただこの最初の一人の打者を打ち取った瞬間までだった。
この日集まった五人の元チームメイトたちは、ただの不良でも素人でもない。全国大会の舞台でも戦えるだけのポテンシャルを秘めた、間違いなく強豪校の現役選手たちだ。
彼らはすぐに、自分たちの置かれた状況と、俺たちバッテリーが仕掛けてきた盤外戦術の意図を正確に理解した。
「……おい、バットを短く持て! 読み合いなんていらねえ。手元まで引きつけて、球筋を見てからただ反応だけで弾き返せ!それで十分間に合う」
ベンチからの鋭い指示が飛ぶと、打席に立つ男たちのスイングから、迷いや余計な力が一切消え失せた。
そこからは、まさに一方的な惨劇だった。
黒部が投げる渾身のストレートは、彼らにとってはただの打ちごろの遅い球。精魂込めて放つスローカーブも、手元まで引きつけられてしまえば、ただ少し軌道が変わるだけの球だ。
初球から容赦なく金属バットが振り抜かれ、鋭い打球音が次々とグラウンドに響き渡る。ライト前、センターオーバー、レフト線への痛烈なツーベース。時には、軽々とフェンスを越えていく特大のホームラン。
俺がどれだけ配球を散らし、コースを要求しても、ただ力と反射神経だけで力強く打ち返されていく。アウトが一つも取れないまま、打席数が重なっていく。
何より過酷なのは、黒部の肉体的、そして精神的な負担だった。
ただでさえ野球未経験の彼女が、これほど短いスパンで全力投球を繰り返すなど、本来ならあり得ない。
一球投げるごとに、彼女の息は目に見えて荒くなり、白く細い額には大粒の汗が滲み出していた。肩で大きく息をし、ユニフォーム代わりのジャージは泥と汗で汚れ始めている。
ボールの縫い目に擦れ、何度も強く握り直したせいで、彼女の華奢な指先はすでに赤く腫れ上がり、皮が剥けかけているのが遠目にもわかった。疲労は確実に彼女の身体から制球力を奪い、ボールは次第にストライクゾーンを大きく外れるか、甘いコースへのただの置きにいく球へと変わっていく。
そして、置きにいけばもちろん、彼らの容赦ないフルスイングの餌食となる。
快音と共に外野へ飛んでいく打球を見送るたび、俺は何度、審判のいないこの試合で「タイム」をかけようとしたかわからない。マウンドへ駆け寄り、彼女からボールを取り上げたくなる衝動に幾度となく駆られた。捕手として、いや、一人の男として、痛めつけられていく彼女の姿をただ座って見ていることなど、狂おしいほどの苦痛だった。俺のせいで、なぜこの無垢な少女がこんなにも理不尽な屈辱を受けなければならないのか。奥歯を噛み締めすぎて、口の中に鉄の味が広がる。
だが、それでも。俺はキャッチャーボックスから立ち上がることはできなかった。
マウンド上の黒部ナノカの瞳から、決して光が消えなかったからだ。
彼女は、俺の過去を清算し、俺の居場所を取り戻すために、自らその身を削ってマウンドに立ってくれている。ここで俺が同情や罪悪感に負けて勝負を降りてしまえば、彼女のその気高き覚悟を真っ向から否定することになる。俺は、俺のピッチャーを最後まで信じると決めたのだ。
だから、何度打たれても。
何度、心臓を抉られるような絶望的な打球音を聞かされても。
俺は無言のまま、ボロボロになっていく彼女に向かって、何度も何度も左手のミットを構え続けた。
泥だらけになっても、息が上がっても、逃げ腰になることもなく、彼女はただ俺のサインを真っ直ぐに見つめ、痛む腕を振り抜いてくる。
俺は彼女のそのすべてを受け止めるように、ミットに収まったボールへ祈りを込めるようにして、ただマウンドへ返球し続けた。
「ナノカちゃーん、がんばれーっ!」
「ファイト!ファイトですわーっ!」
一塁側のベンチから、桜羽と遠野の悲痛にも似た声援が飛ぶ。彼女たちも、この異様で残酷な勝負の行方を、ただ祈るように見守ることしかできない。
そして、ついに通算21人目の打者がバッターボックスに入った。
打者一巡どころか、もう何巡したのかさえ正確には思い出せない。
「……わりぃな大鐘。手加減ってのが嫌いでよ」
俺は無言のまま、ただ黒部へとサインを出し、深くミットを構える。
黒部が、痛む指先でボールを握り直し、ゆっくりと振りかぶった。
しなやかなフォームから放たれた白球。
打者の男は、それを待っていたかのように大きく足を踏み込み、金属バットをフルスイングで振り抜いた。痛烈な打球音が響き渡る。
放たれた白球は、マウンド上の黒部のすぐ真横を、恐ろしいスピードで切り裂いていく弾丸のようなライナーだった。
バシッ、という鈍い捕球音がグラウンドに響いた。
弾丸のような打球の勢いを殺しきれず、黒部の華奢な左腕が鞭のように後ろへとのけぞる。それでも彼女は、絶対にボールを逃すまいとグラブを力一杯に握りしめていた。耐えきれなくなった小さな身体が宙に浮き、そのまま勢い余って、マウンドの硬い土の上へと激しく打ち付けられる。
「黒部!」
喉が引き裂けそうな叫びが飛び出した。俺は視界を遮る重いキャッチャーマスクを乱暴に剥ぎ取り、土へ叩きつけるように放り捨てる。頭より先に身体が動き、弾かれたようにマウンドへ向かって駆け出していた。普段なら瞬きする間に縮まるはずの距離が、今は気が狂うほど遠く、もどかしく感じられた。
巻き上がった乾いた土煙の中で、黒部は尻もちをついて倒れていた。
綺麗だったはずのジャージは無惨に泥で汚れ、激しい衝撃を物語るように、彼女のひどく細い肩が、浅く荒い呼吸に合わせて上下に揺れている。
その小さな背中を見た瞬間、心臓を素手で鷲掴みにされたような痛みが俺を襲った。
俺の過去を清算するために。俺の身勝手なけじめのために。俺は、本来なら関係のないこの静かで優しい少女を、これほどまでにボロボロにしてしまったのだ。
ピッチャーを守るのがキャッチャーの最大の役目のはずなのに、俺の背負ったもののせいで彼女が傷ついている。胸の奥の最も柔らかい部分を鋭い爪で掻き毟られるような、どうしようもない後悔と罪悪感が、どす黒い濁流となって俺の心を容赦なく呑み込んでいった。
彼女はゆっくりと土まみれの身体を起こした。
その左手のグラブの中には、白球がしっかりと、決してこぼれることなく収まっていた
「……ツー、アウトよ」
「……!」
俺は堪えきれず、起き上がった彼女の華奢な身体を強く抱きしめていた。
これ以上、俺のために傷つく必要なんてない。もう投げなくて良い。お前は十分にやってくれた。そんな身勝手な思いが、止めどなく溢れ出しそうになる。
だが、その俺の心の内で渦巻く弱音を、俺の身体に触れている黒部は魔法で静かに感じ取っていたのだろう。
「ねえ、大鐘くん」
腕の中で、彼女が優しく囁いた。
「……なんだ」
俺が少しだけ身を離して彼女の顔を見下ろすと、泥と汗で汚れたその頬には、今まで見たどんな表情よりも美しく、透き通るような微笑みが浮かんでいた。
「私……今日ほど、この魔法があって良かったと思った日はないわ」
俺の胸元にそっと右手を当て、黒部は灰色の瞳を真っ直ぐに俺へと向ける。
「私が物に触れると、そこに残された感情や記憶が視える……それが私の幻視の魔法。誰かの悲しい記憶や辛い思いが流れ込んできて、触れるのが怖くなることもあったけど」
彼女の灰色の瞳が、今は透き通って見えるようだった。
「ボールが返されるたび、あなたの思いが、祈りが、全部伝わってくる。こんなの初めて。……だから、何度打たれても、全然痛くない」
その言葉に、胸の奥で重くのしかかっていた苦しみが、ふっと温かい光に溶かされていくのを感じた。
彼女は、俺の身勝手な贖罪にただ付き合わされているわけじゃない。彼女自身の意志で、俺たち二人の絆を確かめるように、このマウンドに立ち続けてくれているのだ。
「……黒部」
俺はこみ上げてくる熱いものを必死に噛み殺し、力強く頷いた。そして、差し出された彼女の右手をそっと握る。
「あと一人。絶対取ろう。この勝負が終わったら、俺の口から、伝えたいことがある。……まぁ、もうバレてるかもしれないけどな」
俺が少しだけ照れ隠しに笑うと、黒部も「ふふっ」と悪戯っぽく笑い返してくれた。
黒部が立ち上がり、俺はキャッチャーボックスに戻って再びマスクを被った。
打席には、22人目のバッターが立っている。
勝負再開。泣いても笑っても、次が最後のアウトだ。
だが、マウンド上の黒部は、ここで俺の予想を遥かに超える突拍子もない行動に出た。
彼女はいきなり、左手にはめていたグラブをスポッと外し、それを右手に持ち替えたのだ。そして、あろうことか素手となった左手でボールを握り直した。
(左投げ……!?)
限界を迎えた右腕と擦り切れた指先を庇うための、あまりにも無謀な即席のスイッチ。
黒部は右足を上げ、見よう見まねのぎこちないフォームから、左手でサイドスロー気味にボールを放った。
当然、素人の利き手ではない腕から放たれたボールに、コントロールなどあるはずもない。だが、無理やり横手投げをしたことで、ボールは完全に偶然の産物として、右打者の内角へ鋭く食い込むクロスファイアのような奇妙な軌道を描いたのだ。
「はぁっ!?」
これまでずっと右腕からの素直な軌道を見ていた打者は、突如として反対側から現れた変則的なボールに完全にタイミングを狂わされた。前のバッターが少女にライナーを打ったことへの動揺もあったのだろう。
慌てて体勢を崩しながらバットを出すが、完全に差し込まれたスイングはボールの上っ面を軽く叩くだけ。
コンッ、と気の抜けた音が鳴り、勢いを殺された白球がマウンドへ向かってコロコロと転がっていく。完全に勢いの無い、ただのピッチャーゴロだ。
黒部は右手にはめた不慣れなグラブでそれを拾い上げると、安堵したように息をつき、ホームベースにいる俺に向かって、小さくガッツポーズを作ってみせた。
その瞬間、俺はすでにマウンドへ向かって駆け出していた。
先ほどよりもずっと強く、感情の赴くままに彼女の細い身体を抱き寄せる。
「よくやった……っ! 本当に、よく最後まで投げ抜いてくれた!」
感極まった俺の腕に、自然とさらにギュッと力が入る。
この過酷な防衛戦を、彼女がどれだけの痛みを堪えて耐え抜いたか。俺のミットにはそのすべてが刻まれているからこそ、胸の奥から熱いものが込み上げて止まらなかった。
「……大鐘、くん。胸の、プロテクターが、痛いわ」
腕の中から、少しだけ苦しそうな、けれど可笑しそうな声が聞こえてハッとする。
「あっと、すまん……!」
俺は慌てて腕を解き、一歩退いて彼女の顔を覗き込んだ。
肩で息をしながらも、黒部の灰色の瞳はどこまでも澄み切っている。俺はふと疑問に思い、先ほどの奇跡のような一球について尋ねた。
「さっきの左のサイドスロー……あれは、どういうことだ?」
俺の問いに、黒部は頬をわずかに朱に染め、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「……大鐘くんが変化球を教えてくれた時の左投げが、かっこよかったから。私もできないかなって、こっそり練習してたの」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
あの時、俺が手本として見せた左投げ。彼女はそれをただ見ていただけでなく、自分の武器として密かに磨き、そしてこのツーアウトの場面まで隠し玉としてずっと取っておいたということだ。
「そうか……。でも、さっきライナーをグラブで弾いた直後だぞ。左手、痛まなかったのか?」
「右手よりはずっとマシだったわ」
「……やっぱり強がってたか」
俺は呆れと、それを遥かに上回る愛おしさが入り混じったため息をつき、彼女の汗と土で汚れた黒髪を、少しだけ強めに撫で回した。
黒部はされるがままに目を細め、くすぐったそうに、けれどとても嬉しそうにふわりと微笑んでいる。
その笑顔をしっかりと目に焼き付け、俺は自分の中のスイッチを完全に切り替えた。
静かに熱を帯びていく視線で、真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
「黒部。お前の球は……俺が今まで受けてきた中で、間違いなく一番良かった」
「……ありがとう」
次は、俺の番だ。
俺は転がっていたバットを拾い上げ、三塁側ベンチで呆然としている元チームメイトたちを鋭く見据えた。
「お前が繋いでくれたこのアウト、絶対に無駄にはしない。俺が必ず、お前を勝利投手にする。見ていてくれ」
彼女は俺の過去を清算するために、その身を削ってマウンドに立ち続けてくれた。
ならば次は、俺が示す番だ。俺ももう、逃げたりはしないと、圧倒的な結果をもって彼女に応えなければならない。
桜羽たちのいるベンチへ黒部を送り出すと、俺は大きく息を吸った。
満身創痍となった黒部ナノカが、ゆっくりとした足取りでベンチへと戻ってきた。ジャージは泥と汗にまみれ、肩で大きく息をしているが、その表情はどこか晴れやかだった。
固唾を呑んで見守っていた少女たちが、弾かれたように彼女の元へと駆け寄る。
「ナノカちゃん、おつかれさま! 本当にすごかったよ!」
エマが涙ぐんだ目でナノカの手を取り、自分のことのように喜んでぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「痺れました! あの最後のクロスファイアは、見事な気迫でした!」
シェリーも興奮冷めやらぬ様子で、両手を上げて賛辞を贈った。
「とりあえず、座って休んでくださいまし。無茶しすぎですわ……」
ハンナが心配そうに眉を下げながら、冷えたスポーツドリンクのボトルと真新しいタオルをナノカへと手渡した。
ナノカは「ありがとう」と柔らかく微笑みながらそれを受け取り、ベンチに深く腰を下ろして、ようやくホッと息をついた。
そこへ、グラウンドに視線を向けていた二階堂ヒロが静かに歩み寄ってきた。普段の威厳に満ちた生徒会長の顔には、珍しく微かな苦渋と労いの色が浮かんでいる。
「ナノカ、すまない。苦労をかけた。私が強引に手筈を整えた勝負のせいで、あんな無茶をさせることになって……」
ヒロが素直に頭を下げると、ナノカはタオルで顔についた土を拭いながら、静かに首を横に振った。その灰色の瞳には、少しの後悔も、やらされたという疲労感も微塵も滲んでいない。
「いいえ。これは、私がやりたかったことだから。むしろ、お礼を言いたいくらいよ」
大鐘ヒカリの過去を清算し、彼を元の場所へ引き戻すためのマウンド。誰に言われたわけでもない、彼女自身の強い意志だった。
その迷いのない真っ直ぐな言葉に、ヒロはわずかに目を丸くし、やがてふっと安堵したように口元を緩めた。
「そうか……ありがとう」
ナノカが無事に帰還したことで、一塁側ベンチにはふっと安堵の空気が流れていた。
しかし、視線をグラウンドへ向けると、たった一人でバッターボックスへ向かおうとするヒカリの背中があり、途端にヒリヒリとした本来の緊張感が蘇ってくる。
「えっと……今度は大鐘くんの攻撃だったよね? 勝つには、どうすればいいんだったっけ?」
エマが不安そうに首を傾げると、横で試合の行方を見守っていたシェリーが「はい!」と元気よく手を挙げた。
「あちらの攻撃が22人目の打者で3アウトだったので、後攻の大鐘さんは、2回までのアウトで22打席を終えれば勝ちです!」
「えっと、つまり、確実に勝つためには一つのアウトで21回の打席を終えなくてはいけないということですの……?」
ハンナがパチパチと瞬きをしながら計算結果を口にすると、ベンチの空気がズシリと重く沈み込んだ。
相手は強豪の現役投手。その相手に、1割未満の失敗しか許されない。とてつもない打率と出塁率を求められるのだ。
常識的に考えれば、野球というスポーツにおいて絶対に不可能と断言できる絶望的な条件だった。
「大丈夫ですよ! 大鐘さんは打者と探偵の二刀流ですから! きっと何とかしてくれますって!」
重苦しい空気を吹き飛ばすように、シェリーが両手で拳を作って力説した。野球の『二刀流』の意味合いが根本から間違っているが、彼女の純粋な応援の気持ちは痛いほど伝わってくる。
「ふふ、彼はピッチャーもこなせるからね。実質、三刀流というわけさ」
いつの間にか隣で腕を組んでいたレイアも、シェリーの言葉に乗っかるようにして悪戯っぽく笑った。
「……あなたたち、本当に緊張感の無い人たちですわね」
ハンナが呆れたようにため息をつき、こめかみを押さえる。
とはいえ、彼女たちの軽口のおかげで、ベンチを覆っていた悲壮感が少しだけ和らいだのも事実だった。
「どんな条件でも、応援するしかないよね……! 大鐘くん、がんばれーっ!!」
エマが両手を口元に当てて、グラウンドに向かってありったけの声を張り上げた。
「大鐘さーん! かっ飛ばしちゃってください!」
シェリーもそれに続き、ベンチの最前列に身を乗り出して元気いっぱいにエールを送る。
すると、それまで不気味なほど静かだった三塁側のベンチから、あからさまに苛立ったようなヤジが飛んできた。
「大鐘死ねぇ!!」
「野球辞めて女かよてめぇは!!腑抜けたスイング見せたらぶっ飛ばすぞ!!」
「半年間何やってたんだゴラァ!!バット振れんのかオラァ!!」
口々に飛んでくる、下劣で攻撃的な言葉にエマは思わずたじろいだ。
「ひどい……。大鐘くんが、あんなふうに言われるなんて……」
あの穏やかで優しいヒカリしか知らないエマは、向けられた悪意の強さにショックを受け、胸元をぎゅっと握りしめた。
「あはは、そりゃそうっしょ」
だが、隣にいたココは全く動じることなく、むしろ鼻で笑うようにして言った。
「エマっち、あれ単なる嫉妬だから」
「し、嫉妬……?」
ココはグラウンドへと視線を移し、呆れたように目を細めた。
「オーガ、かっこいいところ見せてよ」
グラウンド上の空気が、にわかにピンと張り詰めた。
ピッチャーがマウンドの土をスパイクで均す。そして、ヤジの標的となっていた大鐘ヒカリがゆっくりと右打席に入り、深く息を吐いた。
両者の準備が整ったその瞬間、一塁側ベンチから見守る少女たちの肌にまで、ビリビリとした静電気が伝わってくるような錯覚が走った。
原因は明らかだった。バッターボックスに立つヒカリから放たれる、常軌を逸した集中力だ。
「とてつもない集中ですわね……応援もヤジも聞こえていませんわきっと」
息を呑むようなハンナの呟きに、誰もがこくりと頷いた。
ヒカリの目つきは、普段の彼からは想像もつかないほどに研ぎ澄まされていた。シェリーに探偵役をやらされている時の理知的な光でも、日常で見せる穏やかで隙のある色でもない。無駄な感情を一切削ぎ落とし、ただ目の前の敵を粉砕することだけに特化した、ある種の荘厳さすら感じさせる恐ろしいほどの闘気が、彼の全身を包み込んでいる。
「うん……ちょっと、怖いかも」
普段の心優しい彼を知っているからこそ、エマは自分の腕をさすりながら、その近寄りがたいオーラに身震いしてポツリと漏らした。
すると、それまで腕を組んで黙ってグラウンドを見つめていた二階堂ヒロが、静かに口を挟んだ。
「何を言っているんだエマ。それは正しくない」
「そ、そうだよね……」
冷たく響いたヒロの声音に、エマはヒカリの気迫を否定してしまったことを窘められたのだと思い、申し訳なさそうにしゅんと肩を落とした。
しかし次の瞬間。
ヒロはおもむろに制服のポケットから自身のスマートフォンを取り出すと、一切の躊躇なくカメラアプリを起動し、そのレンズをバッターボックスのヒカリへと向けたのだ。
──カシャッ
息の詰まるようなグラウンドの静寂を切り裂いて、およそこの場には似つかわしくない、間の抜けた電子のシャッター音がベンチに鳴り響いた。
「あれが良いんだ」
「ひ、ヒロちゃん!?」
平然とした顔でスマートフォンの画面を保存し、何事もなかったかのように言い放った生徒会長に、エマは目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
ヒロの表情はいつものように涼しげで、凛とした威厳を保っている。まるで必要な業務だというように撮っていたが、幼馴染として長い付き合いのあるエマにははっきりとわかった。今のヒロの瞳の奥が、まるで日曜朝の戦隊ヒーローショーを熱心に見つめる小さな子どものようだったと。
「何やってんのヒロっち……。てかずるいし。あてぃしも撮っとこ」
カシャッ、カシャッ!
呆れたようにツッコミを入れたココだったが、彼女もまた即座にスマホを取り出し、連写機能でヒカリの姿をカメラに収め始めた。画面を見つめるココの瞳もまた、呆れの中に隠しきれない愛おしさと、これから反撃を開始する彼への絶対的な信頼の色が滲んでいる。
そんなベンチの自由すぎる惨状を、タオルにくるまって体力を回復させていたナノカが、少しだけ口を尖らせながら見つめていた。
「……大鐘くんが、モテるわ……」
「別に盗んねえし。写真くらいいいっしょ。送っといてやるからさ」
ココはスマホの画面を揺らしてみせた。
和やかなベンチのやり取りとは裏腹に、グラウンドのヒカリは微動だにせず、ただ静かに初球を待ち構えている。
「ヒロさん、あなたはこの絶望的な状況が、不安にはなりませんの?このルールを考えたのはヒロさんなのでしょう?」
グラウンドを見つめる二階堂ヒロの横顔を見上げながら、ハンナは祈るように両手を胸の前で組み、ふとそんな疑問を口にした。
先ほどの和やかなやり取りで少し空気は緩んだものの、ハンナの心中には依然として重苦しい緊張が渦巻いていた。たった一人で、22打席完走という条件。常識で考えれば、それは針の穴を通すよりも不可能な確率だ。それにもかかわらず、ヒロの表情には微塵の焦りもなく、むしろ勝利を確信しているかのような静かな高揚感すら漂っている。
「不安?なぜ私が不安にならなければいけない」
ヒロはスマートフォンをポケットにしまい、薄く、誇り高い笑みを浮かべた。その視線は、バッターボックスで静かに殺気を練り上げるヒカリの姿から片時も離れていない。
「彼は大鐘ヒカリ。かつて、世代ナンバーワン捕手と言われた男だ」
「えっ、そうだったの!?」
ヒロの静かな口調から明かされた肩書きに、エマが目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。隣にいたシェリーやレイアも驚きに目を丸くした。
ヒカリが強豪校の出身であり、並外れた身体能力を持っていることは彼女たちも理解していた。だが、世代ナンバーワンという途方もない称号を持っていたことまでは知らなかったのだ。
「しかし、捕手というポジションの能力を客観的にはかるのは、実は非常に難しいんだ」
驚く少女たちをよそに、ヒロは淡々と解説を続ける。
「投手であれば防御率や奪三振数といった一目でわかる数字が残る。だが、捕手のリードや守備力を絶対的な数値で証明することは容易ではない」
正確に言えば、細かな指標は存在する。だが、少なくとも高校生レベルの学生野球において、それらが絶対的な評価基準として広く知れ渡ることは少ない、とヒロは小さく補足した。
「能力を数字で可視化しにくいポジション。にもかかわらず、当時の彼が世代最強であるというその評価に対して、疑問を挟む者は誰一人としていなかった」
ヒロが語る中、グラウンドではマウンド上の投手が大きく振りかぶった。
初球。全国レベルの意地と、ありったけの敵意を乗せた渾身のストレートが、唸りを上げてヒカリの胸元へと抉り込んでいく。
「単純な話だ。彼が、他の誰よりも打てる選手だからだ」
ヒロの凛とした宣告がベンチに落ちた、まさにその瞬間だった。
冬の澄み切った空気を根底から震わせるような、爆発的な轟音がグラウンドに響き渡った。
それは、金属バットと硬球がぶつかったという表現では生ぬるい、まるで大砲が火を噴いたかのような凄まじい衝撃音だった。
バットは、一切の無駄がない神速の軌道を描いていた。下半身から生み出された莫大なエネルギーが、体幹を通り、両腕へと伝わり、恐ろしいまでのスイングとなって白球の芯を完璧に打ち抜いていた。
打たれたボールは、目で追うことすら困難なほどの弾丸と化し、一直線に空へと吸い込まれていく。
圧倒的な暴力性と、洗練された技術の結晶。
誰もが、ただ呆然とその放物線を見上げるしかなかった。
「い、いまの……ボールを打った音なの……!?」
エマの震える声、無意識に絞り出したその悲痛にも似た問いかけに、即座に答えられる者はこのグラウンドに誰一人としていなかった。
視線の先、白球は遥か彼方の外野フェンスを易々と越え、そのさらに奥にある高い防球ネットの上段に突き刺さるようにして、ようやくその恐ろしい勢いを殺されていた。特大の、文句のつけようがない完璧なホームランだった。
マウンド上では、投球フォームを終えた体勢のまま、ピッチャーの男が信じられないものを見たというように完全に硬直している。三塁側のベンチで先ほどまで下劣な嘲笑を浮かべていたかつてのチームメイトたちは、まるで首を絞められたかのように顔から一気に血の気を引かせ、だらしなく口を開けたまま微かなうめき声すら発することができない。
こちら側の一塁ベンチも同様だった。あまりにも次元が違う、純粋な暴力にも等しい個の圧倒的な力を見せつけられ、少女たちはただただ息を呑み、金縛りに遭ったように立ち尽くすことしかできない。
世界からすべての音が奪い去られたかのような、完全なる静寂。
その異様な空気の中で、ただ一人──バッターボックスに立つ男だけが、ひどく退屈な日常のひとコマを終えたかのような、当たり前という顔つきで佇んでいた。
ヒカリは完璧なフォロースルーを終えたバットをゆっくりと下ろし、肩の力を抜いてホームベースの砂をスパイクで軽く均す。
そして、一切の熱を感じさせない絶対零度の瞳で、マウンド上でへたり込みそうになっているかつての仲間を真っ直ぐに見据え、静かに口を開いた。
「舐められたもんだな。俺が、少しでも衰えたと、本気で思ったのか?」
静寂のグラウンドに、低く、地を這うような声が響き渡る。
決して声を荒らげているわけではない。だが、そこに込められた底知れぬ凄みと、強者としての絶対的な矜持に、味方として安全なベンチで見守っているはずの自分たちですら、ゾクリと背筋に冷たい氷を押し当てられたような錯覚を覚え、思わず身震いしてしまった。
ヒカリは手にした金属バットのヘッドをスッと持ち上げ、その切っ先をマウンド上で震える投手へと真っ直ぐに向けた。
「さっきお前らも言ったよな。手加減は嫌いだと」
それは、過去のしがらみや情など一切挟まない、純粋な実力による完全なる蹂躙の宣告だった。
「俺も同じだ。無駄な出し惜しみなんてするな。──全力でかかってこい」
ヒカリから放たれる圧倒的な覇気と、バットが空気を叩き潰した際の暴力的な残響は、距離の離れた一塁側ベンチにまでビリビリと肌を刺すような物理的な圧を伴って押し寄せていた。
「オーガ……まじで
ココが震える手で構えていたスマートフォンを取り落としそうになり、慌てて両手で抱え込んだ。その顔には、そのあだ名の名付け親である彼女自身ですら信じられないものを目の当たりにしたという、純粋な畏怖がへばりついている。
「……鬼、というのがピッタリだね。本当に」
普段は飄々として崩れることのないレイアの顔からも、いつもの余裕めいた笑みは完全に消え失せていた。大きく見開かれた瞳は、バッターボックスに立つ一人の少年に釘付けになっている。
その異様な光景に息を呑みながら、ハンナはおずおずと隣に立つ少女を見上げた。
「シェリーさん……あなたの魔法の力をもってすれば、あれくらい飛ばせますの?」
シェリーの持つ異能は『怪力』。魔法で肉体を強化し、常人を遥かに凌駕するパワーを発揮する彼女ならば、あるいは物理法則を無視したあの特大のホームランを再現できるのではないか。ハンナのそんなすがりつくような問いに対し、しかしシェリーはゆっくりと首を横に振った。
「……いえ。速さならともかく、あそこまで飛ばすのは私でも無理だと思います」
「野球のバッティングは、腕力だけで成り立つものではないからな。極限まで洗練された技術と、全身の連動性の問題だ」
腕を組んだまま、ヒロが静かに口を挟んだ。その顔には、目前で起きた常識外れの事態への驚きはありつつも、喜びの色が浮かんでいるように見えた。
「でもでも、大鐘さんは約半年のブランクがあったんですよね?少しくらい影響があってもいいと思います」
シェリーが食い下がるように尋ねた。半年も実戦から離れていれば肉体も感覚も錆びつくのが道理だ。先ほどヒカリ本人は「少しでも衰えたと思ったか」と言い切っていたが、現実的に考えれば疑問は残る。
「元チームメイトである彼らの反応を見るといい」
ヒロは三塁側ベンチとマウンドを指し示した。かつての仲間たちは、ヒカリのスイングを見て単に驚愕しているのではない。底知れぬ恐怖に顔を引きつらせ、まるで未知の化け物でも見るかのように震えているのだ。
「彼らのあの絶望ぶりを見るに、大鐘は衰えているどころか、彼らが知っていた現役時代よりもむしろ凄みを増しているのだろう」
「そ、そんなことありえますの……? 野球から離れていたのに、実力が上がるなんて……」
ハンナが信じられないというように目を丸くするが、ヒロだけは一人納得したように深く頷いた。
「彼は以前、日本代表に選ばれた際、スポーツ誌のインタビューで、こう語ったことがある」
「だ、代表……!?」
エマが素っ頓狂な声を上げた。
そんな途方もない舞台で戦っていたなんて、ただの一度も聞いたことがない。エマは唖然としながら、大鐘ヒカリという少年が、いかに自分の輝かしい過去や実績について語ろうとしない人間であるかを今更ながらに思い知らされていた。
「『捕手としての自分は、努力と理論でできています。技術も配球も、まだまだ足りないものだらけです』と」
ヒロは往年の名台詞でも暗唱するように、厳かに言葉を紡ぐ。
「『しかし──打者としての自分は、間違いなく天才だ』と」
ヒカリは野球から離れ、学園にいる間も、決して己の肉体を甘やかしてはいなかった。日々のランニングや基礎的なトレーニングは無意識の習慣として続けられており、成長期にある彼の肉体は、人生で初めてと言って良い休息により、大きく、強く仕上がっていたのだ。
それに加え、最近になって紫藤アリサがきっかけでバッティングセンターに通い、再びバットを振るようになった。たったそれだけのきっかけで、彼は細胞の奥底に眠っていた打撃の感覚を完全に呼び覚まし、アップデートされた肉体と完璧に噛み合わせたのである。それはもう、努力や執念といった言葉では説明のつかない、紛れもない『天才』の証明だった。
「君たちが普段、他愛のない話をして笑い合っている相手は、かつて世界が恐れた怪物打者だ」
ヒロの言葉に、少女たちは無言でグラウンドの背中を見つめた。
穏やかな日常の姿からは全く想像もつかない、あまりにも冷酷で、美しく、絶対的な強者の佇まいがそこにあった。
「自己評価に極めて慎重な彼が、唯一自らを『天才』と評するんだ。大鐘が後攻の時点で、この勝負の結果はとっくに決まっていたんだ」
ヒロが確信に満ちた声で締めくくった、その直後だった。
マウンド上で完全に心を折られ、半ば自暴自棄に投げ込まれたエースの二投目。
ヒカリはそれを待っていたかのように左足を踏み込み、再び神速のフルスイングを解き放った。
一打目すら上回る、空気を引き裂くような爆音。
打たれた白球は、絶望の空を切り裂く白線となり、防球ネットの遥か上段へと突き刺さる、文句なしの二者連続特大ホームランとなった。グラウンドにはもはや、彼を阻むことのできる者など誰もいない。
誰かが、「怪物、ですか……」と呟いた。
──その圧倒的な蹂躙劇を、グラウンドから少し離れた学園の裏門のフェンス越しに、静かに見つめている人影があった。
「……まぁ、あれくらいやってもらわねえとな」
黒いパーカーのフードを深く被り、マスク越しにフッと小さく笑みをこぼしたのは、紫藤アリサだった。
彼女はポケットに両手を突っ込んだまま、呆然と立ち尽くす男たちの惨状を遠目に一瞥すると、それ以上見届ける必要はないとばかりに踵を返した。
昨夜、公園で凍えていた男はもういない。かつての自分を取り戻した彼の背中に、野良猫のような少女は確かな信頼を預け、冷たい冬の風の中を一人、足取り軽く歩き去っていった。
俺は、ただ淡々とバットを振り続けた。
勝負の結末は、あまりにも静かで、一方的なものだった。
ストライクゾーンに入ってくる甘い球は、ことごとく外野のフェンス越えか、防球ネットへと突き刺した。
完全に心をへし折られた相手バッテリーは、途中からまともな勝負を避け、あからさまにストライクゾーンを外すようになった。俺はそれを深追いすることなく、ただ静かに見送り続けた。
四球、四球、また四球。
そして迎えた、20打席目。
外角へ大きく外れた4球目のボールを見送り、勝負は終わった。ここから2つアウトを取られても22打席完走。それが、この長く過酷な変則マッチの、静かな決着だった。
三塁側のベンチは、水を打ったように静まり返っている。ヤジを飛ばしていた元チームメイトたちは、誰一人として言葉を発することなく、ただ呆然とグラウンドを見つめていた。
俺はカラン、と金属バットを土の上に落とすと、ゆっくりとした足取りでマウンドへと向かった。
そこには、俺と同じ学年のピッチャーが、両膝を突き、うなだれたまま絶望の底に沈んでいた。肩は小刻みに震え、固く握りしめられた両手からは力が抜け落ちている。
「……顔、上げろ」
俺が静かに声をかけると、男はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「球、前よりずっと速くなったな」
一切の皮肉も同情もない。俺は一人の捕手として、かつての同輩の実力向上を本心から認めてそう告げた。事実、彼のストレートには、半年前にはなかった重さとキレが確かに宿っていた。
「……っ!」
俺の言葉を聞いた瞬間、男の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
堰を切ったように、彼の両目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
「なんで……なんでお前が、野球を辞めるんだ……!」
グラウンドの土を強く叩き、男は子供のように泣きじゃくった。
その声に混じっていたのは、俺への憎しみや、打ち負かされたことへの屈辱ではなかった。どうしようもなく深く、取り返しのつかない重さを持った後悔だった。
「……俺が逃げたからだ。チームの最適解だなんて理由をつけて……本当はただ、意地張ってて、嫌われてることに拗ねてただけなんだ。それで、俺がいなければ丸く収まるなんて思い上がって……お前たちを一人の人間として信じることから、俺は逃げた。……ごめんな」
すべてを飲み込んで沈黙を選んだのも。弁明する気力すら湧かず、勝手に絶望して退部したのも。結局のところ、俺自身の弱さで、それが罪だった。それを素直に口にすると、男は激しく首を横に振った。
「違う……! お前が謝るな……っ!」
男は泥まみれの袖で乱暴に涙を拭い、声を振り絞るようにして叫んだ。
「俺たちが……俺たちが、お前に嫉妬してたんだ。よそ者なのに誰よりも崇められてて……そんなお前に、くだらない劣等感を抱いて、消えてもらいたいって心のどこかで思ってたんだよ。それで良い機会が来たと思って、お前をみんなで攻撃して追い出して……その結果が、大会の惨敗だ。俺たちは、自分たちの情けなさをお前のせいにしたんだ……っ!」
それが、彼らが隠し続けてきた本当の泥だった。
男はズビッと鼻をすすり、ふと視線を横へと向けた。その先には、一塁側のベンチで心配そうにこちらを見守る、桜羽や黒部たち少女の姿があった。
「……今更わかったよ。ああやって、真っ直ぐに応援されるにふさわしい人間なんだ、お前は。野球でも、野球の外でも、お前は本当にすごいやつだ。……そんなお前が、あんな卑怯な事件なんて起こすわけないのに。なんで俺たち、お前から全部奪っちまったんだ……。本当に、すまない……」
懺悔のように響くその声を聞いた時。
俺の胸の奥にずっとこびりついていた、重く冷たい泥の塊が、ふっと音もなく溶けて消え去っていくのを感じた。
ああ、終わったんだな。
俺と彼らは、もう二度と同じチームで笑い合うことはできない。それだけの時間が経ち、決定的な亀裂が入り、互いに別の道を歩み始めている。
けれど、それでも。野球という一本の繋がりだけは、決して断ち切られてはいなかった。
「また、戦おう」
俺が短くそう告げると、男はハッとして、信じられないものを見るように俺を見上げた。
「お、お前……」
「できれば、甲子園で」
俺が薄く笑みを浮かべてそう続けると、男は大きく息を呑み、やがて、憑き物が落ちたように晴れやかな顔で立ち上がった。
彼はもう一度乱暴に顔を拭い、グラブで俺の胸を軽く叩いた。
「……次は勝つ。女に刺されんなよ」
「刺されるかよ」
俺の呆れたような返しに、男は鼻を鳴らして笑うと、三塁側ベンチへと踵を返した。
待っていた元チームメイトたちも、無言のまま彼を迎え入れ、やがて揃ってグラウンドの出口へと歩き出していく。その背中には、もう先ほどまでの傲慢さも、俺への敵意も残っていなかった。
すべてが元通りに解決したわけじゃない。俺や彼らの犯した罪が完全に消えたわけでもない。
しかし、これは紛れもなく、俺と彼らにとっての過去との決別だった。
冬の風が、心地よくグラウンドを吹き抜けていく。
俺は一塁ベンチの方へと振り返った。
そこでは、俺のたった一人のピッチャーが、ベンチのみんなと一緒に、俺の帰りを待ってくれている。
俺は足元に落ちていたキャッチャーマスクを拾い上げ、彼女の元へと、新しい俺の居場所へと、迷いのない足取りで歩き出した。
ベンチでは、寒空の下でずっと俺たちの戦いを見守ってくれていた少女たちが、色めき立って待ち受けていた。
「大鐘くんっ!おつかれさま、すっごくかっこよかったよ!」
「ふふっ、見事な大立ち回りだったね。まさに鬼神の如き活躍さ」
桜羽が花が咲いたような笑顔で出迎え、蓮見が楽しげに肩をすくめる。
俺が照れくささに頭を掻きながら礼を言おうとした、その時だった。
「はいはーい、感動のフィナーレのところ悪いけど、あてぃしめちゃくちゃ腹減ったし冷えた!帰って肉まん食お!」
沢渡がパンパンと手を叩きながら、強引に場を仕切り始めた。
「えっ? でも、大鐘くんがせっかく戻ってきたのに……」
「いいからいいから!エマっちは空気読めない子か!ほら、ヒロっちもぶりっ子もお嬢も撤収!」
「ちょっとココさん、引っ張らないでくださいまし!」
桜羽の背中を押し、遠野の腕を引っ張りながら、沢渡はベンチの奥に座る黒部へ向かって、片目をパチンとウインクしてみせた。その意図を正確に察した二階堂も、小さく微笑んで頷く。
「そういうことだ。私たちは先に戻っている。……大鐘、グラウンドの戸締まりは頼んだぞ」
生徒会長はそれだけ言い残し、騒がしい少女たちを引き連れて、足早にグラウンドを後にした。
わちゃわちゃとした足音と声が遠ざかり、冬の夕暮れに染まり始めたベンチには、俺と黒部ナノカの二人だけが残された。
西日が差し込むベンチ。俺は、泥だらけのジャージを着たまま、タオルを膝に置いて座っている彼女の隣へと腰を下ろした。
互いの肩が触れそうなほどの距離。少しの間、冷たい冬の風の音だけが二人の間を通り抜けていく。
「……なぁ、黒部」
オレンジ色に染まる誰もいないマウンドを見つめながら、俺は静かに口を開いた。
「俺、本格的に野球に戻ろうと思う」
あの事件以来、固く封印していた俺の居場所。
だが、もう逃げる必要はない。この手にはっきりと残るバットの感触と、ミットの奥で受け止めた彼女の痛いほどの祈りが、俺に再び前を向く勇気をくれたのだから。
俺の言葉を聞いて、黒部は少しだけ目を丸くし、それからふわりと、夕陽よりも温かい微笑みを浮かべた。
「……そう。じゃあ、私の役目は、これで終わりね」
どこか寂しげに、けれど俺の背中を押すようにわざとらしく肩をすくめてみせた彼女に、俺は呆れたように短く息を吐いた。
「お前……絶対、わざと言ってるだろ」
「ふふっ。何のことかしら」
とぼけるように首を傾げる黒部へ向き直り、俺は彼女の傷だらけになった両手を、自分の大きな両手でそっと包み込んだ。
擦り切れた指先、酷使された細い手首。そのすべてが、愛おしくてたまらなかった。
「俺はお前に、心をこじ開けられたんだ。過去の泥ごと、全部お前が受け止めてくれた」
彼女の灰色の瞳を、逃げ場のないほど真っ直ぐに見つめ返す。
「グラウンドの上だけじゃない。これからの俺の隣には、ずっとお前がいてほしい。……好きだ、黒部。これからも、俺のそばにいてくれ」
俺の真っ直ぐな言葉に、黒部の白い頬が、夕陽のせいだけではなく赤く染まっていく。
彼女は包まれた自分の手を少しだけ握り返し、潤んだ瞳を瞬かせながら、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……うん。私も、大鐘くんの隣がいい」
俺たちはどちらからともなく身を寄せ合い、冷たい冬の空気の中で、互いの確かな体温を分け合った。
彼女の持つ幻視は、過去の事象や隠された真実を視る魔法だ。
過去に囚われ、立ち止まっていた俺は、過去を視る彼女のその優しい瞳に救い出された。
だが、もう怯えることはない。俺たちの間に、暴かなければならない悲しい真実など何一つないのだ。
冷たい冬の風が止み、やがて春の訪れを予感させるような、穏やかな夜がグラウンドを包み込み始める。
過去を視る魔法を持つこの静かな少女の手を強く握りしめながら、俺はもう振り返ることなく、前を見て歩き出していく。
ナノカルート完走です。ありがとうございました。こういうスポ根の話をするのはこのルートだけです。お付き合いいただいて感謝
スポ根メインで主人公のスペックを盛ると大変だけど、ラブコメメインならどれだけスペックを盛ってもセーフだからオススメです。
やりたいことをめちゃくちゃやりながら、ラブコメは崩さないように頑張る、書いてて楽しいルートでした。お姉ちゃん出てこなかったな……後日談で出せると良いな……