まのこい天秤   作:雪無い

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 いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシくれると嬉しいです

 探偵パートのガバさは全体の脚本で誤魔化していけの精神でやらせてもらっています


2話『夕陽に溶けない』

 

 教室の空気は、まるで冷たい水底に沈められたかのように重く、ひどく息苦しかった。

 

「……な、なんですの、その目は!わたくしがこんな、趣味の悪い真似するわけありませんわ!」

 

 遠野の声が、教室内に響き渡る。だが、その悲痛な叫びは、周囲の冷え切った空気を溶かすには至らなかった。

 無惨に破壊されたモニュメントと、足跡一つないペンキの海。この不可解な密室状況を前に、集まった野次馬たちの目は、明確な疑念の色を帯びてこの学園で唯一の『浮遊』の魔法使いである遠野に向けられていた。

 言葉なき糾弾の視線が、彼女の誇り高い心をじわじわと削り取っていくのが、手に取るようにわかる。

 

「わ、わたくしじゃありませんわ……」

 

 普段の気丈な振る舞いはどこへやら、遠野は顔面を蒼白にさせ、後ずさるように身を縮こまらせた。その姿は、いわれのない罪を着せられようとしている哀れな少女そのものだった。

 

「……じゃあ、昨日の夜、どこで何をしてたんだよ」

 

 野次馬の中から、誰かがポツリと冷ややかな声を上げた。

 その問いに、遠野はハッとして、すがるように周囲を見渡す。

 

「昨日の夜は……自室に……。で、でも、証明してくれる人なんて……」

 

 その切羽詰まった様子を見れば、彼女が嘘をついているわけがないことなど一目瞭然だった。

 遠野ハンナという人間は、あんなに怯えきった、今にも泣き出しそうな顔で嘘をつけるほど、器用な人間でもない。

 

 嫌いな空気だ。

 俺が舌打ちしそうになりながらそう思い至った時、ふと視界の端で、橘と目が合った。 

 

 彼女はなぜか、俺にむけてふわりと微笑みを浮かべた。

 そして、一切の躊躇なく一歩前へ踏み出すと、震える遠野に向かい合い、肩にポンと力強く手を置いた。

 

「ハンナさん!」

「シェ、シェリーさん……!」

 

 突然の接触に、遠野は弾かれたように顔を上げ、すがるような、涙ぐんだ瞳で橘を見つめた。

 この四面楚歌の状況で、味方になってくれるに違いない存在。遠野の表情には、そんな淡い希望が浮かんでいた。

 

 だが、橘は、そんな遠野の悲痛な思いなど全く意に介さないかのように、満面の、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で、高らかに言い放った。

 

「やはり、そうでしたか!ついにやってしまいましたね、ハンナさん!」

「…………はぁ!?」

 

 橘は手にした虫眼鏡をこれ見よがしに天高く掲げ、世紀の大事件の謎を解き明かしたとでも言わんばかりの、自信に満ち溢れたドヤ顔を決めている。

 遠野はといえば、あまりに唐突で理不尽な身内の裏切りに直面し、完全に言葉を失い、ポカンと口を開けたまま石化していた。その瞳には、恐怖や絶望を通り越して、「この生き物は一体何を言っているのだろうか」という純粋な疑問符が浮かんでいる。

 

「ふふふ、やはりそうでしたか!完璧な密室殺人……ならぬ密室破壊事件!いやぁハンナさん!私も浮遊を使ったトリックは考えていましたが、まさかお一人で実行されていたとは!」

「あ、あなた……一体、何を言ってやがりますの!?」

 

 我に返った遠野が、顔を真っ赤にして甲高い声を張り上げた。

 当然の反応だ。すがる思いで助けを求めた相手から、真っ向から犯人だと断定されたのだから。

 周囲の野次馬たちの視線が、突如として始まった二人の奇妙な寸劇に完全に釘付けになっている。

 

 だが俺は、先ほど橘と視線が交差した時のことを思い返していた。

 あの時、橘が俺に向けた微笑み。それは、いつもの無邪気でお気楽な笑顔とは少しだけ毛色が違っていた。あの笑みは

、俺を真っ直ぐに落ち着かせようとするかのような、確かな温度を持った眼差しだった。

 

(……なるほど。そういうことか)

 

 少しだけ面食らったが、彼女の意図に気がついた。

 周囲の野次馬たちの視線が、突如として始まった二人の奇妙な寸劇に完全に釘付けになっている。

 俺はその隙を突いて、誰にも気づかれないようにそっと野次馬の列を抜け出し、ペンキの海が広がる現場のすぐ手前へと足を踏み入れた。

 

(……ペンキは、完全に乾ききっているな)

 

 床一面に広がった赤い海を観察する。表面には薄い膜が張り、光を反射していない。靴の裏を汚す心配はないと判断し、俺はさらに一歩、惨状の中心部へと近づいた。

 粉々に砕け散った石膏のモニュメントの残骸。そして、そのど真ん中で無惨にひっくり返っている、赤いペンキの空きバケツ。

 俺はゆっくりとしゃがみ込み、その金属製のバケツの縁に手をかけ、少しだけ持ち上げてみた。

 

「しかし、残念ながらバレてしまいましたね。事前に言ってくだされば私も協力できましたが……こればかりは仕方ありません!ですけど、大丈夫ですよハンナさん!」

「一体何が大丈夫なんですの!?わたくし、一ミリも大丈夫な気がしませんわ!?」

 

 背後からは、橘の能天気な声と、遠野の悲痛なツッコミが絶え間なく聞こえてくる。

 持ち上げたバケツの裏側、そしてその真下に隠れていた石膏の破片の状態を確認し、俺は静かに納得の息を吐き出した。

 俺はそのまま視線を上に向け、冷たい風が吹き込んでいる、大きく開け放たれた窓のサッシへと目を凝らした。

 

「安心してくださいハンナさん!あのモニュメントは、私が怪力でぶち壊したことにしましょう!そして、その偽装工作のために、ハンナさんに運んでもらったという筋書きです!完璧ですね!」

「どこが完璧なんですの!?それじゃあ結局、わたくしも共犯じゃありませんの!しかも犯人が名乗り出てる時点で偽装でもなんでもありませんわ!」

「エマさんには、侵入の手引きをしてもらったことにしましょう!」

「エマさんを巻き込むんじゃねえですわ!」

「大丈夫ですよハンナさん!怒られる時は一緒です!私たち、お友達ですから!」

「友情の見せ所が、絶対に間違ってやがりますわーっ!!!」

 

 橘はケープを翻しながら自信満々に胸を張り、遠野は両手で頭を抱えて絶叫している。

 いつの間にか、教室を支配していた遠野を犯人と決めつけるようなあの冷たく陰湿な空気は、もうどこにもなかった。

 野次馬たちは、目の前で繰り広げられるあまりにも阿呆らしい、漫才のようなやり取りに完全に毒気を抜かれ、呆れ果てた顔で顔を見合わせている。

 遠野自身も、橘への怒りとツッコミに全力を注いでいるおかげで、先ほどまでの恐怖で縮み上がっていた蒼白な表情はすっかり鳴りを潜め、いつもの遠野に戻っていた。

 

「橘、それくらいでいい」

 

 静かになった教室に、俺の声が響いた。

 一瞬にして、野次馬たちの視線が俺へと集中する。いつの間にか赤いペンキの海のど真ん中に立っている俺の姿に、彼らは一様に驚きの表情を浮かべた。

 

「あの人、いつの間にあんなところに……」

「てか、あの人……大鐘くんじゃない?」

「えっ、うそ、本物だぁ……!」

 

 周囲の女子生徒たちから、ヒソヒソとそんな場違いな囁き声が漏れ聞こえてくる。

 本物ってなんだ。偽物がいたらそっちのほうが事件だ。俺はただ現場の状況を確認しただけだ。

 だが、この奇妙な注目は、橘が作り出してくれた空気をさらに俺のペースへと引き込むには都合が良かった。

 

「大鐘さん、捜査は私の役目です!抜け駆けは禁止ですよ!」

 

 橘がわざとらしくぷくっと頬を膨らませて抗議してくる。俺はそれに構わず、ひっくり返ったバケツを指差した。

 

「早く文化祭に戻りたいからな。手短に行くぞ。おい、美術部長。ちょっとここに来て、これを見てくれ」

 

 俺の呼びかけに、頭を抱えていた美術部長と、先ほどまで「足跡がない」と騒ぎ立てていた実行委員が、おずおずと顔を見合わせながら俺のいる場所へと近づいてきた。

 

「バケツの真下に落ちてる、このモニュメントの破片。……ここだけ、真っ白なままだろ?」

 

 俺がバケツを少し持ち上げて見せると、二人は目を丸くして身を乗り出した。

 確かに、周囲の破片はすべて赤いペンキでドロドロに染まっているのに、バケツが覆い被さっていた部分の石膏だけは、全く汚れていない。

 

「本当だ……。どうしてここだけ……?」

「簡単なことだ。もし、誰かがモニュメントを壊した『後』にペンキをぶち撒けたのなら、破片の重なりに関係なく、上から満遍なくペンキが降り注ぐはずだ。こんな風に、バケツの形に綺麗に白抜きされるわけがない」

 

 俺は立ち上がり、開け放たれた窓を真っ直ぐに指差した。

 

「つまり、破壊とペンキの散乱は同時に起きたってことだ。もっと正確に言えば……この赤いペンキがたっぷり入った重い金属バケツそのものが、あの窓枠の上からモニュメントに直撃して、粉々に砕いたんだよ」

 

 俺の言葉に、教室がどよめいた。

 美術部長が慌てて窓際へと駆け寄り、サッシの部分を食い入るように確認する。

 

「あ……!窓枠のところに、うっすら赤いペンキの跡が……!」

「昨日、作業を終えた誰かが、うっかり窓枠にバケツを置き忘れたんだろう。そして今日、開けっ放しにされていた窓から吹き込んだ風が、そのバケツを内側へと押し出した。高さとバケツの重量を考えれば、石膏と発泡スチロールのモニュメントを粉砕するには十分すぎる威力だ」

 

 俺は淡々と事実を積み上げていく。

 

「足跡がないのも当然だ。誰もこの赤い海の中を歩いていないんだからな。魔法の仕業でも、誰かの悪意ある嫌がらせでもない。ただの、不注意による事故だ。戸締まりはちゃんとな」

 

 実行委員と美術部長は、ぐうの音も出ないといった様子で呆然と立ち尽くしていた。

 しばらくの沈黙の後、野次馬たちの中から「なんだ、事故かよ……」「魔法の仕業じゃなかったのか……」と、安堵とも落胆ともつかないざわめきが広がっていく。

 先ほどまでの陰湿な空気は、完全に消え去っていた。

 

「そういうことですわっ。わたくしじゃありませんもの!」

 

 我に返った遠野が、ここぞとばかりに勢いよく身を乗り出し、バンバンと扇子で自分の手のひらを叩きながら同調した。

 先ほどまでの涙目の震えはどこへやら、完全にいつもの調子の良いお嬢様の顔に戻っている。

 

「……どいつもこいつも浮かれすぎだ。ちゃんと遠野にごめんなさいしとけよ」

 

 俺が呆れたようにそう言うと、橘は「むむっ」と唸りながらも、素直にペコリと頭を下げた。

 

「ハンナさん、ごめんなさい!」

「全くもう……別に、構いませんわ。……お友だち、ですものね」

「ハンナさん……!」

 

 感極まったと言わんばかりに抱きつく橘に遠野は深々と溜息をつきながらも、その口元は微かに緩んでいた。

 

「あー……その、遠野さん……。俺たちも、勝手に疑ったりして……本当に悪かった」

 

 気まずそうに目を泳がせながら、美術部長が深々と頭を下げた。実行委員もそれに続き、「すまなかった」と謝罪の言葉を口にする。

 

「……べ、別に。わたくしは気にしてませんわ」 

 

 少しツンとした態度を装いながらも、その声色はどこか優しく、気遣うように柔らかかった。

 

「誰だって、自分が一生懸命作ったものをあんなふうにされたら、パニックになりますし……その、疑いたくなるお気持ちも、少しはわかりますから」

「遠野さん……」

「ですから……次からは、もう少し冷静に状況を判断なさることね。わたくし、あんな趣味の悪い嫌がらせをするほど、暇じゃありませんのよ」

 

 遠野がふんぞり返って見せながらも優しく許しの言葉を口にすると、美術部長たちはホッとしたように肩の力を抜いた。素直じゃないが、彼女のそういう根の優しさは見ていて微笑ましい。

 美術部長たちは、お詫びの印として、模擬店で使えるチケットの束を俺たちに押し付けてきた。俺はそれを受け取り、橘と遠野を促した。

 

「行くぞ。せっかくの文化祭だ、こんなところで油を売ってる暇はないだろ」

 

 俺の言葉に、二人は顔を見合わせてパッと表情を輝かせた。

 遠野を犯人扱いする重苦しい空気はすっかり晴れ、俺たちは再び、賑やかな文化祭の喧騒の中へと戻っていった。

 

 

 

 

 お詫びにもらったチケットを片手に、俺たちはその後も文化祭の喧騒を思う存分に満喫した。

 模擬店でたこ焼きや焼きそばを平らげ、有志の出し物を冷やかし、時には橘の尽きることのない好奇心に振り回されながら学園中を歩き回った。

 気がつけば、高く澄んでいた秋の空はすっかり茜色に染まり、長く伸びた影が校舎をノスタルジックなセピア色に沈めようとしていた。

 歩き疲れた俺たちは、喧騒から少し離れた中庭の隅にあるベンチに腰を下ろして休憩を取ることにした。祭りの熱気はまだ遠くから聞こえてくるが、この場所だけはふっと静寂に包まれている。

 

「……ふぅ。少し歩き疲れましたわ。わたくし、お手洗いで髪と身だしなみを直してきますわね」

 

 遠野が小さく息を吐き、立ち上がりながらそう言った。

 

「はい、いってらっしゃいませハンナさん!私はここで大鐘さんが悪い人についていかないように見張っておきますから!」

「俺ってそんなふらふらしてるか」

 

 足早に校舎へと向かう遠野の後ろ姿を見送る。

 ベンチには、俺と橘の二人だけが残された。隣に座る彼女は、夕陽に照らされた橙色の瞳を細めながら、遠くのお祭り騒ぎを心地よさそうに眺めている。

 

 俺は、この静かなタイミングを見計らって、ずっと言おうと思っていたことを切り出した。

 

「……橘。さっきの、ありがとうな」

 

 不意のお礼に、橘は「ん?」と不思議そうに小首を傾げた。秋の夕風が、彼女の青い髪とケープの裾をふわりと揺らす。

 

「どうして大鐘さんがお礼を言うんですか? 冤罪を晴らしてもらったハンナさんならともかく」

 

 きょとんとした顔で問い返してくる。だが、その瞳の奥には、俺が何を言おうとしているのかを探るような、鋭い光が微かに混じっていた。

 俺はベンチの背もたれに深く体重を預け、真っ直ぐに彼女の横顔を見つめた。

 

「美術部の教室での、遠野とのあの阿呆らしいやり取り。……あれ、遠野の調子を戻そうとしてたのもあるだろうけど、俺のためでもあったんだろ」

 

 その言葉に、橘はピクリと肩を揺らし、ほんの少しだけ驚いたように目を丸くした。

 俺はゆっくりと言葉を続ける。

 

「この前……支柱が折られて、お前が怪力の魔法のせいで犯人扱いされたことがあったよな。あの時の俺、怒りで周りが見えてなかった」

 

 あの時の自分は、思考放棄した集団の暴力に対する怒りに完全に支配されていた。

 今日、遠野が足跡のないペンキの海を前に疑われた時も同じだ。あのままだったら、俺はかつて俺自身が味わった記憶がフラッシュバックを起こし、野次馬たちを感情のままに怒鳴りつけ、無駄に事を荒立てていたかもしれない。

 それを、橘はあの一見ふざけたような寸劇で、完璧に空気をぶち壊して止めてくれたのだ。

 

「お前がわざと馬鹿な真似をして場の空気を緩めてくれたおかげで、俺は冷静に現場を見ることができた。……だから、ありがとう。助かったよ」

 

 俺が改めて真っ直ぐに感謝を伝えると、橘は数秒の間、言葉を失ったように瞬きを繰り返した。

 やがて、照れ隠しのように小さく息を吐き出した。

 

「……ふふっ。隠し事ができませんね、大鐘さんには」

 

 彼女は口元にフッと柔らかい、けれどいつもの無邪気さとは少し違う大人びた微笑みを浮かべた。

 

 橘シェリーという少女は、いつも自分の好奇心の赴くままに突っ走り、傍若無人に振る舞っているように見える。だが、誰よりも周囲の状況や他人の感情の機微がよく見えているのではないかと思えることが度々ある。

 

「やっぱりそうだったか……。それにしても、咄嗟の演技だったにしては、やけに自然だったよな」

 

 俺はふと口を突いて出た感想を、そのまま言葉にした。

 あの一切の迷いがない振る舞い。まるで、普段からそうやって騒がしくて明るい名探偵という役を演じることに、すっかり慣れきっているかのような──

 

 違和感が思考を止めた。

 遠野を庇うために見せたあのオーバーな身振り手振りも、場違いなほど明るい声色も。思い返してみれば、いつもの日常で俺にまとわりついてくる騒がしい彼女の姿と、寸分違わぬものだった。

 その場を取り繕うためについた芝居の姿が、普段の姿と全く同じなのだ。

 その事実に行き着いた瞬間、俺の頭の中に一つの不穏な考えがふわりと浮かび上がった。

 もし、あの能天気で騒がしい名探偵の姿が、すべて彼女の計算し尽くされたものだったとしたら──

 

 だが、俺はその疑念を深追いすることはしなかった。

 彼女が普段何を考えていようと、そんなことは別に気にならなかった。彼女が他人のためにとる行動の根底には、真っ直ぐな優しさがあったと断言できるからだ。

 

 それに何より俺は、彼女がそうやって明るく、屈託なく笑っている姿が純粋に好きだった。

 だからこそ、目の前で不思議そうに首を傾げている橘シェリーという一人の少女そのものに、俺は素直な興味が湧いていた。

 

「……そういえば」

 

 俺は夕暮れの空から視線を戻し、隣に座る彼女へと顔を向けた。

 

「どうしましたか?急に改まって」

 

 橘が小首を傾げ、夕陽を反射してキラキラと輝く橙色の瞳でこちらを覗き込んでくる。

 

「橘がそこまでミステリーや、事件を追いかけるのが好きな理由って……俺、まだちゃんと聞いたことがなかったなと思ってな」

「……私が、事件を好きな理由、ですか?」

 

 俺の問いかけに、橘は少しだけ意外そうな顔をした。

 

「ああ。何か、探偵に憧れる特別なきっかけでもあったのか?」

 

 俺が静かにそう尋ねると、夕風が二人の間を吹き抜け、橘の青い髪をサラリと揺らした。

 

 橘はふっと視線を落とした。いつものように大げさな身振り手振りもなければ、得意げに胸を張ることもない。

 手の中で弄っていた虫眼鏡をベンチの上にそっと置き、彼女はぽつりと、夕暮れの静寂に溶けるような声で呟いた。

 

「……大鐘さんにはお見通し、ですもんね」

 

 ゆっくりと顔を上げた彼女の表情を見て、俺は思わず息を呑んだ。

 

 茜色に染まる空を見つめるその横顔には、先ほどまで絶えず浮かんでいた明るい感情が、一切抜け落ちていた。悲しんでいるわけでも、怒っているわけでもない。ただ、何も描かれていない無機質なキャンバスのような、恐ろしいほどに静まり返った無の表情。

 

 夕陽の光を反射して輝いているはずの橙色の瞳の奥底は、一切の熱を宿していない、氷のように冷たい色をしていた。

 

「私は……波一つ立たない湖みたいなものなんです」

 

 どこか遠くを見るような目で、橘は静かに、独り言のように抽象的な言葉を紡ぎ始めた。

 

「どんなに綺麗な景色を映しても、どんなに強い風が吹いても、底のほうはずっと冷たくて、ピクリとも動かない。……私は、待ち続けています。その水面を激しくかき乱して、私を心の底から揺さぶってくれる未知を」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋にゾクリと冷たいものが走った。

 ただの趣味でも、憧れでもない。彼女がミステリーという異常を追い求め、探偵という役にのめり込んでいる本当の理由。

 それは、世界がどれほど美しくても、どれほど騒がしくても、決して心が動くことのない自分自身の空虚さ──その深い絶望感から逃れるための、必死の足掻きだったのだ。

 彼女は、理自分のその冷え切った底の底まで届いてくれるような衝撃的な何かを探し続けている。

 俺が知っている、いつも太陽のように笑う騒がしい名探偵。

 その仮面の裏側に、これほどまでに暗く、冷たい静寂が隠されていたなんて。

 

「……事件には、それを求めているのかもしれません」

 

 橘は自嘲するように小さく息を吐き、視線を空からゆっくりと俺の方へと移した。

 その瞳の奥にある、決して満たされることのない深い飢えと孤独。俺は、彼女のその無機質で空っぽな瞳から、どうしても目を逸らすことができなかった。

 

「……大鐘さんと出会った時、もしかしたらって思ったんです」

 

 静寂の中、彼女はひどく淡々とした声で言葉を紡いだ。

 

「ほんの一瞬だけ、音を立てて崩れたような気がして。だから、少しだけ期待してしまっているんです。大鐘さんなら、って」

 

 自嘲するような、けれどどこか縋るような微かな響き。

 

 彼女の抱えるその底知れない虚無を前にして、俺の胸の奥で燃え上がったのは、同情でも、恐怖でもなかった。

 この、静かで冷たい鉄仮面が完全に砕け散る瞬間を。こいつが心の底から見せる感情を、見てみたい。

 自分でも驚くほど、ひどく強烈で、身勝手な衝動だった。

 この無機質なキャンバスに、めちゃくちゃに色を塗ってやりたい。この少女の予測を完全に超えて、その理屈すらも焼き尽くすような感情で彼女の心をぐちゃぐちゃにかき乱してみたい。

 

 それは間違いなく、俺の中に初めて芽生えた、熱を帯びた独占欲だった。

 

 暗さに沈んでいた俺の手を強引に引き、この学園の騒がしい日常へと無理やり引きずり出してくれたのは、他でもない彼女だ。

 彼女がいなければ、俺は今でも過去に囚われたまま、誰とも関わらずに息を潜めていただろう。

 彼女が俺を救ってくれたように、もし彼女自身がその心の揺らぎを望んでいるというのなら。俺がそれをもたらすことは、彼女への最高に厄介な恩返しになる、かもしれない。

 

 俺は、無意識のうちに手を伸ばしていた。

 ベンチに置かれていた彼女の右手を、自分の両手でしっかりと包み込む。

 秋の夕暮れのせいなのか、それとも彼女の心そのものなのか。その白く細い指先は、驚くほど冷たかった。俺は自分の体温をすべて分け与えるように、彼女の手をギュッと強く握りしめた。

 

「大鐘さん……?」

 

 突然手を握られ、橘の無機質な瞳がわずかに見開かれる。

 俺は、その氷のように冷たい橙色の瞳から一切視線を逸らすことなく、真っ直ぐに言い放った。

 

「その期待、俺が応えてやる」

 

 俺の声は、自分でも驚くほど低く、そして熱を帯びていた。

 

「俺はミステリー全然詳しくないから、お前の退屈を紛らわせるような難事件を提供したりなんかはできないけどな」

 

 包み込んだ彼女の手に、さらに力を込める。逃がさないとでも言うように。

 

「でも、お前が探してるその未知ってやつには……俺がなれるかもしれない」

 

 橘の肩が、ビクッと小さく跳ねた。

 冷え切っていた水面に、確かに一滴の熱い雫が落ちたのを感じた。

 

「待っていてくれ。お前のその予測をぶち壊して、胸の奥が痛くてたまらなくなるような、理屈抜きの感情ってやつを。……俺がきっと、お前に教えるから」

 

 それは、ライバルに対する挑戦状であり、同時に、俺自身もまだ名前を知らない感情の告白だった。

 俺の言葉を正面から浴びて、橘の端正な顔立ちが微かに歪んだ。

 無機質だった瞳の奥で、何かが激しく揺れ動いている。その鉄仮面に、一本の深いヒビが入った瞬間だった。

 

「大鐘、さん……」

 

 彼女が震える唇を開き、何かを言葉にしようとした、まさにその時だった。

 

「お待たせしましたわ!シェリーさん、大鐘さん!」

 

 パタパタという軽快な足音と共に、遠野の明るい声が中庭に響き渡った。

 

 弾かれたように、俺は繋いでいた手をパッと離した。

 遠野がベンチの近くに辿り着いた時には、橘はすでにもう、いつもの彼女に戻っていた。

 バサァッとケープを翻し、手にした虫眼鏡を空高く掲げる。

 

「おかえりなさいハンナさん!さあ、休憩は終わりです!次はあちらの演劇を見に行きましょう!」

 

 満面の、これ以上ないほど晴れやかな笑顔。

 だが、俺の手のひらには、先ほどまで握りしめていた彼女の冷たい指先の感触が、焦げ付くように熱く残っていた。

 俺は、彼女の背中を見つめながら、心の内で静かに、けれど強く決意した。

 夕闇が迫る文化祭の喧騒の中、俺の中に生まれたこの正体不明の熱は、冷たい秋の風に吹かれても、決して消えることはなかった。

 

 

 





 

 まだまだ全然続くのでね。ここからはラブコメ強度を上げていくって感じです



 

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