まのこい天秤   作:雪無い

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 桜羽……!エマ……!って感じのエマを書くのが好き




4話『魔女恋』

 

 

 放課後の喧騒が遠くのグラウンドや体育館から微かに届く中、静まり返った校舎の廊下を歩く。

 

 目的地に着き、コンコン、と控えめにノックの音を響かせる。

 数秒の沈黙の後、扉の向こうから「どうぞ」という凛とした、それでいてどこか冷たさを帯びた声が返ってきた。俺は「失礼します」と短く告げて、真鍮のドアノブをゆっくりと回した。

 部屋に入ると、西陽が差し込む窓際のデスクで、生徒会長である二階堂ヒロがこちらを見据えていた。手元の書類から視線を上げた彼女の黒髪が、夕陽を受けて微かに朱を映している。

 

「……あぁ、大鐘か。何か用か?」

 

 少しだけ意外そうな、けれど柔らかな響きを含んだ声で、二階堂はペンを置いた。

 

「お疲れ、二階堂。今日、忙しいか?」

 

 俺がそう尋ねると、二階堂は少しだけ肩の力を抜き、デスクの上に積み上げられた書類の束を一瞥した。普段なら山のように積まれているはずの紙が今日は驚くほど少ない。

 

「いや、今日はそれほどでもない。急を要する事案は昨日片付いたところだからな。手伝いなら不要だ」

 

 俺が仕事の手伝いに来たのだと勘違いしたのか、二階堂は先回りしてそう断ってきた。彼女らしい気遣いだ。

 

「そうか、ちょうど良かった。……なら、ちょっとこの部屋、貸してくれないか?」

「……この部屋をか?」

 

 突拍子もない要求に、二階堂は眉をひそめ、怪訝な顔をした。生徒会室を個人的な目的で借りたいなどと言い出す生徒は、この学園広しといえども俺くらいのものだろう。

 俺は鞄の中から、先日駅前の本屋で購入した真新しい文庫本を取り出し、二階堂に見えるように掲げた。

 

「この間買った小説が、今ちょうど良い所なんだよ。どうしても、最適な環境で読み終えたいと思ってな」

 

 俺の言葉を聞いた二階堂は、目を細めて本と俺の顔を交互に見た後、深く、深々とため息をついた。

 

「……君は、神聖な生徒会室をなんだと思っているんだ。生徒の模範たる生徒会役員の執務室を個人の読書スペースとして私的利用するなど正しくない」

 

 腕を組み、威厳を纏って正論を叩きつけてくる。だが、その声色には怒りは含まれておらず、どこか俺の無茶苦茶な要求に呆れ果てているといった様子だった。

 

「だいたい、読書なら自分の部屋か、図書室で読めばいいだろう。わざわざここに来る理由がない」

「それが、何か最近、寮の隣の部屋がうるさくてな。……それに、ここは静かだし、何より二階堂みたいに集中して作業してるやつの近くにいると、俺もつられて集中できると思うんだよ。な、頼む。端っこで大人しくしてるから」

 

 俺は少し大げさに肩をすくめ、すがるような視線を向けた。図書室では知り合いに話しかけられる可能性もあるし、今はこの静かな空間で、彼女のペンの音をBGMに本を開きたかったのだ。

 彼女は一瞬だけ目を丸くし、それからスッと視線を逸らしてた。

 

「はぁ、今回だけ特別だ。隅のソファで大人しくしているんだぞ。……文化祭の件は、これでチャラだからな」

「本当か!ありがとう二階堂」

 

 俺が素直に礼を言うと、二階堂は再び手元の書類に視線を落とし、ペンを握り直した。

 

「……ただし」

「ん?」

「読み終えたら、その本の感想を私に聞かせるように」

 

 二階堂は手元の書類から視線を上げることなく、淡々とした声でそう付け加えた。

 俺は小さく笑い、「ああ、わかった」と頷いて、部屋の隅にある革張りの来客用ソファへと腰を下ろした。

 静かな部屋に、再び二階堂がペンを走らせる心地よい音が響き始める。俺はゆっくりと本を開き、活字の世界へと意識を沈めていった。

 

 

 

 静寂に包まれた生徒会室には、二階堂が書類にペンを走らせるカリカリという規則的な音と、俺が文庫本のページを繰る微かな擦過音だけが、心地よいリズムを刻んでいた。

 

「……」

 

 西日が差し込む革張りのソファに深く身を沈めながら、俺は活字の海へと完全に意識を没入させていた。窓の外から時折聞こえていたはずの遠くの喧騒も、秋の冷たい風がガラスを叩く音も、今や全く意識の端にすら上らない。

 

「……」

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。窓から差し込む西陽の角度が変わり、部屋の中に落ちる影が長く伸び始めた頃。

 最後のページをめくり終え、俺は深く、ゆっくりと息を吐き出した。

 

「良かった……」

 

 思わず、素直な感嘆が口を突いて出た。

 橘があれほど熱中するのも頷ける。奇をてらっただけの派手な物理トリックが優れていたというよりも、何より人物描写の積み上げが圧倒的に秀逸だったのだ。

 登場人物たちの複雑な行動原理、泥臭くも切実な心理描写。ただ謎を解くだけではなく、ミステリーという異常な状況を通して、血の通った人間そのものの業や愛憎が深く描き出されている。それが、たまらなく面白かった。

 パタン、と静かな部屋に本を閉じる音が響く。

 その余韻に浸ろうとした、まさに次の瞬間だった。

 

「──面白かった?」

「……!?」

 

 不意に至近距離から降ってきた明るい声に、俺はビクッと肩を大きく跳ねさせて顔を上げた。

 いつの間に部屋に入ってきていたのか。

 

 目の前には、ローテーブルを挟んだ向かいのソファにちょこんと座り、両手で頬杖をつきながら、目を細めてニコニコとこちらを覗き込んでいる桜羽エマの姿があった。

 

「桜羽、いつの間に……」

 

 俺が呆気にとられて尋ねると、桜羽はふわりと花が咲くような、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。

 

「三十分くらい前かな?大鐘くん、とっても集中してたね」

 

 三十分。つまり彼女は、その間ずっと向かいの席に座って、ただ俺が黙々と本を読んでいる姿を眺めていたということになる。

 なんだか無性に恥ずかしくなってきた。他人の読書風景を観察し続けるなんて、なんたってそんな退屈なことをしていたのだろうか。俺なら五分で飽きてスマホをいじり始める自信がある。

 俺は居心地の悪さを誤魔化すように、小さくコホンと咳払いをして姿勢を正した。

 

「……今日はどうしたんだ。生徒会に用事か?」

「ヒロちゃんのお手伝いに来たんだけどね、『今日はいい』って言われちゃったんだ。そしたら、ソファで難しそうな顔をしてる大鐘くんを見つけたから」

 

 桜羽は楽しそうに首を傾げ、悪びれる様子もなくニコニコと微笑んでいる。

 

「そうか……恥ずかしい所見せたな」

「ううん、かっこよかったよ?」

「……」

 

 向かいで仕事中の二階堂の邪魔にならないよう配慮しているのだろうが、ヒソヒソと囁くように言ってくるのが、なんだか二人で内緒話をしているみたいで余計に照れくさい。無自覚でやっているのだろうか。

 ふわりと笑う桜羽の顔からたまらず視線を逸らすと、彼女は俺の手元にある文庫本をちょんと指差した。

 

「それで、どうだったかな?」

「……めちゃくちゃ面白かった」

「そうなんだ!」

 

 桜羽の声がパッと明るく弾む。

 読後の昂った気分のまま、今すぐにでもこの作品の素晴らしさを桜羽に語って聞かせたい衝動に駆られた。しかし、この小説の真の魅力を語ろうとすれば、どうしても登場人物の心理やトリックの核心、つまり致命的なネタバレに触れざるを得なくなってしまう。

 それに、こんな静まり返った生徒会室で俺が一人で熱弁を振るい始めれば、間違いなくあちらのデスクにいる二階堂に首根っこを掴まれ、廊下へとつまみ出されること間違いなしだ。

 

「大鐘くんって、普段からミステリー小説読むの?」

「いや、あんまりだな」

 

 俺が少しだけ気まずさを誤魔化すように短く答えると、桜羽はふたごり瞬きをして、それから何かピンと閃いたように小首を傾げた。

 

「じゃあ、シェリーちゃんの影響だ?」

 

 真っ直ぐに俺の目を見つめてくるその顔には、「やっぱり」と言わんばかりの、悪戯っぽくも楽しそうな笑顔が浮かんでいた。

 この底抜けに明るくて真っ直ぐな瞳の前では、なぜか下手な嘘や誤魔化しは通用しないような気がしてしまう。

 

「……まぁ、そんな所だ」

「そうだよね!ふふっ、二人はとっても仲良いもんね!」

 

 俺が観念して短く肯定すると、桜羽は我がことのように嬉しそうにパッと顔を輝かせた。

 

「仲が良いというか……」

 

 俺は少しだけ言葉を濁し、手元の文庫本へと視線を落とした。あの夕暮れ時の、ひどく冷たくて空虚な彼女の横顔が脳裏をよぎる。

 

「最近、少しあいつのことが気になるんだ。ただの騒がしい奴だと思ってたけど……あいつが何を考えて、何を見ているのか。あいつをもっと知りたいと思ってる」

 

 核心は伏せつつも、自分でも驚くほど素直な言葉が口をついて出た。

 その瞬間、桜羽の瞳がこれ以上ないほどキラキラと星のように輝きを放った。身を乗り出し、バンッと両手をテーブルにつく。

 

「そ、それって……っ!もしかして、そういうことだよね!?」

 

 興奮のあまり、桜羽の弾んだ声が静かな生徒会室に大きく響き渡った。

 しまった、と俺は焦った。これだけ静寂を保っていた空間でこんな大声を出せば、間違いなくあちらのデスクで執務中の二階堂の逆鱗に触れる。

 

「おい、桜羽、声が大きいって。二階堂に怒られ──」

 

 俺が慌てて桜羽をたしなめ、デスクの方へ振り返ろうとした、まさにその時だった。

 

「──ほう、興味深いな」

「!?」

 

 すぐ真横から、低く凛とした声が響いた。

 驚いて隣を見ると、いつのまにか俺の座るソファの真横に、腕を組んだ二階堂ヒロが鎮座していたのだ。

 

「お前……仕事はどうしたんだよ。あっちのデスクで書類やってただろ」

 

 二階堂はコホンと一つ咳払いをして、キリッとした真面目な顔のまましれっと言い放った。

 

「オーバーワークは正しくない。適度な休憩は必要不可欠だからな。ちょうど小休止を挟もうと思っていたところだ」

「絶対嘘だろ……」

「ほら、早く続きを聞かせろ。使用料だ」

 

 二階堂は悪びれる様子もなく、完全に野次馬の目を光らせて俺に先を促してきた。正面からは目を輝かせた桜羽、隣からは興味津々の二階堂にジリジリと距離を詰められ、俺は深い、深いため息をつく羽目になった。

 

「だから、そういう大層な話じゃないって……」

 

 完全に逃げ道を塞がれ、キラキラと目を輝かせる桜羽と、腕を組んでジリジリとプレッシャーをかけてくる二階堂の二人に詰め寄られ、俺が観念して口を開きかけた、まさにその時だった。

 

「ヒロちゃーん、失礼するよー」

 

 トントン、と控えめなノックの音に続いて、重厚な生徒会室の扉がゆっくりと開かれた。

 全員の視線が扉の方へと向く。

 間延びした、少し甘ったるい声とともに姿を見せたのは、一人の見慣れない女子生徒だった。

 身長は桜羽や二階堂よりもかなり高い。手足が長く、すらりとした細身の体躯。艶やかな金髪は複雑に編み込まれており、目立つリボンやアクセサリーで飾られ、一見すると近寄りがたいギャルといった風貌だ。

 

「おーいヒロちゃん、おじさんがお手伝いに来たよー」

 

 だが、その派手な第一印象とは裏腹に、彼女の着こなしにはギャル特有の着崩しが一切なかった。制服のボタンは上まできっちりと留められ、スカートの丈も規定通り。肌の露出が極端に少ない。何より、その瞳の奥には、ギラついた攻撃性など微塵もなく、むしろ庇護欲をそそるような、怯えを含んだ優しさと、物憂げな影が宿っていた。

 全体から醸し出されるオーラは、驚くほどに覇気がなく、威圧感とは無縁だった。

 

「あぁ、ミリアか。すまないな、わざわざ来てもらったのに。今日の仕事はもうあらかた終えてしまってな」

 

 二階堂がいつもより少しだけ柔らかな声で応じると、ミリアと呼ばれたその少女は、ホッとしたようにふわりと微笑んだ。

 

「あ、そうなんだね。よかったぁ。……それじゃあ、おじさんも少し休ませてもらおうかな」

「ああ。君もこっちへ来るといい。ちょうどお茶を淹れようと思っていたところだ」

 

 二階堂のその自然な気遣いに、俺は少しだけ感心した。やはりこの生徒会長は、周囲から慕われているのだと実感する。

 

 彼女は「ありがとう」と微笑みながら、ゆっくりと部屋の中へと歩みを進めた。

 しかし、ソファの近くまで来たところで、彼女の足がピタリと止まった。

 

「……あ」

 

 視線が、二階堂の隣に座っている俺を捉えた。

 その瞬間、彼女の肩がビクッと大きく跳ね、瞳孔が収縮する。派手なメイクで彩られた顔からサッと血の気が引き、彼女は無意識のうちに、一歩、二歩と後ずさった。

 その反応に、俺は既視感を覚えた。

 かつてグラウンドで、打席に立つ俺を前にして、極度のプレッシャーから制球を乱し、明らかな恐怖を瞳に浮かべていた相手投手たち。彼女が今見せているのは、それと似た、対象への怯えだった。

 俺が何かしたわけではない。ただそこにいるだけで、彼女に恐怖を与えていることは明白だった。種類は違えど、その感情の波を察知するのには慣れている。

 

「あー……」

 

 俺はゆっくりと本をしまい、刺激しないように静かに立ち上がった。

 

「二階堂、俺はそろそろ出るよ。場所を貸してくれてありがとう」

 

 彼女のテリトリーから速やかに退出すべく鞄を手に取ったが、その動きを見た少女が、弾かれたように声を上げた。

 

「い、いやいや!ちょっと待って!」

 

 彼女はぶんぶんと両手を激しく振りながら、慌てた様子で言葉を紡ぐ。

 

「お、おじさんが後から来たんだし、ぜ、全然気にしないで!ほんと、おじさんのことは観葉植物か、その辺の空気だと思ってくれて構わないから……!だから、そのままゆっくりしていって!」

 

 必死に引き留めようとするその姿は、見た目とのギャップも相まって、痛々しくあった。

 

(……おじさん?)

 

 内心で疑問を持ちつつ、俺が困惑して立ち尽くしていると、二階堂と桜羽が助け舟を出すように立ち上がった。

 

「大鐘、気にするな。ミリアは少し、男性が苦手なだけだ。君が去る理由はない」

「そうだよ、大鐘くん!ミリアちゃんも、大鐘くんは安全だって、すぐにわかるから!ねっ?」

「俺って動物?」

 

 噛んだりしないから!とすぐにでも言いそうな桜羽だった。

 二階堂は俺を再びソファに座らせようとし、桜羽はミリアの手を引いて、自分の隣の空いたスペースへと促した。

 ミリアはビクビクとしながらも、桜羽に手を引かれるままにソファの端にちょこんと腰を下ろした。俺から一番遠い位置で、膝を揃えて小さく縮こまっている。

 その極度の緊張感が、テーブルを挟んでこちらにもビリビリと伝わってくる。二階堂と桜羽が気を遣ってくれているのはありがたいが、逆にひどく居心地が悪かった。

 

「……大鐘ヒカリだ。最近、転校してきた」

 

 これ以上、変な気を使わせるのも本意ではない。俺はなるべく低い声で、短く自己紹介をした。

 

「あ……」

 

 俺が名乗ると、ミリアは少しだけ目を見張り、桜羽と二階堂の顔を交互に見た。

 

「エマちゃんたちがよく話してる……」

「そうだよ!」

 

 桜羽の太鼓判に、ミリアは少しだけ緊張を解いたように、ほんのりと頬を染めて小さく頷いた。

 

「そっか……。さ、佐伯ミリアだよ。……よろしく、ね?」

 

 彼女は、まるで怯えた小動物がそっとこちらを見上げるような、覇気のない微笑みを浮かべてそう言った。

 二階堂が手際よく淹れた紅茶の香りが、生徒会室の少し硬い空気をゆっくりと解きほぐしていく。

 配られたティーカップを両手で包み込むように持ちながら、ミリアは少しだけ申し訳なさそうに視線を泳がせ、俺の方をちらりと見た。

 

「その……急に怖がっちゃってごめんね、ヒカリくん」

 

 二階堂が淹れてくれた紅茶のカップを両手で包み込みながら、ミリアが申し訳なさそうに上目遣いで謝ってきた。

 俺は「気にするな」と小さく手を振る。

 

「俺は元々、怖いって評判だったからな。傷ついたりしない」

 

 なるべく威圧感を与えないよう、少しだけおどけた調子で笑って見せると、隣からすかさず二階堂が口を開いた。

 

「君が恐れられていたのは、そういう粗暴な意味合いではないだろう。打席での底知れなさが周囲を恐れさせていただけだ」

「俺のフォローを台無しにするな」

 

 いちいち野球時代の評価を持ち出してくる二階堂を窘めつつ、俺は再びミリアの方へと視線を戻した。

 カップを持つ彼女の手元に、ふと目が留まる。

 

「……爪、綺麗だな」

 

 俺が率直な感想を口にすると、ミリアは「えっ」と小さく声を漏らし、自分の指先を見つめた。

 丁寧に整えられた爪には、薄いピンク色のネイルが施されていた。派手な金髪や装飾の多いギャル風の容姿に対して、その淡く繊細な色合いは、彼女の極度に大人しくて心優しい内面をそのまま表しているようで、不思議と一番しっくりきているように見えた。

 

「あ、ありがとう……。おじさん、こういう細々としたことするのが好きで。自分で塗ってるんだ」

 

 褒められたのが嬉しかったのか、ミリアは照れくさそうにはにかんだ。先ほどよりも怯えは無かった。

 

「俺も塗ってみようかな。今度手伝ってくれ」

「えっ?」

「サインミスとか無くなりそうだし」

「ゲホッ、ゴホッ!」

 

 俺が真顔でそう提案した瞬間、隣で優雅に紅茶を啜っていた二階堂が派手に吹き出し、激しく咽せ始めた。

 

「こ、コホンッ!……想像してしまっただろう」

「なんだよ、いいだろピンク」

「正しくない……」

「ふふっ……あははっ」

 

 顔を真っ赤にして怒る二階堂と、心外だと言い返す俺のやり取りを見て、ミリアが堪えきれないように吹き出した。

 

「いいよ。おじさんがいつでも可愛くしてあげる」

「ああ、頼むよミリア」

 

 俺が自然に言葉を返すと、向かいに座っていた桜羽が、パチパチと目を瞬かせた。

 

「あれ? 大鐘くん、ミリアちゃんのこと、初対面なのに下の名前で呼ぶんだね。大鐘くんが女の子をいきなり名前で呼ぶの、すっごく珍しいかも」

「ミリアも名前で呼んでるからな。嫌だったか?」

「ううん、全然。むしろ嬉しいよ。ヒカリくんって、すごく話しやすいんだね」

 

 ミリアはふにゃりと目を細め、警戒心を解いた柔らかな笑顔を見せた。

 そして、俺と隣の二階堂を交互に見比べながら、楽しそうに言葉を続ける。

 

「ヒロちゃんも、ヒカリくんと一緒にいると、なんだかいつもより気を張ってなくて、自然体だね。仲が良いんだなーって、おじさん見てて思うよ」

「……私はただ、生徒会長として転校生の面倒を見ているだけだ」

「ふふっ、照れなくてもいいのに」

 

 そんな賑やかなやり取りの中、向かいに座る桜羽だけが、カップの縁を両手でなぞりながら、小さな声でポツリと呟いた。

 

「……ちょっと、妬けちゃうな」

 

 その微かな言葉に俺が気づく前に、桜羽はすぐにいつもの明るい笑顔を取り戻し、強引に本題へと話を戻し始めた。

 

「それで大鐘くん、さっきの話の続きなんだけど」

 

 お茶を一口飲んで一息ついたのも束の間、桜羽が逃さじとばかりに身を乗り出してきた。

 ミリアとの和やかなやり取りで、てっきり橘の話はうやむやに逃げ切れたかと思っていたのだが、どうやらこの恋の伝道師の辞書に妥協という文字はないらしい。

 

「シェリーちゃんのどういうところが好きなの?名探偵さんなところ?それとも、あの元気なところ?」

 

 ド直球な追及に、俺は思わずむせそうになった。

 隣では二階堂が「具体性を持たせるのは良い傾向だ」と、まるで裁判の続きを待つ判事のような顔でこちらを見ている。

 

「えっヒカリくん、シェリーちゃんのことが好きなの?」

 

 事情を知らなかったミリアが、パチパチと目を瞬かせて驚きの声を上げた。マグカップに隠れていた顔を出し、不思議そうに俺を見つめている。

 

「……別に、好きとかそういう、はっきりしたもんじゃない。ただ、あいつのことが気になってるだけだ」

 

 俺は苦し紛れにそう返したが、エマは納得した様子もなく、「気になるのは好きの第一歩だよ!」とさらに畳みかけてくる。

 

「具体的にどういうところが、って……。正直に言うと、自分でもよくわからないんだ」

 

 俺は頭を掻き、視線を宙に漂わせた。

 あいつの騒がしい声や、勝手な推理、自信満々な笑顔。ふとした瞬間に見せる、あの底の知れない空虚な瞳が、どうしても脳裏から離れない。

 

「好きとか、そういう感情……今まで経験したことがないから、これが何なのか、自分でも判断がつかないんだ。恋人がいたことがあるわけでもないしな」

 

 桜羽は驚いたように目を見開き、意外そうな、それでいてどこか眩しいものを見るような表情を浮かべている。

 自嘲気味に笑う俺を見て、ミリアが優しく微笑んだ。

 

「おじさんも詳しくはわかんないけど、それって、すごく素敵なことなんじゃないかな。ヒカリくんの真っ直ぐなところが、ちゃんと出てるっていうか……」

 

 ミリアの穏やかな言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなったような気がした。

 

「それにしても、大鐘くんに恋人がいたことがないなんて、ちょっと意外だな」

 

 桜羽は信じられないといった様子で、マグカップを両手で包み込みながら首を傾げた。

 

「そうか?俺みたいに野球しかしてこなかった人間なんて、面白みもないだろ」

「ううん、そんなことないよ!大鐘くんって絶対モテると思うんだけど……ねえヒロちゃん?」

 

 桜羽が同意を求めると、二階堂はティーカップを置き、なぜか我がことのように胸を張って答えた。

 

「当然だろう。この男ほどキャッチャーマスクが似合う者は他にいないからな」

「マスク被ってたら顔ほとんど見えないだろ」

 

 どういう基準なんだ。

 

「じゃあ……自分から告白したり、されたりしたことはあるのかな?」

 

 ソファの端にちょこんと座るミリアが、少しだけ身を乗り出し、カップの影から上目遣いで恐る恐る尋ねてきた。どうやら彼女も、この話題には少なからず興味があるらしい。

 ミリアの問いに、桜羽も「あっ、それ聞きたい!」と目を輝かせる。二階堂に至っては、なぜか手帳を取り出してメモを取る準備まで始めている。

 

「……自分から告白したことはない。そんな暇も余裕もなかった」

「じゃあ、されたことは?」

「……ちょっと待て。思い出す」

 

 俺は腕を組み、記憶の糸をたぐり寄せるように天井を見上げた。

 

「思い出すってどういうことかな!?数えないとわからないくらい経験あるってことだよね!?」

 

 桜羽が目を見開いて声を上げる。ミリアも驚いたように口元を手で覆った。

 

「……あー。たしか、十三人だな」

「…………」

「…………」

 

 俺が人数を告げると、生徒会室に奇妙な沈黙が落ちた。

 

「じゅ、じゅうさん……」

「中学の頃に八人、前の高校で五人だったはずだ。……なんだよ、その顔は。全部、俺が野球に没頭してた頃の話だぞ」

「ちょっと待って!前の高校って……大鐘くん、前の高校には一学期の間しかいなかったんだよね?その短期間で五人って……」

 

 桜羽の指摘に、俺は肩をすくめる。入学してすぐの春大会で活躍したからだろう。あの学校では珍しい野球留学生だったこともあり、かなり話題にされたのを覚えている。わざわざ言うことではないが。 

 

「だから、野球に集中したかったから、全員断ったんだ。それに……告白してきたのは、ほとんど面識のない相手ばかりだったし」

「わっ、漫画みたいだね」

「面識がないっていうのは?」

「ああ。たぶん、俺の試合を見に来てくれていた、ただ応援してくれていただけの女子たちだと思う。部活が忙しくてクラスの奴らと話す機会も少なかったし……。ちゃんと仲のいい相手から告白されたことは、一度もない」

 

 俺が淡々と事実を述べると、ミリアは小さく感嘆の息を漏らした。

 

「でも……モテるのも、なんだかわかる気がするな。ヒカリくんって、どんなことでもちゃんと聞いて、受け止めてくれそうな感じがするよ……あと、威圧感がないからかな」

「あっ、ボクもわかる。何でも受け入れてくれそうな安心感があるよね。だから女の子も、思い切って気持ちを伝えたくなっちゃうんだと思うな」

 

 桜羽とミリアの言葉に、俺は少しだけ驚いた。

 

「そうか?自覚はないんだが……」

「大鐘は、相手にプレッシャーを与えないことを常に意識している」

 

 俺がとぼけようとするとまたしても、二階堂が解説を始めた。

 

「無理に自分のペースに巻き込もうとしない。相手の歩幅に合わせ、呼吸をよく見ている。後天的に身につけた受け身の才能というわけだ。しかし、本来の大鐘はというと──」

「本当に勘弁してくれ」

 

 俺が恥ずかしさを誤魔化すように睨みつけると、二階堂は「事実を述べたまでだ」と涼しい顔で紅茶を一口啜った。俺より俺のことに詳しいんじゃないかこいつは。

 桜羽とミリアはそんな俺たちのやり取りを見て、クスクスと楽しそうに笑い声を上げていた。

 

「……俺の話はもういいだろ。お前こそどうなんだよ、二階堂」

 

 これ以上自分の過去を掘り下げられるのを防ぐため、俺は話題を強引に逸らすことにした。

 

「桜羽の話だと、中等部の頃から男女問わずモテるらしいじゃないか」

 

 俺が少し意地悪く問い詰めると、先ほどまで饒舌に俺のプレースタイルを語っていたヒロの言葉が、ピタリと止まった。

 

「……私の話は今は関係ないだろう。今は君の話だ」

 

 二階堂は冷静さを装ってはいるが、その口調には明らかなやりづらさが滲み出ている。桜羽が「ヒロちゃん、こないだも下駄箱に手紙入ってたよね?」と無邪気に追い打ちをかけようとした、まさにその時だった。

 

「失礼しまーす!」

 

 元気な声とともに、重厚な生徒会室の扉が勢いよく開け放たれた。

 

「ヒロさん!名探偵シェリーちゃん、ご指名によりただいま参上いたしました!生徒会室に呼び出すとは、さては学園の存亡に関わる重大な事件の捜査依頼ですね!?」

 

 現れたのは、いつものようにバサリとケープを翻し、満面の笑みを浮かべた橘シェリーだった。

 

「……は?」

 

 俺は間の抜けた声を漏らし、信じられないものを見るような目で隣の二階堂を睨みつけた。

 

「……おい、二階堂。お前、いつの間にあいつを呼び出していたんだ?」

「さぁな」

 

 二階堂は悪びれる様子もなく、涼しい顔で答える。こいつ、俺が散々思い悩んでいたこのタイミングで、本人を直接ぶつけてきやがった。

 声に出さずに抗議の視線を送ると、不意に、机の下で何かが俺の手に押し付けられた。

 硬い紙の感触。視線を落とすと、そこには色鮮やかな動物の写真がプリントされた、市内にある大型動物園のペアチケットが二枚、握らされていた。

 

「橘シェリーは、一見すると非常に活動的で、何事にも自分から首を突っ込むように見える」

 

 二階堂は誰にも聞こえないような小さな声で、けれどはっきりとした意志を持って囁いた。

 

「しかし、君が彼女の領域に踏み入りたいと本気で望むのなら、君の方から動かなくてはならない」

 

 二階堂は赤い瞳の奥を鋭く光らせ、俺を真っ直ぐに見据えた。

 

「……」

 

 完全に逃げ道を塞がれた俺は、深く息を吸い、握りしめた二枚のチケットをポケットにねじ込むと、覚悟を決めて立ち上がった。

 

「……橘」

「はい、なんでしょうか大鐘さん!大鐘さんも、事件の匂いを嗅ぎつけて駆けつけていたんですね!素晴らしい心がけです!さあ、ヒロさんから事件の概要を聞き出しましょう!」

 

 状況を全く理解していない橘が、目を輝かせてこちらに駆け寄ってくる。

 

「事件はない。橘に用事があって、二階堂に呼び出してもらった」

 

 俺がそう告げると、橘はきょとんと小首を傾げた。

 

「橘、今週末、空いてるか」

「週末ですか?はい、暇を持て余す予定です」

「なら、俺と動物園に行かないか」

 

 俺が真っ直ぐに彼女の目を見て告げると、生徒会室の空気が一瞬だけピタリと止まった。桜羽とミリアが真剣な目でこちらを見ている。

 

「……動物園、ですか?」

 

 橘はまたしてもきょとんと小首を傾げた。

 その反応に一瞬心が詰まりそうになったが、すぐに彼女はいつもの無邪気な、明るい笑顔をパッと咲かせた。

 

「なるほど!最近巷を騒がせているという、ペンギン脱走事件の捜査ですね!いいでしょう、大鐘さんからの熱烈なお誘いとあらば、この名探偵シェリー、喜んでお供しましょう!」

「あー……そういうことだ」

 

 ありがとうペンギン!

 俺は胸の奥で張り詰めていた緊張が、ふっと解けるのを感じた。

 得意げに胸を張る橘を見つめながら、俺はポケットの中のチケット越しに自分の鼓動が少しだけ早くなっているのを感じていた。

 静かな生徒会室から始まる、彼女との二人きりの週末。それがどんな予測不可能な結果を招くのか、今はまだわからない。

 

 

 





 重い物を持ち上げた時に「わぁ、さすが男の子だねっ」って言って欲しいまのさばキャラランキング

 1位佐伯ミリア
 2位桜羽エマ
 3位城ケ崎ノア


 ところでメルル、「わぁ……!さすが男の子ですね……!」って言ってくれないか
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