まのこい天秤   作:雪無い

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 いつの間にか30話ということでね、いつもありかとうこざいます。30万文字くらい書いてるのに全く風呂敷が広がって無いの逆にすごいと思う。自分、超真剣にまのさばの学園ラブコメを考えさせてもらってます





5話『一人戦争』

 

 

 休日の午前十時。雲一つない爽やかな青空が広がる駅前の時計塔広場は、待ち合わせをする大勢の人間でごった返していた。

 橘との約束の時間までは、まだ二十分近くある。

 にもかかわらず、俺はとうにこの場所に到着し、手持ち無沙汰にスマートフォンの画面と時計塔の針を何度も往復させていた。

 

「……落ち着け。ただ遊びに行くだけだ」

 

 小さく呟き、誰に言い訳するでもなく自分に言い聞かせる。重要な試合の前でさえ、これほどそわそわしたことはなかったかもしれない。十三人に告白されてすべて断ってきたというあの豪語はどこへやら、いざ自分から気になる女の子を誘って休日に二人きりで出かけるとなると、どうにも勝手が違って落ち着かないのだ。

 

「お待たせしました、大鐘さんっ!」

 

 ふいに、広場の喧騒を真っ直ぐに切り裂くような、鈴を転がしたように明るく元気な声が響いた。

 聞き間違えるはずもないその声に、俺は弾かれたように振り返る。

 

「……っ!」

 

 息を呑む。

 彼女の青い髪は、澄み切った空のように鮮やかで、日差しを浴びてきらきらと細やかな光の粒子を振りまいているように見えた。その髪の隙間から覗く橙色の瞳は、熟れた果実のように瑞々しく、俺を見つけて柔らかく弧を描いている。

 白を基調としたフリル付きのブラウスに、活発な印象を与えるチェック柄のフレアスカート。普段の制服や探偵ケープでは隠れていた彼女の華奢な肩のラインや、すらりとした細い足が、嫌でも視界に飛び込んでくる。首元に揺れる小さな飾りが、彼女が息をするたびに微かな光を反射していた。

 ただ立っているだけだというのに、彼女の周りだけ世界が一段階明るく、鮮明に色づいているように感じた。

 

(……なんだこれ。明らかに、俺の目に変なフィルターがかかってないか?)

 

 そんな馬鹿げた思考が頭をよぎるほど、今日の彼女は、俺の視界の中で圧倒的に輝いて見えたのだ。

 背景に花が咲き乱れている幻覚すら見えそうなほど、俺の目には今の彼女が、信じられないほど眩しく、どうしようもなく特別で──。

 

「大鐘さん? どうかしましたか?」

 

 言葉を失って固まっている俺の顔を、橘がひょいと下から覗き込んでくる。

 至近距離で合う視線。柑橘系の爽やかな香りが鼻先を掠め、俺は慌てて一歩後ずさり、目を逸らした。

 

「い、いや。……なんでもない。お前、その服……」

「ふふん!本日の任務は休日の動物園調査ですからね。潜入捜査にふさわしい、一般人に完璧に溶け込むカモフラージュを意識してみました!」

 

 どこがカモフラージュだ。可愛すぎて、全俺の視線を集めまくっている自覚がないのか、こいつは。

 俺が内心で毒づきながらも、ただただその愛らしさに圧倒されていると、橘は少しだけ得意げに胸を張り、悪戯っぽく瞳を細めた。

 

「どうやら私の完璧な変装に、大鐘さんの語彙力が失われてしまったようですね!構いませんよ、『シェリーちゃん可愛い大好きえらいねすごいね天才!』と、素直に声に出して褒め称えてくれても!私は寛大ですから!」

 

 以前の俺なら、「馬鹿言ってないでさっさと行くぞ」と冷たくあしらい、適当に流していたはずのノリである。

 しかし、今は。この眩しい笑顔と、普段とは違う特別な装いを前にして、危うくその言葉通りに口を滑らせてしまいそうになる自分がいた。

 

「……うるさい」

 

 俺は必死に湧き上がる感情を飲み込み、赤くなりかけている顔を隠すように、そっぽを向いた。

 

「……似合ってる。行くぞ」

 

 それだけを短く言い捨てて歩き出すと、背後で「ああっ、照れてますね!?大鐘さん、待ってくださいよー!」という楽しげな声が追いかけてきた。俺は足早に駅の改札へと向かいながら、この先一日、自分の理性が持つかどうか、本気で不安になり始めていた。

 

 

 

 ゲートをくぐると、休日の動物園は家族連れやカップルの熱気で満ちていた。秋の澄んだ空気の中に、食べ物の甘い匂いや、遠くで吠える獣のくぐもった鳴き声が混ざり合って漂ってくる。

 探偵ケープを脱ぎ捨てた私服姿の橘は、園内マップをまるで怪盗の予告状か、複雑な密室の図面でも読み解くかのように広げ、目をキラキラと輝かせていた。

 

「素晴らしいですね、大鐘さん!この広大な敷地、複雑に入り組んだ順路、そして無数に配置された檻という名の密室群!ここはまさに、巨大なミステリーの舞台装置です!」

「お前な……せっかくの動物園なんだから、もう少し普通に楽しめないのか。ほら、あっちでペンギンの餌やりが始まるらしいぞ」

「そういえば、ペンギンに凶器を飲ませる話を読んだことがあります。早速行きましょう!」

「そんなのあるのか」

 

 そう言って小走りで駆け出した彼女の背中を、俺は呆れ半分、そして、どうしようもない愛おしさ半分で追いかけた。

 普段の鬱陶しいほどの騒がしさは健在なのに、太陽の光を受けて揺れる青い髪や、ひらひらと翻るスカートの裾から目が離せない。完全に、俺の視覚と脳内が橘シェリーという存在に対して都合の良いフィルターをかけてしまっている。

 

 ふれあい広場から人気エリアの海獣館へと向かう道すがら、周囲の人口密度が急激に高くなった。ベビーカーを押す家族連れや、はしゃぎ回る子供たちが交差する。

 

「すごい人ですね。大鐘さん、これは迂闊に動くと分断されるパターンの罠ですよ!」

「だから罠じゃねえって。……ほら、はぐれないようにこっち来い」

 

 俺が注意を促したその直後、ふわりと柑橘系の香りが近づき、俺の右手に、ひんやりとした、小さな手が絡みついてきた。

 

「はいっ!大鐘さんが迷子にならないように、しっかり捕獲しておきます!」

 

 彼女は悪びれる様子もなく、俺の指の間に自分の指を滑り込ませ、ギュッと強く握りしめてきた。

 普段から、彼女は俺の腕を引いたり、強引に手を繋いできたりと、スキンシップの距離感がバグっているところがある。これまでは「おい、離せ」と適当にあしらったり、ため息をついて渋々従ったりしていた。

 だが、今日は違った。

 彼女の華奢な指先から伝わってくる体温や、見た目に反してやはり力強い、けれど決して痛くはないその絶妙な力加減が、やけに心地よく感じられたのだ。振り払うどころか、俺は無意識のうちに、繋いだ手を解かれないように少しだけ力を込めて握り返してしまっていた。

 そんな俺の些細な反応の変化を、隣を歩く名探偵が見逃すはずがなかった。

 

「……ふふっ」

 

 不意に、真横から楽しげな笑い声が聞こえた。

 見下ろすと、橘が歩調を合わせながら、繋いだ手と俺の顔を交互に見比べ、悪戯っぽく橙色の瞳を細めていた。

 

「大鐘さんって、こうやって手をつなぐの、嫌いじゃないですよね」

「なっ……!ば、馬鹿なこと言ってないで前見て歩け!」

「照れないでください。名探偵の目は誤魔化せませんよ。大鐘さんは普段から人の手に注目していますから」

 

 図星を突かれた動揺を隠すように顔を背けた俺に、橘はさらに容赦ない推理を突きつけてくる。

 

「私の手元をじっと見ていることも多いですし、エマさんやハンナさんが何かを指差した時も、大鐘さんの視線はまず手に向かっています。さては、大鐘さん……」

「ちっ、違う!絶対に!」

 

 しかし、言葉を口にした直後、俺の脳裏に数日前の生徒会室での光景が鮮明にフラッシュバックした。

 初めて会った佐伯ミリア。

 派手な金髪に、ジャラジャラとしたアクセサリー。圧倒的な白ギャルの情報量が視界を占めていたにも関わらず、俺が真っ先に気付き、そして素直に綺麗だと褒めたのは、彼女の指先に施された、控えめで繊細な薄いピンク色の爪だった。

 無意識だった。完全に無自覚だったが、俺の目は確かに、真っ先に相手の指先を、その造形や色合いを捉えにいっていたのだ。

 

(……うそだろ。俺、本当に無意識に女の手ばっかり見てたのか……!?)

 

 自分の隠された性癖を突きつけられたような恥ずかしさが、足元から一気に頭のてっぺんへと駆け上っていく。顔がカッと熱くなり、耳の裏まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かった。

 

「あっ!ほら、図星ですね!分かりますよ、今、心の中で思い当たる節があって焦っている顔です!」

「う、うるさい!」

 

 勝ち誇ったようにドヤ顔を向けてくる橘から視線を逸らし、俺は繋いでいた彼女の手を、さらに強く、逃がさないようにギュッと握り込んだ。

 細いのに強かで、どうしようもなく温かいこの感触に、俺の理性が完全に敗北を認めていることだけは、どうかこの鋭い名探偵にバレないようにと祈りながら。

 

 

 

 

 海獣館を抜けて次に向かったのは、小動物たちと直接触れ合えるふれあい広場だった。

 低い柵で囲まれたサークルの中には、モルモットやウサギが思い思いにくつろいでいる。

 

「大鐘さん、見てください!ウサギですよ!」

 

 橘はパッと手を離すと、吸い込まれるようにウサギのサークルへと駆け寄っていった。しゃがみ込み、そっと手のひらを差し出すと、一羽の白いウサギが鼻をヒクヒクさせながら近寄ってくる。

 

「温かいです。毛もふわふわですね」

 

 ウサギの背中を優しく撫でる彼女の横顔は、探偵としての顔ではなく、ただの年相応の無邪気な少女のものだった。

 しゃがみ込んだことで、少しふわりと広がるチェック柄のスカート。肩からこぼれ落ちた鮮やかな青い髪が、柔らかな日差しを受けてきらきらと光る。

 彼女の細くて綺麗な指先になでられ、ウサギは気持ちよさそうに目を細めていた。

 なんだこの、天才的に可愛い組み合わせは。

 俺は少し離れた場所からその光景を眺めながら、変な声が出そうになるのを必死に堪えていた。

 さっきまで繋いでいた手の感触がまだ右手に残っているせいで、俺の脳内フィルターは絶賛フル稼働中だ。もう何を見ても可愛いという感想しか出てこないポンコツになりかけている。

 

「そういえば、大鐘さん」

 

 ウサギを撫でながら、橘がこちらを見上げてきた。橙色の瞳が、嬉しそうに細められている。

 

「覚えていますか?文化祭の時の、あの脱出ゲームのこと」

「……あ?ああ、あの盤上遊戯の部屋か」

「ええ。あの時は大鐘さんの推理で、このウサギが将棋の桂馬となり、見事百獣の王たるライオンを仕留めてみせましたけど……」

 

 橘はウサギの長い耳の付け根をそっと撫でながら、くすくすと笑った。

 

「やっぱり、実際のウサギは小さくて非力ですね。こんなに無防備で丸っこくて……ライオンの前に出たら、本当に一瞬で食べられちゃいそうです。盤上では生態系の頂点を狩れたとしても、現実のピラミッドは厳しいですね」

 

 かつての謎解きのギミックを思い出しながら、楽しそうに語る橘。

 しかし、今の俺の頭には、そんな生態系やら将棋のルールやらの話は、一ミリも入ってきていなかった。

 あの白い毛玉と場所を代わりたい。

 何を考えているんだ、俺は。

 ただ、あの小さくて温かそうなウサギを撫でる彼女の細い指先を。その柔らかな微笑みを独占し、至近距離で彼女の香りを浴びているあの白い毛玉を心の底から羨ましいと思ってしまっていた。

 ついにそんな常軌を逸した願望まで脳裏に浮かび上がり、俺は自分の末期症状に本気で頭を抱えたくなった。完全に、橘シェリーという存在に狂わされ始めている。

 

 

 

 

 ふれあい広場を後にして、俺たちが次に向かったのは類人猿のエリアだった。

 檻の奥で、長い毛を揺らしながらのっそりと動く大きな影──オランウータンを眺めながら、橘がふと思い出したように口を開いた。

 

「そういえば大鐘さん。オラウータンが真犯人だった作品をご存じですか?海外小説なんですけど」

「猿が犯人?知らなかった。これから読む海外ミステリーは全部猿を警戒することになるな」

「あー!?」

 

 俺の言葉に、橘は自分の失言に気づいたのか、バッと両手で口を覆った。

 

「す、すみません!しかし、古典ですので!今から読んでもトリックの過程は十分に楽しめますから!」

「まあ、ならいいか。……ところで、前に俺が読んだって言ってたあの新作なんだけどさ」

「だ、ダメですよ!復讐は何も産みません!」

 

 橘は慌てて両耳を塞ぎ、「聞こえません!」と激しく首を横に振った。どうやら俺が新作の犯人をバラして報復してくると思ったらしい。

 その大げさで必死な姿があまりにもおかしくて、俺は思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。

 

 そのまま順路を進み、隣の巨大な檻の前にやってくる。

 そこにいたのは、分厚い防音ガラス越しでも伝わってくるほどの、圧倒的な質量と威圧感を誇るマウンテンゴリラだった。

 

「私、よくハンナさんに『このゴリラ女!』って言われるんですよ」

「言われてるな。俺も昔敵チームからよく言われてた」

「おお!では私たちはゴリラ探偵コンビということですね!」

 

 ガラスに張り付いてゴリラを観察しながら、橘が得意げに振り返ってそんなことを言い出す。

 

「どんな活躍するんだよ、そのコンビ」

「もちろん、圧倒的な握力で証拠を握り潰します!」

「犯人側だな」

「ああっ、間違えました!アリバイです!容疑者のアリバイを握り潰すんです!」

「汚職刑事っぽいな」

 

 橘は「むむぅ」と唇を尖らせたあと、すぐに堪えきれない様子で「あははっ」と吹き出した。

 ガラス越しにゴリラを眺めておどける彼女を見ていると、先ほどまで「ウサギになりたい」などと狂いかけていた脳内も少しだけ落ち着き、代わりにじんわりとした心地よい温かさが胸を満たしていくのを感じていた。

 

 ふと周りを見渡すと、ゴリラの展示スペースのすぐ横に、なぜかゲームセンターにあるような背筋力計が設置されていた。

 立て看板のポップには、『ゴリラの背筋力は驚異の400kg! 君はどれくらい出せるかな?(※一般成人男性の平均は約140kgです)』とデカデカと書かれている。

 

「背筋力ですか。面白そうですね!」

「……ちょっと見てろ」

 

 目を輝かせる橘を制し、俺は機械の前に立った。

 ここは元アスリートとして、少しは格好いいところを見せておきたい。

 そんな下心がなかったと言えば嘘になる。俺はチェーンに繋がれたグリップを両手でしっかりと握り、足のスタンスを決め、息を吐きながら一気に引き上げた。

 ガチャン!という音とともに、デジタル式のメーターが勢いよく跳ね上がる。

 表示された数値は『210kg』。

 

「おおーっ!すごいです大鐘さん!一般平均を軽々と超えています!半分ゴリラですね!」

「褒めてんのかそれ」

 

 橘が満面の笑みを浮かべ、パチパチパチと無邪気に拍手を送ってきた。

 数値としては悪くない。俺も内心で「どうだ」と少し得意げに胸を張ったのだが──ふと気づくと、周囲の家族連れやカップルたちが、橘の大きな拍手につられてこちらを見ていた。

『すごいね』『高校生のカップルかな、仲良いね』といった、微笑ましくも温かい視線が突き刺さる。

 

「……大声で騒ぐな。恥ずかしいだろ」

「どうしてですか、素晴らしい記録じゃないですか!誇るべきですよ!」

 

 顔を熱くして俯く俺の横で、橘は意気揚々と機械の前に立った。

 

「では、次は私の番ですね!大鐘さんの記録、名探偵が華麗に塗り替えてみせますよ!」

「おい、加減しろよ。絶対本気出すなよ」

 

 彼女の怪力を思い出し、俺は慌てて忠告した。

 

「分かってますよ!探偵たるもの、TPOに合わせた力加減は完璧──ふんっ!」

 

 橘が細い腕でグリップを引き上げた、その瞬間。

 ガガガガッ!という嫌な金属音が鳴り響き、機械のデジタルメーターが限界を突破したように激しく点滅を始めた。

 

『E R R O R』

 

 無機質な警告音と共に、画面には無情なエラー文字が浮かび上がった。

 

「あ……」

「……お前なぁ」

 

 俺は血の気が引く思いで急いで機械の様子を確認した。幸いにもチェーンが切れたりバネが壊れたりしたわけではなく、単に機械の計測上限を振り切ってしまい、エラーを吐いただけのようだ。一度リセットボタンを押すと、すぐに元の『0kg』の表示に戻った。

 

「良かった、壊してはないみたいだな。……まったく、加減しろって言ったばかりだろうが」

「ううぅ……おかしいですね、これでも結構手加減したつもりだったんですけど……」

 

 しゅんとする橘を見て、俺は呆れたように大きなため息をついた。

 だが、ふとその華奢な体に視線を落とし、ハッとする。

 

「……って、大丈夫か橘。急にそんな力出して、体痛くないか?」

「え?」

「いきなり怪力をフル稼働させたら、腰とか関節とか痛めるだろ。筋とか違えてないか?」

 

 スポーツマンの視点から見れば、こんな細い体で計測不能なほどのパワーを急激に出力するなど、どう考えても身体への負担が大きすぎる。俺は心配になって彼女の腕や肩周りを覗き込んだ。

 しかし、橘は不思議そうにきょとんと小首を傾げた。

 

「痛い?全然痛くないですよ?どこも何ともありません!」

「本当に平気なのか? 嘘なら……」

「嘘じゃありませんって!ほら、ピンピンしてます!」

 

 彼女は自分の腕をぐるぐると回して見せ、ケロッとした顔で笑っている。息一つ乱れていないし、強がっているような素振りも微塵もない。

 

「……そうか。なら、いいけど」

 

 俺は安堵の息を吐きつつも、胸の奥に小さな、しかし冷たいしこりのような違和感が落ちるのを感じていた。

 いくら怪力だとしても、あんな無茶な力を出せば、筋肉や骨格に何らかの反動が来るはずだ。

 先ほどのウサギを撫でていた時の温かい光景に、薄暗い影が一つ、音もなく忍び寄ってきたような気がした。

 

 

 

 

 園内を歩き回り、少し遅めの昼食をとることにした俺たちは、売店の近くにある木陰のベンチに腰を下ろした。

 午後の日差しは柔らかく、心地よい風が吹き抜けていく。

 

「大鐘さん、このチュロス、すごく美味しいですよ!シナモンが絶妙です!」

 

 橘は両手で包み込むように持った長いチュロスをサクッと齧り、幸せそうに目を細めた。隣に座る俺の鼻先まで、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。

 

「そうか。お前、さっきからよくそんな甘いもんばっかり食えるな」

「何事も脳の働きが第一ですからね!探偵の冴え渡る推理には、常に糖分の補給が必須なんです!」

 

 力説する彼女の口元には、うっすらと砂糖がついていた。俺がそれを指摘しようとした、その時だ。

 

「大鐘さんも食べますか?はい、あーん!」

 

 橘は自分が齧りかけのチュロスを、無邪気な笑顔のまま、俺の口元へとスッと差し出してきた。

 

「……」

「あーん、です!さぁ、口を開けてください!」

 

 ズイッと距離を詰められ、俺は思わず仰け反った。

 目の前に突きつけられた、シナモンシュガーたっぷりのチュロス。その先端には、間違いなく数秒前まで彼女の唇が触れていた歯型が残っている。

 俺が一人で勝手に動揺し、赤くなりかけた顔を逸らして固まっていると、橘は不満げにチュロスを引っ込めた。

 

「もしかして、毒を警戒していますか?」

「誰もそんなこと言ってないだろ」

「では、お食べください!はい、あーん!」

「……っ、食えばいいんだろ、食えば!」

 

 これ以上押し問答を続けて周囲の注目を集める方が恥ずかしい。俺はやけくそ気味に身を乗り出し、彼女が差し出したチュロスの端をパクッと齧り取った。

 

「どうですか?」

「……甘い。甘すぎる」

「ふふっ、顔が真っ赤ですよ。甘すぎましたね」

 

 勘違いしたまま楽しそうに笑う橘から視線を外し、俺はベンチの背もたれに深く寄りかかった。

 口の中に広がる強烈な甘さと、微かなシナモンの香り。そして、バクバクとうるさく鳴り続ける自分の心臓の音。

 隣を見ると、橘は残りのチュロスを美味しそうに頬張りながら、足元にやってきたスズメを興味深そうに観察している。

 

 風に揺れる鮮やかな青い髪。ころころと変わる豊かな表情。少し騒がしくて、距離感がバグっていて、常識外れな力を見せる、不思議な女の子。

 つい先ほど、背筋力計の前で感じた違和感は、確かに俺の胸の奥に残っている。彼女が抱えている鉄仮面の正体も、相性の理由も、まだ何も分からない。

 それでも。

 

(……ああ、そうか)

 

 隣で無邪気に笑う彼女の横顔を見つめながら、俺はすとんと、何かがはまるような感覚を覚えた。

 生徒会室で桜羽や二階堂に問い詰められた時、俺は「気になっているだけだ」と誤魔化した。

 でも、もう認めるしかない。

 彼女と手を繋ぐのが嬉しい。彼女がウサギを撫でる姿を可愛いと思う。彼女が差し出したものを食べて、馬鹿みたいに動揺している。

 この時間が、ずっと続けばいいとさえ思っている。

 

(……俺は、こいつのことが好きなんだな)

 

 これまでの人生で、ここまで心を奪われたことはなかった。

 初めて自覚した恋という明確な感情は、口の中よりもずっと甘く、そして俺の理性を簡単に溶かしてしまうほどの熱を持っていた。

 

 

 

 

 遅めの昼食を終え、俺たちは再び園内の遊歩道を歩き始めた。

 「次は爬虫類を見に行きましょう!」と元気が止まない橘の隣を歩きながら、俺はまだ少しだけ落ち着かない心臓を持て余していた。

 自分の気持ちを自覚してしまったせいで、彼女の横顔を直視するのがやけに照れくさい。

 

 そんなふうに、園内の少し外れた改修工事中のエリアの脇を通りかかった時だった。

 

「──おっと、危ない!」

 

 前方で作業をしていた業者の声が響いた。

 見ると、坂道に停められていた大型の運搬用台車のストッパーが外れ、こちらに向かってゆっくりと転がり出していた。台車の上には、セメント袋や太い鉄パイプの束が山のように積まれている。

 傾斜で勢いを増した台車が段差にぶつかり、バランスを崩した。縛っていたロープがちぎれ、数百キロはあろうかという重い資材の山が、俺たちの目の前の通路へ向かって雪崩のように崩れ落ちてくる。

 

 直撃する距離ではない。だが、通路を完全に塞ぐほどの落下物だ。俺が咄嗟に身構えた、その瞬間だった。

 

「下がっていてください、大鐘さん!」

 

 横にいた橘が、スカートを翻して前へ飛び出した。

 彼女は崩れ落ちてくる鉄パイプの束の中心に躊躇なく両手を突っ込むと、信じられないことに、その圧倒的な質量をガシッと正面から受け止めたのだ。

 

「は……?」

 

 俺が間の抜けた声を漏らすより早く、橘は「よいしょっと!」と軽い掛け声を上げ、その重い鉄の塊とセメント袋をまとめて持ち上げ─まるで大きなクッションでも投げるかのように、通路の脇の空き地へと軽々と放り投げた。

 

 ズドンッ!!

 

 地面が微かに揺れ、土埃が舞い上がる。

 周囲の空気が凍りついた。作業員たちも、何が起きたか理解できず口を開けたまま硬直している。

 

「ふぅ。道が塞がれなくて良かったです」

 

 土埃を手で払いながら、橘は何事もなかったかのように振り返り、無邪気に笑った。

 その光景に、俺の頭の中で何かが激しく警鐘を鳴らした。

 

「橘!」

 

 自分でも驚くほどの怒鳴り声が出た。

 俺は血相を変えて橘に駆け寄り、彼女の細い両腕を乱暴に掴んだ。

 

「ひゃっ!?ど、どうしたんですか大鐘さん?急に大声を出して……」

「どうしたじゃない!いくらお前に怪力があるからって、あんなモンまともに受け止めて放り投げたらどうなるか分かってんのか!?」

 

 知識と経験が、激しくアラートを鳴らしている。

 人間の筋肉がどれほどの異常な出力を誇ろうと、それを支えるのは骨と関節と靭帯だ。生身の人間があんな重量物をあの体勢で無理やり動かせば、筋肉が耐えられても関節が悲鳴を上げ、最悪の場合は腱がちぎれる。

 彼女がどれくらい魔法と付き合ってきたかはわからないが、怪力によって関節を痛めた経験くらいあるだろう。

 

「肩、痛むか?肘は?どこかおかしいところはないか!?」

 

 俺は焦燥感に駆られながら、彼女の関節周りを触って確かめる。熱も持っていないし、腫れてもいない。

 だが、俺がこれほど必死に心配しているというのに、橘の反応はあまりにも異質だった。

 

「……大鐘さん、どうしてそんなに怒っているんですか?」

 

 彼女は、俺に腕を掴まれたまま、本当に心の底から不思議そうに小首を傾げたのだ。

 

「どうしてって……お前が怪我したかもしれないからに決まって……」

「怪我ですか?していませんよ。どこも壊れていませんし」

「壊れてないって問題じゃないだろ!痛いとか、そういうのは……!」

「痛みですか?」

「……あ?」

 

 橘は自分の掌を不思議そうに見つめ、それから、感情の抜け落ちた、あの夕暮れと同じ虚無を湛えた瞳で俺を見返した。

 

「……いいえ。痛くありませんよ?」

 

 背筋を、氷の塊が滑り落ちていくような感覚がした。

 強がっているわけではない。彼女は本当に、自分の身体が発するはずの危険信号を理解していないのだ。

 異常な怪力。そして、痛覚の欠如。

 目の前にいるこの少女は、俺が先ほどまで胸をときめかせていた可愛い女の子の枠組みから、決定的に外れようとしていた。

 

「……帰るぞ」

 

 俺は短く告げ、彼女の腕から手を離した。

 

「え?でも、まだ爬虫類が……」

「今日はもう解散だ。今は痛くなくても、アドレナリンが切れたあとで急に痛くなるかもしれない。……とにかく、帰ってちゃんと休もう」

 

 有無を言わさない俺の強い口調に、橘は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、やがて「分かりました」と大人しく頷いた。

 

 帰り道、隣を歩く彼女はいつものように明るく喋り続けていたが、俺の耳にはほとんど入ってこなかった。

 

 決して交わらない平行線。宝生の言葉が、重く冷たい呪いのように脳裏でリフレインしている。

 彼女の笑顔の裏に張り付いた鉄仮面は、俺が想像していたよりもずっと異質で、底知れないものかもしれない。

 ポケットの中で、今日一日繋いでいた右手をギュッと握り込む。

 その温かい感触を思い出しながら、俺は夕暮れの空の下、晴れないモヤモヤだけを胸に抱えて家路を急いだ。

 

 

 






 最近個人的に蓮見レイアブームが発生しててグッドです 

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