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お馴染み勉強回です
放課後の喧騒が、遠くのグラウンドや体育館からくぐもった音となって校舎の廊下に届いている。西日が窓ガラスを斜めに透過し、古い床に長く伸びたオレンジ色の四角い影を落としている。
俺は少し重い足取りで、橘たちが待つ教室へと向かっていた。迫りくる期末テスト。最近ずっと橘のことばかり考えていたことで、赤点という現実的な危機は、胃が痛くなるイベントだった。
「公式ひとつも頭に入ってねえ……」
独り言をこぼしながら曲がり角を曲がろうとした、その時だった。
ふわりと。どこかオリエンタルで、頭の芯が甘くしびれるような香の匂いが鼻先を掠めた。
「あら、探偵さん。奇遇ね」
声のした方へ視線を向けると、廊下の影が濃く落ちた壁際に、宝生マーゴが立っていた。
夕日に照らされた彼女の姿は、ひどく蠱惑的だった。気怠げに流された短い黒髪、吸い込まれそうなほど深い色をした紫の瞳。
廊下の中で、彼女の存在だけが妙に色濃く浮き上がって見える。艶やかな髪の毛先を指で弄りながらこちらを見つめる流し目は、高校生とは思えないほど妖艶で、どこか獲物を絡め取る蜘蛛の巣のような危うい魅力を放っていた。制服を着ているはずなのに、彼女が纏うと夜のドレスのような淫靡さすら感じさせる。
「宝生……」
俺が思わず警戒して一歩足の重心を後ろに下げると、宝生は赤い唇を弧に歪めて、くすりと笑った。
「うふふっ、そんなに警戒しないで。今日は何もしないわ」
彼女はゆったりとした足取りで俺との距離を詰め、吐息が届きそうな距離で立ち止まった。
「……ただ、気になっただけ。あの占いから、その後はどうかしらって」
「その後って……相変わらずだよ」
俺の強張った態度を見て、宝生はくすくすと喉の奥で笑った。
宝生は俺の顔を覗き込むように首を傾げた。
「何か、進展があったみたいね?」
その問いかけに、俺の胸の奥でチクリと嫌な痛みが走った。俺が橘への想いを自覚し、同時に彼女に打ちのめされていることを、この少女は完全に把握しているのではないかという錯覚すら覚える。
「……どうだろうな」
俺が視線を逸らして短く事得ると、宝生は「そう」とだけ艶っぽくつぶやき、ふわりと俺の横を通り過ぎようとした。すれ違い様、彼女の長い髪が微かに俺の肩を掠め、再びあの甘い香りが思考を揺さぶる。
「あ、そうそう」
背中越しに、宝生の声が響いた。
「ハンナちゃんが、あなたに何か用があるみたいよ」
その言葉に、俺は怪訝な顔をして振り返った。
遠野の用。今日はこの後、テストに向けた勉強会をする予定しか聞いていない。点数が壊滅的な俺へのスパルタ指導ならいくらでも想像がつくが、それ以外に何か用事があるのだろうか。
まぁいい。どうせすぐに顔を合わせるんだ。休憩の時にでも、軽く聞いてみればいいことだ。
俺がそう結論づけ、再び教室へと歩き出そうとした、その瞬間だった。
『大鐘さん?私のこと、ずっと──』
すぐ耳元で。
間違いなく、橘シェリーの、甘えるような、俺の理性を簡単に溶かしてしまうほどの無防備な声が響いた。普段の騒がしい彼女からは想像もつかない、けれど確かに彼女の周波数と息遣いを持った、生々しすぎる囁き。
俺は心臓を跳ね上がらせ、弾かれたように背後を振り返った。
しかし、そこには橘の姿はおろか、つい先ほどまで歩いていた宝生の姿さえ、陽炎のように跡形もなく消え去っていた。誰もいない廊下に、ただ微かな残り香だけが漂っている。
「魔法……」
俺はカッと熱くなった顔を隠すように声を漏らし、乱れた呼吸を必死に整えながら、そびえたつ勉強会という名の戦場へ向かって重い足を引きずり始めた。
教室の扉を開けると、そこにはすでに三人の姿があった。
「遅いですわよ、大鐘さん!」
真っ先に声を上げてきたのは、腕を組んで待ち構えていた遠野だった。彼女は少し不満げな表情を作りながらも、ポンポンと自分のすぐ隣の空席を叩いた。
「ほら、早くこちらへ座りなさいな。一分一秒の無駄も許されませんわよ」
「悪かったよ。ちょっと廊下で足止め食らってな……」
俺は鞄を下ろし、指示された通り遠野の隣の席へと腰を下ろした。
すると、先ほどまでの厳しい表情はどこへやら、彼女はほんのりと頬を染め、ふわりと柔らかく、そしてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。そのギャップに少し戸惑いながらも、俺はノートと筆記用具を机の上に広げた。
「お疲れ様です、大鐘さん!頑張りましょうね!」
斜め前の席から、いつもの無邪気な声が飛んできた。
顔を上げると、橘シェリーがニコニコと満面の笑みを浮かべてこちらを見ている。
その顔を見た瞬間、俺の脳裏に、先ほどの廊下で宝生が残していった悪魔のような囁きが鮮明にフラッシュバックした。
「……っ」
俺は咄嗟に視線を逸らし、咳払いをして誤魔化した。
あれは宝生の魔法による悪戯だと分かっている。目の前にいる本物の橘は、あんな甘いセリフを言うはずもない。
だが、頭で理解していても、身体の反応は正直だ。あの声が耳の奥にこびりついて離れず、どうしても真っ直ぐに彼女の顔を見ることができなかった。
「大鐘さん?どうかしましたか?」
「いや……何でもない。準備をしてただけだ」
俺は必死に平常心を装い、無愛想に答えて勉強道具をカバンから取り出した。
「さて、まずはこの小テストの復習からですわね」
遠野が身を乗り出し、俺の机を覗き込んでくる。
その距離が、普段よりもやけに近い。彼女の金髪から漂うシャンプーの甘い香りが、さっきのの香水とは違う、純粋で真っ直ぐな匂いとして鼻腔をくすぐる。
肩が触れ合いそうなほどの至近距離で、遠野は丁寧に、そして熱心に問題の解き方を解説し始めた。
「ここの公式は、覚えているはずですわよ。展開の仕方が間違っていますわ」
「……ああ、なるほど。そういうことか」
俺が納得して頷くと、遠野は「ええ、その調子ですわ」とパッと顔を輝かせた。
そんな二人の様子を、目の前の席からじっと観察していた桜羽が、ふいに小さく首を傾げた。
「あれ……?」
「どうしましたか、エマさん?」
すぐに反応した橘が、桜羽の方へと顔を向ける。その顔には、相変わらず一点の曇りもない、底抜けに明るい笑顔が貼り付いていた。
「う、ううん。何でもないよ、シェリーちゃん。ちょっと問題が分からなくて手が止まっただけだから」
桜羽は慌てて愛想笑いを浮かべ、自分のノートへと視線を落とした。
だが、その横顔には、何か非常に厄介な事態を察知してしまったかのような、微かな戸惑いと焦りが入り混じっていた。
「よし、これでこの単元は完璧ですわね」
「おお、本当に分かった。遠野、教え方上手いな」
一時間ほどみっちりと続いた遠野の個人指導のおかげで、さっぱり理解不能だった数学の公式が、俺の頭の中にスルスルと収まっていった。
彼女はフッと得意げに微笑み、どこか優しげな声で言った。
「当然ですわ。大鐘さんも、飲み込みが早いですわね」
「意外と褒めて伸ばすタイプなんだな。もっとスパルタで来るかと思ってた」
「失礼ですわね……」
俺が冗談めかして言うと、遠野は少しだけ頬を膨らませてそっぽを向いた。
そのまま「ふぅ」と息を吐き、区切りがいいということで小休憩に入ることになった。伸びをして凝り固まった肩を回していると、遠野が自分の鞄からガサゴソと何かを取り出した。
「あ、あの、大鐘さん。ちょうどいい、機会ですわ……」
そう言って、彼女は少しだけ頬を朱に染めながら、綺麗にラッピングされた紙袋を俺の机の上にスッと差し出してきた。
なんだろうと思って受け取ると、袋の中から覗いていたのは、見覚えのある毛糸の束だった。
「これって……この前出かけた時に言ってたやつか?」
「え、ええ。気が向いたら、と言っていましたけれど。ちょうど気が向いたので、作ってさしあげましたわ」
遠野は照れ隠しのようにツンとした態度を装いながら、目を逸らしてそう言った。
あれからまだ少ししか経っていないというのに、もう完成させたのか。驚くと同時に、俺は心底感心してしまった。
文化祭でちょっと助けただけだってのに、本当に義理堅い。遠野は友人想いのいい奴なのだ。
俺は素直な感心を抱きつつ、「ありがとな、大事にするよ」と笑顔で紙袋を受け取った。
「ハンナさんっ。そちらは?」
不意に、向かいの席から声が降ってきた。
橘だ。彼女はニコニコとした表情を崩してはいなかったが、その声のトーンは、いつもの底抜けに明るいものより、ほんの、ほんの少しだけ低く沈んでいた。
傍から聞けば誤差の範囲だろう。だが、なぜか俺の耳は、その微妙な声の低さを正確に拾い上げてしまっていた。
(……いや、なんで俺、こいつのちょっとした声のトーンの違いが分かるんだよ)
自分でも少し引いてしまう。廊下で宝生マーゴに声でからかわれたせいか、今の俺は橘の声に対して変に敏感になりすぎているらしい。そうでないと俺が気持ち悪すぎる。
「えっと、文化祭の時のお礼をこの前して、こちらはその、おまけのマフラーですわ。わたくしが、作りましたの……」
遠野が少し慌てたように弁解すると、橘の声の低さは一瞬で消え去り、元のパァッと明るいトーンに戻った。
「そうでしたか!ハンナさんの手作りだなんて、大鐘さん、幸せ者ですね!」
橘はパンッと手を叩き、まるで自分のことのように嬉しそうにはしゃぎ始めた。
なんだ、気のせいだったのか。ただ単に状況を質問しただけで、すぐにいつものノリに戻っている。やはり俺が変に意識しすぎているだけらしい。
しかし、目の前の席から、信じられないものを見るような視線を感じた。
「…………」
桜羽だった。彼女はシャーペンを握ったまま固まり、口を半開きにして、完全に唖然とした表情で俺と遠野、そしてはしゃぐ橘を交互に見つめていた。
「どうしましたか、エマさん?」
本日二度目となる橘の純粋な問いかけに、桜羽はビクッと肩を震わせた。
「う、ううん!何でもないよ。ちょっと疲れで頭が痛くなってきたなって……そ、そう!ちょっと、三角関数が難しくて……!」
桜羽は分かりやすく動揺しながら、自分のノートをバサバサと捲って必死に目を落とした。
どうしたんだろうか、桜羽は。さっきから様子がおかしい。数学が苦手なのだろうか。俺が教えてやれるレベルじゃないのが申し訳ないが。
「ハンナちゃん、わかりやすすぎるよ……」
机に突っ伏した桜羽の口から、蚊の鳴くような小さな嘆きが漏れた気がしたが、ちょうど窓の外を通り過ぎたヘリコプターの音にかき消されて、俺の耳には届かなかった。
和やかな空気の中、勉強会という名の奇妙なステージは、まだ始まったばかりだった。
「……はぁ。では、休憩はおしまいですわ。勉強を再開しますわよ、大鐘さん」
遠野が自分の両頬を軽く叩いて気合を入れ直し、再び俺のノートを引き寄せた。俺も「おう」と頷き、シャーペンを握り直す。
机に突っ伏して完全に魂が抜けていた桜羽も、遠野の「エマさんも、いつまで寝ていますの。早く数学の課題を終わらせてしまいなさいな」というお叱りを受けて、のろのろと上体を起こした。
けだるげに髪をかき上げ、大きくひとつため息をついた桜羽だったが、向かいの席でフンフンと鼻歌を歌いながら問題集を眺めている橘の手元を見た瞬間、その動きがピタリと止まった。
「……あれ?シェリーちゃん、今見てる教科書、上下が逆さまじゃない?」
桜羽の指摘に、俺と遠野も釣られて橘の手元に目を向けた。
確かに、橘が広げている現代文の教科書は、綺麗に百八十度ひっくり返っていた。挿絵が完全に逆立ちしている。
「はっ……!」
橘は一瞬だけ小さく肩を震わせた。だが、すぐに何事もなかったかのようにフッと不敵な笑みを浮かべ、人差し指で前髪をさっと払ってみせる。
「ふふん!気がつきましたか、エマさん。さすがですね!」
「さ、さすがに気づくと思うな……」
「これは、脳の視覚野にあえて不規則な負荷をかけることで、より強固な暗記を促すための名探偵の挑戦です!どんな角度、どんな逆境からでも一瞬で真実を見抜く訓練の一環と言っても過言ではありません!」
橘はふんぞり返るようにして胸を張り、自信満々に言い放った。堂々とした態度だが、その橙色の瞳が心なしか泳いでいる。要するに、ただ単にボケっとしていて逆さまに開いたのを誤魔化しているだけだろう。
「……シェリーさん。あなたの成績、確か前回のテストではごく普通でしたわよね?」
遠野が冷ややかな、しかし極めて真っ当な視線を橘に投げかける。
「そんな奇をてらった真似をしている余裕があるはずありませんわ。まずは普通に教科書を読みなさいな」
「むっ、ハンナさん、凡百の常識に囚われていては、不可能な謎を解き明かすことはできません!それに一度始めた挑戦を途中で諦める理由にはなりませんからね!」
橘は「絶対に直しませんよ!」と言わんばかりに、逆さまの教科書をさらに強く机に押し付けた。その頑固な態度に、遠野は呆れたように小さくため息をつく。
「……はぁ、本当に頑固な人ですわ。勝手にしなさいな。大鐘さん、先ほどの続きを進めますわよ」
「あ、ああ……」
俺が遠野の指示に従ってノートに目を落とした、その時だった。
「……っ、……~~っ!」
隣の席から、何やら言葉にならない奇妙なうめき声が聞こえてきた。
見ると、桜羽がまるで複雑怪奇な数式を一瞬で解かされたかのように目を見開き、漫画のように目をぐるぐると回転させていた。彼女は青ざめたり赤くなったりと目まぐるしく表情を変えながら、俺と橘、そして遠野の三人を何度も何度も往復するように見つめている。
そのあまりの挙動不審さに、俺は思わずシャーペンを止めた。
「おい、桜羽。今日はなんだかやけに落ち着きがないな。大丈夫か?やっぱり三角関数が難しいか?」
心配して声をかけたはずだった。
しかし、桜羽はバッと勢いよく顔を上げると、ぷくーっと両頬を限界まで膨らませ、涙目のまま机をぽかぽかと小さな拳で叩いた。
「……大鐘くんのバカっ!誰のせいでこんなに頭がパニックになってると思ってるのかな!?」
「えっ、俺!?何もしてないだろ!」
「もう知らないっ!」
ふん、と効果音がつきそうな勢いでそっぽを向き、桜羽は猛烈な勢いで問題集にシャカリキとペンを走らせ始めた。耳まで真っ赤にして怒っている姿は、怒っているというよりは、ただただ小さな動物が威嚇しているようで可愛らしかったが、理不尽であることに変わりはない。
「な、なんで急に怒られてるんだ、俺は……」
釈然としないものの、ここで反論すればさらに火に油を注ぎそうだ。俺はただただ困惑しながら、とりあえず頭を下げた。
「ごめん」
理由も分からないまま謝っておく。桜羽は小さく「ふんっ」と鼻を鳴らしたものの、それ以上は何も言ってこなかった。
「あぁボク、どっちを応援すれば……」
桜羽の洩らした声は届かず、俺は再び自分のペンを進めた。
窓の外では夕日が沈みかけ、教室の影がだんだんと濃くなっていく。前半の和やかな笑い声の裏で、小さな砂時計の砂がサラサラと落ちていくように、決定的な破綻の瞬間が静かに、確実に近づいていた。
差し込む西日が一段と赤みを増し、教室の空気は静かな夕暮れのそれに包まれていた。
桜羽の怒りもようやく収まり、俺たちは再び期末テストに向けた机上の戦いへと戻っていた。
「大鐘さん、そこの公式の展開、少し手元が狂っていますわよ。符号の反転を忘れないでくださいな」
隣に座る遠野が、俺の肩と触れ合いそうなほど身を乗り出し、甲斐甲斐しく手元を覗き込んでくる。ふわりと、彼女の髪から上品な花の香りが漂った。
遠野は俺の横からスッと白く細い指を伸ばし、「次はここのページですわ」と俺の教科書の端をつまんで、丁寧にページをめくってくれた。その仕草はひどく自然で、まるで長年面倒を見てきた弟を相手にするかのように俺の学習ペースを完璧に把握し、先回りしてくれている。
「悪いな、遠野。助かるよ」
「ふふっ、これくらい当然ですわ。わたくしの教え子なのですから、赤点などという不名誉は絶対に許しませんからね」
遠野は嬉しそうに目を細め、誇らしげに胸を張った。彼女がわざわざ編んでくれたという手編みのマフラーが入った紙袋が、机の端で夕日を浴びて温かな影を落としている。
そんな穏やかな時間が流れていた、まさにその時だった。
「……」
ふと、向かいの席から、衣擦れの音とは違う、何かがきしむような微かな音が聞こえた。
視線を上げると、橘が依然として上下逆さまの現代文の教科書を開いたまま、ノートに何かを書き込もうとシャーペンを握りしめているところだった。ニコニコとしたいつもの笑顔。しかし、その指先に込められた力は、明らかに異常だった。
──パキッ!!
乾いた、それでいてひどく暴力的な破砕音が教室に響き渡った。
橘が握っていたプラスチック製の太いシャーペンが、まるでプレス機にでもかけられたかのように、中心から無惨に真っ二つに圧し折れていた。
「あっ……」
飛び散ったプラスチックの鋭利な破片が、橘の白い指先を深く切り裂いた。
ツーッ、と。
夕日よりもずっと生々しく赤い血の線が彼女の指を伝い、真新しいノートの白いページへと無情に滴り落ちた。
「おい……っ!」
ガタッ!! と椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、俺は机越しに身を乗り出して橘の右手を力強く掴み取った。
頭の奥で、警鐘がガンガンと鳴り響いている。
あの休日の動物園で、何百キロもある鉄パイプの束を受け止めた彼女の涼しい顔がフラッシュバックする。
彼女には、痛覚が……
自分がどれほどの負荷をかけ、どれほどの怪我を負っているのか、彼女の身体は、彼女の脳に危険信号を送ってくれないのだ。だからこそ、ちょっとした傷であっても、本人が気づかないうちに致命的な事態に繋がるかもしれないという恐怖が、俺の背筋を凍らせた。
「大丈夫か……!?」
俺は血相を変え、橘の手のひらを覗き込んだ。傷口はどのくらい深いのかよくわからないが、ポタポタと血が止まらない。
「あれ?おかしいですね。ずいぶんと脆いペンでした。頑丈なものを使っていたんですが……不良品でしょうか?」
当の橘は、自分の指から流れる血を見ても眉一つ動かさず、きょとんとした顔で首を傾げた。痛がる素振りはおろか、自分が怪我をしたという認識すら薄いようだった。
そして、自分の手を必死に握りしめて青ざめている俺の顔を見て、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「大鐘さん、相変わらず私の手を握っていますね?そんなに焦らなくても大丈夫ですよ」
「からかってる場合じゃないだろ!」
俺の口から、自分でも驚くほど余裕のない、激しい怒声が飛び出した。
「お前が平気でも、血が出てんだよ!痛くなくても怪我はしてんだろ!少しは自分の体を……!」
痛みが分からない彼女の代わりに、俺が痛みを、恐れを感じなければならない。そんな焦燥感と、彼女の奥にある底知れない虚無に対する苛立ちが混ざり合い、俺は強く橘の手を握りしめたまま息を荒らげた。
その時。
隣に座っていた遠野が、息を呑んで固まっている気配を感じた。
視線を向けると、遠野は俺の横顔を──橘への必死すぎる思いが隠しきれず、完全に余裕を失って剥き出しになった俺の感情を、見開かれた瞳でじっと見つめていた。
彼女の顔に浮かんでいたのは、驚きだけではない。胸の奥を鋭い刃物でえぐられたような、深く、痛切な悲しみの色。
「……大鐘さん、落ち着いてくださいな」
一瞬の静寂の後、遠野は震えそうになる声を必死に押し殺し、いつも通りの声色を取り繕った。
「わたくし、絆創膏を持っていますわ」
遠野は鞄から素早く絆創膏と清潔なハンカチを取り出すと、俺の手から橘の腕をそっと引き離し、手際よく血を拭い、傷口を塞ぐように絆創膏を巻きつけた。その指先が、微かに震えているのだけは隠しきれていなかった。
「おおー!ハンナさん、手当まで完璧ですね! さすが、隙がありません!」
そんな遠野の内心の葛藤など露知らず、橘は絆創膏の貼られた自分の指をまじまじと見つめ、ニコニコと笑った。そして、何かを閃いたようにポンと手を打つ。
「そうです!念のため、メルルさんにこの傷を診てもらってきます!破傷風になって推理力が鈍っては大変ですからね!」
橘はバンッと勢いよく立ち上がった。
「というわけで、大鐘さんは引き続きハンナさんにたっぷりと勉強を教わっていてください!ハンナさん、後はよろしくお願いしますね!」
「えっ……?ちょ、ちょっと、シェリーちゃん!?」
橘は隣で唖然としていた桜羽の腕をガシッと掴むと、「ほら、エマさんもついてきてください!」と、桜羽を強引に引きずって教室の扉へと向かった。
桜羽は引きずられながら、教室に残される俺と遠野を振り返り、この世の終わりのような、すべてを悟った絶望的な顔をして「ああっ……ボク、どうすればいいの……!」と悲鳴のような声を残し、扉の向こうへと消えていった。
バタン、と。
扉が閉まる音が、やけに大きく教室に響いた。
急に静まり返った室内。
机の上には、橘の血が数滴飛び散ったノートと、無惨に圧し折られたプラスチックのペンの残骸だけが残されている。
俺はまだ、心臓の嫌な動悸を引きずっていた。
「……大鐘、さん」
不意に、隣から静かな声がした。
我に返って振り向くと、遠野が俯き加減で、自分の膝の上で両手をきつく、白くなるほどに強く握りしめているのが見えた。
夕日の赤が、彼女の金糸のような髪を寂しげに染め上げている。
「遠野……?」
「大鐘さん、あなたは……」
顔を上げた遠野の瞳は、かすかに潤んでいるように見えた。
何かを決定したような、それでも必死に自分の感情に蓋をしようとするような、ひどく切実な響きがその声にはあった。
俺は、彼女が何を言おうとしているのか、その言葉の先にあるものが何なのか、まったく見当もつかず、ただ黙って彼女の次の言葉を待った。
数秒の、永遠にも似た沈黙。
遠野の視線が、机の端に置かれた紙袋──自分が編んだマフラーへと一瞬だけ向けられ、そして、ゆっくりと俺の顔へと戻ってきた。
「……いいえ」
遠野は小さく首を振り、ふっと、いつものような気丈で、凛とした美しい微笑みを浮かべてみせた。だが、その笑顔はどこか泣きそうに歪んでいた。
「何でも、ありませんわ……」
彼女は自分に言い聞かせるようにそう小さく呟くと、パチンと両手で自分の頬を叩き、再びノートへと視線を落とした。
「さあ、時間がもったいないですわ。……勉強、続けますわよ、大鐘さん」
その声の震えに気づかないふりをするのが、今の俺にできる唯一の正解のような気がした。俺は何も言えず、ただ静かに「ああ」と頷き、机に向かって、再び重いシャーペンを握り直した。
大鐘が悪いよ……
メルルも、そう思いますか?