まのこい天秤   作:雪無い

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 シェリールート最終回です


8話『未解決の恋』

 

 

 

 いつもより早く目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光はまだ淡く、部屋の中には夜の冷えが薄く残っている。枕元の時計を確認すると、普段起きる時間よりも三十分近く早かった。眠りが浅かったのだろう。

 

 布団の中で目を開けた瞬間から、頭の奥には昨夜の光景がこびりついていた。

 夜の公園、吐く息の白さ、街灯に照らされた遠野の金色の髪。

 そして、俺の首からマフラーをほどいていく、彼女の細い指先。

 

 遠野ハンナは、俺を好きだと言った。

 誤魔化しも、照れ隠しもなく。真っ直ぐで、逃げ道のない言葉だった。

 俺は、それに応えられなかった。橘のことが好きだと、遠野に告げた。あの瞬間の遠野の顔を、俺はたぶん、しばらく忘れられない。

 泣き崩れることも、怒ることもなく、ただ静かに受け止めていた。

 それが余計に、胸に刺さった。

 

「……ちゃんとしなくちゃな」

 

 ぽつりと呟いた声が、冷えた部屋の空気に落ちる。

 桜羽のメッセージも、遠野の最後の言葉も、同じことを言っていた。

 

 俺は布団の中で仰向けになったまま、昨夜の出来事を一つずつ思い返していく。

 橘は、遠野が俺のことを好いているのに気がついていた。

 だから、勉強会で桜羽を連れて退出したり、ファミレスで俺の首に遠野のマフラーを巻き、遠野を俺の隣に座らせた。そして、自分はわざとらしい事件を理由に席を外した。

 

 あの行動は、どう考えても遠野の恋を後押しするためのものだった。

 であれば、橘は俺のことを好きじゃない。

 少なくとも、普通に考えればそうなる。

 俺に好意があるなら、あんなふうに遠野との時間を作るはずがない。手編みのマフラーを俺に巻きつけて、嬉しそうに遠野へ見せるはずがない。

 あいつにとって俺は、どういう存在なのだろうか。最近は、ライバルだとも言わなくなった。

 

 遠野は言っていた。探偵気取りで鈍感なあのお馬鹿さんの答えは、俺が自分の力で見つけ出せと。

 あの言葉の奥に、何かがある。

 遠野は俺よりずっと長く、橘のことを見ていた。友達として、近くで。

 

 なら、俺が勝手に結論を出して諦めるのは違う。

 橘の本心を、俺が確かめもしないまま決めつけるのは違う。

 

「……告白する」

 

 声に出した瞬間、胸の奥が鈍く熱を持った。

 怖くないと言えば嘘になる。むしろ、かなり怖い。遠野の気持ちを断ったばかりだ。そのうえで橘に振られたら、と考えてしまう。けれど、当たっていかないことには始まらない。

 遠野は逃げなかった。俺の前に立って、好きだと伝えた。結果が分かっていたとしても、自分の気持ちを曖昧なままにしなかった。なら、俺も見習うべきだ。

 

 橘には、遠野を振ったことも伝える。遠野の気持ちを利用したり、なかったことにしたりはしない。そのうえで、俺自身の気持ちを伝える。

 それが、遠野に対しても、橘に対しても、俺が今できる最低限の筋だと思った。

 

 布団を跳ねのけると、冷たい空気が一気に肌を刺した。

 俺は小さく息を吐き、立ち上がる。洗面所で顔を洗う。

 鏡に映った自分の目元には、少しだけ寝不足の影があった。けれど、昨日の夜よりはずっとましな顔をしている気がした。

 

 制服に着替え、鞄に教科書を詰める。部屋を出る前、無意識に首元へ手が伸びた。

 そこにはもう、白いマフラーはない。

 指先が空を切る。その冷たさを、俺はしっかり覚えておくことにした。

 

 

 

 

 寮の食堂で簡単に朝食を済ませ、俺はいつもより少し早く学園へ向かった。

 

 外に出た瞬間、頬を刺すような冷気に思わず肩が縮こまる。冬の朝の空気は容赦がない。吐いた息は白く濁り、すぐに乾いた風にさらわれていった。街路樹はすっかり葉を落とし、枝だけになった黒い影が、薄い朝日に照らされた歩道の上へ細く伸びている。

 学園へ続く坂道に差しかかったところで、前方に見慣れた後ろ姿を見つけた。

 

 鮮やかな青い髪。

 朝の光を受けて、冬空の下でもそこだけ色を失わずに揺れている。

 

 橘シェリーだった。

 

 制服の上からコートを羽織り、いつもの探偵ケープはない。けれど、歩き方だけで分かる。少し弾むような足取り。時折、何かを思いついたように空を見上げる仕草。何も事件など起きていない普通の朝でさえ、あいつの周りだけは、どこか騒がしい予感をまとっている。

 

 その背中を見つけた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。

 昨日、遠野の前で口にした言葉が、今さらのように熱を持つ。

 俺は、橘のことが好きだ。

 その事実はもう、曖昧にできない。

 だけど、いざ本人を目の前にすると、喉の奥が少しだけ固くなる。決めたはずの覚悟が、足元から冷たい風にさらわれそうになる。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 遠野は逃げなかった。なら、俺も逃げられない。

 俺は少し足を速め、彼女の背中へ駆け寄った。

 

「おはよう、橘」

 

 声をかけると、橘はぴたりと足を止めた。そして、ぱっと花が咲くような勢いで振り返る。

 

「おはようございます、大鐘さん!」

 

 橙色の瞳が、朝日を映してきらりと光る。

 俺が隣に並ぶと、橘は当たり前のように歩調を合わせてきた。

 いつも通りの笑顔だった。

 明るくて、遠慮がなくて、何か面白いものを見つける前の子供みたいな顔。

 

 昨日、あれだけのことがあったはずなのに。

 俺と遠野を二人きりにして去っていった本人だというのに。

 橘は何事もなかったように、俺の顔をまじまじと覗き込んできた。

 

「ふむ。今日はいつもより表情が明るいですね、大鐘さん」

「そうか?」

「はい!昨日までの大鐘さんは、テストに追い詰められた悲壮な戦士の顔をしていました。ですが、今日はどことなくすっきりしています」

 

 俺は小さく息を吐いた。表情が明るい。そう見えるのだとしたら、気持ちを決めたからかもしれない。

 まだ、何も解決していない。

 むしろこれから面倒なことをしようとしている。それでも、少なくとも自分がどこへ向かうべきかだけは、昨日よりはっきりしていた。

 俺は首元を撫でる冷たい風に、少しだけ身をすくめた。

 

「今日は、寒いな」

「ですね。いよいよ冬本番という感じです」

 

 橘は白い息をふわりと吐きながら頷いた。

 それから、ふと何かに気づいたように、きょとんと目を瞬かせる。

 

「あれ。マフラーはどうされたんですか?」

「……」

 

 言われて、俺は反射的に首元へ手をやった。そこには、何もない。

 昨日まで鞄に入れていた白いマフラー。遠野が編んでくれた、温かくて、重いもの。

 

 橘は不思議そうな顔で俺を見ている。

 その表情に、悪意はまったくなかった。たぶん、ただ疑問に思っただけなのだろう。

 

 今、どこまで言うべきか。

 さすがに朝の通学中に告白をするのは違う。

 こんな生徒が行き交う坂道で、いきなり好きだと告げるほど、俺も無茶苦茶ではない。

 けれど、遠野のことは早く言っておくべきだと思った。俺が遠野を振ったこと。遠野がちゃんと向き合ってくれたこと。

 そして、橘が昨日作ったあの状況が、少なくとも何もなかったことにはならなかったこと。

 まずは、それを伝えなければならない。

 

「橘」

「はい?」

「ちょっと話がある」

 

 俺の声が思ったより低くなったせいか、橘は一度瞬きをした。

 それから、いつもの調子で首を傾げる。

 

「朝から改まるとは、なかなか重要そうですね」

「ああ」

 

 俺が頷くと、橘は数歩進んだところで足を止めた。

 

 坂道の途中。

 周囲を歩く生徒たちは、俺たちの横を何気なく通り過ぎていく。冬の風が制服の裾を揺らし、橘の青い髪をさらりと流した。

 俺も立ち止まり、彼女の方へ向き直る。

 

「遠野のことなんだが」

 

 その名前を出した瞬間だった。橘の表情が、一瞬だけ止まった。笑顔の形は残っている。口元も、目元も、いつもの明るさを保っている。

 

 けれど、橙色の瞳の奥から、ほんの少しだけ光が引いたように見えた。

 それはあまりにも短い変化だった。瞬きひとつにも満たないほどの間。

 たぶん、俺でなければ気づかなかった。いや、気づいたとしても、意味までは分からなかった。

 

 橘はすぐに、ぱん、と両手を合わせた。

 

「そうでした!」

「……は?」

「大変です、大鐘さん!私は今朝、非常に重要な任務を思い出しました!」

 

 橘は急に大げさな仕草で空を仰ぎ、いかにも名探偵らしい深刻な顔を作った。

 

「昨日、購買部にて新発売されたという幻のクリームパン。その販売数と売り切れ時刻の相関関係を調査しなければなりません!これは今後の学園生活に関わる重大な案件です!」

「いや、待て。俺は遠野の話を──」

 

 俺の言葉に被せるように、橘は妙に明るい声で言った。

 

「ハンナさんは素敵な方です!大鐘さん、よろしくお願いしますね!」

「まだ俺は何も言って……」

「では、私は先に行きます!」

 

 橘はくるりと踵を返した。

 その動きは軽やかだったが、どこか慌ただしかった。まるで、これ以上その場にいると何かを聞いてしまうとでも言うように。

 

「は!?ちょ、待て橘!」

「大鐘さんも、遅刻しないようにしてくださいね!」

 

 訳の分からないことを言い残し、橘は坂道を駆け上がっていった。速い。脱兎のごとく、という表現が本当にぴったりだった。

 青い髪が朝日にきらめき、数秒もしないうちに人混みの向こうへ紛れていく。

 

 俺は伸ばしかけた手を中途半端に下ろし、その場に立ち尽くした。

 結局、何も話せなかった。

 

 遠野のことも。昨日のことも。俺が何を伝えようとしていたのかも。

 

 橘がなぜ急に逃げるように去ったのか、俺には分からない。

 ただ、遠野の名前を出した瞬間、何かが変わった気がした。

 

 けれど、それが何なのかまでは掴めない。

 

「……なんなんだ」

 

 吐き出した声は、白い息になって冬の朝へ溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 まともに授業に集中できないまま、放課後を迎えた。

 黒板に書かれる文字も、教師の声も、教科書の文章も、ほとんど頭に入ってこなかった。ノートには一応ペンを走らせていたが、あとから見返しても自分で何を書いたのか分からないような有様だった。

 

 考えているのは、橘のことばかりだった。

 朝、遠野の名前を出した瞬間。あいつの表情が、一瞬だけ止まった。

 それがどういう意味なのか、俺には分からない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。このまま曖昧にしておくわけにはいかない。

 

 好きだと言おう。

 遠野ではなく、橘が好きなのだと。遠野が向き合ったように、今度は俺が橘に向き合う。

 

 終業のチャイムが鳴ると同時に、俺は鞄を掴んで教室を出た。

 

 まず向かったのは、橘や遠野たちのいる教室だった。

 最上階へ続く階段を上がるにつれ、放課後特有のざわめきが少しずつ遠くなる。廊下には夕方の光が差し込み、窓際の床を薄い橙色に染めていた。

 目的の教室の前に立ち、軽く息を整えてからドアを開ける。

 だが、そこに橘の姿はなかった。

 遠野や桜羽の姿も見えない。沢渡がいたので適当にあしらってから外に出た。

 

 廊下でスマホを取り出し、橘に連絡を入れる。呼び出し音は鳴る。だが、出ない。少し待ってからメッセージも送ったが、既読はつかなかった。

 図書室にも行った。ミステリーの棚の前や、自習スペースを見て回る。けれど、そこにも橘はいない。

 昇降口。中庭。特別教室棟の廊下。思いつく場所を、ふらふらと探し回った。どこにもいない。少し躊躇ったが、遠野や桜羽にも聞いた。しかし、見ていないというメッセージが返ってきた。

 

 自分が何をしているのか、だんだん分からなくなってくる。焦りだけが胸の奥で大きくなり、足だけが勝手に次の場所へ向かっていた。

 

 気づけば、生徒会室の前に立っていた。困った時、俺はすぐここに来てしまっているような気がする。なぜか妙な安心感があるのだ。

 俺は一度だけ深く息を吐き、扉をノックした。コンコン、と乾いた音が廊下に響く。

 少しして、扉の向こうから声が返ってきた。

 

「どうぞ」

 

 凛とした、聞き慣れた声だった。

 俺はドアノブに手をかけ、短く「失礼します」と告げて、生徒会室の扉を開けた。

 

 生徒会室の中には、二階堂ヒロが一人でいた。

 

 机の上には書類がいくつか並んでいる。すでに作業の大半は片付いているのか、彼女はペンを置き、こちらへ静かに視線を向けた。

 

「大鐘か。珍しく、切羽詰まった顔をしているな」

「……そんなに分かりやすいか」

「分かりやすい。少なくとも、いつもの君ではない」

 

 自覚はある。けれど今は、格好をつけている余裕もなかった。

 

「橘を探してる」

「シェリーを?」

「ああ。教室にも図書室にもいなかった。連絡もつかない」

 

 二階堂は、すぐには返事をしなかった。

 ただ俺の顔をじっと見て、何かを確かめるように目を細める。

 

「それで、見つけてどうするつもりだ」

 

 静かな問いだった。

 ごまかす余地のない声。前にここで相談した時と同じだ。二階堂は、俺が逃げられない場所にまっすぐ言葉を置いてくる。

 俺は一度だけ息を吐いた。

 

「告白する」

 

 口にしてしまえば、案外それは簡単な言葉だった。

 けれど、胸の奥では心臓がうるさく鳴っている。

 

「やっぱり、俺は橘が好きだ」

 

 二階堂は驚かなかった。

 予想していたのか、それとも最初から分かっていたのか。彼女は表情をほとんど変えず、静かに続きを促すように俺を見る。

 

「橘に伝えたい。俺が好きなのは橘だって」

「そうか……」

「……ただ、肝心なことを話そうとすると逃げられる。今朝もそうだった。少し話をしようとしただけで、急に変な理由をつけて去っていった」

 

 言いながら、自分でも少し情けなくなる。告白する以前の問題だ。

 相手がどこにいるのかも分からず、話を聞いてもらえるかどうかすら怪しい。

 

「だから、もし知ってるなら教えてほしい。橘がどこにいるか」

 

 二階堂は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。

 窓の外では、冬の夕方がゆっくりと濃くなり始めている。西日が彼女の横顔を照らし、その表情に淡い影を落としていた。

 

「本当に、それでいいんだな」

「何がだ」

「シェリーは、簡単ではないぞ」

 

 その言葉には、妙な重みがあった。

 

「彼女は肝心なところほど煙に巻く。自分の問題になると、なおさらだ」

「……分かってる」

「分かっている顔ではないな」

「じゃあ、分かってないかもしれない」

 

 正直に言うと、二階堂はわずかに眉を動かした。

 

「でも、分からないから行かないっていうのは違うと思った。俺は橘の全部を知ってるから好きになったわけじゃない。知らないことだらけでも、好きになったんだ」

 

 自分で言って、少しだけ腹が据わった。

 そうだ。

 俺は、橘のことを何もかも知っているわけではない。むしろ分からないことだらけだ。それでも、離れたいとは思わなかった。

 

 二階堂はしばらく黙っていた。

 それから、小さく息を吐く。

 

「シェリーなら、特別棟にいる」

「特別棟?」

「ああ。文化祭の時に文芸部が脱出ゲームで使っていた部屋だ。君たちも行っただろう。片付けが完全には終わっていない。最近の彼女は一人になりたい時、あそこへ行く」

「……なんでそんなことまで知ってるんだ」

「企業秘密だ」

「なんだそれ」

 

 いつもの淡々とした調子で言われ、俺は苦笑しかけた。

 だが、すぐに表情を引き締める。

 

「助かった。ありがとう、二階堂」

「礼はまだ早い」

 

 二階堂は机の上の書類を一枚整え、視線だけを俺に向けた。

 

「行くなら、半端なことはするな。シェリーが逃げるなら追え。ごまかすなら、ごまかせないところまで踏み込め」

「ああ」

「それから」

 

 扉へ向かいかけた俺を、彼女の声が引き止める。振り返ると、二階堂は笑っていた。

 

「シェリーに振られたら、生徒会に来るといい。落ち込む暇が無いくらい、こき使ってやろう」

「……考えとく」

 

 俺は短く答えた。ドアノブに手をかけ、生徒会室を出る。

 

 廊下には冷たい夕方の空気が流れていた。俺は鞄を肩にかけ直し、特別棟へ向かって歩き出す。

 扉が閉まる音が、背後で静かに響いた。

 

「……シェリーなら、構わないか」

 

 

 

 

 

 特別棟へ続く渡り廊下は、普段の校舎とは違ってひどく静かだった。

 

 放課後の喧騒は遠く、グラウンドから聞こえる掛け声も、ここまで来ると壁一枚向こうの出来事のようにくぐもっている。窓の外では冬の夕暮れが濃くなり始め、廊下に差し込む西日は赤みを帯びていた。

 

 文化祭の時には多くの生徒が行き交っていたはずの場所も、今はほとんど人気がない。片付け途中の段ボールや、使い終えた装飾の残骸が廊下の隅に積まれている。どこか祭りの後のような、寂しい空気が漂っていた。

 

 俺は二階堂に教えられた部屋を目指して、廊下を進む。すると、曲がり角の向こうから、かすかに声が聞こえた。

 足を止める。聞き覚えのある声だった。

 

 一つは、少し高く、感情を抑えようとしても隠しきれない強さを持った声。

 もう一つは、いつも通り明るく、軽やかで、どこか芝居がかった声。

 

 遠野と橘だ。

 

 反射的に、俺は壁際へ身を寄せた。盗み聞きなどするつもりはなかった。けれど、今この場に出ていけば、何か大事なものを壊してしまう気がした。

 息を潜め、曲がり角の陰から声の方へ意識を向ける。

 

「やっと、見つけましたわ」

 

 遠野の声が響いた。

 いつものように整った声だった。だが、その奥には、明らかに抑え込んだ怒りがあった。氷のように冷たく、それでいて、触れれば火傷しそうな熱を含んでいる。

 

「おや、ハンナさん。どうされましたか?」

 

 対する橘の声は、いつもと変わらないように聞こえた。明るく、軽く、何も知らないふりをするような声。

 けれど、その明るさは、廊下の静けさの中で少しだけ浮いていた。

 

「どうされましたか、じゃないですわ」

 

 遠野の声が、一段低くなる。

 

「どうして、大鐘さんの連絡に出てあげませんの」

 

 俺は思わず、ポケットの中のスマホに意識を向けた。

 さっき何度もかけた。メッセージも送った。けれど、返事はなかった。

 

「わたくしにも、シェリーさんがどこにいるか知らないかとメッセージが来ましたもの。……とても、気まずかったでしょうに」

 

 最後の一言だけ、遠野の声がわずかに揺れた。

 

「そうだったんですか?すみません、気づきませんでした!」

 

 橘は即座に答えた。明るい声。いつもの調子。

 だが、その返答は少しだけ早すぎた。

 

「今日は少し探偵活動に集中していまして。スマホを見る暇もなかったんです。名探偵たるもの、時には外との連絡を遮断してでも、真実に向き合わなければならない時がありますから!」

 

 言葉は滑らかだった。けれど、滑らかすぎた。まるで、最初から用意していた言い訳のように聞こえた。

 

「嘘ですわ」

 

 遠野が静かに言った。短い言葉だった。だが、その一言で廊下の空気が張り詰める。

 

「……逃げていたんでしょう?大鐘さんから」

「逃げる?私がですか?」

 

 橘は笑った。少し大げさに、肩をすくめるような気配がした。

 

「まさか。名探偵シェリーちゃんは、どんな難事件にも正面から立ち向かいます。逃走という選択肢は、私の辞書には存在しません!」

「そうやって、また誤魔化しますのね」

 

 遠野の息遣いが聞こえた。

 深く吸って、ゆっくり吐く。怒りを抑えるための呼吸だった。

 

「大鐘さんから何か聞くのを、怖がっていたんでしょう」

 

 その言葉のあと、沈黙が落ちた。ほんの一瞬。けれど、その一瞬だけ、橘の返事が遅れた。

 

「……怖い、ですか?」

 

 橘の声は、少し不思議そうだった。

 まるで、その言葉の意味を本当に測りかねているような響きだった。

 だが、次の瞬間には、いつもの明るさが戻る。

 

「ふふん。ハンナさん、それは推理ミスです。名探偵は恐れを知りません!どんな真実が待ち受けていようとも、決して怯むことなく突き進むのです!」

「では」

 

 遠野が、静かに言葉を重ねた。

 

「大鐘さんとわたくしが付き合うことになった、という報告でも、平気で聞けますの?」

 

 空気が止まった。俺も、息をするのを忘れた。

 だが、それ以上に、曲がり角の向こうで、橘の息が止まったのが分かった。

 先ほどまで流れるように続いていた明るい声が、完全に途切れる。

 何かを言おうとした気配すらない。ただ、沈黙だけが落ちた。

 その沈黙が、何より雄弁だった。

 

「それを聞くのが、怖かったのではありませんか」

 

 遠野の声は、もう怒鳴ってはいなかった。

 けれどその静かさは、先ほどよりもずっと鋭かった。隠していたものを、逃げ道ごと切り開くような声だった。

 

「……あなたは、わたくしと大鐘さんを、やけに二人きりにしようとしていましたわよね」

 

 遠野の声が、静かな廊下に落ちた。

 テスト勉強の時もそうだった。橘は怪我をしたあと、桜羽を連れて教室を出ていった。俺と遠野だけを残して。

 ファミレスでもそうだ。俺の首に遠野のマフラーを巻き、遅れて来た遠野を俺の隣に座らせ、そのまま自分は事件だ何だと言って席を外した。

 どちらも明らかに、俺と遠野を二人きりにするための動きだった。

 

「わたくしは、隠し事が苦手ですから」

 

 遠野が、小さく笑った。

 その笑いは、少しだけ自分を責めるような、苦く、寂しい響きがあった。

 

「大鐘さんを好きなことくらい、あなたやエマさんにはバレバレだったのでしょうね」

 

 言い切ったあと、遠野は少しだけ息を吐いた。

 きっと、彼女にとっても簡単な言葉ではなかったのだろう。

 昨日、俺に向かって告げた想いを、今度はその恋の相手ではなく、友人に向けて口にしている。

 しかも、その友人こそが、俺の好きな相手なのだ。

 

 曲がり角の向こうで、橘がどんな顔をしているのかは見えない。

 ただ、彼女の声だけが、いつもより少し遅れて返ってきた。

 

「……それは、そうですね」

 

 意外にも、橘は否定しなかった。

 けれど、すぐに明るい調子を取り戻す。

 

「ハンナさんは、とても分かりやすいですから!大鐘さんを見る時の目が、普段より柔らかくなりますし、声のトーンも少しだけ上がります。あと、大鐘さんに褒められた時の照れ方が、非常に事件性の高い可愛らしさでした」

「余計なお世話ですわ!」

 

 遠野が少しだけ声を荒げる。

 けれど、すぐにその怒りは沈んだ。ここでいつものように言い合いをするために、彼女は橘を追ってきたわけではない。

 

「だから、ですか」

 

 遠野は静かに続けた。

 

「わたくしが大鐘さんを好きだから。だから、あなたはわたくしを応援しようとしたのですか」

「当然です!」

 

 橘の返事は、迷いがないように聞こえた。

 

「ハンナさんは私のお友達です。お友達の恋を応援するのは、当然の行動ですから!」

 

 明るく、力強い声だった。

 けれど、俺にはその明るさが、どこか不自然に響いた。まるで、正解の台詞を選んでいるようだった。

 

「ハンナさんは真っ直ぐで素敵です。二人が一緒にいれば、きっと上手くいくと思いました。ハンナさんは大鐘さんに勉強を教えるのも上手ですし、マフラーだってとても似合っていましたし、それに──」

「シェリーさん」

 

 遠野が、橘の言葉を遮った。その声には、もう怒りよりも痛みの方が強く滲んでいた。

 

「わたくしも、あなたのお友達ですわ」

 

 沈黙。遠野の言葉は、静かだった。

 けれど、その静けさの中には、逃げることを許さない強さがあった。

 

「お友達だから、分かりますの」

 

 遠野は一歩、橘に近づいたようだった。

 床板が小さく鳴る。

 

「あなたが、大鐘さんを好きなことくらい」

 

 廊下の空気が、凍りついた。俺の心臓が、どくんと大きく跳ねる。

 橘は何も言わなかった。

 いつもなら、すぐに大げさな否定を返してきそうなものなのに。

 名探偵の推理にしては甘いとか、恋愛事件は専門外だとか、そんなふうに茶化して逃げられるはずなのに。

 

 何も、返ってこなかった。遠野の声だけが、静かに続く。

 

「わたくしの気持ちがあなたに分かったように、あなたの気持ちも、少しくらい分かります」

 

 少しだけ、遠野の声が震えた。

 

「できることなら、気づきたくなんてありませんでしたわ」

 

 それは、遠野の本音だった。

 

「でも、分かってしまったんですの。あなたが大鐘さんを見る時の目。あの人があなたの怪我に必死になった時、あなたがほんの少しだけ戸惑っていたこと」

 

 遠野は息を吸った。

 

「それに、わたくしと大鐘さんを二人きりにしようとしていた時のあなたは、少しも楽しそうではありませんでしたわ」

 

 その一言が、ひどく重く響いた。

 俺は息を呑む。ファミレスで去っていった時の橘は、いつも通り明るく笑っていたように見えた。

 けれど、遠野には見えていたのだ。

 

「シェリーさん」

 

 遠野の声が、少しだけ優しくなる。

 

「わたくしの恋を応援してくれたことには、感謝していますわ」

 

 そして、次の言葉で、その優しさは鋭さに変わった。

 

「でも、それをあなたが逃げる理由にしないでください」

 

 遠野の声が、廊下に静かに響いた。

 その言葉のあと、しばらく何の音もしなかった。

 窓の外を吹き抜ける風の音だけが、古い校舎の隙間をかすかに鳴らしている。

 

 やがて、橘が小さく笑った。

 

「……逃げる理由、だなんて」

 

 橘の声が、ようやく返ってきた。

 いつものように明るいはずの声だった。けれど、その輪郭は少しだけ崩れていた。笑っているのに、どこか息が浅い。

 

「私は逃げてなんかいませんよ。ハンナさんが大鐘さんを好きで、大鐘さんもハンナさんといると自然で、二人はお似合いで……だから、私は」

「だから、譲ってあげようとした?」

 

 遠野の声が、静かに橘の言葉を断ち切った。

 

 沈黙が落ちる。

 

「それが友情だと、本気で思っていますの?」

「……ハンナさん」

「そんなものは、友情ではありませんわ」

 

 遠野の声には、怒りがあった。けれどそれ以上に、痛みがあった。

 

「わたくしは、あなたに大鐘さんを譲ってほしかったわけではありません。あなたに勝手に身を引かれて、勝手に背中を押されて、勝手に幸せになりなさいと置いていかれたかったわけでもありません」

 

 遠野は一度、息を吸った。その呼吸は震えていた。それでも、彼女の声は最後まで折れなかった。

 

「わたくしは、ちゃんと振られましたわ。大鐘さんの口から、はっきりと」

 

 胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 遠野はそれを、こんなふうに自分の口で言わなければならない。しかも、それを橘に向かって。

 

「悔しかったですわ。悲しかったですわ。今でも、平気なわけではありません」

 

 遠野の声が、ほんの少しだけ滲む。

 

「でも、それはわたくしの恋です。わたくしが自分で向き合って、自分で終わらせるものです。あなたに、綺麗な友情の形に包んで処理されるものではありませんわ」

 

 橘は答えない。曲がり角の向こうにいる彼女の姿は見えない。

 けれど、息を呑んで立ち尽くしている気配だけは伝わってくる。

 

「シェリーさん」

 

 遠野の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「あなたは、わたくしの大切なお友達ですわ」

 

 その言葉は、先ほどまでの叱責とは違っていた。

 まっすぐで、温かい。だからこそ、逃げ場がない。

 

「だからこそ、あなたにそんな顔をしてほしくありませんの。自分の気持ちをなかったことにして、わたくしのためだなんて言って、笑ってほしくありませんの」

「……そんな顔って、どんな顔ですか」

 

 橘の声は小さかった。遠野は少しだけ黙った。

 そして、静かに答える。

 

「泣き方を知らない子供みたいな顔ですわ」

 

 廊下の空気が、さらに冷えた気がした。

 

「……私は、泣いてなんかいません」

「ええ。だから、余計に厄介なんですの」

 

 遠野は呆れたように、けれど優しく言った。

 

「まったく、もう」

「……私は」

 

 橘が何かを言いかける。けれど、その言葉は続かなかった。

 代わりに、床を蹴るような小さな音がした。

 次の瞬間、青い髪が廊下の向こうへ翻るのが、曲がり角の隙間から一瞬だけ見えた。

 

「シェリーさん!」

 

 遠野が呼ぶ。だが、橘は振り返らなかった。

 足音が遠ざかっていく。いつものような賑やかな逃走ではない。冗談めかした決め台詞も、名探偵らしい大げさな退場もない。

 ただ、逃げるように。本当に逃げるように、廊下の奥へ消えていった。

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 やがて、遠野が深くため息をつく。

 

「……全く、手のかかる人ですわね」

 

 その声には、呆れと、心配と、どうしようもない優しさが混ざっていた。

 俺は壁の陰で立ち尽くしたまま、動けずにいた。

 今の会話を聞いてしまったことへの後ろめたさと、橘が逃げていった方向へ今すぐ走り出したい衝動が、胸の中でぶつかっている。

 

「大鐘さん」

 

 突然、遠野の声がこちらへ向けられた。俺は息を呑む。

 

「そこにいるのでしょう」

 

 隠れていた意味など、最初からなかったらしい。

 観念して、俺は曲がり角の陰から姿を出した。遠野は驚いた様子もなく、ただ少しだけ目元を赤くした顔でこちらを見ていた。

 

「……悪い。聞くつもりじゃなかった」

「でしょうね。あなたはそういうところだけ、妙に不器用ですもの」

 

 遠野は小さく鼻を鳴らした。いつもの調子に近い。けれど、声の奥にはまだ震えが残っていた。

 

「遠野」

「お礼も謝罪も後ですわ」

 

 彼女は俺の言葉を遮り、橘が消えていった廊下の先を指差した。

 

「早く追いかけなさい」

 

 その一言は、鋭く、迷いがなかった。

 

「でも」

「でも、ではありません」

 

 遠野の翠の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。

 

「わたくしを断ったのでしょう。なら、逃げることだけは許しませんわ」

 

 返す言葉がなかった。

 

「シェリーさんは、面倒で、頑固で、自分のことになると信じられないくらい鈍感で……それでいて、変なところで優しすぎます」

 

 遠野は少しだけ唇を噛んだ。

 

「だから、あなたが行くしかありませんの」

 

 冬の夕暮れが、廊下の窓から赤く差し込んでいる。

 遠野の横顔は、その光の中で少しだけ泣きそうに見えた。けれど彼女は、泣かなかった。

 

「行きなさい、大鐘さん」

 

 遠野は、凛とした声で言った。

 

「今度こそ、ちゃんと捕まえてきなさいな」

 

 俺は強く頷いた。

 

「……ありがとう、遠野」

「お礼は、全部終わってから聞きますわ」

 

 そう言って、遠野はそっぽを向いた。

 俺は鞄を肩にかけ直し、橘が消えた廊下の奥へ向かって走り出す。

 背後で、遠野が小さく息を吐く音がした。俺は、振り返らなかった。

 

 

 

 

 

 橘が逃げ込んだ先は、特別棟の奥にある一室だった。

 文化祭の日、文芸部が脱出アトラクションとして使っていた教室。二階堂から聞いていた通りだった。

 扉は半分だけ開いていた。

 中から漏れる光は薄く、夕暮れに沈みかけた廊下の空気と混ざって、ひどく頼りない色をしている。

 

 俺は息を整え、扉の前に立った。ここには、覚えがある。

 天秤の置かれた部屋、暗号が隠された本棚。そして、盤上の動物たち。

 文化祭の日、俺たちはここで笑っていた。

 遠野は呆れ、橘は騒ぎ、俺はそんな二人に振り回されながら、いつの間にか楽しくなっていた。あの時は、ただの謎解きだった。

 今思えば、あの場所から全部始まっていたのかもしれない。

 

 俺はゆっくりと扉を押し開けた。

 教室の中は、半分だけ片付けられたままだった。壁に貼られた古びた羊皮紙風の装飾は端が剥がれ、机の上には使われなくなった小道具が雑然と積まれている。フクロウのレリーフも、偽物の本棚も、王の間を模した盤面も、文化祭の日の熱気を失って、静かに影を落としていた。

 

 その奥に、橘シェリーがいた。

 窓際に立ち、夕焼けに照らされている。

 青い髪は西日の中でどこか紫がかって見え、細い肩はいつもより小さく見えた。

 彼女は、こちらに背を向けたまま言った。

 

「……見つかってしまいましたか」

 

 声は、思ったより落ち着いていた。

 いつものように跳ねるような明るさはない。

 けれど、泣いているわけでも、震えているわけでもない。

 ただ静かだった。

 

「さすがですね、大鐘さん。名探偵シェリーちゃんの隠れ家を突き止めるなんて、ライバルとしては百点満点です」

 

 俺は一歩、教室の中へ踏み込んだ。

 床板が小さく鳴る。その音に、橘の肩がほんのわずかに揺れた。

 

 彼女は振り返らなかった。

 しばらく、教室の中に沈黙が落ちる。

 窓の外から、遠くの部活動の声がかすかに聞こえた。けれど、それもすぐに風の音に溶けて消えていく。

 

「……ハンナさん、怒っていましたか?」

「怒ってた」

「でしょうね。ハンナさんは、怒ると怖いですから」

「でも、怒ってたのは、お前のことを大事に思ってるからだ」

 

 橘は小さく笑った。

 

「ハンナさんは、良い人ですね」

「ああ」

「まっすぐで、綺麗で、強くて」

 

 橘は、まるで用意してきた答えを読み上げるように続けた。

 

「大鐘さんの隣に立つなら、ハンナさんの方がいいと思います」

 

 胸の奥が、少しだけざらついた。俺は言葉を選ぶ。

 

「それは、お前が決めることじゃない」

 

 そこで初めて、橘がこちらを振り返った。

 夕日の中で、橙色の瞳が静かに光っていた。

 その目は、いつものように輝いているはずなのに、どこか底が見えなかった。

 

「大鐘さんが、私を好きだということは分かりました」

 

 あまりにも淡々と言われて、息が詰まる。

 俺が何かを言う前に、橘は続けた。

 

「昨日、ハンナさんに告白されたんですよね。大鐘さんはハンナさんを振った。そして、私のことが好きだと言った」

「……遠野、そこまで言ってたか?」

「聞かなくても分かります。大鐘さんの顔を見れば」

 

 橘は少しだけ首を傾げた。

 

「名探偵ですから」

 

 その言い方だけは、いつもの彼女に近かった。けれど、そこに誇らしさはなかった。

 

「なら、話は早い」

 

 俺は一歩近づく。

 

「俺はお前に──」

「でも、選ぶべきは私ではありません」

 

 言葉を遮られた。

 

 橘はまっすぐ俺を見ていた。

 

「大鐘さんは、ハンナさんを選ぶべきでした」

「違う」

「違いません」

 

 即答だった。橘の声は強くなかった。むしろ、驚くほど静かだった。

 静かで、揺らがない。だからこそ、余計に遠かった。

 

「ハンナさんは、大鐘さんを大事にできます。大鐘さんの寒さに気づいて、マフラーを編めます。大鐘さんのために動けます。怒る時は怒って、傷ついた時は傷ついて、それでも前を向けます」

 

 彼女の視線が、俺の首元をかすめた。そこにはもう、遠野のマフラーはない。

 

「私は、違います」

 

 橘は、自分の両手を見下ろした。白く、細い手だった。ウサギを撫でていた手。俺の手を強引に繋いできた手。

 そして、背筋力計を振り切り、鉄パイプを受け止め、ペンを握り潰した手。

 橘はその手を、まるで自分のものではない何かを見るように眺めていた。

 

「私は、私のことを知っています」

 

 それは、淡々とした声だった。

 

「私は、バケモノです」

 

 その言葉に、教室の空気が冷えた。

 

「……怪力だからか?」

「それもあります」

 

 橘は指をゆっくり開き、また閉じた。

 

「少し力を入れるだけで、簡単に壊れます。物も、人も。……私は、それを知っているんです」

 

 声に感情はほとんどなかった。

 けれど、何も感じていないわけではないのだと、なぜか分かった。

 橘は、まばたきを一つする。

 

「それに、痛くありません」

 

 あの日の動物園が脳裏に蘇る。崩れ落ちる資材。それを受け止めた橘。俺が怒鳴っても、本当に不思議そうにしていた顔。

 勉強会の教室。折れたシャーペン。指を流れる血。それを見ても、眉ひとつ動かさなかった橘。

 

「血が出ても、痛くない。重いものを持っても、痛くない。どこまで力を入れたら壊れるのか、私は本当には分かりません」

 

 橘は自分の手を胸元へ引き寄せる。

 

「でも、大鐘さんは痛そうな顔をします」

 

 その声が、ほんの少しだけ低くなった。

 

「私が怪我をしても、私は痛くないのに。大鐘さんが、痛そうな顔をするんです。私よりずっと苦しそうに、怖そうに、怒った顔をするんです」

 

 橘の瞳が揺れた。

 

「それが、嫌です」

 

 俺は何も言えなかった。

 

「大鐘さんがそういう顔をするなら、私は近づかない方がいいんです」

 

 彼女は、自分の手を握りしめた。

 

「私は平気でも、大鐘さんは平気じゃない。私が何かを壊せば、大鐘さんが痛がる。私が自分を傷つければ、大鐘さんが苦しむ」

 

 橘の唇が、かすかに歪む。

 

「だったら、離れていた方がいいじゃないですか」

 

 その理屈は、あまりにも橘らしかった。

 自分の痛みではなく、俺の表情を理由にしている。自分が傷つくことではなく、俺が傷つくことを怖がっている。

 なのに、その結論は、自分を遠ざけることだった。

 

「橘」

「大鐘さん」

 

 彼女は、俺の言葉を許さなかった。

 教室の奥、王の間のセットが置かれていた机へ歩いていく。

 そこには、文化祭の日に使った盤面がまだ残っていた。動物を模した駒が、いくつか盤の上に転がっている。

 橘は、その中から小さなウサギの駒を拾い上げた。

 

「覚えていますか?」

「ああ」

「あの時、大鐘さんは、このウサギでライオンを仕留めました」

 

 橘は掌の上で、白いウサギの駒を転がす。

 

「盤上では、ウサギがライオンに勝てました。ルールがあったからです。駒の動きが決まっていて、勝利条件があって、そこにはちゃんとした理屈がありました」

 

 彼女は、ウサギの駒をじっと見つめる。

 

「でも、現実は違います」

 

 静かな声だった。

 

「現実のウサギは、ライオンに勝てません」

 

 橘はウサギの駒を軽く握った。

 

「ライオンの前に出たら、すぐに食べられてしまいます」

 

 俺は、彼女の言いたいことが分かってしまった。

 

「私は、ライオンです」

 

 橘が続ける。

 

「大鐘さんは、ウサギです」

「俺は結構強いぞ」

 

 思わずそう返した。橘は、少しだけ困ったように笑った。

 

「知っています。大鐘さんは強いです。我慢強くて、いざという時にはちゃんと怒れる。誰かの痛みを、自分のことみたいに受け止められる」

 

 そして、彼女は俺へ近づいてきた。

 

「でも、それとこれとは別です」

 

 次の瞬間だった。

 橘の手が、俺の胸元にそっと触れた。押された、というほどの感触すらなかった。ただ、指先が制服に触れた。

 それだけで、俺の身体は後ろへ崩れた。

 

「っ……!」

 

 抵抗する暇もなかった。

 背中が、近くの壁に当たる。痛みというほどではない。けれど、逃げ場だけは完全に塞がれた。

 

 橘は片手で俺の肩を押さえていた。力を込めているようには見えない。表情も、息も、何一つ乱れていない。

 身体の使い方には多少の自信がある。足腰も、腕力も、他人より鍛えてきたつもりだった。

 それでも、まるで巨大な岩に押さえつけられているように、身じろぎ一つできなかった。

 

「ほら」

 

 橘は静かに言った。

 

「こういうことです」

 

 その手は優しかった。痛くないように、苦しくないように、必要最低限の力で俺を止めている。

 この優しさの裏に、どれだけの力が眠っているのか。少しでも加減を間違えればどうなるのか。俺には想像することしかできない。

 

「私が少し間違えたら、大鐘さんは壊れます」

 

 橘の声は淡々としていた。

 

「こうやって、簡単に」

 

 俺は彼女を見た。目の前にある橙色の瞳。

 近い。息がかかるほど近い距離ではない。けれど、逃げられないほど近い。

 

 その瞳の奥にあったのは、脅しではなかった。

 恐怖だった。

 俺を怖がらせるために力を見せているのではない。

 自分が俺を壊してしまうかもしれないことを、彼女自身が怖がっている。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 

「怖くない」

 

 俺は言った。橘の眉がわずかに動く。

 

「……強がりですか?」

「違う」

「今、大鐘さんは動けません」

「分かってる」

「私がその気になれば、もっと強く押さえられます」

「だろうな」

「だったら」

 

 橘の声が、初めて揺れた。

 

「どうして、そんな目で見るんですか」

 

 そんな目。俺は自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。

 ただ、はっきりしていることがある。目の前の彼女から、離れたいとは思わなかった。

 

「橘」

 

 俺は、押さえつけられたまま、彼女の名前を呼んだ。

 

「俺は、お前のことを全部知ってるわけじゃない」

「……そうです」

「怪力のことも、痛みのことも、お前が今まで何を抱えてきたのかも、俺は知らないことだらけだ」

「なら」

「でも」

 

 俺は、彼女の言葉を遮った。

 

「知らないから、好きじゃないことにはならない」

 

 橘の指先が、ほんの少しだけ震えた。

 

「俺は、お前の正体を好きになったんじゃない。お前の感情を全部理解したから好きになったわけでもない」

 

 ゆっくりと言葉を選ぶ。

 ここで綺麗なことを言っても、たぶん届かない。お前はバケモノじゃない、と言っても、橘は信じないだろう。

 だって、橘は自分のことを知っている。俺の知らない何かを、知っている。

 なら、俺が言うべきなのは、そこではない。

 

「俺は、お前の行動を好きになったんだ」

 

 橘の瞳が揺れた。

 

「行動、ですか……?」

「ああ」

 

 転校してきたばかりの俺を、あいつは強引に引っ張り回した。

 こちらの都合なんてお構いなしに、事件だ謎だと騒ぎ立てて、俺を自分の世界へ引きずり込んだ。

 鬱陶しかったし、面倒だった。でも。

 

「初めて会った時、俺がお前にどれだけ救われたか、お前は知らない」

 

 橘の瞳が、わずかに揺れる。

 

「あの頃の俺は、何かに関わるのが怖かった。誰かを信じるのも、誰かのために動くのも、また間違えるんじゃないかって思ってた。黙っていれば傷つかない。何もしなければ、もう誰も裏切らない。そうやって、勝手に立ち止まってた」

 

 俺は苦く笑う。

 

「そんな俺を、お前は何の遠慮もなく引っ張った。事件だ、ライバルだ、名探偵だって騒ぎながら、俺の手を掴んで、外へ連れ出した」

 

 あれがなければ、俺は今でも自分の過去の中で膝を抱えていたかもしれない。

 

 文化祭の日を思い出す。

 遠野が疑われた時。空気が一斉に遠野を犯人にしようとしていた時。俺がまた怒りに飲まれそうになった時。

 橘は、馬鹿みたいな名探偵ごっこで、その空気を壊した。

 

「遠野が疑われた時、お前は最初に動いた。あの場の空気を壊して、遠野を怒らせて、俺が冷静になれるよう動いてくれた。俺が同じ過ちをしないように」

 

 勉強会の日を思い出す。自分の指から血が流れているのに、俺をからかった。遠野の震える手で手当てを受けながら、明るく笑っていた。

 

「遠野の恋だって、自分のことみたいに大事にしようとした。やり方は、合ってなかったのかもしれないけど」

「……」

「でも、お前が誰かを大事にしようとして動いたことは、分かる」

 

 俺は彼女を見上げる。

 

「俺の目に映ってる橘シェリーは、いつも誰かのために動いてる」

 

 明るくて、うるさくて、距離感が近くて、意味の分からないことばかり言って。

 でも、誰かが傷つきそうな時には、真っ先に駆け出してしまう。

 それが、自分を守るための演技だったとしても。自分の心を誤魔化すための行動だったとしても。

 俺は、その行動に何度も救われた。

 

「お前が自分をバケモノだと思ってるなら、それでもいい。ライオンだって言うなら、それでもいい。俺は、お前の定義を変えに来たんじゃない」

 

 彼女は、俺を押さえていた手を完全に離していた。

 けれど俺は、逃げなかった。

 むしろ一歩、橘の方へ踏み出した。

 

「俺はウサギでいい」

 

 橘の目が見開かれる。

 

「ライオンの前に出たら、食べられるだけのウサギでいい。だけどな」

 

 俺は、彼女の手の中にあるウサギの駒を見た。

 

「ライオンのもとに飛び込んで行きたくて仕方ないウサギは、きっと、食べられても構わないと思ってる」

「……そんなの、おかしいです。食べられたら、終わりじゃないですか」

「そうかもな」

「大鐘さんは、自分が何を言っているのか分かって──」

「分かってる」

 

 俺は、彼女の言葉を遮った。

 

「食べても構わない」

 

 橘が息を呑む。

 

「だから、好きでいさせてほしい」

 

 静寂が落ちた。教室の外から聞こえる風の音。どこか遠くの部活動の声。

 夕暮れに染まる床。埃をかぶった盤面。

 そのすべてが、俺たちの周りだけを避けているようだった。

 

「……どうして」

 

 橘が、もう一度言った。

 今度の声は、ひどく小さかった。

 

「どうして、そこまで」

「言っただろ。好きだからだ」

「……私は、自分のことしか考えていません。大鐘さんに痛そうな顔をしてほしくないのだって、私がそれを見るのが嫌なだけです」

「それでいい」

「よくありません」

「俺にとっては、それで十分だ」

 

 俺は彼女を見た。

 

「俺にとって可愛くて、大好きな子が、こんなに優しい」

 

 橘が、完全に固まった。俺も、自分で言って顔が熱くなるのが分かった。

 けれど、もう引っ込める気はなかった。

 

「それで、十分だ」

 

 少しだけ息を吸う。

 

「……偉いと、天才は保留だけどな」

 

 その言葉に、橘の瞳が揺れた。

 

「それ、覚えてたんですね……」

「お前の言葉はひとつも忘れたくない」

 

 橘の声が震える。

 笑おうとしているのか、怒ろうとしているのか、泣きそうなのか。

 その全部が混ざったような声だった。

 

「そこは、全部言ってくれる流れじゃないんですか」

「全部欲しいなら、これから証明してくれ」

「……どうやってですか」

「俺の隣にずっといてくれたらいい」

 

 俺は真っ直ぐに告げた。橘が言葉を失う。

 俺はもう一歩近づいた。彼女は、逃げなかった。

 

「俺は、お前の全部を理解できるなんて言わない。お前の痛みが分かるとも言わない。お前が自分をバケモノだと思うなら、その気持ちを簡単に否定するつもりもない」

 

 それは、綺麗な救いではない。俺はたぶん、こいつを救いたいわけじゃない。こいつのそばにいたい。こいつに俺を見てほしい。こいつが笑っている時も、壊れそうな時も、自分のものみたいに気にしていたい。

 ひどく身勝手な感情だ。でも、もうそれでいいと思った。

 

「俺のために、これからも優しいバケモノでいてくれないか」

 

 橘の目が、ゆっくりと見開かれる。

 

「俺の勝手で言ってる。お前が何者でもいい。バケモノでも、ライオンでも、名探偵でも、ただの女の子でも」

 

 俺は、彼女の手を見た。何かを壊せる手。でも、ウサギを優しく撫でた手。俺の手を、何度も当たり前のように掴んできた手。

 

「その手で、これからも俺を引っ張ってくれ」

 

 橘は、何も言わなかった。ただ、自分の手を見下ろしていた。

 さっきまでバケモノの証のように見つめていたその手を、今度は初めて見るもののように。

 やがて彼女は、ぽつりと呟いた。

 

「……そんな身勝手な告白、初めて聞きました」

「悪いな」

「謝らないでください」

 

 彼女は顔を上げた。笑っていた。

 けれど、その笑顔はいつもの完璧なものではなかった。

 少し歪んでいて、頼りなくて、今にも崩れそうで。

 

「私が化け物だと言っても、否定してくれないんですね」

「否定してほしかったか?」

 

 橘はしばらく黙った。

 そして、ゆっくり首を横に振る。

 

「……いいえ」

「だろうな」

「でも、バケモノでもいいと言われるのは」

 

 橘は自分の胸元を押さえた。

 

「もっと困ります」

 

 彼女の眉が、くしゃりと歪む。

 

「胸が、変なんです」

 

 その声は、かすかに震えていた。

 

「痛くはないのに。苦しいです。重くて、熱くて、息がしづらいです」

 

 橘は戸惑ったように俺を見て、力なく笑った。

 

「何も、分かりません」

「なら、一緒に考えよう」

 

 橘はしばらく俺を見つめていた。それから、掌の中のウサギの駒を見下ろす。小さな白い駒。ライオンの前では、すぐに食べられてしまうはずの弱い生き物。

 橘はそれを、壊さないように、そっと両手で包んだ。

 

「……私は」

 

 小さく、彼女が呟く。

 

「大鐘さんが、好きです」

 

 あまりにも静かな告白だった。

 

 いつものような派手な宣言もない。名探偵らしい決めポーズもない。冗談めかした言い回しもない。

 ただ、橘シェリーという一人の女の子が、自分でも持て余していた感情に、初めて名前をつけた。

 

「たぶん、ずっと分かっていませんでした」

 

 彼女は続ける。

 

「大鐘さんがハンナさんといるのを見ると、胸がざわざわしました。ハンナさんのマフラーを巻いている大鐘さんを見た時、どうしてか、少しだけ息が苦しくなりました」

「……」

「でも、それはきっとハンナさんを応援したいからだと思いました。友達だから、当然だと思いました。そういう形なら、分かりやすかったんです」

 

 橘は、ウサギの駒を胸に抱いた。

 

「でも、違ったんですね」

「ああ」

「私、大鐘さんを誰かに譲りたくなかったんですね」

 

 その言葉は、とても小さかった。けれど、教室の中にはっきり響いた。橘は顔を上げる。

 橙色の瞳には、まだ戸惑いが残っている。

 それでも、その奥に確かに波が立っていた。

 

「私は、これからもたくさん間違えると思います」

「知ってるよ」

「そこは少しくらい否定してください」

 

 橘は、ほんの少しだけ笑った。

 今度は、いつもの仮面のような笑顔ではなかった。不格好で、頼りなくて、でも確かに温かい笑顔だった。

 

「責任、取ってくださいね」

「責任?」

「はい」

 

 橘はウサギの駒を机に戻し、一歩、俺へ近づいた。

 

「シェリーちゃんは、人生最大の未解決事件を発見しました」

「何だよ、その事件」

「大鐘さんのせいで、胸が苦しい事件です」

 

 俺は思わず息を吐くように笑った。

 

「現行犯逮捕、ですね」

 

 橘はそう言って、俺の前に立った。

 そして、いつものように強引に手を掴むのではなく、少しためらうように、自分の手を差し出してきた。

 白くて細い手。人を簡単に押さえつけられるほど強い手。でも今は、こちらの返事を待っている手。

 俺はその手を取った。壊されるとは思わなかった。食べられるとも思わなかった。

 ただ、温かい。

 

「その事件なら、最後まで付き合うよ」

 

 俺はその手を見下ろし、強く握り返した。

 

 

 

 

 

 







 シェリーちゃん攻略にはハンナアシストと懇願が有効だと攻略サイトに書いてありました。

 デレるシェリーちゃんが全くイメージできなかったので好き好きゴリ押しで付き合ってもらう感じのルートになりました。微デレシェリーちゃんを後日談で書ければいいなって感じです。シェリールート、とても難しかったです。ありがとうございました




 ここからは報告になります
 突然ですが、本作品はシェリールートで完結とさせていただきます。
 ヒロちゃんやアリサのルートは成人向けで書きたいからです。誠にごつです


 完結状態になりますが、後日談や各話の間に挟まれる追加エピソードなんかはちょくちょく更新していきたいと思います。
 それともうちょい出番増やしたかったキャラたちがメインの番外編も出したいなって感じです。メルル、肩温めといて




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