まのこい天秤   作:雪無い

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 いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシくれると嬉しいです。



 ナノカルート追加エピソードがあるのでそちらを先に読んでからお願いします




後日談
ナノカ√後日談


 

 

 四月。

 校庭の桜は、まだかろうじて枝に花を残していた。薄い花びらが風に揺れ、窓の外を淡く流れていく。春らしい陽気に包まれた校舎は、どこか浮き足立っていて、廊下を歩く生徒たちの声も、いつもより少しだけ明るい。

 

 けれど、魔法少女たちのクラスに大きな変化はない。

 クラス替えもなく、昨年までと同じ教室で、昨年までと同じ顔ぶれが、新しい学年の一日目を過ごしている。

 

 そんな昼休み。

 黒部ナノカと沢渡ココは、窓際の席で向かい合って昼食を取っていた。

 ナノカは小さな弁当箱を静かに開き、ココは購買で買ったパンのを片手で食べながら、もう片方の手でスマートフォンを操作している。

 

「ナノカ、この記事見た?」

 

 ココが画面をこちらへ向ける。

 ナノカは箸を止め、表示された記事の見出しに目を落とした。

 

「ええ、見たわ」

 

 それは、大手の新聞社でも、全国ニュースでもなかった。地方の高校野球を追いかけている小さなスポーツサイトの記事だ。

 

 見出しには、少し大げさな文字でこう書かれていた。

 

『怪物スラッガー、再始動』

 

 記事の内容は、かつて注目されながらも表舞台から姿を消していた大鐘ヒカリが、二年生になるのを機に強豪校へ転校し、野球を本格的に再開するというものだった。

 

 ただし、彼が野球を離れるきっかけになった出来事については、ほとんど書かれていない。事件のことも、学校で何があったのかも、そこには触れられていなかった。

 

 ただ、消えた選手が戻ってきた。記事は、それだけを静かに伝えている。

 

「再開しただけで記事になるとか、どんだけだよって感じ」

 

 ココは半分呆れたように笑った。

 

「小さな記事がひとつだけだから、記者が追いかけてたんだと思うわ」

「オタクのファンはオタク」

 

 ココは妙に納得したように頷く。ナノカは否定も肯定もせず、弁当の卵焼きを一口食べた。

 

「てかさ」

 

 ココはパンをかじりながら、少しだけ声を落とした。

 

「まじで良かったん?オーガ転校させて」

 

 軽い調子の言葉だった。

 けれど、その横顔にはほんの少し寂しさが見えた。大鐘ヒカリという存在がこの学校からいなくなったことを、ココも寂しがっているのだろう。

 

 ナノカは箸を置いた。

 窓から入る春の光が、その横顔を柔らかく照らしている。表情はいつも通り静かだが、以前よりもずっと迷いがない。

 

「ええ。私が勧めたことだから」

 

 大鐘ヒカリは、野球を本格的に再開した。

 最初、彼はこの学校で続けると言った。この場所で、今の友人たちと一緒にいながら、できる範囲で野球へ戻るつもりだった。

 けれど、ナノカは反対した。

 やるなら、本気でやれる場所がいい。もう一度選ぶなら、彼自身が一番強くなれる場所を選んでほしい。そう伝えた。

 その結果、ヒカリはこの地域一番の強豪校へ転校することになった。

 

 それが、二年生になる春のことだった。

 

「付き合ったばっかりっしょ。寂しくないん?」

「寂しいわ」

「即答かよ」

 

 ココは思わずパンを持ったまま固まった。

 ナノカは少しも取り繕わなかった。寂しくないふりも、平気なふりもしない。ただ当然のことのように、自分の気持ちを認めている。

 その上で、彼女は静かに続けた。

 

「近いから、いつでも会えるわ。試合も見に行ける」

 

 ナノカの声は穏やかだった。

 誰かを引き止めるためではなく、誰かの背中を押したあとに残る、確かな寂しさと誇らしさ。

 その両方を抱えている声だった。

 

 ココはしばらくナノカを見つめ、それから小さく笑った。

 

「ナノカ、ちょっと変わった」

「そうかしら」

「変わった変わった。前より何か、こう……ちゃんと彼女って感じ」

「そう」

「否定しないし」

 

 ココは楽しそうに笑う。

 

「てか、あてぃしも試合見たい。野球あんまり興味無いけど、オーガが打つとこ好きだし」

 

 ナノカは少し考えるように目を伏せた。

 

「バックスクリーンにココちゃんの顔を映せば、千里眼が発動していつでも観られるわ」

「どんだけ金かかるんだよ!」

 

 ココは即座にツッコんだ。だが、次の瞬間には真顔になる。

 

「いやでも、超有名配信者になればワンチャン……?」

「あると思うわ」

「あるんかい」

 

 そんなふうに、二人が平和に会話していた時だった。

 

「沢渡、後ろちょっと通るぞ」

 

 低めの声がして、ココが振り返る。

 そこにいたのは、紫藤アリサだった。

 肩には、細長いケース。荒っぽく崩した制服に鋭い目つきは以前と同じなのに、その姿は今までとは少し違って見える。

 

「アリサじゃん、今から練習?ソフトボールつってたっけ」

「あぁ」

 

 アリサは短く答えた。

 年明けから、彼女はソフトボール部に入部していた。

 以前は授業すらサボりがちだった彼女が、部活へ向かう。そんな姿はなかなか想像しづらく、エマたちは特に驚いていた。

 もっとも、本人はその反応にかなり不機嫌そうだったが。

 

「ヤンキーがスポ根とか、いつの時代だよって感じじゃん」

「わりいかよ」

「悪いとは言ってないし」

「顔が言ってんだよ」

 

 言い合いながらも、そこに棘はなかった。

 以前ならぶつかっていたかもしれない言葉が、今はただのじゃれ合いになっている。

 ナノカは、その二人を見てから、静かに言った。

 

「素敵だと思うわ」

 

 アリサが、少しだけ目を見開いた。

 

「……そうかよ」

 

 そう言って顔を逸らす。

 だが、その耳の先がほんの少し赤いことに、ココは気づいたらしい。にやにやと口元を歪める。

 

「照れてんじゃん」

「照れてねぇ」

 

 アリサは吐き捨てるように言い、バットケースを担ぎ直して教室を出ていった。

 その背中を見送ってから、ココは再びナノカへ向き直る。

 

「ナノカはやんないの?この前、投げるの頑張ってたっしょ」

「私は構わないわ」

 

 ナノカは、窓の外へ視線を向けた。

 桜の花びらが一枚、風に乗って校庭へ落ちていく。

 その横顔は、静かだった。けれど、どこか誇らしげでもあった。

 

「私は、彼だけのピッチャーだから」

 

 ココは数秒黙った。それから、心底嫌そうに顔をしかめる。

 

「うげえ、あまっ」

 

 そう言って、手元の紙パックのコーヒーを勢いよく飲んだ。

 

「ブラックで中和しよ。甘すぎ」

 

 ナノカは、その様子を見てほんの少しだけ微笑んだ。それから、机の端に置いていたスマートフォンを手に取る。

 画面を開き、短い文章を打ち込む。送信ボタンを押す指先は、迷わなかった。

 

 窓の外では、春の風がまた一つ、桜の花びらを運んでいく。

 新しい日常が、静かに始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 転校初日というものは、何度経験しても慣れない。

 朝の自己紹介。教室に入った瞬間に集まる視線。黒板に書かれた自分の名前。まだ他人の席でしかない机と椅子。

 

 しかし、前に転校した時は、学期の途中だった。あの時はクラスの空気がすでに出来上がっていて、そこに無理やり一人だけ差し込まれるような感覚があった。

 それに比べれば、今回はまだやりやすい方だ。

 新年度。新しい学年。周りの生徒たちも、クラスメイトの名前や顔を覚えるのに忙しい。俺だけが完全な異物というわけではない。しかしそれでも、慣れないものは慣れない。

 

 昼休み。

 俺は職員室で必要な書類の確認を終え、教室へ戻るところだった。校舎の造りは朝のうちにひと通り聞いていたが、まだ頭に入っているとは言いがたい。

 

 階段の位置。職員室から教室までの道順。窓から見えるグラウンドの広さ。廊下に漂う、新しい学校特有の空気。

 

 この場所で、俺はもう一度野球を始める。その事実が、まだどこか現実味を持たなかった。

 考え事をしながら廊下の角を曲がった、その時だった。

 

 軽い衝撃が、胸元にぶつかった。

 

「わっ!」

 

 小さな声。すぐに、人とぶつかったのだと気づく。

 相手の身体が後ろへ傾く。俺は反射的に手を伸ばし、その肩と背中を支えた。

 

「すみません、大丈夫ですか」

 

 腕の中にいたのは、一人の少女だった。

 淡い銀色の髪が、ふわりと揺れている。黒いリボンがその髪に映えていて、整った顔立ちは涼しげだった。肌は白く、目元には見覚えのある静けさがある。

 

 ただし今、その瞳は驚きで大きく開かれていた。

 

「大丈夫……って!」

 

 少女が俺の顔を見上げた瞬間、声を跳ねさせる。

 

「あっ」

 

 俺も、そこで気づいた。

 以前、ショッピングモールで会った。黒部ナノカの姉。

 

 黒部ホノカ。俺たちは数秒、顔を見合わせた。

 

「ひ、ヒカリくん!?」

「お姉さん……」

「だから君のお姉さんじゃありません!」

 

 お姉さんの声が、昼休みの廊下に響いた。

 近くを歩いていた生徒が何人か、こちらを振り返る。お姉さんはそれに構わず、俺の腕の中でびしっと胸を張った。

 

「まだヒカリくんをなのちゃんの彼氏と認めたわけじゃないんだから!お姉ちゃんと呼ぶのは早いですから!」

 

 腕の中で吠えるお姉さん。

 こうして見ると、やっぱりナノカとはかなり違う。表情はよく動くし、声も大きい。

 けれど、目元の形や、感情が揺れた時に少しだけ視線を逸らすところは、どこか似ている。

 

 ナノカが大切にしている姉だ。できれば、仲良くしたい。

 

「じゃあ、ホノカ」

「はうっ!」

 

 ホノカが奇妙な声を漏らした。

 さっきまで俺を指差していた手が、今度は自分の顔を隠す。耳まで一気に赤くなっている。

 とりあえず、俺は彼女から手を離した。

 

「年下の男の子に呼び捨てにされるのってなんか……じゃなくて!」

 

 ホノカは両手をぶんぶん振ってから、改めて俺を指差した。

 

「どうして君がこの学校にいるの!?なのちゃんと同じ所だったでしょ!」

「転校してきました」

「転校!?」

 

 ホノカの目がさらに大きくなる。

 

「お姉ちゃん、なのちゃんから何も聞いてないよ!?」

「俺も何も聞いていません」

「彼氏なのに!?」

「はい」

「なんでそんなに落ち着いてるの!?」

 

 いや、落ち着いているわけではない。俺も今、かなり混乱している。

 ナノカの姉がこの学校にいるなんて、まったく聞いていなかった。ショッピングモールで一度会って以来、機会があればまた挨拶することもあるだろうとは思っていたが、まさか転校初日の昼休みに廊下でぶつかるとは思わない。

 

 その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 画面を見る。ナノカからだった。

 

『伝え忘れ』

『お姉ちゃんがそっちの学校にいるから、困ったことがあれば頼るといいわ』

 

 俺はしばらく画面を見つめた。伝え忘れるな、そんなこと。

 心の中でそう突っ込みながらも、指は自然に返信を打っていた。

 

『ありがとう』

 

 送信してから、俺は顔を上げる。

 ホノカはまだ、信じられないものを見る目で俺を見ていた。

 

「なのちゃん……そんな大事なこと、お姉ちゃんに言い忘れる……?」

「ナノカらしいと言えば、ナノカらしいですね」

「彼氏の余裕みたいな顔しないで!」

「してましたか」

「してた!」

 

 ホノカはまた顔を赤くして、胸元のリボンをぎゅっと握った。

 

「それで」

 

 ホノカはようやく少し落ち着いたらしく、胸元のリボンから手を離した。

 ただし、目つきはまだ鋭い。俺を逃がすまいとするように、廊下の真ん中でじっと見上げてくる。

 

「どうして転校してきたの?」

「野球をしに来ました」

 

 俺が答えると、ホノカの表情が一瞬だけ止まった。

 

「野球……」

「はい」

「それは、なのちゃんより大事なこと?」

 

 その声は、さっきまでの騒がしいものとは少し違っていた。

 責めている、というより確かめている。ナノカの姉として、どうしても聞いておかなければいけないことを、真正面から聞いている声だった。

 

 だから、俺もごまかさなかった。

 

「ナノカに言われました」

「……なのちゃんに?」

「はい。野球を大事にしてほしいって」

 

 ホノカの瞳が揺れる。俺は言葉を選びながら続けた。

 

「最初は、前の学校に残るつもりでした。ナノカとも、みんなとも同じ場所にいたかったので。でも、ナノカに反対されました。やるなら、本気でやれる場所がいい。俺がもう一度野球を選ぶなら、ちゃんとその場所へ行ってほしいって」

「……なのちゃんが、そんなことを」

「はい」

 

 思い出す。あの時のナノカは、静かだった。寂しくないはずがないのに、俺を引き止めようとはしなかった。むしろ、俺が逃げ道を選ぼうとすることを許さなかった。

 彼女は俺の背中を押した。俺がもう一度、自分の足で野球の場所へ戻れるように。

 

「だから来ました」

 

 俺はホノカを見る。

 

「ナノカを置いてきたんじゃありません。ナノカに送り出してもらって、ここに来ました」

 

 ホノカは何も言わなかった。

 ただ、少しだけ唇を噛む。その顔を見ていると、ショッピングモールで会った時のことを思い出した。ナノカが「もう守られてばかりじゃない」と言った時、ホノカは泣きそうな顔をしていた。

 

 今も、きっと似たような顔をしている。

 

 ナノカが、自分の知らないところで変わっている。それが嬉しくて、寂しくて、少し悔しいのだろう。

 

「……そう」

 

 ホノカは小さく呟いた。

 それからすぐに、はっとしたように顔を上げる。

 

「でも!」

 

 再び、びしっと俺を指差した。

 

「それとこれとは別だから!」

「別ですか」

「別です!なのちゃんが君を送り出したからって、私がヒカリくんを認めたことにはなりません!」

「なるほど」

「納得しないで!」

 

 ホノカは頬を膨らませた。

 その仕草は年上らしいというより、どこかナノカとは別方向に子供っぽい。けれど、その目は真剣だった。

 

「だいたい、君は自覚あるの?」

「何のですか」

「転校初日から、上の学年でも噂になってるんだからね」

「噂?」

「かっこいい転校生が来たって」

 

 ホノカは言ってから、自分で少し赤くなった。

 

「……いや、私はそう思ってるわけじゃなくて!そういう噂があるって話!」

 

 言われてみれば、朝から妙に視線を感じていた気はする。

 

「だから」

 

 ホノカは一歩近づいてきた。

 淡い銀色の髪が、昼休みの光を受けて柔らかく揺れる。見た目だけなら落ち着いた美少女なのに、表情はやたらと真剣で、忙しない。

 

「私が監視します」

「監視」

「そう。監視」

 

 ホノカは胸を張った。

 

「君がなのちゃんに相応しい男の子かとか、変な女の子にふらふらしないか。なのちゃんを泣かせないか。全部、お姉ちゃんが見定めるから」

「浮気の心配までされるんですね」

「当然でしょ!かっこいい転校生なんて、危険要素の塊なんだから!」

「俺はナノカ以外を見るつもりはありません」

 

 そう答えると、ホノカは固まった。

 数秒。本当に、廊下の真ん中でぴたりと固まった。

 

「……そういうところ」

「え?」

「そういうところが危険って言ってるの!」

 

 ホノカは顔を赤くして、また俺を指差した。

 

「真顔でそういうこと言わない!年下の男の子なのに!なのちゃんの彼氏なのに!」

「すみません」

「謝ればいいと思ってるところも危険!」

 

 どうすればいいんだ。俺が少し困っていると、ホノカは咳払いを一つした。

 

「とにかく。今日から君は要監視対象です。私は今日から看守です」

「分かりました」

「だからなんで受け入れるの!?」

「お姉さんなら、心配するのは当然だと思うので」

「だからお姉さんじゃありません!」

「ホノカ」

「はうっ!」

 

 また顔を隠された。

 呼び方の正解が分からない。ホノカは指の隙間からこちらを睨み、それから真っ赤な顔のまま言った。

 

「……とにかく、昼休みが終わるまでに教室戻るようにね。初日から迷子になってたら、なのちゃんに言いつけるから」

「ありがとうございます。助かります」

「礼儀正しくしないで」

 

 そう言いながらも、ホノカは俺の教室のある方を指差してくれた。

 

「そっち。階段の手前を右」

「分かりました」

 

 俺は軽く頭を下げる。

 

「また何かあったら頼らせてもらいます、ホノカ」

「はうっ!だからぁ……!」

 

 ホノカはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。

 少しだけ視線を逸らし、頬を赤くしたまま、ぼそりと呟く。

 

「……困ったことがあったら、少しくらいは聞いてあげる」

「はい。ありがとうございます」

「だからお礼も素直に言わない!」

 

 ホノカの声がまた廊下に響く。俺はもう一度頭を下げて、教室へ向かって歩き出した。

 背中に、彼女の視線を感じる。監視される、というのはあまり落ち着かない。けれど、不思議と嫌ではなかった。

 ナノカが大切にしている姉。そして、ナノカを大切に思っている姉。

 その人に見られているなら、下手なことはできない。

 そう思いながら角を曲がる直前、ホノカの小さな声が聞こえた。

 

「なのちゃん、先に教えておいてよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 初めて足を踏み入れたグラウンドは、思っていたよりも広く感じた。

 

 整えられた土。白く引かれたライン。フェンスの向こうに沈みかけた春の太陽。

 そして、こちらを見る野球部員たちの視線。

 

 俺は帽子を取り、背筋を伸ばした。

 

「今日からお世話になります!二年の大鐘ヒカリです!」

 

 腹の底から声を出す。

 その声は、自分でも驚くほどよく通った。

 

「ポジションは捕手ですが、チームの力になれるならどこでも!よろしくお願いします!」

 

 頭を下げる。

 拍手と、いくつかのざわめきが聞こえた。

 「見たことある」と、そんな言葉が、どこかで囁かれている

 けれど、今の俺はそこだけを見ない。自分がどう見られているか。自分が傷つかないためにどう振る舞うか。そんなことばかり見ていた頃とは違う。

 

 守るべきものを見失わない。信じるべき相手を、勝手に置き去りにしない。

 ナノカが俺をここへ送り出してくれた。なら俺は、ここでちゃんと野球をする。

 

 そう心の中で誓い、俺はもう一度グラウンドへ頭を下げた。

 

   

 

 

 

 初日の練習は、体力確認と基礎メニューが中心だった。

 練習を終える頃には、身体のあちこちが懐かしい重さを訴えていた。けれど、不思議と嫌な疲れではない。むしろ、ようやく戻ってきたのだと実感するような疲労だった。

 

 校門へ向かう途中、俺は見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 

「ホノカ」

「はうっ!?」

 

 黒部ホノカは、反射的に肩を跳ねさせて振り返った。

 

「だ、だから!呼び捨てはまだ早いって言ってるでしょ!」

「すみません。帰るところですか?」

「そうだけど……」

「送ります」

「なんで!?」

「迷わないように」

「私、ここの生徒なんだけど!?君より慣れてるんだけど!?」

 

 ホノカはぷいっと顔を背けたが、拒否はしなかった。

 俺たちは並んで、夕方の道を歩き出す。

 春の風は少し冷たい。練習後の熱を持った身体には、ちょうどよかった。

 

「初日から、結構ちゃんとしてたね」

 

 しばらく歩いたあと、ホノカがぽつりと言った。

 

「本当に監視してたんですか」

「してました。宣言したし」

「ありがとうございます」

「なんで嫌がらないの……」

 

 ホノカは呆れたようにため息をつく。

 俺は少し考えてから、歩調を緩めた。

 

「ホノカ」

「……どうしたの?」

「自分が今ここにいられるのは、ホノカのおかげだと思います」

「え……?」

 

 ホノカが足を止める。俺も立ち止まり、彼女を見る。

 

「俺は、ナノカに言われたんです。野球を大事にしてほしいって」

「それは、さっき聞いたけど……」

「ナノカがそう言ってくれたのは、きっと、ホノカがずっとナノカを大事にしてきたからだと思うんです」

 

 ホノカの瞳が揺れた。

 

「大切な人を守りたいとか、ちゃんと送り出したいとか。自分が寂しくても、人のためを想える。そういう気持ちを、ナノカは、ホノカからもらったんだと思います」

 

 きっと、そういう強さは一人では手に入らない。

 

「だから、ありがとうございます」

 

 俺は頭を下げた。

 

「ナノカを大事にしてくれて。俺をここに来させてくれるような人になるまでナノカ守ってくれて、ありがとうございます」

 

 ホノカは、何も言わなかった。

 

 顔を上げると、彼女は真っ赤になっていた。耳まで赤い。目は泳いでいる。

 胸元のリボンを握る指が、明らかに落ち着きを失っていた。

 

「ホノカ?」

「だ、ダメ!」

「え?」

「そういうのダメ!真正面から言わないで!」

 

 ホノカは一歩後ずさる。

 

「でも、本当に思っていて」

「追撃もダメ!」

 

 次の瞬間、ホノカは鞄を抱えて走り出した。

 

「先に帰る!今日はここまで!監視終了!」

「あ、気をつけて」

「もう!」

 

 叫びながら、ホノカは夕暮れの道を駆けていく。

 俺はその背中を見送りながら、首を傾げた。

 

    

 

 

 

 

 

 角を曲がったところで、黒部ホノカは立ち止まった。

 

「ど、どうしようなのちゃん!?」

 

 胸を押さえ、息を整える。夕焼けに照らされた顔は、まだ真っ赤だった。

 

「なのちゃんの彼氏なのに……!」

 

 妹の恋人で見定めるべき相手で監視対象。

 そのはずなのに。ホノカは両手で顔を覆い、その場で小さくしゃがみ込んだ。

 

「お姉ちゃん、どうすればいいの……!?」

 

 春の夕暮れに、妹思いの姉の情けない悲鳴が、誰にも聞かれず消えていった。

 

 

 

 

 

 

 






 続きません。なのちゃんに変身して……みたいな展開はありません。
 俺たちの戦いはこれからだって感じの後日談が好きなので書きました。あと非攻略ヒロインがチョロいと嬉しい。わかりますかこの気持ち。めちゃわかる



 ここからは報告です
 エマ√の後日談は成人向けになります。明日の夜投稿予定です。興味のある方は是非読んでみてください。めちゃくちゃ長いです。誠にごつです

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