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放課後の廊下には、冬の名残がまだ薄く残っていた。
窓の外に見える空は、少しずつ春に近づいている。けれど、ガラス越しに差し込む光はまだ淡く、廊下の空気もどこか冷たい。校庭の隅に残った雪のかけらが、夕方の光を受けて小さく溶けている。
もうすぐ冬が終わる。そう思わせる、静かな放課後だった。
俺は目的の教室の前まで来て、少しだけ足を止めた。
「大鐘くん?」
入ろうとしたところ、教室の扉から出てきた桜羽エマと橘シェリーに声をかけられた
桜羽はいつものように柔らかく笑い、橘は虫眼鏡こそ持っていないものの、何か面白いものを見つけたような顔をしている。
「ボクたちに用事?」
「もしかして、新たな事件ですか?」
「事件じゃない」
俺は首を横に振る。
「今日はアンアンに会いに来た」
その瞬間、二人の動きが止まった。
「アンアンちゃんに?」
桜羽が目を丸くする。橘はすぐに口元へ手を当て、探偵めいた顔になった。
「これは事件ですね」
「だから事件にするな」
「大鐘さんが、放課後に、わざわざ、別クラスの白髪無口系で小柄な少女を訪ねてきた。証言としては十分です」
「強調するな」
橘が楽しそうに笑う。桜羽もにこにことしているが、その目には明らかに好奇心が浮かんでいた。
「アンアンちゃんと、いつの間に仲良くなったの?」
「図書館で何度か会った」
「それだけで教室まで迎えに来るかなぁ」
「迎えっていうか、何か相談があるって聞いてたから」
そう説明したところで、教室の中から小さな白い影が動いた。
夏目アンアンだった。
白く長い髪。身体に合っていないブカブカの制服。袖に隠れた両手。
眠たげな青紫色の目をした彼女は、こちらを見るなり、席から立ち上がった。
そして、スタスタと歩いてくる。
足音はほとんどしない。相変わらず図書館の空気をそのまま連れてきたような少女だった。
アンアンは俺の前まで来ると、何も言わずに、ぴとりと俺のそばに立った。
近い。いや、近いことにはもう慣れてきた。
アンアンは会話の距離も、立つ距離も、妙に独特だ。本人に悪気はないらしいので、最近はそういうものだと思うことにしている。
だが、桜羽は違った。
「アンアンちゃんが懐いてる!?」
桜羽が本気で驚いた声を出した。
その言葉に、アンアンがゆっくりと顔を向ける。
眠たげな目。けれど、明らかに嫌そうだった。
アンアンはスケッチブックを開き、さらさらと書く。
『懐いていない』
桜羽が少し慌てる。
「あ、ごめんね。嫌だった?」
アンアンはさらに書いた。
『猫ではない』
「猫扱いが嫌だったんだ……」
橘が楽しそうに身を乗り出す。
「では、お姫様と従者ですか?」
『従者でもない』
「では何でしょう?」
アンアンは少しだけ考えた。
それから、スケッチブックをこちらへ向ける。
『ヒカリは着想役』
「着想役?」
俺が読むと、アンアンはこくりと頷いた。桜羽が首を傾げる。
「着想役って、どういうこと?」
「俺にも分からない」
『物語を書くために必要なもの』
「なるほど。大鐘さんは資料ということですね」
『概ね正しい』
「正しいのか」
アンアンは満足そうにスケッチブックを閉じた。
そのまま、俺の制服の裾を袖越しにつまむ。
表情は相変わらず眠たげなのに、行動だけは妙に迷いがない。
桜羽が、何とも言えない顔で俺たちを見た。
「……兄妹みたいだね」
アンアンの眉が、ほんの少しだけ動いた。すぐにスケッチブックを開く。
『兄妹ではない』
「そうだな」
俺がそう答えると、アンアンは無言でこちらを見上げた。何か間違えただろうか。橘が口元を押さえて笑っている。
「大鐘さん、そういうところですよ」
「どういうところだ」
「説明すると面白くなくなるので、黙秘します」
アンアンはしばらく俺を見ていたが、やがてふいと視線を逸らした。それから、スケッチブックに新しい文字を書く。
『わがはいは疲れた』
そう書いてから、アンアンは両腕を広げた。
ブカブカの袖が、だらりと垂れる。まるで抱き上げられるのを待つ猫のようだった。
「猫じゃなかったのか」
『猫ではない』
「じゃあ歩けるだろ」
『疲れた』
「教室から廊下までしか歩いてないぞ」
『長旅だった』
とはいえ、このまま廊下で押し問答をしていても仕方がない。
俺はため息をつき、アンアンの脇に手を入れて、軽く持ち上げた。体重は驚くほど軽い。猫を抱えるように、胸の前で安定させる。
アンアンは抵抗しなかった。むしろ当然のように収まり、袖に隠れた手でスケッチブックを抱えている。
桜羽が両手を口元に当てた。
「本当に猫みたい……」
『猫ではない』
「その状態で主張しても説得力がありませんね」
「どうやって書いたんだ今」
橘が笑う。
アンアンは少しだけ不満そうに目を細めたが、降りる気はないらしい。
「図書室でいいんだよな?」
俺が聞くと、アンアンはこくりと頷いた。
『行くぞ、ヒカリ』
「だからどうやって書いたんだ」
俺はアンアンを抱え直し、廊下を歩き出した。
背後で、桜羽と橘が何かをひそひそ話している。
「やっぱり兄妹にしか見えないよね……」
「いいえ。あれは、小さなお姫様が専用の乗り物を手に入れた姿です」
「違うぞ」
俺が振り返らずに言うと、橘の笑い声が廊下に響いた。
腕の中のアンアンは、眠たげな顔のまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
図書室に着くと、アンアンは当然のように俺の腕から降りた。
さっきまで疲れたと言っていたくせに、床へ降りた途端、何事もなかったようにスタスタと歩いていく。
向かった先は、いつもの俺たちが座っている窓際の席だった。
冬の終わりの図書室は、少しだけ明るい。
窓の外では、校庭の隅に残っていた雪がほとんど溶けていた。日差しはまだ弱いが、冷たさの奥に、ほんの少しだけ春の匂いが混ざっている。
アンアンは席に着くと、スケッチブックではなく、鞄から一冊のノートを取り出した。
表紙は黒。角が少し丸くなっていて、何度も開かれているのが分かる。
「それが相談か?」
俺が向かいの席に座ると、アンアンはこくりと頷いた。
そして、ノートをこちらへ差し出す。読んでいい、ということらしい。
「見るぞ」
確認すると、アンアンはもう一度頷いた。
俺は慎重に表紙を開く。そこには、細く整った文字が並んでいた。最初は、ただのメモかと思った。だが、数行読んで分かる。
これは小説だ。
冬の街。白い息。誰かを待つ少女。少し遅れてやってくる少年。
淡々としているのに、情景がすっと浮かぶ文章だった。言葉数は多くない。けれど、一文一文が静かで、冷たい空気の中に小さな灯りを置くような書き方をしている。
「……恋愛」
思わずそう言うと、アンアンが袖で隠れた手を少しだけ動かした。
表情は眠たげなままだが、白い髪の隙間から見える耳が、ほんの少し赤い。
ノートは一つの物語だけではなかった。ページをめくると、別の話が始まる。
まためくると、さらに別の話。
雨の日に傘を忘れた少年と、無言で半分だけ傘を差し出す少女。
図書室で同じ本に手を伸ばす二人。
屋上で星を見上げながら、言えない言葉を抱えている少女。
どれも、恋愛小説だった。
けれど、どれも途中で止まっている。
告白の直前や、手を伸ばす直前。幸せを願う直前。
そこから先が、ぽっかりと空白になっていた。
「書けないのか」
俺が聞くと、アンアンはスケッチブックを開いた。
『そうだ』
短い文字。けれど、そこに込められた重さは、いつもの尊大な筆談とは少し違って見えた。
「恋愛が分からないからか?」
俺がそう聞くと、アンアンは少しだけ考えた。
それから、スケッチブックに書く。
『それもある』
「俺も分からないな」
『役に立たない』
「悪い」
即答だった。俺は苦笑しながら、もう一度ノートを見る。
文章は綺麗だ。登場人物の気持ちも、少なくとも俺には分かる気がする。何かを言いたい。けれど言えない。近づきたい。けれど近づけない。
そういう距離の描き方が、妙に丁寧だった。
「でも、途中までは書けてるだろ。どこで止まるんだ?」
アンアンはノートの一ページを開き、袖に隠れた指先で一文を示した。
山場のように思えるシーン。そこから先がない。
「ここか」
アンアンは頷く。それから、少し時間をかけてスケッチブックに文字を書いた。
『ここから先が書けない』
「どうして?」
『幸せになってほしいと思う。だが、それを書くと、命令しているように感じる』
俺は、その文字をしばらく見つめた。
「命令」
アンアンは小さく頷く。
『わがはいが書けば、登場人物はその通りに動く』
『わがはいが幸せにすると決めれば、幸せになるしかない』
『それは、わがはいの願いを押しつけているのではないか』
難しいことを考える。そう思った。
俺は小説を書いたことがない。だから、作者が登場人物に対してどういう感覚を持つのかは分からない。アンアンの悩みに、正しい答えを出せる自信もない。
それでも、ノートの中で止まっている登場人物たちを見ていると、少しだけ思うことはあった。
「俺は小説のことは分からないけど」
まず、そう前置きした。アンアンがこちらを見る。
「作者は命令してるっていうより、道を作ってるだけなんじゃないか」
アンアンの目が、わずかに動いた。
『道』
「ああ」
俺はノートの空白を指で示す。
「一本の道を無理やり歩かせるんじゃなくて、こっちへ行く道もある。あっちへ行く道もある。立ち止まる道もある。引き返す道もある」
言いながら、自分でも少し不思議だった。
「そういう道をいくつも作って、その中で彼や彼女がどれを選ぶかを見る、みたいな」
アンアンは何も書かなかった。
ただ、じっと俺を見ている。
「アンアンは無理やり幸せにしてるんじゃなくて、その子たちが幸せになれる場所を探してるんじゃないか」
我ながら、素人っぽい答えだと思う。創作論として正しいのかは分からない。
そもそも、俺は恋愛小説もよく分かっていない。
けれど、アンアンの書いた文章を読んでいると、少なくとも彼女が登場人物を雑に動かしているとは思えなかった。
「幸せになってほしいって思うのは、その人の未来を決めることじゃなくて」
俺は少し言葉を探した。
「その人に、未来があるって信じることなんじゃないか」
図書室の中は静かだった。遠くでページをめくる音がする。
窓の外では、溶けかけた雪の上を風が撫でていた。
アンアンは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりとスケッチブックにペンを走らせる。
『貴様は、小説を書いたことがないのだな』
「無い」
『恋愛も分からないのだな』
「分からないな」
『なのに、もっともらしいことを言う』
「悪い」
俺が素直に謝ると、アンアンは首を横に振った。
そして、次の文字を書く。
『悪くない』
短い言葉だった。
だが、それを見て、少しだけ安心した。
アンアンはノートの空白へ視線を落とす。
袖に隠れた手が、黒い表紙の端をそっと撫でた。
『道を作る』
小さく書かれたその文字は、さっきより少しだけ筆圧が強かった。
「それで書けそうか?」
アンアンは少し考える。
それから、またスケッチブックをこちらへ向けた。
『恋愛が分からない』
「そこに戻るのか」
『重大な問題だ』
「まあ、そうだな。俺も分からない」
『やはり役に立たない』
「なら調べるか」
俺は椅子から立ち上がり、書架の方を見る。
「恋愛小説の書き方とか、創作論とか、そういう本があるかもしれないだろ」
アンアンは俺を見上げた。
眠たげな目の奥に、ほんの少しだけ興味の光が戻っている。
『ヒカリ』
「何だ?」
『高い棚は任せた』
「最初からそのつもりだろ」
アンアンは否定しなかった。
ただ、スケッチブックを閉じると、いつものように静かに立ち上がる。
白い髪が、冬の終わりの光を受けて揺れた。
俺たちは並んで、恋愛小説の書き方を探しに書架へ向かった。
恋愛小説の書き方。そういう棚が図書室にあるのか、正直よく分からなかった。
けれど、探してみると、それらしい本は意外とあった。小説作法、創作入門、物語構成、キャラクターの作り方。背表紙だけを見ても、俺にはどれが恋愛小説に役立つのか判断がつかない。
「恋愛って、分類としてはどこなんだ?」
小声で呟くと、隣のアンアンがスケッチブックを開いた。
『人類には分からない』
「そこまで大きい話か?」
『分かっているなら、これほど本は増えない』
「なるほど」
妙に説得力があった。アンアンは眠たげな目で棚を見上げている。ブカブカの制服の袖に隠れた手で、スケッチブックを抱えたまま、背表紙を一つ一つ追っていた。
その顔は相変わらず無表情に近い。けれど、さっきまでより集中しているのは分かる。
恋愛小説が分からない。幸せを願うことが怖い。物語の登場人物を、自分が命令しているように感じる。
アンアンの言葉を思い返す。
俺には、小説のことは分からない。恋愛のことも分からない。それでも、彼女が真剣に悩んでいることだけは分かった。
「これは?」
俺は一冊の背表紙を指した。
『恋愛描写の作法』
「そのままだな」
『そのままの方が良い』
「取るか?」
アンアンはこくりと頷いた。ただ、本は棚の上から二段目にあった。アンアンでは届かない高さだ。
俺は一歩前へ出て、棚に手を伸ばした。
「これだな」
本の背を指先で押さえ、ゆっくりと引き抜く。
ぎし、と小さな音がした。
古い紙が擦れる音。
棚の奥で何かがずれる音。
けれど、その時の俺は気づかなかった。視線は、目当ての本に向いていた。少し無理に引けば抜ける。そう考えて、もう少し力を入れた。
その瞬間だった。
「──【止まれ!】」
声がした。
聞いたことのない声だった。
細く、けれど不思議なほどはっきりとした声。
次の瞬間、俺の身体は止まった。
止まろうと思ったのではない。危ないと判断したわけでもない。足に力を入れたわけでも、手を引いたわけでもない。反射ですらなかった。
ただ、止まった。
伸ばした右腕。背伸びした足。わずかに前へ傾いた身体。
そのすべてが、見えない糸で空中に縫い止められたみたいに固まった。
「……っ」
息が詰まる。指先に本の背表紙が触れている。そこから手を離そうとした。
離れない。自分の身体なのに、自分の身体ではない。
頭の中で命令する。
だが、身体は一切応じなかった。
まるで、俺の意思だけが身体の外に押し出されて、皮膚の内側に戻れなくなったようだった。ぞわりと、背筋に冷たいものが走る。
その直後。
俺の目の前を、黒い影が落ちた。
どさっ、と重い音。
分厚い本が床に叩きつけられた。場所は、俺の足元のすぐ前。
ほんの少しでも前に出ていたら、頭か肩に当たっていた位置だった。さらに、棚の上で傾いていた数冊が遅れて滑り落ちる。
ばさばさ、と紙の音が続く。
床に散らばる本。舞い上がる埃。古い紙の匂い。
俺はその一部始終を、動けないまま見ていた。避けることもできず、身を縮めることもできず、ただ、目だけで落下を追っていた。
やがて、最後の一冊が床に落ちた。
図書室の静けさが戻る。その瞬間、身体の硬直がほどけた。
「っ……!」
急に足の力が戻って、俺はよろめいた。
背伸びしていた体勢が崩れ、慌てて棚に手をつく。
心臓が遅れて強く鳴った。どくん、どくん、と耳の奥で響く。
俺は右手を握ったり開いたりした。ちゃんと動く。だが、さっきまで動かなかった。
その事実だけが、皮膚の内側にまだ残っていた。
俺はゆっくりと振り返る。アンアンが立っていた。
いつも眠たげな青紫色の目が、今は大きく見開かれていた。その顔から、血の気が引いている。
「アンアン」
名前を呼んでも、彼女は返事をしなかった。いや、できなかったのかもしれない。
アンアンは震える手でスケッチブックを開く。ペン先が紙の上を滑った。
いつもの文字ではない。
線が乱れて、少し潰れている。
『すまない』
そこで一度、ペンが止まった。アンアンは唇をかすかに噛む。俺はその文字を見つめた。
床には、さっき落ちてきた分厚い本が散らばっている。目当てだった桃色の背表紙の本も、いつの間にか床に落ちていた。
その本のすぐ横で、アンアンはスケッチブックを抱えて立っていた。彼女の声が、まだ耳に残っている。
止まれ、というたった三文字。けれど俺の身体は、その言葉に逆らえなかった。
「今のは」
俺は、自分の声が少し低くなっていることに気づいた。
「魔法か」
アンアンは、ゆっくりと頷いた。その動きは、ひどく小さかった。
散らばった本を元に戻したあと、俺たちは一度、窓際の席に戻った。
アンアンはさっきから、俺の顔を見ようとしない。
スケッチブックを胸に抱えて、椅子の上で小さくなっている。
説明は、全部筆談だった。
アンアンの魔法は、簡単に言えば洗脳に近いものらしい。
ただし、何でも好き勝手に命令できるわけではない。
相手がその命令に対して、ある程度納得できること、従ってもおかしくないと思えること、そういう条件があるらしい。いきなり「空を飛べ」と言われても無理らしい。
とにかく、アンアンは自分の声がそういう力を持っているから、普段は喋らない。
スケッチブックで会話するのも、そういうことらしい。
書かれた文字を読み終えると、アンアンはまたページをめくった。
『すまない』
同じ言葉だった。けれど、さっきよりも少しだけ字が小さい。
俺はしばらくその文字を見てから、息を吐いた。
「本に当たらずに済んだのは、アンアンのおかげだ」
アンアンは顔を上げない。
『だが、命令した』
「それは分かってる」
『怖かっただろう』
俺は少し迷った。嘘をつく場面ではないと思った。
「ああ。怖かった」
アンアンの肩が、かすかに揺れた。
俺は続ける。
「でも、助かったのも本当だ」
アンアンは何も書かなかった。ただ、スケッチブックの端をぎゅっと掴んでいる。
「だから、そこは分けて考えたい」
俺は床に置いた本の山を一度見た。
「アンアンの魔法は怖い。けど、アンアンが俺を助けようとしてくれたことまで、怖いものにしたくない」
アンアンは、ゆっくりとペンを動かした。
『貴様は変だ』
「よく言われる」
そう返すと、アンアンはほんの少しだけ目を細めた。
少なくとも、さっきよりは少しだけ、図書室の空気が軽くなった気がした。
しかし、アンアンはまだスケッチブックを胸に抱えたままだった。
白い髪が頬にかかって、表情が見えにくい。
いつもの眠たげな顔に戻ろうとしているのに、指先だけがまだ落ち着かない。
俺はしばらく黙っていた。
何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。
魔法のことも、洗脳のことも、俺には詳しくない。適当なことを言って、アンアンの怖さを軽く扱うべきではないと思った。
けれど、一つだけ、さっきから気になっていることがあった。
「アンアン」
名前を呼ぶと、アンアンが少しだけ顔を上げる。
「無理にとは言わない」
先にそう言った。
アンアンの目が、わずかに細くなる。警戒している目だった。
「でも」
俺は言葉を選びながら続ける。
「もう一度、声を聞かせてほしい」
アンアンの手が止まった。
次の瞬間、ものすごい勢いでスケッチブックに文字が書かれる。
『嫌だ』
予想通りの返事だった。
俺は頷いた。
アンアンは、少しだけ怪訝そうな顔をする。
「そうか」
『貴様は変だ』
アンアンはむっとしたように目を細めた。それから、スケッチブックを胸に引き寄せる。
まるで、自分の声まで隠すみたいに。
俺は小さく息を吐いた。
「俺は、さっきのが怖くなかったわけじゃない」
アンアンは動かない。
「身体が動かなくなるのは、怖かった。自分の身体なのに、自分のものじゃなくなる感じがした」
言葉にすると、さっきの感覚が少し戻ってきた。頭では命令しているのに、身体が応じないあの感じ。
ぞっとしない、と言えば嘘になる。
「でも、アンアンの声を、怖いものとして覚えたくない」
アンアンが、ゆっくりと俺を見る。
「綺麗な声だったから」
そう言った瞬間、アンアンの目がはっきりと揺れた。
「もっと聞きたいんだ」
アンアンは何も書かない。
「命令じゃなくていい」
俺は少し考えてから言った。
「名前を呼ぶだけでもいい」
アンアンの喉が、小さく動いた。けれど、声は出ない。
アンアンはしばらく俺を見ていた。それから、目を伏せる。
アンアンは、スケッチブックを膝の上に置いた。ペンを持ったまま、書かない。
図書室の静けさが、二人の間に落ちる。
遠くで椅子を引く音がした。誰かが小さく咳をする。ページがめくられる。
アンアンは、何度か唇を開きかけた。そのたびに閉じる。喉の奥で、声になる前の息が揺れる。
やがて、アンアンが小さく息を吸った。
「……ヒカリ」
声は、驚くほど小さかった。
さっきの声とは違う。鋭さも、強さもない。ただ、俺の名前だった。
冬の終わりの図書室に、細い糸みたいに落ちた声。
命令ではない。何かを動かすための言葉でもない。
それでも、俺は確かに呼ばれた。
「うん」
俺は静かに返事をした。アンアンはびくりと肩を揺らした。
まるで、自分の声に返事が返ってきたことに驚いているみたいだった。
「ちゃんと聞こえた」
アンアンは、すぐにスケッチブックを持ち上げる。
顔を隠すためだった。白い髪の隙間から見える耳が、さっきより赤い。
俺は少し笑った。
「これで、俺もアンアンに無茶を言った。お互い様だな」
スケッチブックの向こうで、アンアンが固まる。それから、少し時間を置いて、紙の上に文字が現れた。
『貴様は本当に変だ』
「それも三回目だ」
『何度でも言う』
「今度は声で聞きたい」
そう言うと、スケッチブックがぴくりと震えた。
アンアンがじろりとこちらを睨んでいた。
『調子に乗るな』
「悪い」
けれど、スケッチブックの端から覗く口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
しばらくして、アンアンは膝の上に置いていた黒いノートを開いた。
途中で止まっていたページ。
その先の空白を、アンアンはじっと見つめる。
ペン先が紙の上で止まる。
また書けないのかと思った。
けれど、今度は違った。
アンアンはゆっくりと、一文字ずつ書き始めた。
俺は邪魔をしないように、黙って見ていた。細い文字が、空白に続いていく。
アンアンの手が止まる。少し迷ってから、さらに続ける。
書き終えると、アンアンはペンを置いた。
長い長い距離を歩いた後みたいに、小さく息を吐く。
「進んだな」
俺が言うと、アンアンはスケッチブックを開いた。
『少しだけだ』
「少し進めば十分だろ」
アンアンはノートの文字を見る。
その青紫色の目は、まだ不安そうだった。
けれど、さっきよりも少しだけ、先の方を見ているように思えた。
『道を作った』
「ああ」
『命令ではない』
アンアンはその言葉を確かめるように、もう一度ノートを見た。
彼女は少しだけ考える。それから、スケッチブックに小さく書いた。
『ありがとう』
「どういたしまして」
いつもの尊大な字より、少しだけ丸い字だった。
白い髪の隙間から見える耳が、ほんの少し赤い。
「アンアン?」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。
それから、もう一度スケッチブックに書く。
『ヒカリ』
「ん?」
『最初のノート』
「最初の?」
『図書室で会った時のノート』
「ああ」
言われて、俺は鞄の中を探した。まだ残っている。あの日、課題用に持ってきていたノート。
少し角が折れて、表紙には鞄の中でついた擦れ跡がある。
けれど、ページを開けば、あの日の文字はそのままだった。
『どういたしまして』
『大鐘ヒカリ。一年』
それから、俺が右手と左手で同時に書いた二つの名前。
右手で書いた『大鐘ヒカリ』と左手で書いた『夏目アンアン』
二つの名前が、同じページに並んでいる。
あの時の俺にとっては、少し変わった特技を見せただけだった。
けれど、アンアンはそのページをじっと見つめていた。
まるで、そこに何か大切な物語の始まりが残っているみたいに。
「これでいいのか?」
俺がノートを差し出すと、アンアンはこくりと頷いた。
それから、袖に隠れた手でペンを握る。しばらく、動かなかった。
ペン先が紙の上で迷っている。書こうとして、止まる。また少し動いて、止まる。
俺は黙って待った。
やがて、アンアンは小さく息を吸った。
そして、二つの名前の上に、小さな相合傘を描いた。
線は少し震えていた。けれど、傘の下には確かに、俺の名前とアンアンの名前が並んでいる。
描き終えた瞬間、アンアンは固まった。
自分で描いたのに、自分でその意味に気づいたみたいに、みるみる耳まで赤くなる。
それから、彼女はノートを両手で持ち上げた。相合傘が書かれたページで、自分の顔を隠す。
白い髪。赤くなった耳。ノートの端から少しだけ見える青紫色の目。
スケッチブックには何も書かない。
ノートで顔を隠したまま、唇をわずかに開く。
「……これは」
声が落ちた。
小さく、細く、図書室の静けさに溶けてしまいそうな声だった。
けれど、俺にははっきり届いた。
震えていた。迷っていた。それでも、自分の言葉として差し出そうとしている声だった。
アンアンの喉が、小さく鳴る。ノートの向こうで、彼女が息を整える気配がした。
そして、もう一度。
今度は、さっきよりほんの少しだけ強く。
「命令では、ない……」
ノートの上には、初めて出会った日に俺が書いた二つの名前がある。
そこに、アンアンが描き足した小さな傘。俺はそのページを見つめた。
それから、ノートの向こうに隠れた彼女へ答える。
「ああ、わかってる」
アンアンの小さな肩が、ほんの少しだけ揺れた。
冬の終わりの図書室で、アンアンは初めて、自分の物語の続きを俺に見せてくれた。
妹枠ってつまり恋愛対象ってことなんだよね(エロゲ脳)
ラブコメプレイヤーなので洗脳はエッチなことじゃなくてラブコメに使います。ごつ
番外編はこんな感じでくっついたりくっつかなかったり。基本仲良くなるよって感じです
次回は成人向けの方でアリサルートを進めるか、こちらでレイア編を出すかの二択です