まのこい天秤   作:雪無い

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2話『◯◯少女Part2』

 

 放課後の廊下には、冬の名残がまだ薄く残っていた。

 

 窓の外に見える空は、少しずつ春に近づいている。けれど、ガラス越しに差し込む光はまだ淡く、廊下の空気もどこか冷たい。校庭の隅に残った雪のかけらが、夕方の光を受けて小さく溶けている。

 

 もうすぐ冬が終わる。そう思わせる、静かな放課後だった。

 俺は目的の教室の前まで来て、少しだけ足を止めた。

 

「大鐘くん?」

 

 入ろうとしたところ、教室の扉から出てきた桜羽エマと橘シェリーに声をかけられた

 

 桜羽はいつものように柔らかく笑い、橘は虫眼鏡こそ持っていないものの、何か面白いものを見つけたような顔をしている。

 

「ボクたちに用事?」

「もしかして、新たな事件ですか?」

「事件じゃない」

 

 俺は首を横に振る。

 

「今日はアンアンに会いに来た」

 

 その瞬間、二人の動きが止まった。

 

「アンアンちゃんに?」

 

 桜羽が目を丸くする。橘はすぐに口元へ手を当て、探偵めいた顔になった。

 

「これは事件ですね」

「だから事件にするな」

「大鐘さんが、放課後に、わざわざ、別クラスの白髪無口系で小柄な少女を訪ねてきた。証言としては十分です」

「強調するな」

 

 橘が楽しそうに笑う。桜羽もにこにことしているが、その目には明らかに好奇心が浮かんでいた。

 

「アンアンちゃんと、いつの間に仲良くなったの?」

「図書館で何度か会った」

「それだけで教室まで迎えに来るかなぁ」

「迎えっていうか、何か相談があるって聞いてたから」

 

 そう説明したところで、教室の中から小さな白い影が動いた。

 

 夏目アンアンだった。

 白く長い髪。身体に合っていないブカブカの制服。袖に隠れた両手。

 眠たげな青紫色の目をした彼女は、こちらを見るなり、席から立ち上がった。

 そして、スタスタと歩いてくる。

 足音はほとんどしない。相変わらず図書館の空気をそのまま連れてきたような少女だった。

 

 アンアンは俺の前まで来ると、何も言わずに、ぴとりと俺のそばに立った。

 近い。いや、近いことにはもう慣れてきた。

 アンアンは会話の距離も、立つ距離も、妙に独特だ。本人に悪気はないらしいので、最近はそういうものだと思うことにしている。

 

 だが、桜羽は違った。

 

「アンアンちゃんが懐いてる!?」

 

 桜羽が本気で驚いた声を出した。

 その言葉に、アンアンがゆっくりと顔を向ける。

 眠たげな目。けれど、明らかに嫌そうだった。

 アンアンはスケッチブックを開き、さらさらと書く。

 

『懐いていない』

 

 桜羽が少し慌てる。

 

「あ、ごめんね。嫌だった?」

 

 アンアンはさらに書いた。

 

『猫ではない』

「猫扱いが嫌だったんだ……」

 

 橘が楽しそうに身を乗り出す。

 

「では、お姫様と従者ですか?」

『従者でもない』

「では何でしょう?」

 

 アンアンは少しだけ考えた。

 それから、スケッチブックをこちらへ向ける。

 

『ヒカリは着想役』

「着想役?」

 

 俺が読むと、アンアンはこくりと頷いた。桜羽が首を傾げる。

 

「着想役って、どういうこと?」

「俺にも分からない」

『物語を書くために必要なもの』

「なるほど。大鐘さんは資料ということですね」

『概ね正しい』

「正しいのか」

 

 アンアンは満足そうにスケッチブックを閉じた。

 そのまま、俺の制服の裾を袖越しにつまむ。

 表情は相変わらず眠たげなのに、行動だけは妙に迷いがない。

 桜羽が、何とも言えない顔で俺たちを見た。

 

「……兄妹みたいだね」

 

 アンアンの眉が、ほんの少しだけ動いた。すぐにスケッチブックを開く。

 

『兄妹ではない』

「そうだな」

 

 俺がそう答えると、アンアンは無言でこちらを見上げた。何か間違えただろうか。橘が口元を押さえて笑っている。

 

「大鐘さん、そういうところですよ」

「どういうところだ」

「説明すると面白くなくなるので、黙秘します」

 

 アンアンはしばらく俺を見ていたが、やがてふいと視線を逸らした。それから、スケッチブックに新しい文字を書く。

 

『わがはいは疲れた』

 

 そう書いてから、アンアンは両腕を広げた。

 ブカブカの袖が、だらりと垂れる。まるで抱き上げられるのを待つ猫のようだった。

 

「猫じゃなかったのか」

『猫ではない』

「じゃあ歩けるだろ」

『疲れた』

「教室から廊下までしか歩いてないぞ」

『長旅だった』

 

 とはいえ、このまま廊下で押し問答をしていても仕方がない。

 俺はため息をつき、アンアンの脇に手を入れて、軽く持ち上げた。体重は驚くほど軽い。猫を抱えるように、胸の前で安定させる。

 アンアンは抵抗しなかった。むしろ当然のように収まり、袖に隠れた手でスケッチブックを抱えている。

 

 桜羽が両手を口元に当てた。

 

「本当に猫みたい……」

『猫ではない』

「その状態で主張しても説得力がありませんね」

「どうやって書いたんだ今」

 

 橘が笑う。

 アンアンは少しだけ不満そうに目を細めたが、降りる気はないらしい。

 

「図書室でいいんだよな?」

 

 俺が聞くと、アンアンはこくりと頷いた。

 

『行くぞ、ヒカリ』

「だからどうやって書いたんだ」

 

 俺はアンアンを抱え直し、廊下を歩き出した。

 背後で、桜羽と橘が何かをひそひそ話している。

 

「やっぱり兄妹にしか見えないよね……」

「いいえ。あれは、小さなお姫様が専用の乗り物を手に入れた姿です」

「違うぞ」

 

 俺が振り返らずに言うと、橘の笑い声が廊下に響いた。

 腕の中のアンアンは、眠たげな顔のまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。

 

 

 図書室に着くと、アンアンは当然のように俺の腕から降りた。

 さっきまで疲れたと言っていたくせに、床へ降りた途端、何事もなかったようにスタスタと歩いていく。

 向かった先は、いつもの俺たちが座っている窓際の席だった。

 

 冬の終わりの図書室は、少しだけ明るい。

 窓の外では、校庭の隅に残っていた雪がほとんど溶けていた。日差しはまだ弱いが、冷たさの奥に、ほんの少しだけ春の匂いが混ざっている。

 

 アンアンは席に着くと、スケッチブックではなく、鞄から一冊のノートを取り出した。

 表紙は黒。角が少し丸くなっていて、何度も開かれているのが分かる。

 

「それが相談か?」

 

 俺が向かいの席に座ると、アンアンはこくりと頷いた。

 そして、ノートをこちらへ差し出す。読んでいい、ということらしい。

 

「見るぞ」

 

 確認すると、アンアンはもう一度頷いた。

 俺は慎重に表紙を開く。そこには、細く整った文字が並んでいた。最初は、ただのメモかと思った。だが、数行読んで分かる。

 これは小説だ。

 

 冬の街。白い息。誰かを待つ少女。少し遅れてやってくる少年。

 淡々としているのに、情景がすっと浮かぶ文章だった。言葉数は多くない。けれど、一文一文が静かで、冷たい空気の中に小さな灯りを置くような書き方をしている。

 

「……恋愛」

 

 思わずそう言うと、アンアンが袖で隠れた手を少しだけ動かした。

 表情は眠たげなままだが、白い髪の隙間から見える耳が、ほんの少し赤い。

 

 ノートは一つの物語だけではなかった。ページをめくると、別の話が始まる。

 まためくると、さらに別の話。

 

 雨の日に傘を忘れた少年と、無言で半分だけ傘を差し出す少女。

 図書室で同じ本に手を伸ばす二人。

 屋上で星を見上げながら、言えない言葉を抱えている少女。

 どれも、恋愛小説だった。

 けれど、どれも途中で止まっている。

 

 告白の直前や、手を伸ばす直前。幸せを願う直前。

 そこから先が、ぽっかりと空白になっていた。

 

「書けないのか」

 

 俺が聞くと、アンアンはスケッチブックを開いた。

 

『そうだ』

 

 短い文字。けれど、そこに込められた重さは、いつもの尊大な筆談とは少し違って見えた。

 

「恋愛が分からないからか?」

 

 俺がそう聞くと、アンアンは少しだけ考えた。

 それから、スケッチブックに書く。

 

『それもある』

「俺も分からないな」

『役に立たない』

「悪い」

 

 即答だった。俺は苦笑しながら、もう一度ノートを見る。

 文章は綺麗だ。登場人物の気持ちも、少なくとも俺には分かる気がする。何かを言いたい。けれど言えない。近づきたい。けれど近づけない。

 そういう距離の描き方が、妙に丁寧だった。

 

「でも、途中までは書けてるだろ。どこで止まるんだ?」

 

 アンアンはノートの一ページを開き、袖に隠れた指先で一文を示した。

 山場のように思えるシーン。そこから先がない。

 

「ここか」

 

 アンアンは頷く。それから、少し時間をかけてスケッチブックに文字を書いた。

 

『ここから先が書けない』

「どうして?」

『幸せになってほしいと思う。だが、それを書くと、命令しているように感じる』

 

 俺は、その文字をしばらく見つめた。

 

「命令」

 

 アンアンは小さく頷く。

 

『わがはいが書けば、登場人物はその通りに動く』

『わがはいが幸せにすると決めれば、幸せになるしかない』

『それは、わがはいの願いを押しつけているのではないか』

 

 難しいことを考える。そう思った。

 俺は小説を書いたことがない。だから、作者が登場人物に対してどういう感覚を持つのかは分からない。アンアンの悩みに、正しい答えを出せる自信もない。

 それでも、ノートの中で止まっている登場人物たちを見ていると、少しだけ思うことはあった。

 

「俺は小説のことは分からないけど」

 

 まず、そう前置きした。アンアンがこちらを見る。

 

「作者は命令してるっていうより、道を作ってるだけなんじゃないか」

 

 アンアンの目が、わずかに動いた。

 

『道』

「ああ」

 

 俺はノートの空白を指で示す。

 

「一本の道を無理やり歩かせるんじゃなくて、こっちへ行く道もある。あっちへ行く道もある。立ち止まる道もある。引き返す道もある」

 

 言いながら、自分でも少し不思議だった。

 

「そういう道をいくつも作って、その中で彼や彼女がどれを選ぶかを見る、みたいな」

 

 アンアンは何も書かなかった。

 ただ、じっと俺を見ている。

 

「アンアンは無理やり幸せにしてるんじゃなくて、その子たちが幸せになれる場所を探してるんじゃないか」

 

 我ながら、素人っぽい答えだと思う。創作論として正しいのかは分からない。

 そもそも、俺は恋愛小説もよく分かっていない。

 

 けれど、アンアンの書いた文章を読んでいると、少なくとも彼女が登場人物を雑に動かしているとは思えなかった。

 

「幸せになってほしいって思うのは、その人の未来を決めることじゃなくて」

 

 俺は少し言葉を探した。

 

「その人に、未来があるって信じることなんじゃないか」

 

 図書室の中は静かだった。遠くでページをめくる音がする。

 窓の外では、溶けかけた雪の上を風が撫でていた。

 アンアンは、しばらく動かなかった。

 それから、ゆっくりとスケッチブックにペンを走らせる。

 

『貴様は、小説を書いたことがないのだな』

「無い」

『恋愛も分からないのだな』

「分からないな」

『なのに、もっともらしいことを言う』

「悪い」

 

 俺が素直に謝ると、アンアンは首を横に振った。

 そして、次の文字を書く。

 

『悪くない』

 

 短い言葉だった。

 だが、それを見て、少しだけ安心した。

 アンアンはノートの空白へ視線を落とす。

 袖に隠れた手が、黒い表紙の端をそっと撫でた。

 

『道を作る』

 

 小さく書かれたその文字は、さっきより少しだけ筆圧が強かった。

 

「それで書けそうか?」

 

 アンアンは少し考える。

 それから、またスケッチブックをこちらへ向けた。

 

『恋愛が分からない』

「そこに戻るのか」

『重大な問題だ』

「まあ、そうだな。俺も分からない」

『やはり役に立たない』

「なら調べるか」

 

 俺は椅子から立ち上がり、書架の方を見る。

 

「恋愛小説の書き方とか、創作論とか、そういう本があるかもしれないだろ」

 

 アンアンは俺を見上げた。

 眠たげな目の奥に、ほんの少しだけ興味の光が戻っている。

 

『ヒカリ』

「何だ?」

『高い棚は任せた』

「最初からそのつもりだろ」

 

 アンアンは否定しなかった。

 ただ、スケッチブックを閉じると、いつものように静かに立ち上がる。

 白い髪が、冬の終わりの光を受けて揺れた。

 俺たちは並んで、恋愛小説の書き方を探しに書架へ向かった。

 

 

 

 

 恋愛小説の書き方。そういう棚が図書室にあるのか、正直よく分からなかった。

 けれど、探してみると、それらしい本は意外とあった。小説作法、創作入門、物語構成、キャラクターの作り方。背表紙だけを見ても、俺にはどれが恋愛小説に役立つのか判断がつかない。

 

「恋愛って、分類としてはどこなんだ?」

 

 小声で呟くと、隣のアンアンがスケッチブックを開いた。

 

『人類には分からない』

「そこまで大きい話か?」

『分かっているなら、これほど本は増えない』

「なるほど」

 

 妙に説得力があった。アンアンは眠たげな目で棚を見上げている。ブカブカの制服の袖に隠れた手で、スケッチブックを抱えたまま、背表紙を一つ一つ追っていた。

 その顔は相変わらず無表情に近い。けれど、さっきまでより集中しているのは分かる。

 

 恋愛小説が分からない。幸せを願うことが怖い。物語の登場人物を、自分が命令しているように感じる。

 アンアンの言葉を思い返す。

 俺には、小説のことは分からない。恋愛のことも分からない。それでも、彼女が真剣に悩んでいることだけは分かった。

 

「これは?」

 

 俺は一冊の背表紙を指した。

 

『恋愛描写の作法』

「そのままだな」

『そのままの方が良い』

「取るか?」

 

 アンアンはこくりと頷いた。ただ、本は棚の上から二段目にあった。アンアンでは届かない高さだ。

 俺は一歩前へ出て、棚に手を伸ばした。

 

「これだな」

 

 本の背を指先で押さえ、ゆっくりと引き抜く。

 

 ぎし、と小さな音がした。

 古い紙が擦れる音。

 棚の奥で何かがずれる音。

 けれど、その時の俺は気づかなかった。視線は、目当ての本に向いていた。少し無理に引けば抜ける。そう考えて、もう少し力を入れた。

 

 その瞬間だった。

 

「──【止まれ!】」

 

 声がした。

 聞いたことのない声だった。

 細く、けれど不思議なほどはっきりとした声。

 

 次の瞬間、俺の身体は止まった。

 止まろうと思ったのではない。危ないと判断したわけでもない。足に力を入れたわけでも、手を引いたわけでもない。反射ですらなかった。

 ただ、止まった。

 伸ばした右腕。背伸びした足。わずかに前へ傾いた身体。

 そのすべてが、見えない糸で空中に縫い止められたみたいに固まった。

 

「……っ」

 

 息が詰まる。指先に本の背表紙が触れている。そこから手を離そうとした。

 離れない。自分の身体なのに、自分の身体ではない。

 

 頭の中で命令する。

 だが、身体は一切応じなかった。

 

 まるで、俺の意思だけが身体の外に押し出されて、皮膚の内側に戻れなくなったようだった。ぞわりと、背筋に冷たいものが走る。

 その直後。

 俺の目の前を、黒い影が落ちた。

 

 どさっ、と重い音。

 分厚い本が床に叩きつけられた。場所は、俺の足元のすぐ前。

 ほんの少しでも前に出ていたら、頭か肩に当たっていた位置だった。さらに、棚の上で傾いていた数冊が遅れて滑り落ちる。

 ばさばさ、と紙の音が続く。

 床に散らばる本。舞い上がる埃。古い紙の匂い。

 俺はその一部始終を、動けないまま見ていた。避けることもできず、身を縮めることもできず、ただ、目だけで落下を追っていた。

 

 やがて、最後の一冊が床に落ちた。

 図書室の静けさが戻る。その瞬間、身体の硬直がほどけた。

 

「っ……!」

 

 急に足の力が戻って、俺はよろめいた。

 背伸びしていた体勢が崩れ、慌てて棚に手をつく。

 心臓が遅れて強く鳴った。どくん、どくん、と耳の奥で響く。

 俺は右手を握ったり開いたりした。ちゃんと動く。だが、さっきまで動かなかった。

 その事実だけが、皮膚の内側にまだ残っていた。

 

 俺はゆっくりと振り返る。アンアンが立っていた。

 いつも眠たげな青紫色の目が、今は大きく見開かれていた。その顔から、血の気が引いている。

 

「アンアン」

 

 名前を呼んでも、彼女は返事をしなかった。いや、できなかったのかもしれない。

 アンアンは震える手でスケッチブックを開く。ペン先が紙の上を滑った。

 

 いつもの文字ではない。

 線が乱れて、少し潰れている。

 

『すまない』

 

 そこで一度、ペンが止まった。アンアンは唇をかすかに噛む。俺はその文字を見つめた。

 床には、さっき落ちてきた分厚い本が散らばっている。目当てだった桃色の背表紙の本も、いつの間にか床に落ちていた。

 

 その本のすぐ横で、アンアンはスケッチブックを抱えて立っていた。彼女の声が、まだ耳に残っている。

 止まれ、というたった三文字。けれど俺の身体は、その言葉に逆らえなかった。

 

「今のは」

 

 俺は、自分の声が少し低くなっていることに気づいた。

 

「魔法か」

 

 アンアンは、ゆっくりと頷いた。その動きは、ひどく小さかった。

 

 

 

 散らばった本を元に戻したあと、俺たちは一度、窓際の席に戻った。

 アンアンはさっきから、俺の顔を見ようとしない。

 スケッチブックを胸に抱えて、椅子の上で小さくなっている。

 

 説明は、全部筆談だった。

 アンアンの魔法は、簡単に言えば洗脳に近いものらしい。

 ただし、何でも好き勝手に命令できるわけではない。

 相手がその命令に対して、ある程度納得できること、従ってもおかしくないと思えること、そういう条件があるらしい。いきなり「空を飛べ」と言われても無理らしい。

 

 とにかく、アンアンは自分の声がそういう力を持っているから、普段は喋らない。

 スケッチブックで会話するのも、そういうことらしい。

 書かれた文字を読み終えると、アンアンはまたページをめくった。

 

『すまない』

 

 同じ言葉だった。けれど、さっきよりも少しだけ字が小さい。

 俺はしばらくその文字を見てから、息を吐いた。

 

「本に当たらずに済んだのは、アンアンのおかげだ」

 

 アンアンは顔を上げない。

 

『だが、命令した』

「それは分かってる」

『怖かっただろう』

 

 俺は少し迷った。嘘をつく場面ではないと思った。

 

「ああ。怖かった」

 

 アンアンの肩が、かすかに揺れた。

 俺は続ける。

 

「でも、助かったのも本当だ」

 

 アンアンは何も書かなかった。ただ、スケッチブックの端をぎゅっと掴んでいる。

 

「だから、そこは分けて考えたい」

 

 俺は床に置いた本の山を一度見た。

 

「アンアンの魔法は怖い。けど、アンアンが俺を助けようとしてくれたことまで、怖いものにしたくない」

 

 アンアンは、ゆっくりとペンを動かした。

 

『貴様は変だ』

「よく言われる」

 

 そう返すと、アンアンはほんの少しだけ目を細めた。

 少なくとも、さっきよりは少しだけ、図書室の空気が軽くなった気がした。

 

 しかし、アンアンはまだスケッチブックを胸に抱えたままだった。

 白い髪が頬にかかって、表情が見えにくい。

 いつもの眠たげな顔に戻ろうとしているのに、指先だけがまだ落ち着かない。

 

 俺はしばらく黙っていた。

 何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。

 魔法のことも、洗脳のことも、俺には詳しくない。適当なことを言って、アンアンの怖さを軽く扱うべきではないと思った。

 

 けれど、一つだけ、さっきから気になっていることがあった。

 

「アンアン」

 

 名前を呼ぶと、アンアンが少しだけ顔を上げる。

 

「無理にとは言わない」

 

 先にそう言った。

 アンアンの目が、わずかに細くなる。警戒している目だった。

 

「でも」

 

 俺は言葉を選びながら続ける。

 

「もう一度、声を聞かせてほしい」

 

 アンアンの手が止まった。

 次の瞬間、ものすごい勢いでスケッチブックに文字が書かれる。

 

『嫌だ』

 

 予想通りの返事だった。

 俺は頷いた。

 アンアンは、少しだけ怪訝そうな顔をする。

 

「そうか」

『貴様は変だ』

 

 アンアンはむっとしたように目を細めた。それから、スケッチブックを胸に引き寄せる。

 まるで、自分の声まで隠すみたいに。

 俺は小さく息を吐いた。

 

「俺は、さっきのが怖くなかったわけじゃない」

 

 アンアンは動かない。

 

「身体が動かなくなるのは、怖かった。自分の身体なのに、自分のものじゃなくなる感じがした」

 

 言葉にすると、さっきの感覚が少し戻ってきた。頭では命令しているのに、身体が応じないあの感じ。

 ぞっとしない、と言えば嘘になる。

 

「でも、アンアンの声を、怖いものとして覚えたくない」

 

 アンアンが、ゆっくりと俺を見る。

 

「綺麗な声だったから」

 

 そう言った瞬間、アンアンの目がはっきりと揺れた。

 

「もっと聞きたいんだ」

 

 アンアンは何も書かない。

 

「命令じゃなくていい」

 

 俺は少し考えてから言った。

 

「名前を呼ぶだけでもいい」

 

 アンアンの喉が、小さく動いた。けれど、声は出ない。

 アンアンはしばらく俺を見ていた。それから、目を伏せる。

 アンアンは、スケッチブックを膝の上に置いた。ペンを持ったまま、書かない。

 

 図書室の静けさが、二人の間に落ちる。

 遠くで椅子を引く音がした。誰かが小さく咳をする。ページがめくられる。

 アンアンは、何度か唇を開きかけた。そのたびに閉じる。喉の奥で、声になる前の息が揺れる。

 

 やがて、アンアンが小さく息を吸った。

 

「……ヒカリ」

 

 声は、驚くほど小さかった。

 さっきの声とは違う。鋭さも、強さもない。ただ、俺の名前だった。

 

 冬の終わりの図書室に、細い糸みたいに落ちた声。

 命令ではない。何かを動かすための言葉でもない。

 それでも、俺は確かに呼ばれた。

 

「うん」

 

 俺は静かに返事をした。アンアンはびくりと肩を揺らした。

 まるで、自分の声に返事が返ってきたことに驚いているみたいだった。

 

「ちゃんと聞こえた」

 

 アンアンは、すぐにスケッチブックを持ち上げる。

 顔を隠すためだった。白い髪の隙間から見える耳が、さっきより赤い。

 俺は少し笑った。

 

「これで、俺もアンアンに無茶を言った。お互い様だな」

 

 スケッチブックの向こうで、アンアンが固まる。それから、少し時間を置いて、紙の上に文字が現れた。

 

『貴様は本当に変だ』

「それも三回目だ」

『何度でも言う』

「今度は声で聞きたい」

 

 そう言うと、スケッチブックがぴくりと震えた。

 アンアンがじろりとこちらを睨んでいた。

 

『調子に乗るな』

「悪い」

 

 けれど、スケッチブックの端から覗く口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 

 しばらくして、アンアンは膝の上に置いていた黒いノートを開いた。

 

 途中で止まっていたページ。

 その先の空白を、アンアンはじっと見つめる。

 ペン先が紙の上で止まる。

 また書けないのかと思った。

 けれど、今度は違った。

 

 アンアンはゆっくりと、一文字ずつ書き始めた。

 俺は邪魔をしないように、黙って見ていた。細い文字が、空白に続いていく。

 アンアンの手が止まる。少し迷ってから、さらに続ける。

 

 書き終えると、アンアンはペンを置いた。

 長い長い距離を歩いた後みたいに、小さく息を吐く。

 

「進んだな」

 

 俺が言うと、アンアンはスケッチブックを開いた。

 

『少しだけだ』

「少し進めば十分だろ」

 

 アンアンはノートの文字を見る。

 その青紫色の目は、まだ不安そうだった。

 けれど、さっきよりも少しだけ、先の方を見ているように思えた。

 

『道を作った』

「ああ」

『命令ではない』

 

 アンアンはその言葉を確かめるように、もう一度ノートを見た。

 彼女は少しだけ考える。それから、スケッチブックに小さく書いた。

 

『ありがとう』

「どういたしまして」

 

 いつもの尊大な字より、少しだけ丸い字だった。

 白い髪の隙間から見える耳が、ほんの少し赤い。

 

「アンアン?」

 

 名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。

 それから、もう一度スケッチブックに書く。

 

『ヒカリ』

「ん?」

『最初のノート』

「最初の?」

『図書室で会った時のノート』

「ああ」

 

 言われて、俺は鞄の中を探した。まだ残っている。あの日、課題用に持ってきていたノート。

 少し角が折れて、表紙には鞄の中でついた擦れ跡がある。

 けれど、ページを開けば、あの日の文字はそのままだった。

 

『どういたしまして』

『大鐘ヒカリ。一年』

 

 それから、俺が右手と左手で同時に書いた二つの名前。

 右手で書いた『大鐘ヒカリ』と左手で書いた『夏目アンアン』

 二つの名前が、同じページに並んでいる。

 あの時の俺にとっては、少し変わった特技を見せただけだった。

 

 けれど、アンアンはそのページをじっと見つめていた。

 まるで、そこに何か大切な物語の始まりが残っているみたいに。

 

「これでいいのか?」

 

 俺がノートを差し出すと、アンアンはこくりと頷いた。

 それから、袖に隠れた手でペンを握る。しばらく、動かなかった。

 ペン先が紙の上で迷っている。書こうとして、止まる。また少し動いて、止まる。

 

 俺は黙って待った。

 やがて、アンアンは小さく息を吸った。

 

 そして、二つの名前の上に、小さな相合傘を描いた。

 

 線は少し震えていた。けれど、傘の下には確かに、俺の名前とアンアンの名前が並んでいる。

 

 描き終えた瞬間、アンアンは固まった。

 自分で描いたのに、自分でその意味に気づいたみたいに、みるみる耳まで赤くなる。

 

 それから、彼女はノートを両手で持ち上げた。相合傘が書かれたページで、自分の顔を隠す。

 白い髪。赤くなった耳。ノートの端から少しだけ見える青紫色の目。

 

 スケッチブックには何も書かない。

 ノートで顔を隠したまま、唇をわずかに開く。

 

「……これは」

 

 声が落ちた。

 小さく、細く、図書室の静けさに溶けてしまいそうな声だった。

 けれど、俺にははっきり届いた。

 震えていた。迷っていた。それでも、自分の言葉として差し出そうとしている声だった。

 

 アンアンの喉が、小さく鳴る。ノートの向こうで、彼女が息を整える気配がした。

 そして、もう一度。

 今度は、さっきよりほんの少しだけ強く。

 

「命令では、ない……」

 

 ノートの上には、初めて出会った日に俺が書いた二つの名前がある。

 

 そこに、アンアンが描き足した小さな傘。俺はそのページを見つめた。

 それから、ノートの向こうに隠れた彼女へ答える。

 

「ああ、わかってる」

 

 アンアンの小さな肩が、ほんの少しだけ揺れた。

 冬の終わりの図書室で、アンアンは初めて、自分の物語の続きを俺に見せてくれた。

 

 

 

 

 

 






 妹枠ってつまり恋愛対象ってことなんだよね(エロゲ脳)
 ラブコメプレイヤーなので洗脳はエッチなことじゃなくてラブコメに使います。ごつ

 番外編はこんな感じでくっついたりくっつかなかったり。基本仲良くなるよって感じです

 
 次回は成人向けの方でアリサルートを進めるか、こちらでレイア編を出すかの二択です

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