まのこい天秤   作:雪無い

37 / 37

 いつも感想評価お気に入り誤字報告ありがとうございます。感想ドシドシくれると嬉しいです

 





2話『◯◯少女Part2』

 

 放課後の廊下には、冬の名残がまだ薄く残っていた。

 

 窓の外に見える空は、少しずつ春に近づいている。けれど、ガラス越しに差し込む光はまだ淡く、廊下の空気もどこか冷たい。校庭の隅に残った雪のかけらが、夕方の光を受けて小さく溶けている。

 

 もうすぐ冬が終わる。そう思わせる、静かな放課後だった。

 俺は目的の教室の前まで来て、少しだけ足を止めた。

 

「大鐘くん?」

 

 入ろうとしたところ、教室の扉から出てきた桜羽エマと橘シェリーに声をかけられた

 

 桜羽はいつものように柔らかく笑い、橘は虫眼鏡こそ持っていないものの、何か面白いものを見つけたような顔をしている。

 

「ボクたちに用事?」

「もしかして、新たな事件ですか?」

「事件じゃない」

 

 俺は首を横に振る。

 

「今日はアンアンに会いに来た」

 

 その瞬間、二人の動きが止まった。

 

「アンアンちゃんに?」

 

 桜羽が目を丸くする。橘はすぐに口元へ手を当て、探偵めいた顔になった。

 

「これは事件ですね」

「だから事件にするな」

「大鐘さんが、放課後に、わざわざ、別クラスの白髪無口系で小柄な少女を訪ねてきた。証言としては十分です」

「強調するな」

 

 橘が楽しそうに笑う。桜羽もにこにことしているが、その目には明らかに好奇心が浮かんでいた。

 

「アンアンちゃんと、いつの間に仲良くなったの?」

「図書館で何度か会った」

「それだけで教室まで迎えに来るかなぁ」

「迎えっていうか、何か相談があるって聞いてたから」

 

 そう説明したところで、教室の中から小さな白い影が動いた。

 

 夏目アンアンだった。

 白く長い髪。身体に合っていないブカブカの制服。袖に隠れた両手。

 眠たげな青紫色の目をした彼女は、こちらを見るなり、席から立ち上がった。

 そして、スタスタと歩いてくる。

 足音はほとんどしない。相変わらず図書館の空気をそのまま連れてきたような少女だった。

 

 アンアンは俺の前まで来ると、何も言わずに、ぴとりと俺のそばに立った。

 近い。いや、近いことにはもう慣れてきた。

 アンアンは会話の距離も、立つ距離も、妙に独特だ。本人に悪気はないらしいので、最近はそういうものだと思うことにしている。

 

 だが、桜羽は違った。

 

「アンアンちゃんが懐いてる!?」

 

 桜羽が本気で驚いた声を出した。

 その言葉に、アンアンがゆっくりと顔を向ける。

 眠たげな目。けれど、明らかに嫌そうだった。

 アンアンはスケッチブックを開き、さらさらと書く。

 

『懐いていない』

 

 桜羽が少し慌てる。

 

「あ、ごめんね。嫌だった?」

 

 アンアンはさらに書いた。

 

『猫ではない』

「猫扱いが嫌だったんだ……」

 

 橘が楽しそうに身を乗り出す。

 

「では、お姫様と従者ですか?」

『従者でもない』

「では何でしょう?」

 

 アンアンは少しだけ考えた。

 それから、スケッチブックをこちらへ向ける。

 

『ヒカリは着想役』

「着想役?」

 

 俺が読むと、アンアンはこくりと頷いた。桜羽が首を傾げる。

 

「着想役って、どういうこと?」

「俺にも分からない」

『物語を書くために必要なもの』

「なるほど。大鐘さんは資料ということですね」

『概ね正しい』

「正しいのか」

 

 アンアンは満足そうにスケッチブックを閉じた。

 そのまま、俺の制服の裾を袖越しにつまむ。

 表情は相変わらず眠たげなのに、行動だけは妙に迷いがない。

 桜羽が、何とも言えない顔で俺たちを見た。

 

「……兄妹みたいだね」

 

 アンアンの眉が、ほんの少しだけ動いた。すぐにスケッチブックを開く。

 

『兄妹ではない』

「そうだな」

 

 俺がそう答えると、アンアンは無言でこちらを見上げた。何か間違えただろうか。橘が口元を押さえて笑っている。

 

「大鐘さん、そういうところですよ」

「どういうところだ」

「説明すると面白くなくなるので、黙秘します」

 

 アンアンはしばらく俺を見ていたが、やがてふいと視線を逸らした。それから、スケッチブックに新しい文字を書く。

 

『わがはいは疲れた』

 

 そう書いてから、アンアンは両腕を広げた。

 ブカブカの袖が、だらりと垂れる。まるで抱き上げられるのを待つ猫のようだった。

 

「猫じゃなかったのか」

『猫ではない』

「じゃあ歩けるだろ」

『疲れた』

「教室から廊下までしか歩いてないぞ」

『長旅だった』

 

 とはいえ、このまま廊下で押し問答をしていても仕方がない。

 俺はため息をつき、アンアンの脇に手を入れて、軽く持ち上げた。体重は驚くほど軽い。猫を抱えるように、胸の前で安定させる。

 アンアンは抵抗しなかった。むしろ当然のように収まり、袖に隠れた手でスケッチブックを抱えている。

 

 桜羽が両手を口元に当てた。

 

「本当に猫みたい……」

『猫ではない』

「その状態で主張しても説得力がありませんね」

「どうやって書いたんだ今」

 

 橘が笑う。

 アンアンは少しだけ不満そうに目を細めたが、降りる気はないらしい。

 

「図書室でいいんだよな?」

 

 俺が聞くと、アンアンはこくりと頷いた。

 

『行くぞ、ヒカリ』

「だからどうやって書いたんだ」

 

 俺はアンアンを抱え直し、廊下を歩き出した。

 背後で、桜羽と橘が何かをひそひそ話している。

 

「やっぱり兄妹にしか見えないよね……」

「いいえ。あれは、小さなお姫様が専用の乗り物を手に入れた姿です」

「違うぞ」

 

 俺が振り返らずに言うと、橘の笑い声が廊下に響いた。

 腕の中のアンアンは、眠たげな顔のまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。

 

 

 図書室に着くと、アンアンは当然のように俺の腕から降りた。

 さっきまで疲れたと言っていたくせに、床へ降りた途端、何事もなかったようにスタスタと歩いていく。

 向かった先は、いつもの俺たちが座っている窓際の席だった。

 

 冬の終わりの図書室は、少しだけ明るい。

 窓の外では、校庭の隅に残っていた雪がほとんど溶けていた。日差しはまだ弱いが、冷たさの奥に、ほんの少しだけ春の匂いが混ざっている。

 

 アンアンは席に着くと、スケッチブックではなく、鞄から一冊のノートを取り出した。

 表紙は黒。角が少し丸くなっていて、何度も開かれているのが分かる。

 

「それが相談か?」

 

 俺が向かいの席に座ると、アンアンはこくりと頷いた。

 そして、ノートをこちらへ差し出す。読んでいい、ということらしい。

 

「見るぞ」

 

 確認すると、アンアンはもう一度頷いた。

 俺は慎重に表紙を開く。そこには、細く整った文字が並んでいた。最初は、ただのメモかと思った。だが、数行読んで分かる。

 これは小説だ。

 

 冬の街。白い息。誰かを待つ少女。少し遅れてやってくる少年。

 淡々としているのに、情景がすっと浮かぶ文章だった。言葉数は多くない。けれど、一文一文が静かで、冷たい空気の中に小さな灯りを置くような書き方をしている。

 

「……恋愛」

 

 思わずそう言うと、アンアンが袖で隠れた手を少しだけ動かした。

 表情は眠たげなままだが、白い髪の隙間から見える耳が、ほんの少し赤い。

 

 ノートは一つの物語だけではなかった。ページをめくると、別の話が始まる。

 まためくると、さらに別の話。

 

 雨の日に傘を忘れた少年と、無言で半分だけ傘を差し出す少女。

 図書室で同じ本に手を伸ばす二人。

 屋上で星を見上げながら、言えない言葉を抱えている少女。

 どれも、恋愛小説だった。

 けれど、どれも途中で止まっている。

 

 告白の直前や、手を伸ばす直前。幸せを願う直前。

 そこから先が、ぽっかりと空白になっていた。

 

「書けないのか」

 

 俺が聞くと、アンアンはスケッチブックを開いた。

 

『そうだ』

 

 短い文字。けれど、そこに込められた重さは、いつもの尊大な筆談とは少し違って見えた。

 

「恋愛が分からないからか?」

 

 俺がそう聞くと、アンアンは少しだけ考えた。

 それから、スケッチブックに書く。

 

『それもある』

「俺も分からないな」

『役に立たない』

「悪い」

 

 即答だった。俺は苦笑しながら、もう一度ノートを見る。

 文章は綺麗だ。登場人物の気持ちも、少なくとも俺には分かる気がする。何かを言いたい。けれど言えない。近づきたい。けれど近づけない。

 そういう距離の描き方が、妙に丁寧だった。

 

「でも、途中までは書けてるだろ。どこで止まるんだ?」

 

 アンアンはノートの一ページを開き、袖に隠れた指先で一文を示した。

 山場のように思えるシーン。そこから先がない。

 

「ここか」

 

 アンアンは頷く。それから、少し時間をかけてスケッチブックに文字を書いた。

 

『ここから先が書けない』

「どうして?」

『幸せになってほしいと思う。だが、それを書くと、命令しているように感じる』

 

 俺は、その文字をしばらく見つめた。

 

「命令」

 

 アンアンは小さく頷く。

 

『わがはいが書けば、登場人物はその通りに動く』

『わがはいが幸せにすると決めれば、幸せになるしかない』

『それは、わがはいの願いを押しつけているのではないか』

 

 難しいことを考える。そう思った。

 俺は小説を書いたことがない。だから、作者が登場人物に対してどういう感覚を持つのかは分からない。アンアンの悩みに、正しい答えを出せる自信もない。

 それでも、ノートの中で止まっている登場人物たちを見ていると、少しだけ思うことはあった。

 

「俺は小説のことは分からないけど」

 

 まず、そう前置きした。アンアンがこちらを見る。

 

「作者は命令してるっていうより、道を作ってるだけなんじゃないか」

 

 アンアンの目が、わずかに動いた。

 

『道』

「ああ」

 

 俺はノートの空白を指で示す。

 

「一本の道を無理やり歩かせるんじゃなくて、こっちへ行く道もある。あっちへ行く道もある。立ち止まる道もある。引き返す道もある」

 

 言いながら、自分でも少し不思議だった。

 

「そういう道をいくつも作って、その中で彼や彼女がどれを選ぶかを見る、みたいな」

 

 アンアンは何も書かなかった。

 ただ、じっと俺を見ている。

 

「アンアンは無理やり幸せにしてるんじゃなくて、その子たちが幸せになれる場所を探してるんじゃないか」

 

 我ながら、素人っぽい答えだと思う。創作論として正しいのかは分からない。

 そもそも、俺は恋愛小説もよく分かっていない。

 

 けれど、アンアンの書いた文章を読んでいると、少なくとも彼女が登場人物を雑に動かしているとは思えなかった。

 

「幸せになってほしいって思うのは、その人の未来を決めることじゃなくて」

 

 俺は少し言葉を探した。

 

「その人に、未来があるって信じることなんじゃないか」

 

 図書室の中は静かだった。遠くでページをめくる音がする。

 窓の外では、溶けかけた雪の上を風が撫でていた。

 アンアンは、しばらく動かなかった。

 それから、ゆっくりとスケッチブックにペンを走らせる。

 

『貴様は、小説を書いたことがないのだな』

「無い」

『恋愛も分からないのだな』

「分からないな」

『なのに、もっともらしいことを言う』

「悪い」

 

 俺が素直に謝ると、アンアンは首を横に振った。

 そして、次の文字を書く。

 

『悪くない』

 

 短い言葉だった。

 だが、それを見て、少しだけ安心した。

 アンアンはノートの空白へ視線を落とす。

 袖に隠れた手が、黒い表紙の端をそっと撫でた。

 

『道を作る』

 

 小さく書かれたその文字は、さっきより少しだけ筆圧が強かった。

 

「それで書けそうか?」

 

 アンアンは少し考える。

 それから、またスケッチブックをこちらへ向けた。

 

『恋愛が分からない』

「そこに戻るのか」

『重大な問題だ』

「まあ、そうだな。俺も分からない」

『やはり役に立たない』

「なら調べるか」

 

 俺は椅子から立ち上がり、書架の方を見る。

 

「恋愛小説の書き方とか、創作論とか、そういう本があるかもしれないだろ」

 

 アンアンは俺を見上げた。

 眠たげな目の奥に、ほんの少しだけ興味の光が戻っている。

 

『ヒカリ』

「何だ?」

『高い棚は任せた』

「最初からそのつもりだろ」

 

 アンアンは否定しなかった。

 ただ、スケッチブックを閉じると、いつものように静かに立ち上がる。

 白い髪が、冬の終わりの光を受けて揺れた。

 俺たちは並んで、恋愛小説の書き方を探しに書架へ向かった。

 

 

 

 

 恋愛小説の書き方。そういう棚が図書室にあるのか、正直よく分からなかった。

 けれど、探してみると、それらしい本は意外とあった。小説作法、創作入門、物語構成、キャラクターの作り方。背表紙だけを見ても、俺にはどれが恋愛小説に役立つのか判断がつかない。

 

「恋愛って、分類としてはどこなんだ?」

 

 小声で呟くと、隣のアンアンがスケッチブックを開いた。

 

『人類には分からない』

「そこまで大きい話か?」

『分かっているなら、これほど本は増えない』

「なるほど」

 

 妙に説得力があった。アンアンは眠たげな目で棚を見上げている。ブカブカの制服の袖に隠れた手で、スケッチブックを抱えたまま、背表紙を一つ一つ追っていた。

 その顔は相変わらず無表情に近い。けれど、さっきまでより集中しているのは分かる。

 

 恋愛小説が分からない。幸せを願うことが怖い。物語の登場人物を、自分が命令しているように感じる。

 アンアンの言葉を思い返す。

 俺には、小説のことは分からない。恋愛のことも分からない。それでも、彼女が真剣に悩んでいることだけは分かった。

 

「これは?」

 

 俺は一冊の背表紙を指した。

 

『恋愛描写の作法』

「そのままだな」

『そのままの方が良い』

「取るか?」

 

 アンアンはこくりと頷いた。ただ、本は棚の上から二段目にあった。アンアンでは届かない高さだ。

 俺は一歩前へ出て、棚に手を伸ばした。

 

「これだな」

 

 本の背を指先で押さえ、ゆっくりと引き抜く。

 

 ぎし、と小さな音がした。

 古い紙が擦れる音。

 棚の奥で何かがずれる音。

 けれど、その時の俺は気づかなかった。視線は、目当ての本に向いていた。少し無理に引けば抜ける。そう考えて、もう少し力を入れた。

 

 その瞬間だった。

 

「──【止まれ!】」

 

 声がした。

 聞いたことのない声だった。

 細く、けれど不思議なほどはっきりとした声。

 

 次の瞬間、俺の身体は止まった。

 止まろうと思ったのではない。危ないと判断したわけでもない。足に力を入れたわけでも、手を引いたわけでもない。反射ですらなかった。

 ただ、止まった。

 伸ばした右腕。背伸びした足。わずかに前へ傾いた身体。

 そのすべてが、見えない糸で空中に縫い止められたみたいに固まった。

 

「……っ」

 

 息が詰まる。指先に本の背表紙が触れている。そこから手を離そうとした。

 離れない。自分の身体なのに、自分の身体ではない。

 

 頭の中で命令する。

 だが、身体は一切応じなかった。

 

 まるで、俺の意思だけが身体の外に押し出されて、皮膚の内側に戻れなくなったようだった。ぞわりと、背筋に冷たいものが走る。

 その直後。

 俺の目の前を、黒い影が落ちた。

 

 どさっ、と重い音。

 分厚い本が床に叩きつけられた。場所は、俺の足元のすぐ前。

 ほんの少しでも前に出ていたら、頭か肩に当たっていた位置だった。さらに、棚の上で傾いていた数冊が遅れて滑り落ちる。

 ばさばさ、と紙の音が続く。

 床に散らばる本。舞い上がる埃。古い紙の匂い。

 俺はその一部始終を、動けないまま見ていた。避けることもできず、身を縮めることもできず、ただ、目だけで落下を追っていた。

 

 やがて、最後の一冊が床に落ちた。

 図書室の静けさが戻る。その瞬間、身体の硬直がほどけた。

 

「っ……!」

 

 急に足の力が戻って、俺はよろめいた。

 背伸びしていた体勢が崩れ、慌てて棚に手をつく。

 心臓が遅れて強く鳴った。どくん、どくん、と耳の奥で響く。

 俺は右手を握ったり開いたりした。ちゃんと動く。だが、さっきまで動かなかった。

 その事実だけが、皮膚の内側にまだ残っていた。

 

 俺はゆっくりと振り返る。アンアンが立っていた。

 いつも眠たげな青紫色の目が、今は大きく見開かれていた。その顔から、血の気が引いている。

 

「アンアン」

 

 名前を呼んでも、彼女は返事をしなかった。いや、できなかったのかもしれない。

 アンアンは震える手でスケッチブックを開く。ペン先が紙の上を滑った。

 

 いつもの文字ではない。

 線が乱れて、少し潰れている。

 

『すまない』

 

 そこで一度、ペンが止まった。アンアンは唇をかすかに噛む。俺はその文字を見つめた。

 床には、さっき落ちてきた分厚い本が散らばっている。目当てだった桃色の背表紙の本も、いつの間にか床に落ちていた。

 

 その本のすぐ横で、アンアンはスケッチブックを抱えて立っていた。彼女の声が、まだ耳に残っている。

 止まれ、というたった三文字。けれど俺の身体は、その言葉に逆らえなかった。

 

「今のは」

 

 俺は、自分の声が少し低くなっていることに気づいた。

 

「魔法か」

 

 アンアンは、ゆっくりと頷いた。その動きは、ひどく小さかった。

 

 

 

 散らばった本を元に戻したあと、俺たちは一度、窓際の席に戻った。

 アンアンはさっきから、俺の顔を見ようとしない。

 スケッチブックを胸に抱えて、椅子の上で小さくなっている。

 

 説明は、全部筆談だった。

 アンアンの魔法は、簡単に言えば洗脳に近いものらしい。

 ただし、何でも好き勝手に命令できるわけではない。

 相手がその命令に対して、ある程度納得できること、従ってもおかしくないと思えること、そういう条件があるらしい。いきなり「空を飛べ」と言われても無理らしい。

 

 とにかく、アンアンは自分の声がそういう力を持っているから、普段は喋らない。

 スケッチブックで会話するのも、そういうことらしい。

 書かれた文字を読み終えると、アンアンはまたページをめくった。

 

『すまない』

 

 同じ言葉だった。けれど、さっきよりも少しだけ字が小さい。

 俺はしばらくその文字を見てから、息を吐いた。

 

「本に当たらずに済んだのは、アンアンのおかげだ」

 

 アンアンは顔を上げない。

 

『だが、命令した』

「それは分かってる」

『怖かっただろう』

 

 俺は少し迷った。嘘をつく場面ではないと思った。

 

「ああ。怖かった」

 

 アンアンの肩が、かすかに揺れた。

 俺は続ける。

 

「でも、助かったのも本当だ」

 

 アンアンは何も書かなかった。ただ、スケッチブックの端をぎゅっと掴んでいる。

 

「だから、そこは分けて考えたい」

 

 俺は床に置いた本の山を一度見た。

 

「アンアンの魔法は怖い。けど、アンアンが俺を助けようとしてくれたことまで、怖いものにしたくない」

 

 アンアンは、ゆっくりとペンを動かした。

 

『貴様は変だ』

「よく言われる」

 

 そう返すと、アンアンはほんの少しだけ目を細めた。

 少なくとも、さっきよりは少しだけ、図書室の空気が軽くなった気がした。

 

 しかし、アンアンはまだスケッチブックを胸に抱えたままだった。

 白い髪が頬にかかって、表情が見えにくい。

 いつもの眠たげな顔に戻ろうとしているのに、指先だけがまだ落ち着かない。

 

 俺はしばらく黙っていた。

 何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。

 魔法のことも、洗脳のことも、俺には詳しくない。適当なことを言って、アンアンの怖さを軽く扱うべきではないと思った。

 

 けれど、一つだけ、さっきから気になっていることがあった。

 

「アンアン」

 

 名前を呼ぶと、アンアンが少しだけ顔を上げる。

 

「無理にとは言わない」

 

 先にそう言った。

 アンアンの目が、わずかに細くなる。警戒している目だった。

 

「でも」

 

 俺は言葉を選びながら続ける。

 

「もう一度、声を聞かせてほしい」

 

 アンアンの手が止まった。

 次の瞬間、ものすごい勢いでスケッチブックに文字が書かれる。

 

『嫌だ』

 

 予想通りの返事だった。

 俺は頷いた。

 アンアンは、少しだけ怪訝そうな顔をする。

 

「そうか」

『貴様は変だ』

 

 アンアンはむっとしたように目を細めた。それから、スケッチブックを胸に引き寄せる。

 まるで、自分の声まで隠すみたいに。

 俺は小さく息を吐いた。

 

「俺は、さっきのが怖くなかったわけじゃない」

 

 アンアンは動かない。

 

「身体が動かなくなるのは、怖かった。自分の身体なのに、自分のものじゃなくなる感じがした」

 

 言葉にすると、さっきの感覚が少し戻ってきた。頭では命令しているのに、身体が応じないあの感じ。

 ぞっとしない、と言えば嘘になる。

 

「でも、アンアンの声を、怖いものとして覚えたくない」

 

 アンアンが、ゆっくりと俺を見る。

 

「綺麗な声だったから」

 

 そう言った瞬間、アンアンの目がはっきりと揺れた。

 

「もっと聞きたいんだ」

 

 アンアンは何も書かない。

 

「命令じゃなくていい」

 

 俺は少し考えてから言った。

 

「名前を呼ぶだけでもいい」

 

 アンアンの喉が、小さく動いた。けれど、声は出ない。

 アンアンはしばらく俺を見ていた。それから、目を伏せる。

 アンアンは、スケッチブックを膝の上に置いた。ペンを持ったまま、書かない。

 

 図書室の静けさが、二人の間に落ちる。

 遠くで椅子を引く音がした。誰かが小さく咳をする。ページがめくられる。

 アンアンは、何度か唇を開きかけた。そのたびに閉じる。喉の奥で、声になる前の息が揺れる。

 

 やがて、アンアンが小さく息を吸った。

 

「……ヒカリ」

 

 声は、驚くほど小さかった。

 さっきの声とは違う。鋭さも、強さもない。ただ、俺の名前だった。

 

 冬の終わりの図書室に、細い糸みたいに落ちた声。

 命令ではない。何かを動かすための言葉でもない。

 それでも、俺は確かに呼ばれた。

 

「うん」

 

 俺は静かに返事をした。アンアンはびくりと肩を揺らした。

 まるで、自分の声に返事が返ってきたことに驚いているみたいだった。

 

「ちゃんと聞こえた」

 

 アンアンは、すぐにスケッチブックを持ち上げる。

 顔を隠すためだった。白い髪の隙間から見える耳が、さっきより赤い。

 俺は少し笑った。

 

「これで、俺もアンアンに無茶を言った。お互い様だな」

 

 スケッチブックの向こうで、アンアンが固まる。それから、少し時間を置いて、紙の上に文字が現れた。

 

『貴様は本当に変だ』

「それも三回目だ」

『何度でも言う』

「今度は声で聞きたい」

 

 そう言うと、スケッチブックがぴくりと震えた。

 アンアンがじろりとこちらを睨んでいた。

 

『調子に乗るな』

「悪い」

 

 けれど、スケッチブックの端から覗く口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 

 しばらくして、アンアンは膝の上に置いていた黒いノートを開いた。

 

 途中で止まっていたページ。

 その先の空白を、アンアンはじっと見つめる。

 ペン先が紙の上で止まる。

 また書けないのかと思った。

 けれど、今度は違った。

 

 アンアンはゆっくりと、一文字ずつ書き始めた。

 俺は邪魔をしないように、黙って見ていた。細い文字が、空白に続いていく。

 アンアンの手が止まる。少し迷ってから、さらに続ける。

 

 書き終えると、アンアンはペンを置いた。

 長い長い距離を歩いた後みたいに、小さく息を吐く。

 

「進んだな」

 

 俺が言うと、アンアンはスケッチブックを開いた。

 

『少しだけだ』

「少し進めば十分だろ」

 

 アンアンはノートの文字を見る。

 その青紫色の目は、まだ不安そうだった。

 けれど、さっきよりも少しだけ、先の方を見ているように思えた。

 

『道を作った』

「ああ」

『命令ではない』

 

 アンアンはその言葉を確かめるように、もう一度ノートを見た。

 彼女は少しだけ考える。それから、スケッチブックに小さく書いた。

 

『ありがとう』

「どういたしまして」

 

 いつもの尊大な字より、少しだけ丸い字だった。

 白い髪の隙間から見える耳が、ほんの少し赤い。

 

「アンアン?」

 

 名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。

 それから、もう一度スケッチブックに書く。

 

『ヒカリ』

「ん?」

『最初のノート』

「最初の?」

『図書室で会った時のノート』

「ああ」

 

 言われて、俺は鞄の中を探した。まだ残っている。あの日、課題用に持ってきていたノート。

 少し角が折れて、表紙には鞄の中でついた擦れ跡がある。

 けれど、ページを開けば、あの日の文字はそのままだった。

 

『どういたしまして』

『大鐘ヒカリ。一年』

 

 それから、俺が右手と左手で同時に書いた二つの名前。

 右手で書いた『大鐘ヒカリ』と左手で書いた『夏目アンアン』

 二つの名前が、同じページに並んでいる。

 あの時の俺にとっては、少し変わった特技を見せただけだった。

 

 けれど、アンアンはそのページをじっと見つめていた。

 まるで、そこに何か大切な物語の始まりが残っているみたいに。

 

「これでいいのか?」

 

 俺がノートを差し出すと、アンアンはこくりと頷いた。

 それから、袖に隠れた手でペンを握る。しばらく、動かなかった。

 ペン先が紙の上で迷っている。書こうとして、止まる。また少し動いて、止まる。

 

 俺は黙って待った。

 やがて、アンアンは小さく息を吸った。

 

 そして、二つの名前の上に、小さな相合傘を描いた。

 

 線は少し震えていた。けれど、傘の下には確かに、俺の名前とアンアンの名前が並んでいる。

 

 描き終えた瞬間、アンアンは固まった。

 自分で描いたのに、自分でその意味に気づいたみたいに、みるみる耳まで赤くなる。

 

 それから、彼女はノートを両手で持ち上げた。相合傘が書かれたページで、自分の顔を隠す。

 白い髪。赤くなった耳。ノートの端から少しだけ見える青紫色の目。

 

 スケッチブックには何も書かない。

 ノートで顔を隠したまま、唇をわずかに開く。

 

「……これは」

 

 声が落ちた。

 小さく、細く、図書室の静けさに溶けてしまいそうな声だった。

 けれど、俺にははっきり届いた。

 震えていた。迷っていた。それでも、自分の言葉として差し出そうとしている声だった。

 

 アンアンの喉が、小さく鳴る。ノートの向こうで、彼女が息を整える気配がした。

 そして、もう一度。

 今度は、さっきよりほんの少しだけ強く。

 

「命令では、ない……」

 

 ノートの上には、初めて出会った日に俺が書いた二つの名前がある。

 

 そこに、アンアンが描き足した小さな傘。俺はそのページを見つめた。

 それから、ノートの向こうに隠れた彼女へ答える。

 

「ああ、わかってる」

 

 アンアンの小さな肩が、ほんの少しだけ揺れた。

 冬の終わりの図書室で、アンアンは初めて、自分の物語の続きを俺に見せてくれた。

 

 

 

 

 

 






 妹枠ってつまり恋愛対象ってことなんだよね(エロゲ脳)
 ラブコメプレイヤーなので洗脳はエッチなことじゃなくてラブコメに使います。ごつ

 番外編はこんな感じでくっついたりくっつかなかったり。基本仲良くなるよって感じです

 
 次回は成人向けの方でアリサルートを進めるか、こちらでレイア編を出すかの二択です

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

【完結】光を失った少年の話(作者:野口さん)(原作:魔法少女ノ魔女裁判)

▼*ネタバレ注意▼目が見えない少年が、それがバレないように魔法を使って牢屋敷を過ごしていくお話。▼ ▼三話で完結します。▼現在後日談を執筆中です。


総合評価:4263/評価:9.15/完結:27話/更新日時:2026年06月17日(水) 18:00 小説情報

魔法少女?ノ魔女?裁判(作者:まのさば脳焼き人間)(原作:魔法少女ノ魔女裁判)

ある時、魔法というものを自覚して、15歳の少女失踪事件が話題になってから牢屋敷送りになるのは目に見えていた。▼出来るなら原作キャラと関わらない世界線が良いと願ったものの、運命はそうやすやすと覆すことなどできない。▼だが、俺は原作のまのさばが好きなのであって、そこに男でオリ主たる俺がいるのは間違っている。▼俺はなんとしても原作カップリングをその目に見る為に壁か…


総合評価:3150/評価:8.43/連載:40話/更新日時:2026年01月28日(水) 12:00 小説情報

ヤンデレ魔法少女13人から逃げ切れないと死ぬゲーム。(作者:クロウト)(原作:魔法少女ノ魔女裁判)

▼全員の脳を焼いた結果、ヤンデレと化した純愛(偽証)に追われるゲームはっじまっるよ〜。全員にパーフェクトコミニュケーションをした彼くん(君♡)は果たしてこのヤンデレハーレムエンドから逃げ切る事が出来るのか?!?!?!?!?!▼レディィィィッ!!ファイッ!!


総合評価:3913/評価:8.66/連載:7話/更新日時:2025年12月26日(金) 19:10 小説情報

【ネタバレあり】牢屋敷内にある裁判所の証言台は13台しかないらしい(作者:みかづきのみ)(原作:魔法少女ノ魔女裁判)

ネタバレあり。タイトルが思いつかなかった。まのさばの原作ネタバレ注意。▼絶海の孤島に存在する牢屋敷に、再び少女達が集められた。▼夢咲ライカも、その1人。しかし——彼は男だった。▼ガールズラブ、アンチ・ヘイトは保険です。▼本編メンバー+1(男)の話。苦手な方はスルーお願いします。▼夢咲ライカ:15歳、小さい、魔法あり、原作知識無し。▼本編もしやってない方であれ…


総合評価:520/評価:8.72/連載:14話/更新日時:2026年06月10日(水) 20:36 小説情報

アベコベ少女ノヤンデレ裁判(作者:MS)(原作:魔法少女ノ魔女裁判)

※ネタバレ注意▼世界の男女比を偏らせまして…▼少女に理解ある少年をあてがいまして…▼トラウマをなんとかしてあげまして…▼あっ、ヤンデレになってしまいました…


総合評価:832/評価:8.72/連載:10話/更新日時:2026年06月21日(日) 12:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>