遠野とのドタバタ騒ぎがあったものの、学園生活は相変わらず穏やかで、学園生活にも完全に慣れ切ったと言える。放課後のお茶会は日課のようなものになっていて、俺はほぼ毎日顔を出している。他の魔法クラスの生徒から向けられる「またこいつか」という目にも随分慣れた。
そんなある日の放課後、いつもの教室で紅茶を啜りながら雑談をしていた時のことだった。
「紅茶の葉があと少しですわね……クッキーもほとんどありませんわ」
「えっ、そうなんだ……みんなのお菓子、なくなっちゃうの?」
「事件です! お菓子消失の謎! 犯人はこの中に───」
「ただ消費だ。俺の分が増えただろうしな」
遠野の指摘に桜羽が少し慌て橘が騒ぎ出す、いつもの光景。
確かにストックは減っている。遠野が淹れる紅茶は美味しいし、桜羽が持ってくるお菓子も評判が良い。自然と消費量が増えるのもわかる。
「では、週末に買い出しに行きましょうか。新しいお茶の種類も試してみたいですわ」
「いいね! ボクも新しいクッキー探したい!」
「賛成です!」
「俺も行く。荷物持ちは得意だ」
「あら、得意なのは運ばれるほうではなくて?」
「てめぇ!」
話はすぐにまとまった。皆で買い出しに行くことになったが、問題は週末の予定だった。
「あっ、私今度の週末は予定があります!悲しいですが皆さんで行ってもらえれば」
「あらそれは残念ですわ……というか、わたくしも用事がありましたわ……迂闊でしたわ」
「ええー! ハンナさんまで!?」
「ボクは、大丈夫だけど……」
桜羽が少し困った顔でこちらを見る。その視線に俺も少し困る。後頭部を軽くかきながら俺は答えた。
「じゃあ俺と桜羽で行くか。そんな大きい買い物にもならないだろうし」
「う、うん……!」
「ええー! 私も行きたいのにぃ! 大鐘さんとエマさんだけなんて不公平です! 私も!」
「予定があるんでしょう?」
ごねる橘とそれを窘める遠野。うなだれる橘を宥めながら、なぜかこちらをジトっとした目で見る遠野。
「……まぁ、いいでしょう。ではお二人、悪いですがお茶のほうよろしくお願いします」
「うん、任せてっ」
週末。寮の出口に約束の10分前に到着した俺は、そこで既に佇んでいる少女を見つけた。
「あ、大鐘くん!こっちこっち!」
桜羽が大きく手を振って駆け寄ってくる。
私服姿の桜羽を見て、俺は思わず足を止めた。
淡いパステルピンクのワンピースに、白のカーディガンを肩に羽織っている。いつもの桜の髪飾りが、陽光を反射して彼女の白い髪をよりいっそう輝かせていた。
特筆すべきは、その質感だ。柔らかな生地が彼女の華奢なラインを優しく包み、歩くたびに裾が軽やかに舞う。透き通るような肌に、普段の制服姿では隠れていた鎖骨のラインが覗き、彼女が持つ「女の子」としての輪郭を鮮烈に強調していた。
制服を着ている時よりも無防備で、それでいて完成された可愛らしさ。
「……」
「大鐘くん? どうしたの、そんなにじっと見て。……変、かな?」
エマが少し不安そうに、ワンピースの裾を指先で弄ぶ。その上目遣いに、俺は心臓が跳ねるのを自覚した。
「おはよう。……似合ってるな、その服」
「えへへ、ありがとう。ボク、こういうの好きなんだ」
「うん、風の抵抗が少なさそうなフレアだ。靴も機動力は低そうだけど重心移動はしやすそうだ。今日の買い出しルートには適してるな」
「台無しだよ大鐘くん……装備品のチェックじゃないんだから」
「悪い悪い」
照れを隠すように俺は言った。だが、内心では動揺を抑えるのに必死だった。あまりにも自分の武器をわかりすぎている服装。なんて可愛いやつなんだ。緊張を悟られないよう俺はカバンを左肩にかけ、仕切り直すように彼女を促した。
「じゃあ、行こうか。学園近くのモールでいいよな」
「うん! ボク、楽しみだよ」
寮を出て、並んで歩き始める。桜羽は自然と俺の隣に寄り、時折腕に軽く触れるくらいの距離で歩く。無意識だろうか、距離が近くてなんだかムズムズする。彼女の髪から甘い花の香りが風に乗って届き、そのたびに俺の冷静な思考回路がショートしそうになる。
「あ、ごめんね……ボク、つい」
距離の近さに気づいたのか、彼女は慌てて少し離れるが、すぐに磁石に引かれるようにまた近づいてくる。その一連の動作が小動物のようで、見ていて飽きない。その仕草が妙に可愛くて、俺は苦笑いした。
「いいよ、俺が迷子になるかもしれないからな」
「えへへ、じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
「……」
なんだこれは。俺は普段の冷静さが崩れていくのを感じた。彼女のふわふわした雰囲気に、つい浮かれてしまいそうになる。このまま手でも繋いでしまいそうだ。
桜羽と初めて会った時、俺は彼女がふと見せた得体の知れなさに警戒した。しかし会って二週間と少し、そんな気は微塵も無くなっていた。こうして隣を歩いていると、あの時感じた違和感がひどく場違いなものに思えてくる。
今の彼女から伝わってくるのは、刺すような毒気ではなく、触れれば消えてしまいそうなほどに切実な「誰かの隣にいたい」という温度だけだ。
二階堂は言った。『桜羽エマを深追いするな』と。
確かに彼女は、時折ハッとするほど鋭い観察眼を見せることがある。だがそれは、誰かを嵌めるための悪意ではなく、相手の感情を察して、それに応えようとする献身から来るものに思えた。
今の彼女の印象はひとつ、居場所を守ろうとする少女。
(……警戒なんて、必要なかったな)
俺は心の中で、自分に言い聞かせるように結論を出した。
もし彼女に「裏」があるのだとしても、それは自分を守るための薄い防壁に過ぎない。多くの打者の内面を覗いてきた経験が語る。この温もりは、演技で出せるほど安っぽいものじゃない。
彼女はただの、少し寂しがり屋な女の子なのだ。
桜羽を見る。すると優しい笑顔を見せた。
「ボク、男の子とお出かけなんて初めて。ちょっと緊張しちゃうな」
「……俺もだ」
「ホントに?」
何だこれは。むず痒い。いつもは橘や遠野が作り出す賑やかな……あるいは騒がしさが、二人の間の距離を適度に保ってくれていたのだと、離れてみて初めて気づく。
二人きりの道中は、妙に静かだ。だが、それは決して気まずいものではなく、春の陽だまりに包まれているような不思議なほどに心地よい静寂だった。
モールの中、俺たちはお茶会用の茶葉を選んでいた。
「いいか、桜羽。今のお茶会の人間関係は非常に流動的だ。桜羽と橘、遠野。そこに俺という異分子が加わったことで、会話のテンポが以前より加速しているはずだ。ここではあえて、喉越しの良いアッサムではなく、じっくり味わうタイプのウバを選ぶのが会話の質を維持する秘策のリードだ」
「大鐘くんって時々テンションがおかしくなるよね」
「そんなことは……ない」
遠野に浮かせてもらった時のことを思い出す。あの時の俺は浮かれすぎていた。橘に持ち上げられた時のことを思い出す。あの時の俺は浮かれすぎていた。そして今回は浮いていないのに浮かれている。あれ、俺って自分で言ってるほど冷静な人間じゃない?
「あっ、大鐘くん、こっちはどうかな?すごく良い匂いだよ。二人も喜んでくれるんじゃないかな?」
「待て。罠かもしれない。それは香料が強すぎる。橘にはこれでいいかもしれないが、遠野の繊細な味覚だと二口目には飽和状態だ。ここはあえて王道のダージリン、秋摘みのオータムナルにするのが長期的な満足度が高いはずだ」
「……」
またやってしまった。桜羽がスゴイ目でこちらを見ている。なぜだ、桜羽と二人だと変なテンションになってしまう。
珍しく呆れた顔を見せた彼女だったが、すぐに微笑みに戻った。
「でも、大鐘くんはマメだね。それにしちゃおっか」
「ああ、悪いな」
「ううん、大鐘くん、ハンナちゃんたちのことよく見てるんだなって」
「そうかもな。癖みたいなもんだ」
桜羽は感心したように頷き、選んだ茶葉の缶を大事そうにカゴに入れた。その時だ。彼女が棚から手を引いた拍子に、隣に積んであった限定ギフト用のティーカップの箱がグラリと傾いた。
「わわっ、危ないっ……!」
「おっと」
俺は反射的に踏み込み、彼女の腰を引き寄せるようにして空いた手で箱を支えた。ガシッ、という確かな手応え。箱は寸前で棚に留まった。……だが、問題はそこじゃない。引き寄せた反動で、桜羽の体が俺の胸元にすっぽりと収まってしまっていた。淡いパステルピンクの生地越しに伝わる、驚くほどに柔らかい体温。そして、先ほどよりも強く鼻腔をくすぐる、春の花のような甘い香り。
「あ、えっと……ごめん、なさい……」
桜羽が顔を赤らめ、俺の腕の中で小さくなる。腕の中に収まった彼女は、あまりにも華奢で、頼りなかった。……まただ。この計算されたような手の動き、まるで……
だが、俺のシャツをぎゅっと掴む彼女の指先の震えを感じた瞬間、そんな打算的な思考は霧散した。
「大丈夫か」
「う、うん……ごめんね、ボク……」
「気にするな。いや、これから気にすればいい」
「うん……」
桜羽は顔を伏せたまま、消え入りそうな声で呟いた。俺は気まずさを誤魔化すように、彼女をゆっくりと解放し、わざとらしく棚の整理を始めた。
茶葉の買い物を終え、俺たちは少し浮ついた空気のままモールのイベント広場へと差し掛かった。
人だかりの中心には、巨大なモニターと最新鋭のVRゴーグル、そして───キャッチャーミットが設置されていた。
『VRシミュレーション:体感165キロ!日本最速の剛速球をキャッチできれば豪華お菓子セットをプレゼント!』
派手な看板に、橘と遠野が泣いて喜びそうな山積みの高級菓子が並んでいる。
「……日本最速」
「あ、大鐘くんって野球やってたんだよね?」
桜羽が期待に満ちた目で俺を見上げる。その瞳には、かつて自分が捨てたはずの白球への熱量が映り込んでいるようで、俺は苦笑いした。
「……ああ。お茶請けのクッキー代、浮かせようぜ」
俺はスタッフに声をかけ、VRゴーグルとキャッチャーミットを装着した。
視界が切り替わり、スタジアムの喧騒がヘッドホンから五感を叩く。目の前には無機質なCGのピッチャーが立っていた。
ミットを構える。左手に残る、あの馴染んだ重み。指先が震える。これは恐怖か、それとも歓喜か。かつて名門と呼ばれる野球部で扇の要として、俺はこの左手で多くの信頼を掴み取ってきた。それと同時に、最後には裏切りという名の重すぎる一球を叩きつけられ、すべてを失った。
(逃げ出した、はずなのにな)
マウンドの投手が振りかぶる。腕がしなり、指先から白い閃光が放たれた。───165キロ。常人には視認すら困難な暴力的な速度。だが、俺の脳は即座に反応する。リリースの瞬間の指のかかり、肩の入り方、風を切る音。
捕球の瞬間、俺はあの日自分を指差した選手たちの冷たい指先を思い出した。自分を切り捨てようとした大人たちの顔を、自分の身勝手な正義を。
迫り来る白球に過去のすべてを叩きつける。逃げずに、絶対に逸らさずに。
バシュッ!っと鼓膜を突き刺すような乾いた破裂音。
一瞬、スタジアムの喧騒が消え、静まり返ったあの日のグラウンドが重なった。自分を責める目線、泥を投げつけられたミット。だが、今の俺の左手にあるのは、それらすべてを「なかったこと」にはさせないという、意地だけだ。
『パーフェクトキャッチです』
無機質な機械の声が、俺の過去を肯定も否定もせず、ただ事実として告げていた。
VRの仮想衝撃が左腕を伝って全身の骨を震わせる。ミットの芯、一ミリの狂いも無く、俺はそのボールを過去の残像ごと捻じ伏せるように掴み取っていた。完璧なストライクだ。
「えっ、一発!?」
「すごっ……!」
どよめく周囲を余所に、俺は無造作にゴーグルを外した。額に滲んだ汗が妙に熱い。心臓が激しく脈打っていた。
「それ、もらっていきます」
豪華なお菓子セットを受け取り桜羽のもとへ戻る。彼女は何も言わず、ただじっと俺の手元を見つめていた。その桜色の瞳には、俺が今つかみ取ったものが単なるお菓子以上の重みであることがバレてしまっているような、そんな気がした。
用事を終えた俺たちは、モールのテラス席で一休みすることにした。桜羽が飲み物を買ってくるのを待っている間、俺の視界にある違和感が飛び込んできた。
死角にある非常階段の影。数人の少年たちが一人を取り囲んでカツアゲまがいのことをしているのに気がついた。
(見逃せるわけないよな……)
俺は立ち上がり音も無く近づいた。
「おい、そんな数人がかりで一人の財布を狙うのは良くない。自分に誇れないやり方は正しくない」
俺は自嘲気味に言った。
特に問題が起こることもなく解決し、無事に絡まれていた少年を送り出した。振り返ると、そこにはトレイを持った桜羽が立っていた。彼女はいつものおっとりした表情ではなく、どこか遠くを見つめるような瞳をしていた。
「大鐘くんって、ヒロちゃんみたいなこと言うんだね。ちょっと似てるかも」
席に戻り、オレンジジュースを一口飲んでから、彼女はポツリと言った。
「二階堂と?俺はあんな厳格じゃないだろ」
「ううん、なんていうか……二人とも正しくて、自分の信念に忠実な所。でも、確かに二人は違うかな。ヒロちゃんは秩序のための正しさを優先してて、大鐘くんはルールとかじゃなくて、自分の納得のために動いてる感じ。それが誰かのためになってたり、そうじゃなかったり……」
言葉を失った。過去の事なんて知るわけないのに、彼女は雑談のついでみたいに俺の核を引き抜いてみせた。彼女の察する能力が高いということはわかっていたが、ここまでのものとは思っていなかった。
俺はどうにか話題を逸らすように、言葉に詰まりながら言った。
「……詳しいんだな、二階堂のこと」
「うん、ボクとヒロちゃん、昔から学校も一緒だったんだ。ずっとそんな感じ。誰よりも正しくあろうとして、いつも自分を律して。ボクはそんなヒロちゃんが大好きだし、今でも本当はもっと普通に笑い合いたいなって思ってるんだ」
珍しく見せた、桜羽の本音。彼女の指先がジュースのカップを少しだけ強く握る。
「今は少しだけ、透明な壁があるみたい」
「えへへ……」と照れるように笑って言葉を言葉を切った。その笑顔の端に、ほんの一瞬だけ縋るような影が差したのを俺は見逃さなかった。きっと二階堂には見せられない、彼女の寂しさ。
しかしその曇りはすぐ無くなり、彼女は俺の顔を覗き込んだ。話を逸らそうとしていた俺を逃さないという風に。
「大鐘くんは、すごいよね。……ハンナちゃんに対しても、シェリーちゃんに対しても、ヒロちゃんだって。相手が何を求めてて、自分がどう動けばいいのか理解して受け入れてる。おっきなミットで、どんな暴投も受け止めてくれるみたいに。……ボクにだって、そうでしょ?なんだか、自分が引きずり出されちゃうみたい」
その言葉に、古傷があるわけでもない左手の掌が、じんわりと熱を持った。……受け止める側には、相応の痛みが伴う。それを彼女は知っていて言っているのか。それとも、俺ならその痛みに耐えられると信じているのか。言葉を失った俺を見て彼女は少し困ったような顔になり、すぐに柔らかい笑顔になった。
「……」
「……えへへ、なんてね。今のはボクの勘違いかも。さっきの大鐘くん、とってもかっこよかったからつい言いすぎちゃった」
彼女はパッと表情を明るくし、いつものふわふわとした雰囲気に戻った。先ほどまでの鋭さは霧散していた。
「あ、そうだ!さっきのお菓子、二人に内緒で少しだけ食べちゃおっか?大鐘くんが頑張ったご褒美ってことで!」
悪戯っぽく笑う。先ほどまでの空気はどこへやら、俺は彼女のペースに完全に巻き込まれていた。
「……食えないやつ」
「えへへ、美味しいものはいつでも歓迎だよ?」
彼女は再び俺の隣に寄り添った。
夕暮れ時。モールからの帰り道、俺たちの影は長く伸びてアスファルトに溶け込んでいた。
手にしたレジ袋からは、先ほど買い足した茶葉の缶がカチャリと小さな音を立てる。お菓子セットの箱の重みは、不思議と心地よかった。
「あーあ、楽しかったなぁ。大鐘くん、今日は付き合ってくれてありがとう」
桜羽は夕日に向かって伸びをするように両手を上げた。ワンピースの裾が、茜色の風にふわりとなびく。
「……こっちこそ。お菓子代、浮かせるチャンスがあって助かったよ。アイツら、これ見たら目剥くだろうな」
「あはは、本当だね」
目に浮かぶような光景に、自然と口元が緩む。
住宅街の静かな道。並んで歩く歩幅が、いつの間にか自然に揃っていることに気づく。
「ねぇ、大鐘くん」
ふいに、彼女が足を止めた。
振り返ると、逆光の中で彼女の白い髪が黄金色の輪郭を持って輝いている。
「ボク、この学園に来て、みんなと会えて本当に良かったって思ってるんだ」
彼女の声は、風に紛れてしまいそうなほど穏やかだった。
「でもね……最近はもっと良かったなって思えるんだ」
彼女はそこで立ち止まり、ゆっくりと俺の方を見つめた。
「大鐘くんが、ここに転校してきてくれて……ボクたちのところに来てくれて本当に、良かった」
真っすぐな視線。そこには打算も、防壁も無い。夕日に照らされた彼女の笑顔はあまりにも眩しい。
裏切られ、居場所を失い、逃げるようにこの学園へやってきた俺に、彼女は「来てくれて良かった」と言った。橘にも言われたはずの言葉。しかし、至近距離で見つめてくる桜羽のそれは、心臓の奥まで直接熱を注ぎ込まれるような、抗いがたい温度を持っていた。
だが、その温もりに浸ろうとした瞬間、脳裏を冷たい氷水が流れる。
『あまり、桜羽エマを深追いするな』
二階堂ヒロの、あの冷徹なまでの忠告。今の桜羽の笑顔に嘘は無い。それは、これまで何百人という人間の「本音」をリード越しに見てきた俺が一番よく分かっている。
それでも、いや、だからこそ、恐ろしい。
この笑顔の裏側に、もしも彼女自身ですら制御できないほどの「何か」が隠されているのだとしたら。
(これ以上はまずいな……)
彼女の懐にこれ以上踏み込めば、あるいはこちらが完全に彼女を受け止めてしまえば、俺はもう二度と、冷静な自分には戻ってこれないような気がした。彼女の抱える寂しさごと、底知れない深淵に引きずり込まれてしまいそうだった。
「……大げさだ。俺はただ、成り行きでここにいるだけだよ」
「ううん、そんなことないよ。成り行きだろうと何だろうと、ボクの隣にいてくれるのは大鐘くんだもん」
俺は彼女から視線を逸らし、前方の寮の明かりを見つめた。
左手の掌に残る、残響のような痺れ。
もしも二階堂の言う通り、彼女が「深追い」すべきではない存在なのだとしたら。この先に待っているのは、俺がかつて経験した以上の暴投なのかもしれない。
それでも、逸らした視線の端で揺れるパステルピンクの裾を見て、俺の左手は無意識に、重い球を受け止めるための形を作っていた。
俺は、明日もお茶会に行くだろう。
隣で笑う彼女の髪から漂う甘い香りを、もう少しだけ嗅いでいたいと思ってしまったから。
夕空に瞬き始めた一番星。一瞬だけ強く、俺の視界を白く染めた気がした。
少しずつ、確実に。
俺の心はかつての泥の色を失い、魔法のような鮮やかさに塗り潰されようとしていた。
魔性エマちゃんです