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今回はヒロ回です。共通ルートのサブタイトルの元ネタが全部わかる人がいれば是非お友達になりましょう
午前六時。学園の食堂は、まだ深い朝霧の底に沈んでいるようだった。
日中には喧騒に包まれるこの場所も、この時間だけは、透明な水底のように静かだ。
俺はトレイを持ち、いつものように隅の席へと向かおうとした。だが、そこに先客がいることに気づき、わずかに足を止めた。
二階堂ヒロ。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、朝日が差し込む窓際で一人、静かにパンを口に運んでいた。
制服の乱れは一点もなく、その佇まいは夜明けの光の中に置かれた彫像のように厳格で、同時にどこか近寄りがたいほどに完成されていた。
俺は少し迷ったが、意を決して彼女の正面、ではなく一つ空けた隣の席を指差した。
「……隣、いいか」
二階堂は顔を上げることなく、ただ無言で空いていた椅子を軽く引いた。それが彼女なりの許可のサインだった。
「悪いな」
俺は腰を下ろし、自分の食事を始めた。
カチャカチャというカトラリーが皿に触れる音と、遠くで調理場の職員が動く音だけが聞こえる。
聞きたいことは山ほどあった。昨日の事件の後始末。黒部の幻視のこと。そして、彼女がこの学園で何を見つめているのか。
だが、俺は口を開かなかった。
横目で見る二階堂は、咀嚼一つとっても、まるで儀式のように丁寧だった。彼女にとってこの時間は、一日の戦いに備えて己の精神を整えるための、聖域のようなものなのだろう。
……今の俺にできる最善は、この静寂を壊さないことだ。
かつてキャッチャーとして多くの投手の前に座ってきた。マウンドで吠えるタイプもいれば、ベンチで黙り込むタイプもいる。二階堂は間違いなく、後者の中でも最も深いタイプだ。彼女の思考の邪魔をしないよう、俺もまた、自分の食事だけに意識を向けた。
十分ほどの、長く、そして不思議と心地よい沈黙。
二階堂が先にカップを置き、小さく息を吐いた。それが、聖域の扉が開かれた合図だった。
「……おはよう、大鐘ヒカリ」
「ああ、おはよう」
「昨日の件、改めて礼を言う。君の迅速な対応のおかげで、シェリーの心と学園の秩序が守られた」
彼女の視線が、俺を真っ直ぐに射抜いた。その瞳には、感謝だけでなく、俺という存在を改めて定義しようとするような、強い理性が宿っていた。
「俺はただ、俺が納得するためにやっただけだ。……ああいう空気は嫌いなんでな」
「それでも、結果は変わらない。……君はあの場において、私以上の守護者だった」
さらりと言ってのける。その評価の重さに、俺は少し窮屈さを感じた。
「放課後、生徒会室へ来てくれるか。埋め合わせと言ってはなんだが、ナノカの件も含めて、共有しておきたい。それと、君個人にもいくつか聞きたいことがある。時間はあるかな?」
「……わかった。行かせてもらう」
二階堂は微かに頷くと、トレイを持って立ち上がった。
去り際、彼女の制服の裾が翻り、わずかに冷たい冬の朝のような香りが鼻を掠める。
「では、また放課後。大鐘ヒカリ」
俺の名前をフルネームで呼ぶその声は、命令ではなく、対等な相手への呼びかけに聞こえた。
残された冷めかけのスープを啜りながら、俺は掌に残る妙な汗を拭った。
放課後の生徒会室は、琥珀色の陽光に満たされていた。革張りのソファが並ぶその空間は、どこか秘密基地めいた緊張感と居心地の良さが同居している。俺はその一角で二階堂の姿を探しながら足を止めた。
彼女は窓際に立っていた。逆光の中、整えられた制服の輪郭が光に溶け込むようだった。手には半分ほど残ったティーカップ。その鮮やかな液体が揺れる様子が、彼女の呼吸を表しているようだ。
「来たか。座りたまえ」
二階堂ヒロは振り返り、簡潔に命じた。俺は促されるまま、革張りのソファに腰掛ける。向かい合うと、彼女の赤く鋭い視線が真正面から射てきた。生徒会長という肩書きに相応しい威厳が、ただの挨拶にすら込められていた。
「まずは昨日の件についてだ」
「支柱の件か。結局、犯人は不明のままか?」
「正確には、特定できなかったと言うべきだ。昨日メールした通り、ナノカの幻視が通用しないという奇妙な事態が起きた。だが……」
二階堂は一度言葉を切り、机上の資料に視線を落とした。指先が資料の端を丁寧になぞる。
「今回の類例は初めてではない」
「何?」
「君がこの学園に来る以前にも、魔法クラスの生徒が不当に疑われる事件があった。あの時は私と、ナノカの力で解決することできたが……その時とは明らかに違う何かがある」
「何か?」
「ナノカはこう言った。何かを感じることすらできない、とな」
二階堂の声は冷徹だったが、その奥にわずかな引っかかりがあった。確信を持てない不安がそうさせているのだろうか。
「さて、そこで大鐘ヒカリ。君に話しておきたいのは……」
二階堂が核心に触れようとしたその時だった。
コンコン。
控えめなノックの音が響き、緊張した空気が一瞬霧散する。二階堂が「入りたまえ」と短く応じると、ゆっくりとドアが開いた。
「ヒロちゃーん、入ってもいいかな?」
ひょっこりと顔を出したのは、桜羽エマだった。彼女はいつものふわふわとした、それでいてどこか周囲の熱を吸い取ってしまうような独特の空気を纏って室内に滑り込んでくる。
二階堂の眉がわずかに、本当にわずかに跳ねた。それは拒絶というより、どう接していいか測りかねているような、複雑で、そしてひどく不器用な色をした視線だった。
「どうかしたのか、エマ」
「えへへ、差し入れだよ。ヒロちゃん、お疲れ様。ずっとお仕事してるから、甘いものがいいかなって思って。これ、期間限定の生チョコなんだよ」
桜羽は迷いのない足取りで近づくと、二階堂の机の上に丁寧にラッピングされた小さな紙袋を置いた。
「……気持ちは受け取っておく。だが、今は取り込み中だ。何度も言っているが、執務時間中に私用の出入りは控えるように」
「あ、ごめんね。つい、ヒロちゃんの顔が見たくなっちゃって……。……あっ、大鐘くんもいたんだ! 偶然だね」
桜羽がこちらを向き、ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべた。その視線に、俺は少し背筋がむず痒くなる。
「大鐘くん、どうしてここに? 悪いことして呼び出されちゃった?」
「……昨日問題があってな、その後始末だ。いや、取り調べってところか」
「えへへ、嘘ばっかり。シェリーちゃんから聞いたよ? 大鐘くんがすっごくかっこよく、冤罪を晴らしてくれたって。正義の味方さんだね、大鐘くんは」
桜羽の褒め方は無邪気で真っすぐなようで、しかし底の知れない空腹のような、吸い込まれそうな熱量があった。
分かりきっていたことではあるが、橘が昨日の件を言いふらしている光景が目に浮かび、俺は顔が熱くなるのを抑えるのに必死だった。
「取り込み中にごめんね。ヒロちゃん、あんまり無理しちゃダメだよ? 大鐘くんも、ほどほどにね。じゃあ、また明日」
桜羽は満足げに微笑むと、嵐のように去っていった時と同じ軽やかさで、パタンとドアを閉めた。
後に残されたのは、先ほどよりも少しだけ甘い香りが漂う、静まり返った生徒会室。
「……全く、エマは。規律というものを少しは自覚してもらいたいものだ」
二階堂は呆れたように溜息を吐いた。
だが、俺は見逃さなかった。扉が閉まるその瞬間、わずかに肩の力を抜くのを。吐き捨てた言葉とは裏腹に、彼女の指先が、机に置かれたばかりのチョコレートの紙袋をまるで壊れ物を慈しむように、そっと柔らかくなぞっていたのを。
(……嫌っているようには見えないな)
少し前、桜羽と二人で買い出しに出かけた時の事を思い出す。桜羽は、二階堂と自分の間には透明な壁があると言っていた。本当はもっと二人で笑い合いたいと。初めて会った時はわからなかったが、今の二階堂の様子を見ているとそれは容易なものに思えた。
二階堂ヒロが桜羽エマに向ける拒絶。それは憎しみではなく、むしろこれ以上近づいてはならないと自分に言い聞かせているような、悲痛な自制に見えた。まるで、愛しさを押し殺すことこそが、彼女にできる唯一の正しさであるかのように。
そして二階堂ヒロが俺に言った、桜羽エマを深追いするなという言葉意味。
「……二階堂」
「本題に戻ろう」
彼女がそう短く告げた瞬間、室内に残っていた甘い香りが、鋭い冬の風に吹き消されたかのように消え去った。
二階堂は机の上のチョコレートを一瞥もせず、背筋を正して元の「生徒会長」へと戻る。
俺はその見事なまでの切り替えに気圧され、喉元まで出かかっていた桜羽に関する問いを飲み込んだ。今は彼女が引いた境界線を越えるべきではないと判断した。
「……ああ、わかった。続けてくれ」
俺が大人しく頷くと、二階堂は僅かに目を細めた。こちらの思いに気づいたのかもしれない。
そして彼女はふと立ち上がると、窓際から背後の重厚な木製棚へと歩み寄り、そこから古びた、しかし手入れの行き届いた将棋盤を引っ張り出してきた。
「どうやら、私と君の二人だけで話すと、どうしても事務的で堅苦しくなってしまうようだ」
(自覚はあったんだな……)
心の中で密かにツッコミを入れたが、口には出さない。彼女は盤をソファの前のテーブルに置くと、駒袋をほどきながら対面に座るよう促した。
「シェリーから聞いている。君は将棋を嗜むのだろう? 昨日の埋め合わせと言っては何だが、一局指そう。……君と私が理解し合うには、言葉よりも対局の方が早いかもしれない」
橘め、俺の生態を桜羽や遠野だけではなく生徒会長にまで報告していたのか。彼女が「大鐘さんはですねー!」と身振り手振りで吹聴している姿が容易に想像できて頭が痛くなる。
「……執務時間中じゃなかったのか。趣味と言っても、本当に片手間程度だ。会長の相手になるかはわからないぞ」
「今日は君と会うのが仕事だ。それと、謙遜は不要だ。私もそこまで強いわけではないが……負けるのは、あまり好きではなくてね。試してみればいい、君の読みが、私に通じるかどうかを」
二階堂の赤い瞳に静かな挑発の火が灯る。
俺は迷いを捨て、彼女の正面に腰を下ろした。
パチリ、と硬い音が静寂に響く。
夕闇が室内をさらに深く染め上げる中、対局は静かに進行した。二階堂の手つきは、彼女の生き方そのもののように正確で、一点の迷いもない。布陣は鉄壁。一切の隙を見せず、着実にこちらの自由を奪いにくる重厚な将棋だ。
対する俺は、彼女の呼吸、指先の僅かな震え、そして視線が盤上のどこに留まっているか、その人間の揺らぎを頼りに駒を動かしていく。
序盤の探り合いが一段落したところで、二階堂がぽつりと口にした。
「……君は、面白い指し方をするな」
彼女は盤面を見つめたまま、次の一手を静かに置く。
「手筋そのものは教科書通りだ。だが、選択肢の取り方がセオリーとは程遠い。君は、動かされる駒よりも先に、相手の人間を見ている。私の心理を揺さぶり、こちらの出方を待っているな」
その指摘の鋭さに、指が僅かに止まる。見透かされている。俺が盤面以上に、彼女という個体そのものを観察していることを。
「……まあ、癖でな。盤の上の形だけじゃ、勝負の本当のところはわからないからな」
「なるほど、職業病か。……君の今まで戦い方が想像できるよ」
二階堂は、俺がかつて野球をやっていたこと、そして捕手というポジションであったことまで把握しているはずだ。彼女の視線が盤面から離れ、俺の目を射抜く。
「君のようなタイプは、相手の意図を食って生きる。日常の中で、他人の思考を読む訓練をしていたのだろう。だが、大鐘ヒカリ。私のような例外とは、初めて戦うことになるだろう」
「さぁ、どうだろうな……」
二階堂の指し手は、さらに苛烈さを増していく。
理詰めで逃げ場を奪い、こちらの観察さえも逆手に取るような完璧な包囲網。彼女の感情を排したそのロジックは、俺がこれまで相手にしてきた人間味のある対戦者とは一線を画していた。
中盤、盤上が火花を散らすような激戦に差し掛かった時。彼女は口を開いた。
「……生徒会に来ないか、大鐘ヒカリ」
唐突な言葉だった。パチリ、と置かれた駒の音だけが、やけに重く室内に響く。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「昨日の件、そしてこれまでの君の立ち振る舞いを見て確信した。君の、周りに流されず周りを見る冷静な観察力、事態を最短で収束させる判断力はこの学園に必要だ。……正確には、魔法という不確定要素を抱えるこの学園を管理する上で、君のような外部の視点は何物にも代えがたい。昨日のような事件がまた発生するかもしれない、その時は君の手を借りたい。今日、君を呼んだ本当の目的はこれだ」
「……買いかぶりすぎだ、生徒会なんて。俺は大勢を率いるようなガラじゃない」
俺は苦笑交じりに、かつての自分をなぞるように答えた。しかし、二階堂は盤面から視線を上げ、射抜くような、それでいてどこか熱を帯びた瞳で俺を見つめた。
「目立つ必要はない。君は大勢を見る必要もない。……ただ、私を支えることだけを考えればいい。……得意だろう? 誰かを守ることは。大丈夫だ、私は君を切り捨てたりはしない」
その言葉に、胸の奥が微かに揺らいだ。自分でも自覚している本能を、これほど的確に、そして独占的に求められたのは初めてだった。
「検討してくれるというまで、逃がすつもりはない。……もし、この一局で私が勝ったら、強制的に生徒会入りだ。いいな?」
「……随分な独裁者だな。いいぜ、受けて立つ。その代わり、俺が勝ったらその話は白紙だ。……いや、それだけじゃ俺の賭けるものが大きすぎるか。少し追加させてもらうぞ」
俺は少し考えてから、不敵な笑みを浮かべた。彼女の鉄の自制心の裏側。先ほど桜羽のチョコに触れていた、あの様子の真相を確かめたくなった。先ほどは遠慮したが、やはりどうしても彼女たちの確執が気になって仕方が無い。少しでも彼女を揺さぶることができればという思いもあり、条件を口にした
「俺が勝ったら――─桜羽エマを貰っていく」
「…………は?」
二階堂の手が、止まった。それどころか、彼女の思考そのものが停止したかのように、その場が静まり返った。
次の瞬間、彫像のようだった彼女の顔が、見たこともないほど赤く染まり、その端正な顔立ちが劇的に崩れた。
「な、ななな何を言っているんだ君は! 突然何を、いきなり何を! 貰うとはなんだ、人を物のように扱うのは断じて正しくない! 倫理性、道徳性、そして男女間における適切な距離感を考慮すれば、今の発言は極めて不適切であり、生徒会長として見過ごすわけには……!」
「落ち着けよ。冗談だって」
思わず、吹き出しそうになるのを堪えながら手を振った。
普段の彼女からは想像もつかないような取り乱し方だ。規律と理性の化身のような二階堂ヒロが、言葉の端々を震わせ、あろうことか「正しくない」を連呼して自壊している。
俺が投げたのは、ほんの小さな揺さぶりのつもりだった。だが、彼女にとって桜羽エマという存在は、鉄壁の論理回路をショートさせるほどの、あまりに巨大な不純物なのだと思い知らされる。
「そもそもエマは私のものではない! 断じて正しくない! 私はただ、彼女がクラスの中で平穏に過ごせるよう、あの子のため、そして学園の秩序のために適切な距離を保っているのであって、私情など一切……いや私情がないわけではないが、それはあくまで友愛としての範疇であって! あ、あの子はあまりにも危うくて、純粋で、放っておけば何が起きるか分かったものではないから私が、私が正しく導かなければならないんだ。エマの無自覚な牙が、どれほど───」
そこまで一気にまくしたてて、二階堂は喉の奥で言葉を詰まらせた。
彼女の視線が、盤上の駒ではなく、もっと残酷で形のない「何か」を凝視しているように見えた。
言いたい。けれど、決して口にしてはならない。
この学園が隠し持っている、あるいは彼女だけが背負っている何かが、その唇を内側から食い破ろうとしている。そんな悲痛な葛藤が、震える体に透けて見えた。
彼女の指先は、盤上の駒が今にも倒れそうなほど震えていた。
完璧な彫像のようだった少女の、あまりにも脆い一面。
呆気にとられる俺だったが、すぐに勝負師としての頭に戻る。
(……指し筋が、ボロボロだ)
感情を排した論理こそが彼女の武器だったはずが、今はそのロジックが桜羽エマへの執着と、隠し事の重圧によって完全に崩壊している。
彼女の瞳に宿る、言葉にできないほどの悲痛な葛藤。それは単なる独占欲ではなく、もっと根深い、暗部に触れているような気配がした。
(……そんな顔させてやりたくて言ったんじゃないんだがな)
だが、ここで手を緩めるのは違う。自分がした事に後悔があっても、勝負するからには最善を尽くさなくては。
彼女は俺に、自分を支えるパートナーにならないかと誘った。だとしたら、全力で踏み込んでくる俺というノイズを、彼女がどう受け止めるのかを最後まで見届けるのが礼儀だ。
俺は、彼女が動揺で甘くした守備の隙間に、一気に叩き込んだ。
「……王手だ、二階堂」
「……! しまっ――─」
彼女がハッと盤面を見下ろす。だが、もう遅い。
彼女の鉄壁だった布陣は、たった一人の少女の名前を出されただけで、もはや修復不可能なほどに瓦解していた。
彼女は震える指で駒を動かそうとしたが、数手先にある詰みを悟り、そのまま力なく拳を握りしめた。
「……負けだ。私の、負けだ」
二階堂は深々と溜息をつき、項垂れた。夕闇に染まった横顔が、いつもの完璧な会長ではなく、ただの少女に見え、俺は胸の奥がチクリと痛んだ。
「……そういえば、桜羽とモールに買い物へ行ったんだ。週末にな」
俺の追い打ちにしか見えないそれに、二階堂は今度こそガックリと机に突っ伏した。
「な、な……っ!? 開き直るつもりか!? 私の『深追いするな』という忠告はどうしたんだ! 君はあの時、確かに承諾したはずだろう!」
二階堂は指の間から俺を睨みつける。その瞳は、もはや怒りを超えて、愛する友を失うような、あるいは犠牲者を見つめるような絶望に近い色を湛えている。
「あいつは、良い奴だよ。柔らかくて、それでいてたまに見せるあの目が、放っておけない。……あいつの魅力も、確かに例外だな」
「ああ……なんということだ。手遅れ……手遅れなのか、大鐘ヒカリ……! 君まで、あの子の引力に捕らわれてしまったというのか……! 私が、私がこれほどまでに細心の注意を払って、あの子を孤独に置いてまで維持してきた均衡を、君という男は……!」
彼女の呻きは、生徒会長の威厳など微塵も感じさせない。
秘密を共有できない孤独と、守りきれないもどかしさに引き裂かれそうな、ただ一人の少女の切実な敗北宣言。
俺は駒を片付けながら、静かに言った。
「二階堂。お前、一人で背負いすぎだ。生徒会の事も、桜羽のことも」
桜羽が何を抱えているのか、彼女は知っているのだろう。そして、それはきっと、安易に話せない事なのだ。彼女が「深追いするな」と告げた真意は、単なる独占欲などではなく、俺を、あるいは桜羽自身を、取り返しのつかない何かから守るための切実な境界線だったのかもしれない。彼女の孤独な守護者としての横顔が、夕闇の中でいっそう痛々しく見えた。
二階堂は顔を上げないまま、唇を噛み締めている。
「……生徒会の件は、前向きに保留させてくれ。昨日みたいな問題があれば呼んでほしい。手は貸す」
勝負に勝つため、軽い冗談のつもりだったとはいえ、彼女に対して良くない事をしてしまった。彼女が必死に守り続けてきた静寂の中に、土足で踏み込んでかき乱してしまったような、申し訳ないという気持ちが胸を焼く。俺は盤上の駒をすべて袋に収めると、少し言い淀んでから続けた。
「……悪かった。さっきの桜羽を貰っていくっていうのは、もちろん冗談だ。本気でどうこうしようってわけじゃない。それから……今日のことは、秘密にしておいてくれ」
二階堂はゆっくりと顔を上げると、まだ赤みの引かない頬を隠すように、ふいと顔を背けた。いつもの鋭い眼差しは鳴りを潜め、そこにはバツの悪そうな、それでいてどこか毒気を抜かれたような色が混じっている。
「……言えるわけないだろう、あんな無様な失態。……君も、もし他言すれば、相応の処置を覚悟してもらう。……いいな?」
声にはいつもの威厳が戻りつつあったが、わずかに震える語尾が、彼女の動揺がまだ完全には収まっていないことを物語っていた。
「ああ。肝に銘じておくよ」
俺は立ち上がり、夕闇へと変わりゆく空を見上げた。
二階堂ヒロ。規律の化身のような彼女が抱える、熱すぎるほどの葛藤。
この学園の「例外」は、どうやら魔法の力だけではないらしい。
ドアノブに手をかけた時、ふと振り返ると、二階堂はまだ席に座ったまま、俺のいなくなった盤面を見つめていた。
その背中は、出会った時の彫像のような硬さはなく、熱を帯びた、体温のある人間の影を落としていた。
エマの魔法は原作通りだと扱いきれないので少し変更があります。この辺りは個別で明かせればと思います。
最初はハンナルートを予定しています。
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