古の灯火   作:丸亀導師

126 / 162
軋轢

 

一九四〇年(昭和十五年)三月。

 

大日本帝国は、未曾有の国家イベントに向けて沸き立っていた。本年開催される『東京オリンピック』である。史実においては泥沼の日中戦争によって開催権を返上し「幻のオリンピック」となった大会だが、この世界線において、帝国はユーラシア大陸の経済的覇権を確立し、圧倒的なインフラと国力を背景に、世界中からアスリートを招き入れる準備を完全に整えていた。

 

そして、この国家的な祭典を「帝都に住む一部の人間」だけのものではなく、全国津々浦々の国民すべてに共有させるため、政府の頭脳集団と逓信省は、極めて野心的なプロジェクトを完遂させていたのである。

 

三月のある晴れた午後。

日本の地方都市――周囲を山々に囲まれた長野県の小さな農村の小学校の校庭に、突如として巨大な黒いサーカス・テントのようなものが設営された。

 

農作業の手を止めた村人たち、そして下校を許された子供たちが、目を輝かせながらその「暗幕テント」の周囲に群がっている。

 

「おい、聞いたか。東京でやってる劇やら運動会やらが、この箱の中で『今すぐ』見られるんだとよ」

 

「活動写真(映画)のことかい? そりゃあ村の広場でもたまにやってるがね」

 

「違うんだと。活動写真はフィルムを汽車で運んでくるから何日も遅れるだろう? これは『テレビジョン』って言ってな。電波に乗せて、東京の景色がそのまま飛んでくるんだと!」

 

村人たちの視線の先には、テントの中央に鎮座する無骨な機械があった。

それは、最新鋭の**「ブラウン管式・移動映写機(プロジェクター)」**である。

家庭用の小型テレビを普及させるにはまだコストと技術の壁が高かったため、政府は「大型の暗幕テントと高輝度のブラウン管映写機をトラックに乗せて全国を巡回する」という、移動映画館ならぬ『移動テレビジョン』のシステムを構築したのだ。

 

この途方もない計画を支えていたのは、日本列島の背骨を貫くように建設された「中継基地のネットワーク」であった。

 

富士山の山頂を筆頭に、全国の標高の高い山々に巨大なマイクロ波中継アンテナが建設されていた。帝都・東京の放送局から放たれた電波は、この山頂のアンテナ群を経由してバケツリレーのように増幅されながら、光の速さで全国津々浦々へと届けられる。それは、極東の島国が世界に先駆けて完成させた、情報通信の超弩級インフラであった。

 

「さあさあ、皆さん! テントの中に入って、席に座ってください! まもなく、記念すべき『全国同時生放送』の第一回テスト放送が始まりますよ!」

 

技師の掛け声とともに、数百人の村人たちが暗幕テントの中に吸い込まれていく。

テントの中は漆黒の闇だった。中央に置かれた巨大な映写機から、真空管が熱を帯びる独特の匂いと、「ジーーッ」という低いハム音が漏れ聞こえてくる。

 

正面に張られた真っ白な巨大スクリーン。

村人たちが息を呑んで見つめる中、カチリとスイッチが入れられ、映写機のレンズから強烈な光の束が放たれた。

 

「おおおっ……!!」

 

暗闇の中、スクリーンにパッと光が満ちた。

ノイズが走り、画面が何度か上下に流れた後、白黒の映像がピタリと焦点を結ぶ。そこに映し出されたのは、東京の立派なスタジオのセットと、緊張した面持ちでマイクの前に座る背広姿のアナウンサーであった。

 

村人たちは、それが「録画」ではなく、今まさに数百キロ離れた東京で生きている人間の姿であるという奇跡に、割れんばかりの拍手と歓声を上げた。オリンピックの開会式や、最新のニュースが、この魔法の箱で見られるのだ。彼らの胸は、新しい時代の幕開けに対する希望で張り裂けんばかりだった。

 

しかし。

スクリーンに映し出されたアナウンサーの顔は、国民の祝祭を寿ぐような笑顔ではなかった。

その表情は石のように硬く、額には脂汗が滲み、手にした原稿を震える指で握りしめていた。

 

『……全国の皆さん。本日は、輝かしいテレビジョン放送の幕開けとなるはずでした。しかし、先ほど、外務省より極めて重大かつ、断じて許すことのできない凶報が飛び込んでまいりました』

 

アナウンサーの沈痛な声が、大型スピーカーからテント内に響き渡る。

先程までの歓声は嘘のように消え失せ、村人たちは水を打ったように静まり返った。

 

『本日未明。中米・パナマ運河を航行中であった我が国の最新鋭貨物船が、アメリカ合衆国軍の武装部隊によって不当に襲撃され、拿捕(だほ)されました。乗組員は拘束され、積荷はすべて強奪されたとのことです。……繰り返します。アメリカ軍が、我が国の民間船を武力で拿捕しました』

 

それは、希望の光を届けるはずだった魔法の装置が、初めて国民に叩きつけた「宣戦布告にも等しい絶望の第一報」であった。

 

時間を少し遡る。

日本のテントでブラウン管が光を放つ数時間前。地球の裏側、熱帯の太陽が容赦なく照りつける中米・パナマ運河。

太平洋と大西洋を結ぶこの人類の偉大な土木建築は、アメリカ合衆国がその覇権を維持するための最も重要な心臓部(チョークポイント)であった。

 

運河の太平洋側入り口、ミラフローレス閘門(ロック)。

巨大なコンクリートの水槽のようなその施設に、一隻の漆黒の巨大船がゆっくりと滑り込もうとしていた。

大日本帝国船籍、特殊高速貨物船『箱根丸』。

 

南米のアルゼンチンから極上の牛肉と小麦を満載し、ヨーロッパの同盟国(ドイツ)を経由してから日本へと向かう途中であった。

この船は、STEL(蒸気タービン・エレクトリック)機関を搭載した最新鋭船であると同時に、極めて特殊な設計思想を持っていた。パナマ運河の閘門の制限サイズ(全幅三十三・五メートル)をギリギリで通り抜けられるよう、全幅を「三十二・八メートル」という極限の寸法(パナマックス)で設計されていたのだ。

 

「……右舷、壁まで残り三十センチ! 左舷、残り四十センチ! 慎重に機関を前進させろ!」

 

箱根丸の船長は、艦橋から身を乗り出し、滝のような汗を流しながら操艦の指示を飛ばしていた。巨大な船体が、分厚いコンクリートの壁に挟まれた狭い水路へと、まるで鞘に収まる刀のようにピッタリと入り込んでいく。

 

船体が完全に閘門(ロック)の中に入り切った瞬間。

背後の巨大な鋼鉄のゲートが、重々しい金属音を立てて閉ざされた。

 

通常であれば、ここから水槽内に水が注ぎ込まれ、船体を数十メートル上の湖の高さまで持ち上げるはずである。

しかし、水位は一向に上がらなかった。

 

それどころか、前方のゲートも固く閉ざされたまま、運河の機能が完全に停止してしまったのだ。

 

「どうした! 機材の故障か!?」

 

船長がパナマ運河局の職員に無線で問い合わせようとしたその時だった。

コンクリートの壁の上、船を見下ろす位置に、土嚢が積まれ、重機関銃の銃口が一斉に箱根丸へと向けられた。

さらに、前後を閉ざされた密室状態の水路の両岸から、完全武装したアメリカ海兵隊の兵士たちが、梯子やロープを使って次々と甲板へとなだれ込んできたのである。

 

「合衆国海軍の名において、本船を接収する! 全員、甲板に腹這いになれ! 抵抗する者は容赦なく射殺する!」

 

拡声器から響く、英語の怒号。

 

「な、何を馬鹿な! 本船は純然たる民間商船だぞ! ここは国際運河だろうが! どんな国際法に基づいて拿捕するというのだ!」

 

船長が艦橋から飛び出し、怒り狂って抗議した。

しかし、乗り込んできたアメリカ軍の将校は、冷酷な笑みを浮かべて小銃の銃床で船長の腹を激しく殴りつけた。

 

「国際法? そんなものはワシントンの政治家が考えることだ。我々はただ『運河の安全保障を脅かすスパイ船の疑いがあるため、臨検・拿捕せよ』という大統領の直接命令を実行しているだけだ。……極東の猿ども。我々の裏庭(中南米)で好き勝手に商売をして、ただで済むと思っていたのか?」

 

将校は船長を軍靴で踏みつけながら、唾を吐き捨てた。

前後の鋼鉄のゲートに挟まれ、身動き一つとれないコンクリートの密室(ロック)

それは、初めから周到に用意された罠であった。アメリカは、日本の巨大なSTEL船がこの「逃げ場のない水槽」に自ら入り込んでくる瞬間を、虎視眈々と待ち構えていたのだ。

抵抗する術を持たない箱根丸の乗組員たちは全員が手錠をかけられ、南米から買い付けた莫大な物資ごと、合衆国の強奪に屈するしかなかった。

 

モンロー主義を侵食されたアメリカの、それは理性を完全に投げ捨てた「狂気の報復」であった。

 

日本の暗幕テントで、アナウンサーがその理不尽な拿捕の事実を告げた瞬間。

全国の会場でブラウン管を見つめていた国民の間に、一瞬の静寂の後、爆発的な怒りが沸き起こった。

 

「ふざけるな! 鬼畜米英め、ただの泥棒じゃないか!」

 

「民間船を軍隊で襲うなんて、海賊と同じだ! なぜ政府は黙っているんだ、今すぐ海軍を出せ!」

 

移動テレビジョンがもたらした「リアルタイムの情報の共有」は、皮肉なことに、国民のナショナリズムと敵愾心をかつてないほどの速度で、そして均一に燃え上がらせる最強の着火剤となってしまった。

 

しかし、政府の中枢も決して黙ってはいなかった。

テレビジョンの画面が切り替わり、首相官邸の記者会見室が映し出される。マイクの前に立った外務大臣の顔は、氷のように冷たく、そして明確な殺意に満ちていた。

 

『……アメリカ合衆国による今回の暴挙は、明白な国際法違反であり、我が大日本帝国への許しがたい主権侵害であります。帝国政府は、座してこの屈辱を受け入れるつもりは毛頭ありません』

 

外務大臣は、カメラのレンズ――すなわち、その向こう側にいる数千万の国民、そして諸外国の諜報機関に向けて、一切の淀みなく言い放った。

 

『本日ただいまをもって、大日本帝国はアメリカ合衆国に対し、同等の報復措置を発動します。**日本列島近海、ならびに我が国の影響下にあるユーラシアの港湾施設において、アメリカ船籍のすべての船舶を臨検、および拿捕する権限を帝国海軍に付与しました。**これは正当なる自衛と報復の権利であります』

 

「おおおおおっ!!」

 

テントの中の村人たちが、立ち上がって万歳を叫んだ。

眼には眼を。船には船を。

その声明が発せられた直後から、太平洋の西半分――東京湾、横浜港、神戸港、さらには台湾や南越(広蒼国)の港湾に停泊、あるいは航行中であったアメリカの貨物船に対し、重武装した海上保安庁の巡視船と憲兵隊が嵐のように襲いかかった。

 

「日本帝国海上保安庁だ! 貴艦を接収する!」

 

昨日まで友好的に荷下ろしをしていたはずのアメリカの船員たちは、突如として突きつけられた銃口の前に震え上がり、次々と拘束されていった。

 

パナマでの拿捕からわずか二十四時間以内に、極東における数十隻のアメリカ商船が日本側の報復として拿捕されるという、異常極まりない事態へと発展したのである。

 

ワシントンD.C.、アメリカ国務省。

コーデル・ハル国務長官の執務室では、かつてないほどの激しい怒号が飛び交ってい

「正気か!! 日本の港にいた我が国の商船が、三十隻以上も拿捕されただと!? あいつらは野蛮な海賊か!!」

 

ハル長官は、顔を真っ赤にして机をバンバンと叩きながら、目の前に立つ駐米日本大使を怒鳴りつけた。

 

「我が国がパナマで行ったのは、運河の安全を脅かすスパイ船への正当な取り締まりだ! それに対するお前たちの狂気じみた報復は、明白な戦争行為だぞ! 今すぐ船を返し、謝罪せよ!」

 

しかし、日本大使は微動だにしなかった。

かつてのアメリカの顔色を窺う弱腰の外交官の姿は、そこにはなかった。彼の背後には、ユーラシア大陸を制覇した巨大なブロック経済と、アムール川でソ連軍を粉砕した無敵の軍隊が控えているのだ。

 

「……ハル長官。スパイ船という荒唐無稽な言いがかりで、民間船を水門に閉じ込めて強奪した貴国が、どの口で国際法を語るというのですか」

 

大使は、氷のように冷たい声で反論した。

 

「我が国の報復は、貴国の暴挙に対する『鏡』に過ぎません。箱根丸と乗組員、そして積荷が完全に原状回復され、パナマ運河の自由航行が再び保証されない限り、極東にあるアメリカの船は一隻たりともお返ししません。……それどころか、次は極東におけるアメリカのすべての資産を凍結することになるでしょう」

 

「貴様ら……! このアメリカ合衆国を脅迫する気か! 我が国の工業力と太平洋艦隊を敵に回して、極東の小島が生き残れると思っているのか!!」

 

ハル長官は激昂し、立ち上がって大使に指を突きつけた。

 

「太平洋艦隊、ですか」

 

大使は薄く笑った。

 

「どうぞ、お好きなように。ですが長官。我々のブロック経済は、もはや貴国のドルも、貴国の鉄も必要としていない。ですが、貴国の経済は我々のアジア市場なしで生き残れますかな? 失業者が溢れ、共産党員がワシントンを行進している現状で、果たして太平洋を渡って戦争をするだけの体力が、今の貴国に残されているかどうか……」

 

「出て行け!!」

 

ハルの咆哮が執務室に響き渡った。

 

「二度とこの部屋の敷居を跨ぐな! お前たちは思い知ることになる。合衆国の真の恐ろしさをな!!」

 

バタン、と重い扉が閉められた。

それが、日米間の「外交」という名のテーブルが完全に粉砕され、修復不可能な対立へと移行した瞬間であった。

もはや、互いの国益を調整する余地はない。

 

アメリカはモンロー主義を脅かされた恐怖から実力行使に出た。日本はそれを許さず、倍返しの報復でアメリカの顔に泥を塗った。互いに振り上げた拳は、相手の顔面を完全に破壊するまで下ろすことができないところまで来てしまったのだ。

テレビジョンという最新鋭の光が照らし出したのは、平和の祭典ではなく、両大国が破滅的な戦争へと猛スピードで転がり落ちていく、その暗い狂気の姿であった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。