一九四一年十二月九日、午前三時。
アメリカ合衆国首都、ワシントンDC。ホワイトハウスの地下通信室は、世界中から殺到する絶望的な悲鳴によって完全に機能不全に陥っていた。
真珠湾の壊滅。フィリピンの陥落。マレー戦線の崩壊。蘭印油田の喪失。そして欧州におけるフランスの事実上の死と、スエズの反乱。
「いったい地球のどこで、我々の味方が勝っているというのだ!」
フランクリン・ルーズベルト大統領は、車椅子の上で顔面を蒼白にしながら絶叫した。大日本帝国とユーラシア・ブロックが仕掛けた「世界同時多発的な総力戦」という情報量の暴力は、米英の指導部から冷静な思考力を完全に奪い去っていた。
だが、この「世界中が燃えている」という前代未聞のパニックこそが、帝国の頭脳集団(上の連中)が周到に計算し尽くした**『致命的な隙(ブラインド・スポット)』**であった。
アメリカのすべての目が太平洋の西側と大西洋の東側に釘付けになり、増援と情報の処理に追われているその裏側。彼らが「絶対に安全な裏庭」と信じて疑わない急所において、静かに、そして致命的な暗殺の刃が振り下ろされようとしていたのである。
同日、午前四時〇〇分。
パナマ共和国沖合一〇〇海里の太平洋上。
星明かりすらない漆黒の海面に、分厚い波を割って、六隻の「巨大なクジラ」が音もなく浮上した。
大日本帝国海軍、最高機密戦略潜水艦。
『須号第一〇〇型(潜特型)』六隻である。
水上排水量三、五〇〇トン。眼鏡式の強靭なダブル・ハル(耐圧殻)を持つその巨体は、荒れる外洋においても微動だにしない。
「……浮上完了。周囲に敵影なし。空に星なし」
「よし。筒(つつ)、開け」
艦長の無機質な命令と同時に、艦橋と一体化した巨大な水密耐圧円筒(格納筒)のハッチが、油圧の低い唸りとともに開かれた。
MBF(特級硬化繊維素材)の防湿コーティングによって、熱帯の過酷な海中を潜航してきたにもかかわらず、筒の内部は完璧に乾燥している。そこには、獲物を待つ「小鳥」たちが、翼を休めていた。
特殊攻撃機『晴嵐』。
一隻につき三機。六隻で計一八機。
整備員たちが飛び出し、レールに乗った晴嵐をカタパルトへと押し出す。
フロート(浮舟)を持たないその機体は、無駄な贅肉を極限まで削ぎ落とされた異様な姿をしていた。胴体の下には、機体そのものの重量に匹敵する「八〇〇キロ徹甲爆弾」が不気味な黒光りを放って懸架されている。
「主翼展開!」
格納筒から引き出された晴嵐の主翼が、油圧とスプリングの簡易ラッチ機構によって「カチッ、カチッ」と小気味良い音を立てて自動固定される。手動での煩雑なボルト締めは不要。すべては「使い捨ての最短射出」のために合理化された機構である。
「一番機、射出(テェッ)!」
シュウゥゥゥゥッ……ダァァァン!!
火薬の閃光すら見せない静粛な「埋め込み式・油圧カタパルト」が、一、一三〇馬力の『栄』二一型エンジンを全開にした晴嵐を、漆黒の空へと打ち出す。
発艦の間隔はわずか数分。
一八機の『小鳥』たちは、MBFが組み込まれた主翼で初期レーダーの電波を逸らしながら、海面スレスレの超低空を編隊を組んでパナマ地峡へと突き進んでいった。
母艦である須号は、一八機すべてを射出したのを見届けると、空になった格納筒を閉じ、再び無音で深海へと身を隠した。
午前四時四五分。パナマ地峡、ガトゥン閘門(ロック)。
熱帯のジャングルを切り裂いて造られた、大西洋と太平洋を結ぶ人類史上最大の土木建築。
そこは、煌々と照らされたサーチライトの下で、異常な喧騒に包まれていた。
真珠湾壊滅の報を受けたアメリカ海軍は、大西洋艦隊の大型艦艇や、ハワイを復旧するための資材を満載した巨大な輸送船を、一刻も早く太平洋側へ通そうと、夜通しで閘門を稼働させていたのである。
「早くしろ! 注水急げ! 太平洋の連中が待ってるんだぞ!」
ガトゥン閘門は、海抜二六メートルのガトゥン湖へ船を引き上げるため、巨大なコンクリートの水槽(ロック)に船を入れ、そこに水を注入して水位を上げる「水のエレベーター」である。
現在、最も巨大な第一閘門の密室の中には、太平洋へ向かうアメリカ軍の大型重巡洋艦と、一万トン級の輸送船がひしめき合い、水位が上がるのを待っていた。
一九四〇年三月、日本の最新鋭貨物船『箱根丸』が、因縁をつけて拿捕されたのと全く同じ、逃げ場のない密室。
「……目標視認。ガトゥン第一、第二閘門。……ご丁寧にも、米軍の艦船が『箱根丸』と同じようにコンクリートの底に収まっています」
高度五〇〇メートル。ジャングルの闇に紛れて接近した一八機の晴嵐の編隊長は、眼下に広がるその光景を見て、風防の中で氷のように冷たく笑った。
「全機、突撃。……あの時の借りを、利子をつけて返してやれ」
五二〇km/hの最高速度で急降下を開始した一八機の晴嵐。
アメリカ軍の対空砲火が火を噴く暇もなかった。フロートを持たない晴嵐の降下速度と静粛性は、彼らの予測を遥かに超えていた。
「敵機ッ! 上空から――」
ヒュウゥゥゥゥゥ……ドゴォォォォォォンッ!!!
第一波の放った八〇〇キロ徹甲爆弾が、ガトゥン閘門の巨大な「鉄の二重水門(ゲート)」に直撃した。
厚さ二メートルを超える鋼鉄の扉が、凄まじい爆発によって紙切れのように吹き飛び、蝶番がへし折れる。
その瞬間、せき止められていた数万トンもの莫大なガトゥン湖の水が、制御を失った滝となって、密室(ロック)の内部へと一気に流れ込んだ。
「うわああああっ! 水が、水門が破られたぞ!!」
「船が流されるッ! 退避しろ!!」
しかし、悲劇はそれだけでは終わらない。
帝国の本当の狙いは「水門の破壊」だけではなかった。彼らは、アメリカの船が閘門の中にいる、このタイミングを完璧に計算してやってきたのだ。
「第二波、投弾!」
続く晴嵐の編隊が、水門ではなく、閘門のコンクリート水槽(密室)の底に閉じ込められている「アメリカ軍の重巡洋艦」と「大型輸送船」そのものに向かって、八〇〇キロ爆弾を的確に叩き込んだ。
ズドォォォォォォンッ!!
直撃を受けた重巡洋艦の弾薬庫が大爆発を起こし、コンクリートの水槽の中で真っ二つにへし折れる。輸送船も爆発炎上し、巨大な鉄屑の塊と化した。
そこへ、破られた水門から流れ込んできた鉄砲水が激突する。
逃げ場のないコンクリートの密室の中で、爆発し、燃え盛る数万トンの巨大な船の残骸が、水流によって激しく揉みくちゃにされ、運河の壁や底を粉々に粉砕しながら折り重なっていった。
完璧な**『雪隠(せっちん)詰め』**であった。
水門が壊れただけなら、数ヶ月で予備の扉と交換できるかもしれない。
しかし、巨大なコンクリートの水槽の中に、自国の軍艦と輸送船の残骸が「何万トンもの巨大な鉄のゴミ(フタ)」として完全に詰まってしまったのだ。
この鉄屑を解体し、引き揚げ、さらに破壊された水門とコンクリート壁をイチから造り直すには、最先端のサルベージ技術をもってしても「最低一年以上」の歳月が必要となる。
「……全弾命中。目標の完全破壊を確認。これより帰投する」
編隊長は通信機に向かって淡々と告げると、機体を反転させた。
任務を終え、爆弾を投棄して軽くなった一八機の晴嵐は、アメリカ軍の追撃機を寄せ付けない速度で太平洋上へと離脱していく。
彼らは母艦である須号が待つ指定海域に到達すると、次々と海面へ胴体着水(ディッチング)を敢行した。
機体は衝撃でへし折れ、海中へと沈んでいくが、コックピットのパイロットたちは強化された底部と救命筏のおかげで無事に海面に投げ出された。
数分後。
海面から静かに潜望鏡と司令塔だけを出した須号が、浮遊する一八名の搭乗員たちを磁気ネットで迅速に回収する。
「搭乗員、全機回収完了。……機体は放棄。直ちに潜航せよ」
「両舷微速。深度一〇〇」
一九四一年十二月九日、午前五時三〇分。
巨大なクジラたちは、自らが解き放った小鳥たちの命だけを胎内に呑み込み、再び一切の痕跡を残さず、太平洋の深海へと溶けるように消えていった。
その日の午後。
ワシントンDCのルーズベルト大統領のもとに、パナマ地峡司令部から「運河の完全機能停止」と「復旧の目処立たず」という、死刑宣告にも等しい報告書がもたらされた。
パナマ運河が物理的に閉塞した。
それはすなわち、アメリカの軍事システムに組み込まれていた『二つの海を自由に行き来する力』が完全に切断されたことを意味する。
真珠湾で燃え尽きた太平洋艦隊を救うため、大西洋艦隊の戦艦や空母を西海岸へ送ろうとすれば、今後は南米大陸の最南端、狂暴な嵐が吹き荒れる「ホーン岬」を、アルゼンチンから出撃してくる日本の潜水艦に怯えながら、数ヶ月かけて大迂回しなければならないのだ。
ハワイの空、フィリピンの海、欧州の森。
そして、このパナマの密室。
大日本帝国が地球という盤面に仕掛けたすべての罠(備え)が発動し、ついにチェックメイトが完成した。
アメリカが太平洋に再びまともな戦力を送り込めるようになるまで、最低でも「半年間」の絶対的な空白期間が生まれたのである。
極東の島国が冷徹に計算し尽くした『絶対国防圏構築のためのタイムリミット』を、彼らは自らの手で、完璧にもぎ取ったのであった。