古の灯火   作:丸亀導師

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古い約束

 

一九四二年四月。

ホノルルの旧イオラニ宮殿の地下バンカー。かつてハワイ王国の栄華を象徴したその玉座の地下で、アメリカ軍ハワイ守備隊の首脳陣と、ハワイ準州議会の議員たちは、薄暗い非常用ランプの下で絶望的な会議を続けていた。

 

「もう限界だ! 市民の配給食糧は完全に尽きた! 日本軍の爆撃機は、我々の高射砲陣地と弾薬庫だけを精密に吹き飛ばし、ホノルル市街には爆弾一つ落とさない。そのせいで市民は『軍が降伏すれば助かる』と信じ込み、暴動寸前になっているんだぞ!」

 

ホノルル市長が血走った目で、守備隊司令官に詰め寄る。

しかし、司令官は頑なに首を横に振った。

 

「降伏はあり得ない。ワシントンは必ずパナマの障害を取り除き、大西洋艦隊を派遣してくる。我々は最後の一兵までこの島を死守する義務が——」

 

「『最後の一兵』とは、我々ハワイの民の血のことか? 将軍。」

 

重苦しい空気を切り裂き、低く、しかし威厳に満ちた声が響いた。

議会の末席から静かに立ち上がったのは、初老の男だった。彼の身なりは質素だったが、その背筋はピンと伸び、褐色の肌と深い瞳には、かつてこの島を統治したカメハメハ王家、そしてカラカウア王の血脈を引く者としての誇りが宿っていた。

 

「……黙りたまえ。今は合衆国の軍事会議中だ」

 

「合衆国、だと? お前たちが六十年前、銃と軍艦で我が女王から不当に奪い取ったこの島で、我々にアメリカ人のために餓死しろと言うのか」

 

男は司令官の制止を冷笑で一蹴し、議会全体を見渡した。

 

「空を覆う日本の爆撃機は、我々を殺すつもりはない。彼らは『降伏せよ』と言っているのだ。……私が代表として、日本軍との交渉へ赴こう」

 

「馬鹿な! 民間人が軍の頭越しに敵と交渉するなど——」

 

「ならば将軍、あなたも同行すればいい。白旗を掲げてな。私が話し合う。これ以上、我々の島をアメリカの無謀な戦争の巻き添えにはさせない」

 

一切の反論を許さない王家の末裔の気迫に、司令官も、そして白人の議員たちも、沈黙するほかなかった。

数時間後。

オアフ島の西岸、ワイアナエの海岸。

白旗を掲げたジープで乗り付けたアメリカ軍司令官とハワイ王家の末裔が目にしたのは、信じがたい光景だった。

沖合には、山のように巨大な『大和型戦艦』がシルエットを浮かべている。

そして砂浜には、日本軍の強襲揚陸艦から上陸した工作部隊によって、わずか数時間で設営された「MBF(特級硬化繊維素材)製の真っ白な交渉用パビリオン」が、太陽の光を反射して輝いていた。

 

パビリオンの内部。

完璧に冷房が効いた空間の長机で、純白の第二種軍装に身を包んだ日本海軍の全権代表——機動艦隊司令長官が、静かに彼らを待ち受けていた。

 

「……合衆国太平洋陸軍、ハワイ守備隊司令官だ」

 

アメリカの将軍は、屈辱に唇を噛みながらも、精一杯の威厳を保って口を開いた。

 

「我が守備隊の武装解除の条件、ならびに『アメリカ合衆国領土たるハワイ準州』の民間人の保護について、降伏の条件を話し合いたい」

 

日本軍の長官は、机の上で組んでいた手をゆっくりと解いた。

そして、目の前のアメリカの将軍には目もくれず、その傍らに立つ「褐色の肌の男(ハワイ王家の末裔)」へとまっすぐに視線を向けた。

 

「貴官の身分は存じ上げている。合衆国の将軍」

 

長官は、流暢な英語で冷淡に告げた。

 

「だが、貴官に『ハワイの処遇』を決定する権限はない。我々にとって、アメリカ軍はただの『捕虜』だ。武装を解除し、収容所へ入れ。それ以上の条件はない。……我々が大日本帝国政府の全権として外交交渉を行う相手は、そちらの『彼』だ」

 

「な……なんだと?」

 

将軍が絶句する中、長官はハワイ王家の末裔に向かって、深く、敬意を込めて一礼した。

そして、従官から一枚の古びた書類の「写し」を受け取り、テーブルの上へ滑らせた。

 

「……これは?」

 

王家の末裔が書類に目を落とす。そこには、ハワイ王国の紋章と、日本の皇室の菊花紋章が並んでいた。

 

「一八八一年(明治十四年)。貴国の偉大なるカラカウア王が、世界周遊の途上で我が国に立ち寄られた際、明治天皇に対して極秘に申し出られた『条約の草案』です」

 

長官の声が、パビリオンの中に静かに響き渡る。

 

「ハワイ王室と日本の皇室との縁組み。そして、白人の帝国主義からハワイを守るための『アジア連邦』の構築。……しかし当時の我が国は、まだアメリカと渡り合うだけの力がなく、血の涙を飲んでその提案を辞退せざるを得ませんでした」

 

王家の末裔の肩が、微かに震えた。

それは、一八九三年にアメリカのクーデターで国を奪われて以来、ハワイの民が六十年間、心の奥底でずっと夢見ていた「あり得たかもしれないもう一つの歴史」の証拠だったからだ。

 

「我々は、ハワイを『占領』しに来たのではない」

 

長官は、かつての非力を詫びるかのように、静かに目を伏せた。

そして、再び顔を上げ、歴戦の海将としての鋭い眼光をアメリカの将軍に、そして深い敬愛の念をハワイ王家の末裔に向けた。

 

「我々は、古い約束を果たしに来ただけだ」

 

その言葉が落ちた瞬間、アメリカ軍の司令官は己が立っている歴史の地盤が、完全に崩れ去るのを感じた。

日本軍は、ハワイを軍事的に征服する気など最初からなかったのだ。彼らは「アメリカの不当な占領状態を排除し、正当なハワイ王国を独立・復興させる」という、国際法上の一切の非の打ちどころがない『大義名分』をもって、この島を大東亜共栄圏に組み込むつもりなのだ。

 

「……王国の、復興」

 

王家の末裔の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。彼はアメリカの将軍を一瞥することなく、日本の長官に向かって、深く、深く頭を下げた。

 

「我がハワイの民は、六十年の時を超えて、真の友人が太平洋を渡ってきてくれたことを歓迎する。……どうか、我々の島を、我々の手に返してほしい」

 

「承知いたしました。陛下(ユア・マジェスティ)」

 

一九四二年四月。

ハワイ諸島は、一発の銃弾が市街地で撃たれることもなく、無血で陥落した。

 

いや、それは陥落ではない。星条旗が降ろされ、かつてのハワイ王国の国旗と日の丸が並んで掲げられたこの日。

アメリカ合衆国は、極東の島国が冷徹な合理主義の果てに見せた「歴史的なロマンと大義」の前に、軍事的にも、そして道義的にも、完全な敗北を喫したのである。

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