絞首台の上の夏(一九四二年 七月〜八月)
一九四二年の夏、ロンドンの空は、かつてないほどに青く、澄み渡っていた。
一八世紀の産業革命以来、この帝国の首都の空を覆い隠していた分厚いスモッグ(石炭の煤煙)が、まるで魔法のように消え去っていたのだ。
しかし、市民の顔に笑顔はない。青い空は、平和の証などではなかった。
それは、テムズ川沿いの巨大な工場群、造船所、そして発電所の煙突が、**燃料の完全な枯渇によって「完全に停止した」**ことによる、死の静寂の現れであった。
「……美しい空だ。我が大英帝国が、産業革命以前の中世の島国へと逆戻りした証だよ」
ダウニング街十番地(首相官邸)の窓からその空を見上げたウィンストン・チャーチル首相は、葉巻を噛み千切りながら、血の滲むような声で吐き捨てた。
開戦から半年。
大日本帝国が地球儀の上に引いた「絶対的な断絶のライン」は、イギリスという国家の血管を、一寸の狂いもなく完全に切断していた。
1.遮断された三つの大動脈(兵站の完全死)
島国であるイギリスが、五千万人の国民を養い、戦争を継続するための「血」たる資源(食糧と石油)を得るルートは、三つしかなかった。そしてそのすべてが、一九四二年の夏までに物理的に塞がれた。
第一の動脈:東方ルート(スエズ〜インド・極東)の喪失
かつての大英帝国の富の源泉。しかし、極東のシンガポールは日本陸軍の装甲部隊に蹂躙され、インド洋の制海権は日本の第一機動艦隊によって完全に奪われた。
頼みの綱であった中東の石油(アバダン製油所)は、親日国家となったペルシア帝国がガッチリと守りを固め、そこへ至るスエズ運河は、エジプト人の大反乱とイタリア・エチオピア軍の猛攻によって、完全に機能不全(航行不能)に陥っていた。イギリスは、誇り高きインド帝国やオーストラリアからの食糧と資源を、一滴も受け取ることができなくなった。
第二の動脈:喜望峰ルート(アフリカ南端迂回)の死
スエズが通れないならば、アフリカ大陸の南端(喜望峰)を回るしかない。しかし、長大な航海を強いられるこのルートには、最悪の猟犬が解き放たれていた。
日本の支援で急速に戦力を回復したドイツ海軍のUボート(潜水艦)部隊である。
史実において彼らを苦しめたアメリカ海軍の護衛艦隊は、今や存在しない。パナマ運河が破壊され、東海岸が『晴嵐』の爆撃でパニックに陥っているアメリカには、イギリスの輸送船団を護衛する余裕など一ミリも残されていなかったのだ。
南アフリカから命からがら北上してきたイギリスの輸送船団は、大西洋のど真ん中でUボートの「ウルフパック(群狼作戦)」に捕捉され、連日、何十万トンという食糧や鉄鉱石が海の底へと消えていった。
第三の動脈:北米ルート(アメリカからの援助)の蒸発
そして最後の希望、アメリカ東海岸から大西洋を横断してくる「レンドリース(武器貸与法)」の援助物資。
これもまた、幻と消えた。日本の爆撃でヘルゲート発電所を失い、さらに沿岸部の工場を内陸へ移転させ始めたアメリカは、自国の軍隊を再建するだけで手一杯となっていた。
「すまない、ウィンストン。今は一隻の輸送船、一ガロンの石油すらそちらへ送る余裕がない。持ち堪えてくれ」
ルーズベルトからの電報は、外交的な美辞麗句で飾られていたが、その本質は「イギリスを見捨てる」という死刑宣告に他ならなかった。
2.飛べない鷲(空軍と海軍の無力化)
「……首相。空軍省からの報告です。航空燃料(100オクタン・ガソリン)の備蓄が、ついに危険水域を割り込みました。……このままでは、あと一ヶ月で王立空軍(RAF)の全機が地上に釘付けになります」
地下の戦時内閣指令室(キャビネット・ウォー・ルーム)で、帝国参謀長アランブルックは、死人のような顔で報告書を読み上げた。
史実の「バトル・オブ・ブリテン(英国の戦い)」において、イギリスを救ったのはスピットファイアやハリケーンといった優秀な戦闘機と、それを操る若きパイロットたちであった。
しかし、いかにロールスロイス・マーリンエンジンが優秀であろうとも、物理法則(熱力学)を無視することはできない。燃やす「ガソリン」がなければ、最新鋭の戦闘機もただの巨大な鉄のオブジェでしかないのだ。
蘭印(パレンバン)の油田は日本に無傷で奪われ、アメリカからのタンカーはUボートに沈められた。
燃料の配給は極限まで切り詰められ、空軍は「本土防空のための緊急発進(スクランブル)」すら躊躇する事態に陥っていた。
パイロットたちは、ただ滑走路の脇で、青空を見上げて歯軋りするしかなかった。
空軍の麻痺は、ただちにドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)に絶対的な制空権を明け渡すことを意味した。
フランスの飛行場から飛び立ったドイツの爆撃機(He111やJu88)は、かつてのようにイギリスの戦闘機に怯えることなく、白昼堂々、まるで演習のようにロンドンやリヴァプールの港湾施設へ爆弾の雨を降らせた。迎撃機が上がってこないのだから、爆撃精度は恐ろしいほど高かった。
「海軍はどうだ。本国艦隊(ホーム・フリート)は出撃できないのか!」
チャーチルの怒声に、第一海軍卿は力なく首を振った。
「不可能であります、首相。スカパ・フローに停泊している戦艦キング・ジョージ5世や空母イラストリアスを一度出撃させれば、数千トンの重油が消し飛びます。……現在、国内に残された重油のすべてを掻き集めても、艦隊を二回動かせば完全に底をつきます。動かせば最後、我が艦隊は二度と港へ帰ってくることはできません」
かつて七つの海を支配した無敵のロイヤル・ネイビーは、皮肉なことに、一発の砲弾を撃ち合うこともなく、ただ「港に浮かぶ巨大な鉄の城」として、スコットランドの冷たい海で静かに餓死しようとしていた。
3.肉体の限界と摩耗する精神(配給手帳の恐怖)
軍隊の麻痺以上に、イギリス社会の根幹を崩壊させていたのは、一般市民を襲う「圧倒的なカロリー不足」であった。
イギリスは伝統的に、消費する食糧の六割以上を海外(植民地やアメリカ)からの輸入に依存していた。その輸入が「ゼロ」になったのである。
政府は農地の拡大や「ヴィクトリー・ガーデン(家庭菜園)」の推進を叫んだが、トラクターを動かす燃料も、化学肥料の原料もない状況で、急に農作物が育つはずもなかった。
一九四二年八月。
市民に配られる配給切符の量は、ついに「人間の生命維持の限界」に達しようとしていた。
* 肉の配給は、週に一回、親指ほどの大きさのベーコンのみ。
* 卵は月に一個手に入れば幸運。
* バターや砂糖は完全に市場から姿を消し、代わりに味がなくパサパサの「代用パン(おが屑やジャガイモの粉が混ざっている)」が主食となった。
街角から、犬や猫の姿が消え始めた。
栄養失調により、子供たちの肌からは艶が失われ、抵抗力の落ちた老人たちが次々と肺炎などのありふれた病気で命を落としていく。
それでも、夏の間はまだ良かった。気温が高いため、暖をとる必要がなく、わずかなカロリーでも人間はどうにか生き長らえることができたからだ。
「我々は海岸で戦う。水際で戦う。決して降伏はしない——!」
ラジオから流れるチャーチルの勇ましい演説は、かつては国民の心を奮い立たせた。しかし、おが屑の混ざった黒いパンを水で流し込みながらその声を聞く市民の瞳には、もはや熱狂の色はなかった。
「……首相は『戦う』と言うが、何を持って戦うんだ? 銃の弾もない。戦車を動かす油もない。我々にできるのは、ただこの島で、静かに『餓死』することだけじゃないか」
熱狂が冷め、冷酷な物理法則(飢え)が市民の理性を支配し始めた時、国家の基盤は音を立てて崩れ始める。
労働者たちのストライキが頻発し始めた。
「兵器を作る前に、パンを寄越せ!」という悲痛な叫びが、炭鉱やわずかに稼働している軍需工場の前で響き渡る。
警察や軍隊で彼らを弾圧しようにも、その兵士たち自身が腹を空かせ、極限の疲労状態にあった。
第一部の終幕:迫り来る「白い死神」
一九四二年八月末。
ロンドンの空を染めていた青色が、少しずつ灰色を帯び始め、朝夕の風に冷ややかな秋の気配が混じるようになった。
地下指令室のチャーチルは、報告書を持つ手を震わせていた。
彼の手元にあるのは、軍事的な敗北の記録ではない。気象庁と配給省が合同で作成した『一九四二年・冬季生存率予測』という、恐るべき数式の羅列であった。
「……石炭の備蓄、平年の二〇パーセント。各家庭への冬期暖房用石炭の配給は、事実上不可能」
「……市民の一日平均摂取カロリーは、一一〇〇キロカロリーを下回る見込み。これは、極寒の気温下における体温維持を不可能とする数値である」
チャーチルは葉巻を落とし、両手で顔を覆った。
「神よ……。この島に、冬が来る」
弾丸も、爆弾も必要なかった。
大日本帝国の「絶対国防圏」と、ドイツの「潜水艦網」が作り上げたこの完璧な密室の中で。
燃料と食糧を絶たれた大英帝国に『冬』が到来することは、数百万の国民が、凍えと飢えによって「物理的に全滅する」ことを意味していたのである。
もはや、勇気や精神論が立ち入る隙はどこにもなかった。
秋の冷風とともに、大英帝国を覆う真の絶望——「死の冬」の足音が、すぐそこまで迫っていた。