古の灯火   作:丸亀導師

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砂漠の砂時計

 

一九四三年、秋。

ニューメキシコ州、ロスアラモス。

標高二千メートルの見渡す限りの荒野に、突如として出現した「秘密都市(サイトY)」。そこは、大日本帝国によって両手足を捥がれ、完全に地球上で孤立したアメリカ合衆国が、最後の全生命力を注ぎ込んで作り上げた「狂気と絶望のフラスコ」であった。

 

失われた一割の頭脳と、砂漠の幽霊たち

 

「……計算が合わない。ウラン二三五の臨界質量に対する中性子の反射断面積が、どうしても理論値から外れる」

 

窓のない薄暗い研究室で、J・ロバート・オッペンハイマーは、血走った目で黒板の数式を睨みつけていた。彼の頬は病的に削げ落ち、指に挟んだタバコは根元まで灰になっていることにすら気づいていない。

 

「オッピー、休んだ方がいい。君はもう三日間もまともに寝ていないぞ」

 

傍らで計算尺を弾いていた若き天才、リチャード・ファインマンが気遣うように声をかけた。しかし、オッペンハイマーは神経質に首を振った。

 

「休む時間などない。東海岸の発電所が次々と日本の潜水艦に吹き飛ばされているんだ。ここの電力がいつまで持つかも分からない。計算を急がねば……」

 

マンハッタン計画。

それは、アメリカが起死回生を狙う「悪魔の火」の錬成陣であった。

しかし、この世界線におけるロスアラモスの研究環境は、史実のそれとは比較にならないほど劣悪を極めていた。

理由は二つある。一つは、日本の『兵糧攻め』による極端な物資不足。高純度の黒鉛も、真空管の替えも、計算機を動かすための安定した電力すらも、この砂漠の施設には満足に届かなかった。

そしてもう一つ。最も致命的な欠陥は、**「頭脳の欠落」**であった。

 

「……もし、彼らがいてくれたら」

 

オッペンハイマーは、黒板の余白を見つめながら恨めしそうに呟いた。

史実において、この計画を成功に導いたのは、ヨーロッパからナチスの迫害を逃れてきた優秀な亡命ユダヤ人科学者たちだった。この世界線でも、その「九割」は辛うじてアメリカに辿り着き、この砂漠で計算に明け暮れている。

しかし、残りの「一割」——それも、歴史に名を残すレベルの極めて優秀な一握りの頭脳が、ここロスアラモスにはいなかった。

彼らはどこへ行ったのか。

 

大日本帝国が構築した「ユーラシア・ブロック経済圏」という絶対的な安全地帯、その中心である東京の『理化学研究所(仁科芳雄研究室)』や、同盟国シホテルーシの極秘施設へ、密かに亡命(あるいは引き抜き)されていたのである。

 

「ユダヤ人を迫害するナチス・ドイツと同盟を結んでいながら、日本は『人種平等』を掲げ、ユダヤ人の科学者や技術者を莫大な資金で保護した……。そして彼らは今、日本のために『何か』を作っている」

 

オッペンハイマーの背筋に冷たいものが走る。

自分たちが手探りで進んでいるこの原爆開発の暗闇を、日本の仁科機関と、自分たちを捨てて日本へ渡った「一割の天才たち」は、すでに通り抜けているのではないか。

日本はとっくに爆弾を完成させており、ただ使う必要がないから使っていないだけなのではないか。

その疑心暗鬼が、ロスアラモスの科学者たちの精神を、見えないヤスリのように削り落としていた。

 

一人の数学者が弾き出した「死のタイムリミット」

 

「オッペンハイマー博士。ウランの濃縮率の話ではありません。……これは、合衆国という国家の『耐久値』についての計算です」

 

その日の深夜。

オッペンハイマーの執務室に、一人の若い統計数学者、デヴィッドが分厚いファイルの束を抱えて飛び込んできた。彼はマンハッタン計画の兵站(ロジスティクス)と、本土の工業生産力の推移を分析するチームの責任者だった。

 

「何だこれは。私は今、爆縮(インプロージョン)レンズの火薬配置で頭が痛いんだ。後にしてくれ」

 

「後ではありません! 今すぐ見てください!」

 

デヴィッドは血相を変えて、オッペンハイマーの机に数枚のグラフを広げた。

それは、物理学の数式ではなく、アメリカ合衆国の「経済」と「工業力」の減衰を示す、おぞましい下降曲線だった。

 

「イギリスが降伏し、南米が日本側に寝返ったことで、我が国へのゴムとレアメタルの供給は『完全にゼロ』になりました。西海岸の工場は死に、東海岸の工業地帯も停電で稼働率が三割を切っています」

 

デヴィッドは、震える指でグラフの一点を指し示した。

 

「我々は今、この砂漠の地下で、来年の夏(一九四四年)に『三個の原子爆弾』を完成させるスケジュールで動いています。……ですが、この計算を見てください」

 

「……なんだ、これは」

 

「爆弾を落とすための『手段』の喪失予測です」

 

オッペンハイマーは息を呑んだ。

デヴィッドが弾き出した数式は、あまりにも冷酷な事実を突きつけていた。

 

「仮に、来年の夏に原子爆弾が完成したとします。しかし、それをハワイや日本本土まで運ぶための超大型爆撃機(B-36)を製造するラインは、今年の冬の時点で『レアメタルとゴムの枯渇』により完全に停止します。さらに、その爆撃機を飛ばすための高オクタン価航空ガソリンも、西海岸の精製所が破壊されたことで、来年の春には備蓄がゼロになります」

 

つまり。

 

「……我々がどれほど完璧な『悪魔の火』を作ろうとも、来年の夏には、それを敵の頭上に運ぶための『翼』も『燃料』も、この国には残されていない……ということか?」

 

オッペンハイマーの声が震えた。

 

「その通りです」

 

デヴィッドは泣きそうな顔で頷いた。

 

「爆弾は、この砂漠の真ん中で重たい鉄の塊として完成するでしょう。しかし、アメリカ軍にはもう、それを運ぶ手段が物理的に存在しない。……我々の研究は、軍事的には、すでに『手遅れ(チェックメイト)』なんです。この計画は、ただの自己満足に過ぎない!」

 

沈黙が、部屋を重く満たした。

彼らは気づいてしまったのだ。大日本帝国の「兵糧攻め」は、原爆の開発そのものを止めるのではなく、「原爆を運ぶための国家の筋肉(工業力と兵站)」を、原爆が完成するよりも先に餓死させるという、完璧なタイムスケジュールで進行していたことに。

 

「……このレポートは、誰が見た?」

 

「私と、私のチームの数名だけです」

 

「直ちに焼却しろ。グローヴス将軍の目に入れば、君は反逆罪で銃殺されるぞ」

 

オッペンハイマーは書類を暖炉に放り込んだ。

しかし、紙が燃えても、一度脳に焼き付いた絶望の計算式は消えない。

アメリカは、もう詰んでいる。我々は、沈みゆく泥船の中で、意味のない花火を作らされているのだ。

 

西海岸からの電報(崩れ落ちる星条旗)

その絶望の計算から数日後の一九四三年十一月。

ロスアラモスを統括するレスリー・グローヴス将軍の執務室のドアが、蹴り破られるような勢いで開かれた。

 

「将軍! ワシントンDCから、最高機密のレッド・アラー卜(緊急電報)です!」

 

副官の顔は、幽霊を見たかのように蒼白だった。

 

「なんだ! 日本の爆撃機がロッキー山脈を越えてきたとでも言うのか!」

 

「違います! ……カリフォルニアです! カリフォルニア州知事の、アール・ウォーレンが……!」

 

副官が読み上げた電報の内容は、ロスアラモスの、いや、アメリカ合衆国という国家の歴史そのものを根底から覆す、信じがたい「裏切り」の報告だった。

 

『本日未明。カリフォルニア州知事アール・ウォーレンは、州兵(ステート・ミリティア)を動員し、サンフランシスコおよびロサンゼルスに駐留する連邦軍の武器庫を強制的に接収。さらに同知事は、アルゼンチン共和国のブエノスアイレスに滞在中の州政府特使を通じて、大日本帝国政府に対し、**「カリフォルニア州単独での、敵対行動の停止および、人道目的の海上封鎖解除を求める『個別休戦』」**の交渉を正式に申し入れた』

 

「……なんだと?」

 

グローヴス将軍は、自分が今、何の言語を聞いているのか理解できなかった。

 

「カリフォルニアが、合衆国(連邦)を裏切ったと言うのか……!? 一つの州が、勝手に敵国と講和を結ぼうとしているだと!?」

 

「事実です! 知事はラジオ放送で州民に向けて演説を行いました。『ワシントンDCの連邦政府は、我々西海岸の市民を見捨てた。我々はこれ以上、ルーズベルトの勝ち目のない戦争のために餓死するわけにはいかない。カリフォルニア州は本日をもって、大日本帝国との間に横たわる一切の敵対関係を放棄し、独自の生存の道を探る』と……!」

 

「馬鹿な……! 馬鹿な馬鹿な馬鹿な!!」

 

グローヴスは机の上の書類を狂ったように払い落とした。

 

「あそこはアメリカだぞ! 星条旗がはためく、合衆国の一部だぞ! それが、敵国に白旗を揚げるだと!? リンカーンの南北戦争以来の、国家の分裂じゃないか!!」

 

大日本帝国の「兵糧攻め」がもたらした真の恐怖。

それは、都市の破壊でも、工場の停止でもなかった。

 

「ワシントンDC(連邦政府)は、我々を守ってくれない」という極限の飢餓と恐怖が、アメリカ国民の心に『国家の解体』という最悪の劇薬を注ぎ込んだのだ。

日本の伊号潜水艦に封鎖され、真っ暗闇の中で飢えに苦しんでいたカリフォルニアの市民たちは、ウォーレン知事のこの「反逆」を、怒りではなく、熱狂的な歓喜の涙をもって出迎えていた。

 

「これで、明日から食い物が手に入る! 日本の爆撃に怯えなくて済む!」

 

もはや彼らにとって、星条旗への忠誠よりも、明日のパンと、夜の明かりの方が遥かに重要だった。

 

巨人の自死(モンスターの檻の中で)

この「カリフォルニアの離反(事実上の独立と日本への恭順)」のニュースは、オッペンハイマーらロスアラモスの科学者たちにも即座に知れ渡った。

 

「……オッピー。カリフォルニアだけじゃない。オレゴン州とワシントン州の知事も、カリフォルニアに追従する構えを見せているそうだ」

 

ファインマンが、乾いた声で報告した。

 

「そうか……」

 

オッペンハイマーは、もはや驚きもしなかった。

彼の脳裏には、数日前にデヴィッドが見せた「死のタイムリミット」のグラフが浮かんでいた。

日本軍は、一人のアメリカ兵も撃ち殺すことなく、たった一枚の外交カードと経済封鎖だけで、アメリカ合衆国の「西半分」を物理的に国から引き剥がしてしまったのだ。

西海岸が日本と休戦すれば、そこは実質的に「日本の保護領(兵站基地)」となる。日本軍はロサンゼルスの港に堂々と入港し、そこから内陸(ロスアラモス)に向けて、無傷の進軍を開始するだろう。

 

「我々は、何のためにこの爆弾を作っているんだ?」

 

オッペンハイマーは、自分の手を見つめた。

ナチスから自由を守るため? 違う。ナチスの同盟国である日本は、今やアメリカの西半分を「飢餓から救う解放者」として迎えられようとしている。

 

「国が……内側から崩れていく。我々が爆弾を完成させる前に、守るべき『アメリカ合衆国』という国そのものが、地球上から消滅しようとしているんだ……」

 

ロスアラモスの地下深く。

ウラン二三五の濃縮施設が立てる、不気味な重低音が響き渡る。

それはもはや、勝利のための兵器の産声ではない。両手両足を捥がれ、自らの西半分を失い、血の海の中で発狂した巨大なモンスター(アメリカ連邦政府)が、死の直前に吐き出そうとしている「自爆のための毒の息」でしかなかった。

 

一九四三年、冬。

大日本帝国が仕掛けた地球規模の兵糧攻めは、ついにアメリカ合衆国の「連邦制」という国家の概念そのものを破壊した。

星条旗の星はボロボロと剥がれ落ち、ルーズベルト大統領が立て籠もる内陸部だけが、狂気の原子爆弾とともに、この絶望的な歴史の終着点へと向かって、ただ静かにカウントダウンを刻み続けていたのである。

 

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