一九四四年、五月。
アメリカ合衆国の広大な内陸部、ニューメキシコ州とアリゾナ州の州境を貫く旧国道六六号線(ルート66)は、音のない地獄と化していた。
かつてはアメリカの繁栄を象徴したそのアスファルトは、ひび割れ、砂に埋もれ、乗り捨てられた無数の自家用車の残骸が、主を失った墓標のように延々と続いている。西海岸の完全封鎖と内陸への産業移転、そして国内経済の自壊。血液(ガソリン)と神経(電力)を失った巨人の末端は、こうして静かに、しかし残酷に腐り落ちていた。
その砂嵐吹き荒れる荒野を、一台のアメリカ陸軍の軍用ジープが、東へと向かって孤独にひた走っていた。
車体には、急造されたカリフォルニア州兵(叛乱軍)のマークではなく、ワシントンDCの連邦政府へ忠誠を誓うアメリカ陸軍第十九装甲師団の白い星のマークが描かれている。
運転席を握るのは、ケンジ・タナカ。元マンザナー収容所の日系二世青年である。彼は今、日本の特務機関『草薙』の一員として、かつての祖国の軍服を纏い、極度の緊張に唇を噛み締めながら、前方の薄暗い荒野を凝視していた。
「……ケンジ。少し肩の力を抜け。そのガチガチの運転じゃ、検問の兵士に『俺はスパイです』と言っているようなものだ」
助手席から、流暢な、非の打ち所のないアメリカ英語で声がかった。
声をかけた男は、アーサー・エリソン大尉。その名も、その白皙(はくせき)の肌も、彫りの深い顔立ちも、どこからどう見ても、東海岸の由緒正しい家柄出身の白人将校であった。
だが、その内実は違う。
彼の本名は、相模(さがまり)エリヤ。
英国人の父と日本人の母を持ち、横浜の山手で生まれ、日本中野学校で極秘裏に「白人としての振る舞いと、アメリカの歴史・文化・言語」のすべてを叩き込まれた、帝国陸軍の至宝とも呼ぶべき『英国系日本人』のスパイであった。
彼ら『草薙』の潜入工作員たちは、その特異な容姿と完璧な語学力、そしてアメリカ国内に張り巡らされた日系人ネットワークを駆使し、今まさに、アメリカ軍が自国を守るために引いた最後の防衛線、その最深部へと潜り込もうとしていたのである。
「……大尉。無理ですよ、リラックスなんて」
ケンジは、バックミラーを気にして、声を引き攣らせた。
「俺たちの後ろ、はるか西の地平線では……今頃、日本の装甲師団が、アメリカ軍の防衛線を食い破っている。その最前線を『逆走』しているなんて……バレたらその瞬間に、俺たちはハチの巣だ」
「だからこそ、堂々とするのだ。我々はモンタナの激戦区から、緊急の伝令をロスアラモスへ届けるために走っている。……そういう『設定』だろう?」
エリヤ(アーサー)は、軍服のポケットから、くたびれたラッキーストライクのパックを取り出し、一本を咥えた。史実のアメリカであれば、高級な煙草は闇値でしか取引されない代物だが、彼らは日本の兵站部から支給された「本物」を持っていた。
ジッポのライターで火を点け、紫煙を車外へ吐き出す。
その煙は、砂嵐に混じり、西の空から伝わってくる、微かな、しかし地響きのような「音」へと吸い込まれていった。
それは、砲声ではなかった。
もっと低く、もっと不気味な、空を、そして大地を物理的に震わせる、人類がかつて聞いたことのない音であった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……!!
その音は、急速に近づいてきた。
ケンジが恐怖に首をすくめる。
「……来た。また、奴らだ」
エリヤは、煙草を指に挟んだまま、助手席の窓から夜空を見上げた。
月のない暗黒の空。だが、その高度一万メートル以上の成層圏に、微かに、しかし確かに「異形の光」が走るのが見えた。
『噴式戦闘機』。
大日本帝国海軍が、基礎技術を基に、日本の機関の超高温・耐熱合金技術を融合させ、開戦からわずか三年で実用化した、まさに『異形の福音』であった。
その日、日本のジェット戦闘機隊は、アメリカ東海岸強襲、および北部突破作戦の「航空掩護」として、初めて戦場に投入されていた。
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ジェット戦闘機 震電
【基本寸法・重量】
全長: 約 10.8 m (※機首先端から風防前端までを2.4mとして算出)
全幅: 約 10.5 m
全備重量: 約 4,500 kg (※機体サイズおよび推力からの推定値)
【発動機・飛行性能】
エンジン: 軸流式ターボジェットエンジン 単発
静止推力: 1,200 kg (※史実のネ330、あるいはネ130推力向上型クラス)
最高速度: 約 900 ~ 950 km/h (推定値・高高度域)
推力重量比: 約 0.26 (推定)
【主翼・空力設計】
主翼平面形: 前縁後退角20度 (高亜音速域での造波抵抗遅延・重心バランス最適化)
尾翼形式: 単垂直尾翼 + 二段階・半遊動式水平尾翼 (高マッハ時のピッチ制御確保・マッハタック対策)
特殊空力装備: 自動空戦フラップ (速度・G感応式。後退角の弱点である低速旋回性能を劇的に向上)
【武装・電子装備】
固定武装: 20mm機関砲 × 4門 (機首集中配置。対ジェット機戦を想定した携行弾数と発射速度の確保)
搭載レーダー: タキ14号クラス (航空機搭載型センチメートル波レーダー。夜間・全天候迎撃対応)
レドーム素材: マイクロバルカナイズドファイバー + グラスファイバー複合材+炭素繊維 (震電特有の鋭利な機首形状を維持しつつ、強度と電波透過性を両立)
【その他】
降着装置: 前輪式(三輪式) (プロペラ廃止に伴い、短脚化・低重心化。未舗装滑走路での運用性と整備性を向上)
運用思想: 地上レーダー誘導と自機のタキ14号による全天候迎撃、および自動空戦フラップ+遊動尾翼を用いた「カウンター格闘戦」
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彼らは、プロペラ機(レシプロ機)の常識を完全に破壊する時速一〇〇〇キロ近い超高速で、アメリカ本土上空へと殺到。
その上空で、アメリカ軍がなけなしのガソリンと電力を掻き集めて飛ばした、史実では無敵を誇ったはずの四発重爆撃機(B-29やB-24の初期型)の編隊へと襲いかかった。
ヒュォォォォォォォォォン……!!!
ジェットエンジン特有の、鼓膜をブチ破るような、悪魔の悲鳴のような轟音。
アメリカ軍の爆撃機パイロットたちが、その音に気づいた時には、日本のジェット機はすでに自機の後方へと走り抜け、二〇ミリ機関砲の猛火を叩き込んでいた。
レシプロ機のアメリカ軍機には、敵の速度が速すぎて、照準を合わせることすら不可能だった。
それは空戦などではなかった。ただの一方的な、速度の暴力を背景にした『処刑』であった。
アメリカ軍の爆撃機は、成層圏で次々と巨大な火柱を上げて爆発、あるいは片翼を捥がれて、動けない東西の沿岸都市へと、絶望的な螺旋を描きながら墜落していった。
「……見ろ。あれが、大日本帝国の技術の結晶だ。我々は、神の領域に踏み込んだのだよ、ケンジ」
エリヤ(アーサー)は、成層圏を切り裂くジェット機の航跡を見上げ、日本語で、静かに、そして誇らしげに呟いた。
外見は白人(アーサー)であっても、その魂は、大日本帝国の勝利を、世界を終わらせるレベルの超技術を、絶対的に信奉する日本の中野学校工作員であった。
「……怖い。俺は、怖いよ」
ケンジは、ハンドルを握る手を震わせた。
「あのジェット機の下で……俺の親族や、アメリカ人の友達が……みんな、焼かれている。大日本帝国は、完璧すぎる。完璧すぎて……俺は、自分が何をしているのか、分からなくなる……!」
「……」
エリヤは、ケンジのその言葉を、煙草の煙とともに飲み込んだ。
彼は、ケンジを責めはしなかった。完璧な兵糧攻め、完璧な海上封鎖、そして今、完璧な超技術(ジェット)によって、アメリカ国民の心は、恐怖と疑心暗鬼で完全に破壊されていた。
その破壊のツケを、今、この潜入工作員たちが、最前線という巨大な檻の中で支払わされているのだ。
彼らのジープが、アリゾナとニューメキシコの州境にある検問所へと近づいてきた。
土嚢とコンクリートで固められたその検問所には、東海岸からの電力が死んだせいで、サーチライトすら点いていない。粗悪なガソリンで動く発電機の、頼りない灯りが、数名のアメリカ兵の姿を照らし出していた。
彼らの軍服は泥と油で汚れ、目は寝不足で赤く血走っている。
東海岸は大停電、北部は日本のジェット機と空挺部隊による強襲で大混乱。ここ南部の検問所にも、日本の南部方面軍が迫っているというデマ(陽動)が流れ、彼らは極限の疲労と恐怖の中にいた。
「……止まれ! 軍、所属、氏名を!!」
検問の兵士が、震える手でトムソン機関銃を構えた。
「落ち着け、兵士」
エリヤ(アーサー)は、ジープを止めると、助手席からゆっくりと、完璧な白人将校の仕草で立ち上がった。その顔には、日本の超技術を目撃した誇りなど一片も残っていない。ただ、アメリカを救おうとする、疲れ果てた忠誠心だけが張り付いていた。
「私は第十九装甲師団、アーサー・エリソン大尉だ。こちらは運転手のタナカ。……アイダホの最前線から、ルーズベルト大統領への緊急の親電を、ロスアラモスへ届ける最中だ。時間は、一分もない」
エリヤは、完璧なモンタナ訛りのアメリカ英語で、工場の溶接不良による粗悪な装甲板を持つアメリカの新型戦車の状況や、日本のジェット機の恐怖、そして空挺部隊による敵地後方山岳への強襲の情報を、まくし立てた。
その情報は、総力戦研究所が傍受した、アメリカ軍内部のリアルな敗北の記録であった。
「日本のジェット……? あれは、デマじゃなかったのか……」
検問の兵士の目が、恐怖に泳いだ。
「……大尉。ロスアラモスに行けば、あの日本の『悪魔の乗り物』を止める方法が、あるのですか?」
「それを、確認しに行くのだ」
エリヤ(アーサー)は、兵士の肩を叩いた。
「我々海軍(※この世界線のアメリカ海軍は死に体)はもうダメだが、陸軍は……我々アメリカ人は、まだ負けていない。……そうだろ?」
「……は、はい! 失礼いたしました、大尉! どうぞ、ご通過を!」
兵士は、エリヤの言葉に、わずかな希望と、そして絶対的なアメリカ人としてのアイデンティティを呼び覚まされたかのように、涙ぐみながら敬礼をした。
「……サンキュー、ソルジャー」
エリヤは、完璧な「アメリカ人のジャズ・タイム(合衆国の時間)」の中で、その敬礼を返し、ケンジに発車の合図を送った。
ジープが検問所を通り抜け、再び砂漠の闇へと消えていく。
そのバックミラーの中で、検問の兵士たちは、自分たちを騙した「日本の影の刃」に対して、いつまでも忠誠の敬礼を送り続けていた。
「……見事だ。大尉」
ケンジが、震える声で言った。
「俺は、本当に、あんたがアメリカの白人将校に見えた」
「……」
エリヤ(相模エリヤ)は、咥えていた煙草を指で弾き出した。
その顔は、再び、冷酷な日本の特務工作員のそれへと戻っていた。
「ケンジ。……これが、我々中野学校の『戦い』だ。……我々は、完璧なアメリカ人になる。彼らの希望も、恐怖も、愛国心も、すべてを偽装(マスキロフカ)し、彼らの懐に潜り込む。……そして彼らの最後の希望(核兵器)を、彼らの愛国心ごと、解体するのだ」
東海岸では、日本の海軍が制空権の無い米国側を、艦砲射撃で一方的にすり潰し続けている。
北部では、装甲師団が、粗悪なアメリカの防衛火器を食い破りながら、少しずつ確実にジリジリと、損害を抑えつつアメリカの内陸へと進んでいる。
その地球規模の大攻勢(陽動)がもたらす完璧な喧騒と恐怖の裏側で。
日本の影の刃は、今、アメリカが最期に埋め込もうとしている「悪魔の罠(核地雷)」の喉元、ニューメキシコ州・ロックハウンド州立公園の岩山へと向かって、静かに、そして確実に浸透を続けていたのである。