古の灯火   作:丸亀導師

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1932年ロサンゼルスオリンピック

1932年(昭和7年)6月23日

初夏の陽光が、明治神宮の深い杜に差し込んでいた。

玉砂利を踏みしめる足音が、静寂な境内に響き渡る。第10回ロサンゼルス・オリンピックに派遣される大日本帝国代表選手団、役員を含め総勢約200名による必勝祈願の参拝であった。

列の中ほどに、引き締まった表情のマラソンランナーたちがいた。

 

津田晴一郎の隣に、金恩培(キム・ウンベ)と権泰夏(クォン・テハ)が並んでいる。彼らの制服の左胸には、鮮やかな日の丸のエンブレムが縫い付けられていた。

二礼二拍手一礼。

 

深く頭を垂れる彼らの背中には、もはや「植民地の代表」という卑屈さは微塵もない。そこにあるのは、帝国の新しい構成員として、世界にその存在を証明せんとする静かなる闘志であった。

 

「……行くぞ」

 

参拝を終え、参道を戻る際、津田が短く声をかけた。

 

「はい」

 

権が日本語で応じ、金が無言で頷く。その視線は、太平洋の彼方、まだ見ぬ決戦の地へと向けられていた。

 

***

 

その日の夜。

帝国ホテルの大宴会場「孔雀の間」は、立錐の余地もないほどの人波と熱気に包まれていた。

天井の巨大なシャンデリアが煌々と輝き、壁には巨大な日章旗と旭日旗が交差して掲げられている。政財界の要人、軍部高官、文化人、そして新聞記者たちが、グラスを片手に選手団を取り囲んでいた。

 

「南部君!期待しておるぞ!」

 

跳躍競技のスター、南部忠平の周りには常に人垣ができていた。彼は笑顔で応えつつ、時折、隣にいる棒高跳の西田修平と視線を交わし、互いの健闘を誓い合っていた。

一方、会場の一角では、ボクシング・ライト級代表の黄乙秀(ファン・ウルス)が、鋭い眼光で周囲を見渡していた。彼の鍛え上げられた拳には、内地や外地という区別を超えた、純粋な「強さ」への渇望が宿っていた。彼に握手を求める人々もまた、彼を「帝国の拳闘家」として何の疑いもなく称えていた。

 

宴もたけなわとなり、応援団長によるエールが始まった。

 

「フレーッ、フレーッ、ニッポン!」

 

太鼓の音が腹に響き、会場全体が揺れるような大歓声に包まれる。

その中には、内地人の野太い声に混じって、朝鮮語の激励の言葉も飛び交っていた。

壇上に上がった選手団主将が、マイクの前で決意を述べた。

 

「我々選手一同は、一億同胞の期待を背負い、正々堂々と戦い抜くことを誓います。太平洋の彼方に、帝国の威信を轟かせて参ります!」

 

割れんばかりの拍手と万歳三唱の中、金恩培はグラスを強く握りしめた。

(見ていろ。俺の走りが、新しい時代の証明になる)

熱気渦巻く壮行会の夜、選手たちの胸には、それぞれの「日本」を背負う覚悟が刻まれていた。

 

***

 

そして、1932年8月。ロサンゼルス。

カリフォルニアの青い空の下、大日本帝国選手団は旋風を巻き起こした。

 

競泳陣は「水泳王国」の名をほしいままにし、男子全種目で表彰台に上がる圧倒的な強さを見せつけた。南部忠平は三段跳で世界新記録を樹立し、黄金のメダルを胸に輝かせた。西田修平は棒高跳で銀メダルを獲得し、その友情の物語は後に語り継がれることとなる。

 

そして、酷暑のマラソン。

金恩培、津田晴一郎、権泰夏は、世界の強豪ひしめく中、互いに連携し、励まし合いながら死闘を繰り広げた。メダルには惜しくも届かなかったが、4位、5位、6位という上位入賞ラッシュは、個の力だけでなく、「チームとしての帝国の底力」を世界に見せつける結果となった。

 

ボクシングの黄乙秀も、勇敢なファイトで観客を魅了し、入賞を果たした。

スタンドを埋め尽くした日系移民たちは、涙を流しながら日の丸を打ち振った。

 

彼らの目に映ったのは、内地人も朝鮮人もなく、ただひたすらに強く、美しい、誇り高き祖国の代表たちの姿であった。

 

 

 

1932年8月 ロサンゼルス近郊 リビエラ・カントリークラブ

 

カリフォルニアの強烈な日差しが、馬術競技場の緑の芝生と白い障害物を鮮やかに照らし出していた。スタンドを埋め尽くした10万人の観衆の視線が、一人の騎手と馬に注がれていた。

 

「次は、日本のバロン・ニシ! 愛馬ウラヌス!」

 

アナウンスと共に、西竹一中佐が姿を現した。

彼が纏っていたのは、見慣れた陸軍の軍服ではなかった。

総力戦研究所が日本の繊維産業の粋を集めて製作した、日本代表統一ユニフォームであった。

 

上衣(ジャケット):

深みのある濃紺のウール製乗馬ジャケット。左胸には、金糸と銀糸で刺繍された**「旭日と五輪のエンブレム」**が輝き、その下に「NIPPON」の文字が刻まれている。

軍服の堅苦しさを排しつつも、品格と機能性を両立させた、美しいカッティング。

 

乗馬ズボン(ブリーチズ):

純白のジョッパーズ。伸縮性と耐久性に優れた新素材(国産の上質綿とゴムの混紡)が使われており、激しい動きにも完璧に追従する。

 

ブーツ:

磨き上げられた黒革のロングブーツ。

彼だけではない。

馬場馬術の今村安少佐、総合馬術の遊佐幸平大尉ら、他の日本選手たちも、同じデザインのユニフォームを着用していた。

 

「おい、見ろよ。日本の軍人たちは軍服じゃないぞ」

 

「なんてエレガントなんだ。まるで英国紳士のようだ」

 

観客席のあちこちから、驚きと感嘆の声が漏れる。

これまでの国際大会では、各国の軍人はそれぞれの軍服で競うのが常識だった。しかし、日本選手団はその慣習を破り、**「軍人である前に、一人のアスリートである」**というメッセージを、この洗練された装いで表現していたのだ。

 

西は、ウラヌスの首を優しく撫で、静かに手綱を握り直した。

軍服の重みはない。肩にあるのは、階級章ではなく、帝国の代表としての誇りだけだ。

 

「行くぞ、ウラヌス」

 

西の合図と共に、金色のたてがみを持つ巨馬が軽やかに駆け出した。

濃紺のジャケットが風になびき、白いズボンが緑の芝生に映える。

人馬一体となったその優雅な飛越は、観衆の心を奪い、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

 

この日、西竹一とウラヌスは、最終障害を見事にクリアし、金メダルを獲得した。

 

表彰台の真ん中に立った西は、軍服ではなく、日本代表のユニフォーム姿で、静かに君が代を聞いた。

その姿は、軍事国家の威圧感ではなく、文化国家としての洗練と、スポーツを通じた国際親善の象徴として、世界の人々の目に焼き付けられたのだった。

 

 

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