古の灯火   作:丸亀導師

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海上保安庁

1933年(昭和8年)5月12日。

 

小雨が煙る横浜港、新港埠頭。

 

華やかな軍艦マーチが響き渡る横須賀軍港の進水式とは対照的に、ここには**「仕事の匂い」**――重油、錆止め塗料、そして湿ったウールの匂い――が漂っていました。

 

総力戦研究所が描いた「兵站防衛の要」にして、海軍が切り捨てた「地味な仕事」を一手に引き受ける組織。

**運輸省外局 海上保安庁(J.C.G. - Japan Coast Guard)**の開庁式および観閲式です。

そこに並んでいたのは、白手袋の貴公子たちではなく、海を知り尽くした**「いぶし銀のプロフェッショナル」**たちでした。

 

整列した約500名の保安官たち。彼らの制服は、海軍の純白(夏服)ではなく、汚れが目立たず、夜の海に溶け込む**「濃紺(ネイビーブルー)」**のダブルブレストでした。

その顔ぶれは、これまでの日本の官僚組織にはあり得ない「雑多な実力主義」で構成されています。

 

1. 列の中央:『背広を脱いだ船長たち』

隊列の指揮を執るのは、商船学校(東京・神戸)を出た予備役将校や元一等航海士たちです。

彼らの立ち姿には、軍人のような「直立不動の緊張感」はありません。しかし、揺れる甲板で何十年も指揮を執ってきた者特有の、足を開き、重心を低くした安定感があります。 

 

* 彼らの視線:

式典の進行よりも、港内の風向きや、停泊中の輸送船の喫水線を無意識にチェックしています。

「海軍さんは『敵』を見るが、俺たちは『荷物』を見る」

それが彼らのプライドです。

 

 

2. 列の右翼:『法帽を被った警官たち』

水上警察や税関から出向してきた一団。彼らの目は鋭く、参列者の中に不審者がいないか、あるいは港の物陰に密輸業者が潜んでいないか、油断なく周囲をスキャンしています。

彼らは「撃つ」前に「警告」し、「沈める」前に「捕縛」する手順を体に叩き込んでいます。

 

3. 列の左翼:『傷だらけの機関兵曹たち』

そして、海軍から移籍してきた予備役の下士官たち。

40代を過ぎ、頭に白いものが混じっていますが、その腕は丸太のように太く、油が染み込んでいます。

彼らが愛おしそうに見つめる先には、岸壁に係留された**「旧式駆逐艦(武装解除済み)」や「武装トローラー」**があります。

 

「海軍じゃあスクラップ扱いだが、俺が整備すりゃあ、あと10年は走るさ」

 

彼らは最新のレーダーは扱えませんが、エンジンの音を聞いただけで不調の原因を当てる神業を持っています。

 

 

演台に立ったのは、初代海上保安庁長官。

彼は海軍大将ではなく、日本郵船出身の**元船長(民間人)**でした。

マイクを通したその声は、潮枯れして低いものの、埠頭の隅々まで届く力強さがありました。

「諸君。

帝国海軍は、敵艦隊を撃滅するためにある。

華々しい勝利は、彼らに譲ろう。

だが、我々の任務はそれ以上に困難であり、かつ重要である。

それは**『届けること』**だ。

一滴の石油、一粒の米、一人の兵士。

これらが海を渡り切れなければ、いかに大和ごとき巨艦があろうとも、国家は一日たりとも持たない。

嵐が来ようと、霧が出ようと、あるいは敵潜水艦が牙を剥こうと、我々は船を出す。

荷物を守り、航路を拓き、必ず目的地へ送り届ける。

諸君は『海の掃除屋』ではない。

帝国の血管を流れる血液、その守護者である。

以上」

 

「万歳!」の声はありません。

その代わり、深く、重い敬礼が一斉に捧げられました。

 

 

岸壁に並ぶ保安庁船(巡視船)の甲板では、装備品の展示が行われていました。

* 75mm 高角砲(旧式):

新品ではありません。しかし、真鍮の薬室は鏡のように磨き上げられ、閉鎖機にはたっぷりとグリスが塗られています。

「古い砲だが、俺たちの腕なら百発百中だ」

ベテラン砲術長が、見学に来た運輸省の役人に胸を張っています。

* 20mm 機関銃:

銃架はスムーズに旋回し、指一本で照準が吸い付くように動きます。

海軍のような電気仕掛けの照準器はありませんが、ここには「職人の勘」という照準器があります。

 

 

式典の片隅で、一人の機関士(朝鮮出身)が、エンジンの点検ハッチを閉じていました。

彼は海軍の志願兵試験で「数学の点数が足りない」と落とされた男です。しかし、手先が器用で、誰よりも真面目でした。

それを見ていた商船出身の船長が声をかけます。

 

「金(キム)君、調子はどうだ?」

 

「はい、船長。このボイラー、少し癖がありますが、バルブの調整で安定しました」

 

「そうか。海軍に行けなくて残念だったな」 

 

「いえ……」

 

彼は、自分たちが乗る少し古ぼけた巡視船を愛おしそうに叩きました。

 

「海軍に行っていたら、私はただの『人足』だったかもしれません。でも、ここでは『機関士』として扱ってくれます。……この船を動かしているのは、私ですから」 

 

 

この日、横浜で行われた地味な式典は、新聞の片隅に小さく載っただけでした。

しかし、総力戦研究所の分析官は、日誌にこう記しています。

「本日、帝国の海上輸送能力における『冗長性(バックアップ)』が確保された。

彼らは英雄にはならないだろう。だが、彼らがいなければ、次の戦争は継続できない」

 

雨上がりの横浜港。

濃紺の制服を着た男たちは、写真撮影が終わるとすぐにネクタイを緩め、スパナとモップを手に、それぞれの持ち場――油臭い機関室や、波飛沫の舞う甲板――へと散っていきました。

 

「さあ、仕事だ。台湾からの砂糖船が入ってくるぞ。誘導しろ!」

 

こうして、大日本帝国の「縁の下の力持ち」、海上保安庁が静かに始動したのです。

 

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