「ねぇ、お兄さん」
遠い記憶が蘇る。
暗い牢獄の中、少女は削げた頬を儚く緩めて、そう言った。
「お兄さんの幌馬車で、私を海まで連れて行ってよ」
♦♦♦
──護衛を、雇ってくるべきだったか。
イレーゾは森中で草葉の揺れる妙な音を聞いたその時、行商人の勘というやつに、2度目の後悔を告げられた感覚を持った。
「ぶるるる……!」
馬は幌馬車を引く脚が止め、まるで威嚇でもするように嘶きを洩らす。
ここは魔除けの森の中。だのに、ひやりと背筋を這うような空気が木立を流れ、イレーゾは跨った馬の手綱を強く握る。
そして。
「な、なんだ……?」
音が、聞こえた。
それは、ひたり、ひたりと、水に濡れた素足が草葉を踏み締めるような音だ。
イレーゾは錆び付いたネジを回すように、茂みへゆっくりと首を向けて。
「イ、ギィ……!」
「ッ!?!?」
ギョロリと、今にも破裂しそうに血走った目玉が、イレーゾを射抜く。
人族の大人程度ほどの体躯をした化け物は、ニヤリと、剥き出しの歯肉から粘性の高い唾液を滴り落とした。
逃げなくては。
思った途端──小鬼に似た化け物は、歪に痩せた背をこちらへ向けて。
「……は……?」
思わず唇から零れ落ちた戸惑い。
どうやらあの化け物は、この場を退いてくれるらしい。
助かった。イレーゾは深くため息を吐き出し、化け物が去り行く姿を見送って。
ぐるりと覗く、血走ったギョロ目。
「グゼァエヤァガアゥアッッッ!!」
化け物はいきなりこちらへ翻り、涎をまき散らしながら駆け出した。
「うわぁぁああぁ!?」
四肢を不気味にぶらぶらと揺らした小鬼の疾走。
その緩急に引き摺り込まれて、イレーゾは我知らず、馬体から転げ落ちて尻餅を着く。
腰の抜けた身体を藻掻けども、身体は、氷の魔術に囚われたみたいに動かない。
「た、たしゅけて……っ!!」
呂律は上手く回らぬ。
増々と化け物の足音は近づく。
イレーゾは両手を組んで女神様へ祈りを捧げ、来たるべき死を予感して。
「──
救済の鐘音が、静寂の木立を響いた。
♦♦♦
ボトリと、何かが大地に落ちる音が、イレーゾの魂を現実に呼び戻した。
「もう、大丈夫だ」
まだ幼さを残した声。
いつまで経っても身体を傷つけられる気配が訪れず、ゆっくりと、強張った瞼を持ち上げる。
目から光を失くした化け物の頭が、目と鼻の先で、ごろりと転がっている。
「ハッ……ハハッ……!」
死んだと思ったら生きていた。自分を殺すはずの化け物は、首を泣き別れになっていた。
もはや事態が上手く呑み込めず、無意識に頬が引き攣る。
安全を認識した身体は、泥のように弛緩して──ザっと、視界を割り入る冒険靴。
「立てるか?」
見上げると、深緑の外套に身を包んだ少女が、イレーゾヘ手を差し伸べていた。
背丈はそれほど高くない。
長く伸びた、青っぽい黒髪、輝く黄金の丸い瞳。
竜鱗みたいに艶やかなローブを身に纏った少女は、16、17ほどと見える。
その左手に握られた短剣が血を滴っている様子からして、彼が化け物を倒したようだ。
「君、は……?」
「ただの冒険者だよ」
魔獣の皮で編まれた冒険靴。その品質の良さから、彼が粗悪な冒険者とは一線を画する実力を持つことは伺える。
イレーゾは差し出された右手を取って、どうにか立ち上がった。
「いやぁ……ありがとう、ありがとう。本当に、助かったよ」
「どういたしまして、と言っておこうか」
木漏れ日を浴びた少年は、慣れた調子で血払いを済ませて。
「さて」
男女構わず人を狂わせそうな美麗な笑み。
「対価をいただいても構わないな?」
イレーゾはぐっと、胸の詰まるような感覚に後退った。
やはり、姿がどうであれ冒険者か。金にはがめつい。なんとか値交渉を。
しかし命を助けられた手前、そんなことができるはずもなく。
「あぁ、お代は要らないんだ。欲しいのは情報だ」
「……情報?」
「こんな辺境へ、あなたは何をしに?」
イレーゾは引き攣る喉に生唾を吞み込み、商売用の笑みを仮面に張り付けた。
「この辺りには……アラリヤ村というのがあってね。僕はそこに向かっている途中なんだ」
少女は顎に手を当てながら、ジロリと、碌に商品も載せていない幌馬車を眺める。
「護衛も居ないようだし……俺で良ければ、タダで同行しよう」
「い、良いのかい……?」
「あぁ。偶然、目的地が一致しているからな」
無料を恐れよ。
商人の鉄則を知ってはいるが──やはりというか、イレーゾは商人だった。
「じゃあ……お言葉に甘えるよ」
「よし、決まりだな」
そう言って少女はこちらへ背を向ける。
けれど直後、首だけ振り向いた。
森に残滓を残した黄金の瞳が、何かを試すように細みを帯びて、イレーゾを映す。
「……アラリヤ村。それは確か──」
──
遠い日のこと。
『だから、リフィちゃん。それまでここで、待っててくれるかな?」
『……うんっ! 待ってるね、お兄さん!』
暗い檻の中、やつれた顔を綻ばせた少女の姿が、脳裏を駆け巡る。
一呼吸の間に、寄せては返る森の囁き。
イレーゾは思わず林冠に青空を仰ぎ、小さく息を吐いた。
「……あぁ、そうだよ。あの村は、人を魔に堕としてしまう土地なんだ」
今日から毎日投稿します。
よろしくお願いします。
【相談】『未来視で幼馴染のことが分かるんだが、絶望しかない』を読んでくださっている読者の皆様へ。どちらの文体の方が読みやすいですか。次回作の文体の参考にしたいと思っていますので、良ければご協力いただきたいです。よろしくお願いします。
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未来視で幼馴染のことが分かるんだが
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海想ふ
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ちょっと固めなこっちも悪くはない
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やはり文体は軽さ……軽さこそが至高……!