「ねぇ、お兄さん」
それはとても美しい少女だった。
大きな黒い瞳に、ほんのりと赤い豊頬に。
それでいて、大人を先取りしたみたいに、肩先を揺れる艶やかな蒼白の髪に。
そんな、きっと将来は大層な美人になるだろう少女は、何故かは知らぬが行商のイレーゾに懐いていて。
彼女はいつものように荷台を漁っては、その日の戦利品を馬車の床に広げていた。
「この『うみ』ってどんなの?」
こてんと、少女は私の膝に座りながら小首を傾げる。
イレーゾは少女の指差す絵本を眺める。
「海はね、とても大きな水溜まりだよ」
「水溜まりって、この?」
山の麓にあるアラリヤ村は、海なんてものとはとことん無縁の土地だ。
イレーゾは漁村の光景を思い出し、首だけ振り向いた少女へ告げる。
「……そうだね。見渡す限りが水浸しになっていて、それがお日様と風に揺られてきらきらと揺らめいているんだ」
「そして、ずっとずっと遠く、世界の果てまで水溜まりが続いている。それが海だよ」
「へぇー!」
一体、海を知らぬ少女にとって、海とはどのような姿で描かれているのだろうか。
「そのうえ、物凄く塩辛い」
「え? お水がしょっぱいの?」
「そうだよ。海の水は飲めたもんじゃないんだ」
「んひひ! 海って変なの!!」
今度の少女はケラケラとお腹を抱えた。
一体、今の話の何が面白かったのか。まぁ、彼女が楽しいいならそれでいいか。
笑みを零す少女を眺め、イレーゾは心から思う。
そうして少女は、一頻り笑ったあと。
「ねぇ、お兄さん」
ふと思いついたように、イレーゾの腕へ抱き着く。
そして。
「
……もしもだ。
もしもこの時点で、僕が少女の行く末を知っていたのならば、
僕は彼女に、別の言葉を掛けていたのだろうか。
イレーゾはふと思案して、いや、きっとそんなことはなかっただろうな。
在りもしない未来を、闇に放り捨てる。
少女の末路を知ろうと、どうせ僕はあの時と同じように、曖昧な答えを返したのだろうから。
「うーん。どうだろうね。もう少し君が大きくなったら、また考えることにしようかな」
♦♦♦
数年ぶりに訪れたアラリヤ村は、思い出を色褪せていた。
時刻はまだ、陽が傾き始めた昼下がり。
だのに、無邪気に走り回る子供たちが見当たらない。
井戸端会議に精を出す母親たちの声が聞こえない。
「待ってたぜ。行商人の兄ちゃん!」と、肌の焼けた農夫が温かく出迎えてくれることもない。
雑草ばかりとなった麦畑が、ひゅおりと、かつては村の中心であった場所に閑静に風を囁く。
人影は二つだけ、廃墟の面影を立ち尽くしていた。
「……ここには、うじゃうじゃと化け物がいると思ってたんだけどね。正直拍子抜けだよ」
「へぇ。とても、化け物の前で腰を抜かしていた人の台詞とは思えないな」
なんて、軽口でも叩くようなのんびりとした会話。
けれどもヨベルさんは廃墟に居座る化け物を短剣で貫き、ドサリと、地面に打ち倒す。
慣れとは恐ろしいものだ。
イレーゾは茫然とヨベルさんの武勇を眺めながら、会話を繋ぐ。
「どうしてここには、あの化け物が一匹しかいなかったんだろうね」
ヨベルさんはその場に屈み込み、瓦礫の山から白骨を掬い上げた。
「恐らくだけど、奴らは奴ら同士で潰し合っていたんだろう」
あの化け物と同種の遺骸だ。
「そうして勝ち残った一匹が、この土地を支配した」
「なら、森で見かけたあの化け物は、縄張り争いに負けてここを追われたのかもしれないね」
化け物の件に関しては、一先ずの結論を得た。
「さて、イレーゾさん」
眩しいまでの黄金の瞳が、揺らぐ黒髪の向こうから覗く。
「思ったよりも安全そうだけど、万が一がある。弔い人の場所まで付いて行って構わないかな」
ぐっと、魂が現実へと引き戻されたような感覚だった。
「それは……その」
「問題があるなら、近くで待機している」
「いや、違う。あぁ、問題はない。問題はないんだ」
そうだ。
僕はかつての選択を懺悔する為に、村へとやって来たのだろう。
言葉を濁して誤魔化してはならない。思案することから逃げてはならない。あの場所へと、僕は向かわねばならない。
「……迷うようなら暫し待つが」
「……いや……行こう。今すぐにだ」
「そうか。では、案内を頼むよ」
ぎゅっと締め上がる心臓。
鉛のように重い足。
脇の下に脂汗を滲ませながら、イレーゾは一歩進んでは立ち止まり、それでも、少しずつ廃村を進む。
そして村の外れに、小さな小屋を見つける。
「……やけに頑丈な造りだ。倉か何かか?」
「……
かつては出る者を塞ぐため厳重に掛けられていた鍵は、今やその機能を失っていた。
「外で待っていようか」
「いや、扉を開ければ分かることだから」
扉に手を掛けて、一度、イレーゾは大きく息を吸い込む。
例えこの先にどのような結末が待っていたとしても、全てを受け入れなくてはならない。
イレーゾはグッと、右手に力を込める。
思い切り扉を開く。
暗所だけが、空間を切り取ったみたいに広がっていた。
あの緑の化け物も、海を望んだ少女でさえも、木格子の向こうにはいなかった。
「……誰も、いないな」
「あぁ、人一人としていない」
イレーゾは食い入るように相槌を打って、己の目が映し出すものが紛れもない事実であることを認識する。
吸ったまま吐くことを忘れていた息が、ゆっくりと、口の端から溢れ出す。
それは安堵か。落胆か。
思わず零れた吐息が何を意味するのか、イレーゾは自分でもよく分からなかった。
♦♦♦
「イレーゾさん。これであなたはこの地での目的を果たした。その認識で良いか?」
小屋を出て村中へ戻ると、斜陽を浴びた深緑の街灯が、くるりとこちらを翻った。
イレーゾは夕影の雑草に映った自分自身を、茫然と見つめる。
「そうだね。あとは……帰るだけだ」
言っておきながら、一体、どこへ帰るつもりなのか。
どうやら思った以上に、自分はこの結末に堪えているらしかった。
「……ヨベルさんの方は、何かを得られたのかい?」
「さて、な。少なくとも、今晩はここに泊ることにするよ」
彼女はフードに陰った顔を、茜色の空へと持ち上げる。
「時刻も時刻だ。帰路に着くのは明日にするべきだと思うけど、イレーゾさんは?」
「……同意するよ。ここで一泊していこう」
イレーゾは適当な廃屋を野営地に決めて、せっせと夜に備えた。
「ヨベルさんは、魔法は不得手なのかい?」
「あぁ。特に火魔法は専門外だ」
人力で作った焚火を囲い、携帯食を食べるだけの沈黙に薪の音が響く。
やがては、廃屋に敷いた寝袋へ蓑虫のように包まった。
「おやすみ、イレーゾさん」
「あぁ、おやすみ、ヨベルさん」
程あって、微かな寝息の音が、薄明るい焚き火の傍に聞こえた。
夜はもう深い。けれどもイレーゾは一睡もすることが出来ず、一人、星も見えぬ夜空を見上げてる。
牢獄に居なかった彼女のことが、頭の中をへばり付いて離れてくれないのだ。
「……」
あの暗い部屋に化け物の暴れた跡がなかったということは、恐らく少女は、魔に身を堕としてはいない。
けれど、そうなるとなぜ、彼女はあの部屋に居なかったのか。
やはり村長の話の通り、彼女は『数奇な運命』を背負わされたのか。
とりとめのない思考が絡まり合う。
そしてそのどれもが、水平線のようにただ一つへと集約していくような気がする。
そんな根拠のない予感に駆られて、イレーゾはふらふらと、仄かに冷たい深夜の廃村を歩き回る。
やがて、村の中心に見つけるものがあった。
「あれは……井戸?」
長らく歩いていたせいだろうか。
喉が、乾いていた。
イレーゾは導かれるがままに、苔むした古井戸から水を汲み上げてみる。
「……綺麗だ」
月光でも浴びているのか、海原みたいに輝きを帯びているようにさえ思える。
これなら、水が死んでいることもないだろう。
イレーゾは両手を椀に掬った水を、仰ぐように口元へと近づけて。
「──待て! イレーゾさん!!」
鼓膜を貫く切羽詰まった声。
けれど時は既に遅し。
イレーゾは思わず身体を震わせるも、井戸水へと口を付け。
気が付くと、
「……あれ?」
確かに口内へ含んだはずの井戸水が、ない。
喉を通った覚えもない。
そしてヨベルさんの右手の中には、井戸水が揺らめいている。
「……ヨベルさん? 今のは……」
「なるほど。そうか。やはり……」
彼女はイレーゾの疑問に答えることなく、ぶつくさと呪文の詠唱みたいに独り言を唱える。
その末に、黄金の瞳が、闇に軌跡を引いてこちらを見た。
「原因はこの水だ」
「え?」
「この井戸水が、人を魔に堕とす原因なんだ」
ぽっかりと、イレーゾは口を開いた。
「こ、こんな何の変哲のない井戸水が……?」
「あぁ。知らない人間からすれば、ただの水だ。だからこの井戸を利用していた村人たちは魔物へと変じた」
確信を帯びた口調で言うヨベルさん。
「それが、人を魔に堕とす土地の真相だ」
イレーゾは恐る恐る、声を震わせた。
「じゃあ……もしも僕たちが、この水を飲めば」
「魔物へと変じるだろうな」
ゴクリと、生唾を吞む音が夜風に紛れる。
この井戸水が、村人を魔物に変えてしまった全ての原因だったのだ。
再検証するように、イレーゾは不意と古井戸へ向き直って。
ぐらりと、牢獄と井戸の姿が重なった。
「……ぁ……!」
電撃的に頭を貫く推察。
イレーゾは何度も何度も、この結末に齟齬が生まれないかを頭の中で検証する。そしてそれは一つまた一つと確信に満ちていく。
あぁ、そうか。
そういうことだったのか。
これは魔王の呪いでも魔瘴の影響でもなく、彼女の怨嗟だったのだ。
無為にその命を奪われた少女の恨みつらみが、この呪いの根源なのだ。
思考がそこへと至った瞬間、イレーゾは世界に押し潰されるかのような重圧に呑まれ、その場に膝を突いた。
「……う……あぁ……!!」
「……イレーゾさん?」
ピクリと眉を動かしたヨベルさんが視界に映らない。
喉の奥から、言葉にならない呻き声が洩れ出す。
何かに悔いるように、己の不甲斐なさに打ちのめされたように、イレーゾは恥も外聞もなく大地に蹲ることしかできなかった。
そうして長い長い時間が経過し。
ふと思う。
そしてイレーゾはふらりふらりと立ち上がり、茫然と、古井戸へ導かれる。
「……何をするつもりだ」
とそこに、割り入る深緑のローブ。
イレーゾはうわ言を呟きながら、足を踏み出す。
「……僕は、ここでこの水を飲まなければ……!」
あの選択を、彼女に謝罪することができないのだ。
イレーゾが更に前へと進めば、バッと、両腕が広がる。
「魔に身を落とせば魔法が使えるようになると思ったら大間違いだぞ。そう選択を焦ることは、」
「駄目だ! そんなことをすればまた僕は選択することから逃げ出してしまう!!」
そうだ。
一晩もおいてしまっては、私はきっと駄目になる。
また、次に来た時にそうしよう、だなんて結論を先送りにしてしまう。
だから、だから──。
「──僕はこの水を飲む! 化け物に身を堕として彼女に懺悔すると、ようやく決めたんだ!!」
もはや、世界には自分と井戸水しかなかった。
イレーゾは心中するかのように、井戸へと身を投げようとして。
「……チッ。悪くは思うなよ」
これまでの柔らかい口調からは一転。
耳元で悪態をつく声が聞こえたと思ったら、首筋を響く重い衝撃。
「……ッ!?!?」
視界が、黒く染まった。
♦♦♦
バチッと、篝火の鳴らす音に意識が爆ぜた。
星も見えない夜空が、視界いっぱいに広がっている。
「……ここ、は……」
朦朧と左右に首を振ったところで、首裏を走る妙な痛撃。
イレーゾは顔を顰めて右手を添える。
篝火の傍に座り込んでいたヨベルさんは、微かにフードを伏せた。
「済まない。手荒な真似をした」
そこで、イレーゾは先ほどの滑稽な自らを思い出した。
「……いや、こちらこそ、申し訳がないよ」
恥じ入るように頬を浮かぶ苦笑い。
彼は何も言わずに、ただ、篝火へ薪を放り投げる。薪の燃える音だけが暗闇の廃村に染み渡る。
その沈黙が、イレーゾには有り難かった。
「……なぁ、ヨベルさん」
長い静寂の末に、振り絞った言葉。
イレーゾは星の見えぬ夜空を見上げ、遠く、過去へと思いを馳せる。
「少しだけ、聞いてくれるかな?」
「何も選ぶことのできなかった、無様な男の話を」
【相談】『未来視で幼馴染のことが分かるんだが、絶望しかない』を読んでくださっている読者の皆様へ。どちらの文体の方が読みやすいですか。次回作の文体の参考にしたいと思っていますので、良ければご協力いただきたいです。よろしくお願いします。
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未来視で幼馴染のことが分かるんだが
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海想ふ
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ちょっと固めなこっちも悪くはない
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やはり文体は軽さ……軽さこそが至高……!