「ねぇ、お兄さん」
遠い記憶が蘇る。
暗い牢獄の中、少女は削げた頬を儚く緩めて、そう言った。
「お兄さんの幌馬車で、私を海まで連れて行ってよ」
♦♦♦
少女を模した化け物が一匹、暗闇へ消える水平線を見つめている。
まるで水泡のように、完全な無色透明となったその身と髪。
そしてその細い首には、懐かしい布袋が、今も提げられていた。
「……リフィ、ちゃん」
ゆらりゆらりと、海波が寄せては返る。
離岸流へ吞まれるように、イレーゾは彼女に右手を伸ばして、一歩、二歩。
三歩繰り出そうとしたところで。
「待て。イレーゾさん」
ぐいと、後ろから肩を掴んで引き戻される。
「見誤るな。あれは既に少女ではない。かつて少女であった名残りを持つ、ただの化け物だ」
ヨベルさんの言う通り、少女は既に、人の身を捨てていた。
全身からとめどなく体液を流す姿は、言うなれば、人の形をした液状魔物である。
「恐らくは、あれの体液が地底に海を作り、井戸水に繋がる水脈へと合流していたのだろう」
それだけ言って、彼女は左腰に差した短剣を抜いた。
背後から獲物を狙う狩人のごとく、着実に化け物との距離を縮めていく。
彼女が今から、何をしようとしているのか。
悟ったイレーゾは、衝動的に彼の前へと立ちはだかった。
「ま、待ってくれ! ヨベルさん、彼女は──」
ぱしゅ。
紙風船が潰れるような音が、浜辺の方から聞こえた。
イレーゾは振り返ろうとして、ズキリ。
右頬に走る異常な熱さに、とっさに頬へと手を当てる。
そして。
「…………え?」
イレーゾの右手は、ベタリと、赤色に濡れていた。
認識した途端、鋭い痛みが右頬を広がる。
どうして、己の頬から血が流れている。何かで斬りつけられたか?
しかし原因だろう刃物は、地底の海には見当たらない。
顔を顰めて前方の暗闇に目を凝らせば──糸のように細い何かが、洞穴の側面を穿っていて。
「ウ……ミ˝ャァァ˝ァ˝アアア˝ア˝──!!」
猛り上がるおどろおどろしい高音の絶叫。
海波が激しく浜辺へ押し寄せ、冷たい飛沫を背中に散らす。
イレーゾは耳を塞いで振り返れば──無数の細かい体液が、地底の大空洞から降り注ぐ様が映る。
「下がれ!」
グイと力強く掴まれる首元。
イレーゾは浜辺の奥へと転がった。
少女が透明な髪から発射した体液は槍の雨ようだ。
辺りの岩盤に降り注いでは、岩を溶かすみたいに次から次へと貫通していく。
が、イレーゾの元に脅威は及ばない。
目にも止まらぬ短剣捌きが、迫るその細い体液をすべて斬り落としたのだ。
「キ……ィ˝ィ……!!」
雨のような攻撃が止む。
外敵が二匹、どちらも生存しているのが腹立たしいのだろう。
化け物は本能に突き動かされて、少女の表情を酷く歪める。
「これで分かっただろう? 彼女はもう、その身も心も侵されている」
浅瀬に浸る岩盤に、ばしゃりと、両膝が固くぶつかった。
「……案ずるな。無為に少女を傷付けるつもりはない」
落とした目線の向こうから、労わるような声が温かく響く。
「一撃で、終わらせるさ」
それだけ言い終えて、ヨベルさんは悠然なる足取りを響かせる。
先の雨槍のような攻撃に、外套の裾さえ貫かせなかったその強さ。
化け物は海を背に、後退る。
「聖剣の詠唱者よ」
ぽちゃんと、地底の海に浸かる化け物の片足。
ぐっと重心を落としたヨベルさんは、黄金の瞳を暗闇に光らせて。
「お前の力は人の毒となる。悪いが……ここで死んでもらうぞ」
そう言った彼女は、浅瀬の岩盤を思い切り蹴り上げて。
次の瞬間、ぶちりと、空間が捻じ切れた。
気が付くと、お互いの位置を入れ替えているヨベル君と化け物。遅れて水面を鳴らす水飛沫。
少女の目を大きく見開いた化け物は、その胸に、木の幹をくり抜いたような小さな穴を開いている。
「……え……?」
まるで、何が起こったのか分からない。
けれど、全てが終わった。
淡く輝く光の玉を化け物の胸から奪い取ったヨベルさんを見て、それだけは確信できた。
「さて、イレーゾさん」
ゆるりと拾い上げた短剣を鞘に収め、黄金の瞳は、壮大なる地底の海を遠望する。
「彼女は何を願い、何を望んだのだろうな」
それはどこか、イレーゾを諭すような声色で。
「後のことは、貴方に任せるとするよ」
振り返ったヨベル君は、とても優しい微笑みを浮かべていた。
♦♦♦
ただ一目、海が見たかった。
だから願った。
一度で良いから、海を見てみたいと。
願ったその日から、目の前には海が広がるようになった。
海は青かった。
広かった。
美しかった。
本当のことを言うと、海は思っていたよりも青くはなかった。
けれど代わりに、浜辺に寄り返る波音の心地良さを知れた。
海を照らす星々の神秘を知れた。
だから、一目海を見られた私は、満足している。
そのはずなのに、
何かが足りない。
憧れの海。首に下げた小さな布袋を見る度に、私は胸を空いた穴に寒くなる。
けれど、何が足りぬかは分からぬまま、私は今日も海を見る。
浜辺に腰を下ろし、海を見て、待つ。
ただ待つ。
結局、何が足りなかったのかを思い出せずに歳月は流れ、やがては何かが足りぬことも忘れてしまって。
だけども、今日、私はようやく思い出せた気がする。
「……リフィちゃん。遅くなって、ごめん」
いつもは誰もいないはずの浜辺に、今日は私以外の影が映る。
ふと顔を上げれば、背の高い男の人が、弱々しく微笑んでいる。
私はその笑顔を懐かしく思う。
男は私と目線を合わせるようにしゃがみ込んで、花束の冠を扱うみたいに、首に下げた布袋を優しく両手に取り上げた。
「星の砂は、確かに受け取ったよ」
それは、私の大切なもの。
だけど、あなたなら、良い。なんとなく、そう思える。
「さぁ、約束通り、海を見に行こうか」
そう言ってその誰かは、温かくて大きな手で、私を暗い場所から引っ張ってくれた。
今日はなんだか、身体がとても軽い。
今なら海鳥さんみたいにどこへだって飛んでいけそうで、私はゆっくりと、誰かと洞穴を辿る。
もう、その目に暗い海は映らない。
けれども、彼女は満足だった。
♦♦♦
イレーゾが再び洞穴を出ると、無数の星々が、夜空を祝福していた。
どうやら僕たちは、終日地底にいたらしい。
暗闇に長らく入り浸っていたせいか、夜空に煌めく星の一つ一つが太陽のように眩しく思える。
振り返ると、闇を孕んだ大穴。
行きはあんなにも恐ろしく思えたそれが、今はなんだか名残惜しく思えた。
野営を挟んで廃村へ引き返し、森の草を食って元気の良い愛馬の元へ辿り着く。
太陽が頭上に登った頃、ヨベルさんを乗せた幌馬車は、見渡す限りの草原に伸びる主街道へと抜け出した。
「ここまで来たら、もう、魔物の心配はないな」
終わりの言葉が、荷台からポツリと響く。
イレーゾは石畳の敷かれた街道に馬を止め、護衛料を支払う。
つもりが、荷台から降りた彼は受け取らない。
「欲しいモノは、確かに手に入ったからな」
ヨベルさんは軽く左手を握ったり開いたりして、やんわりと護衛料を断った。
さわりと、微風に草原がささやかな音楽を奏でる。
水面のように揺らぐ草原に、流れる沈黙。
イレーゾは陽光を受けて濃く輝く深緑の外套を眺める。
「ヨベルさんはこれから、どうするんだい?」
「聖都へ戻る」
「その道中に、立ち寄りたい場所もあるからな」
彼女は決意の固い様子で言った。
「……そっか。じゃあ残念だけど、ヨベルさんとはここでお別れかな」
元来、冒険者と行商人とはそのような物である。
別れが重くならないよう、イレーゾはあっさりと笑ってみせた。
「イレーゾさんの方こそ、これからどうするつもりなんだ?」
「僕は海を目指すよ」
迷いなき回答に、快晴の青空を見たみたく見開く黄金の瞳。
それから、ヨベルさんは凛と甘い顔つきに、くつくつと笑みを響かせる。
「なるほど。それはまた、随分と思い切りの良い返事だな」
「約束、だったからね。運賃も受け取ったことだし」
イレーゾは首に提げた皮袋を軽く握り、今もたくさん詰まった星の砂を実感した。
「今のイレーゾさんは、とても晴れ晴れしい顔をしているよ」
ふと言われて、気が付く。
自らが、自然と頬を綻ばせていることに。
「きっと、これは正しい選択だったからね」
化け物にでも成り果てた私と、未だ暗い海に囚われる少女と。
本来であればそんな結末が待っていたのだろうと、イレーゾは強く思う。
なればこそ、ここまで導いてくれた彼女へ向けて、イレーゾは朗らかに笑顔を浮かべた。
「だから、素敵な選択をありがとう、ヨベルさん」
彼女はとても眩しいものを見たように笑みを落とし、言葉を返した。
「……どういたしまして、とだけ言っておくよ」
それだけ言って、彼女は背を向ける。
「では、な」
「うん。またどこかで」
フードの付いた緑の外套。腰に下げた短剣。肩に下げた革袋。
出会った時となんら変わらぬ彼女は、右手を挙げてイレーゾに別れを告げながら、一人広大な草原を歩いていく。
曰く、聖剣を探している。聖女の護衛を務めた。転移の魔女との付き合いがある。
まるで冗談みたいなそれらの話は、あながち嘘ではなかったのかもしれない。
イレーゾはその輝かしい背中を見送りながら、なんとなく思った。
「さて、そろそろ私たちも行こうか」
ぽつりと呟き、馬に飛び乗る。
「地上の海も、負けず劣らず美しい場所だからさ」
イレーゾは馬体を手のひらで打ち、その手綱を確と握った。
イレーゾは草原を征く。
大地を胎動する蹄。
ごうごうと響く車輪。
清々しい空気を切るように進みながら、海のある街へと馬を走らせていく。
緑の草原は広く、澄み渡る大空は青く……あぁ、世界がこんなにも輝いて見えるのは、いつ振りだろうか。
イレーゾは図らずも笑みを零しながら、爽快なる風に身体を靡かせた。
「海、楽しみにしてるね!」
少女の声が、聞こえた気がした。
『海想う』
ということで冬休みスペシャルの完結でございます。
ここまで読んでくださった読者の皆様へ感謝を申し上げます。他にも色々物語を描いているので、良ければ筆者のマイページを覗いてみてください。
最後にはなりますが、アンケートにご協力いただき、ありがとうございました。
今後の作品作りの参考にさせていただきます。