「必要悪と言うが……世界が悪を必要としているかと言うと、正確には少し違うと思っている」
幼馴染の男は、降り注ぐ月光のみが頼りとなる暗い山道を、丁寧に丁寧に登っていった。相変わらず整えられていない険しい山道ではあるが、彼の足跡を辿って歩けば、足場はしっかりとしており、転倒の危険性もない。
「表側の綺麗な世界では、生きていけない人間というのが一定数いて、悪の道は、そういう輩にとって最後の砦なんだ。ここでしか生きられない人間というのが、明確に存在する。――だから、悪は確かに必要なものだ」
男から語られる言葉に、青年はひとまず頷いた。ひとまず頷いてはみたものの、あまりしっくりとこない話だ。
前を歩く男はこちらを振り返りはしない。ゆえに、青年がどんな顔で話を聞いているのか知るよしもなく、しかし、そんなことは気にも留めていないのか、とうとうと話を続けた。
「俺の生まれはトキワシティだ。だが、先祖代々トキワにルーツがあるというわけじゃない。親の流れ着いた先が偶然トキワシティだったというだけのこと。そして知っての通り、俺の家族は周辺住民には煙たがられてた。――なんせ、親は半グレだったからな」
青年は思わず顔をあげた。
トキワシティの町外れ、田舎の一軒家が青年の実家である。青年の家は、代々そこに住まう農家であった。周辺の住民もその多くが、そのあたりにルーツを持っている。
故にであろうか、地域ぐるみで仲が良く、人と人との距離が近かった。近すぎるほどであった。昨日の出来事がすぐに人の噂となって蔓延する。
――あそこの子と遊んじゃ駄目よ。余所者だし、親があんまりよくない仕事をしているらしいの。
キィについて、何度となく実親に言われたことを覚えていた。だが、親はすぐに近所の噂を鵜呑みにする人間だったので、幼き頃の少年はそれを話半分に聞いていて、「きっとご近所さんとトラブルを起こして仲間はずれにされてしまったんだろうなぁ」という程度にしか捉えていなかった。
ゆえに、その噂が珍しく真実に沿っていたことを初めて知る。――キィの親も、また、今の彼同様に、反社会的組織に属していたのだ。
「ご近所さんに倦厭されることは俺にとっては生まれてからずっと当たり前の光景で……だから、そこまで気にはならなかったな。中にはお前みたいに何も考えずに懐いてくる阿呆なガキもいたし」
「阿呆って……」
「初めて生まれで挫折を味わったのは、十歳を超えた頃だったろうか。――俺にも俺なりに、子供らしくいろんな夢を見ていた時代があったんだ。ポケモントレーナーになって、リーグに挑戦して、チャンピオンになりたい。あるいはジムリーダーになるのも悪くないと思っていたな」
人並みにヒーローに憧れる時代があったんだよ、と男は笑った。
それは多くの子供の抱く、一般的な夢だ。カントー各地のジムを巡ってバッジを集め、ポケモンリーグへと挑み、最強のポケモントレーナーとなって君臨する。多くはジムに挑戦するその途中で夢やぶれてしまうのだけど。
「だが、俺はスタート地点にも立つことができなかった。――知ってるか? 反社勢力に関わりのある者には、ジムにチャレンジする資格は与えられない」
「……そうなの?」
「とは言え、証明書みたいなものを提出する必要のあるわけではないからな。『関わりなどない』と嘯いて挑戦することも考えたが、もしバレればその時点でバッジを剥奪される。俺の親が半グレであることはトキワでは有名な話だったし、近隣住民は噂好きときた。隠し通すことはできないだろう。――馬鹿らしくなって、挑戦すること自体を諦めた」
「……」
青年は言葉に窮する。彼に、そんな過去があったなんて、露ほども知らなかった。
ポケモントレーナーになるためには、そこそこの器量が必要不可欠だ。ポケモンを捕えるためのノウハウや、捕らえたポケモンを強化する手法、そしてバトルのいろはなど、覚えることは多い。しかも、ポケモンの種類は多岐にわたり一つとして同じものはなく、同じポケモンでも個体差があるときた。
「なりたい」という憧れや熱量だけで突き通せるほど生易しい道ではない。「ポケモントレーナー」として生計をたてていけるのは、ほんの一握りの選ばれた人間のみであった。
青年は、自分には到底そんなことができると思わなかった。ゆえに、ポケモントレーナーに憧れたことがないとは言わないが、最初から目指すことのなかった道だ。
だが、キィは昔から、頭のいい少年だった。彼くらいの器量があれば、不可能ではない道だったはずだ。あるいは、ジムリーダーやチャンピオンにもなれたかもしれない。――そう思わされるくらい、彼にはカリスマ的な才能がある、それなのに。
親の職業でもって、挑戦することすら許されなかった、なんて。
自分の能力とは何ら関係のない、もはや生まれついた定めによって、門前払いをくらい、夢破れた。その絶望たるや、いかほどであったことだろう。
「俺が夢を諦めた数年後くらいかな、父親が半グレ集団の内輪揉めに巻き込まれて失踪して、母親も父親を探しに行ったまま帰ってこなかった。俺は特にやりたいこともなかったし、トキワの家に愛着も何もなかったし、とりあえず稼ぎ口を探そうと思って各地を転々としていた」
キィが10代後半の年の頃。青年はもう少し子供だった。
確かに、キィの家がある日突然もぬけの殻になって、近隣住民が良からぬ噂をいろいろたてていた記憶がある。借金を返せなくなって夜逃げしただとか、悪い組織に追われて逃げているだとか――また突拍子もない噂をたてられているなぁと思ったものだが、あながち的外れでもなかったということだ。
「最終的に辿り着いたのが、タマムシシティのゲームセンターだ。ゲームセンターなんて俗な名前がついているが、あそこは要は賭場だからな。負ければ一文無し、借金地獄。だが、うまくいけば大金が手に入る」
いわゆる、ギャンブルというやつだ。確かにタマムシシティには、ギャンブルに負けて路頭に迷う人間がごろごろ転がっていた。それは社会問題にもなるほどに。賭事というのは中毒性があるらしく、外れるとわかっていても一度当たりの快感を味わうと抜けられなくなってしまうそうだ。
が、この男は、ギャンブル中毒というわけではない。
「闇雲に金をいれて無一文になっても仕方ねえからな。いかにして金を増やすか、そればかりを考えていた。まずは、足繁く通って、ゲームの様子を観察した。するとふと、当たりの法則が見えたんだ。そこからは簡単だ――要はイカサマだ」
さらりと言うが、賭場の法則を読んでイカサマを仕掛けるなんて、そうそうできることではない。誰でも彼でも出来ることであれば、賭場の経営も成り立たない。並外れた度胸と度量、聡明さが必要だったはずだ。
しかも彼は、そこから3年近くイカサマによって稼ぎ続けたのだそうだ。相当な、キレ者である。
「あまり派手に当てると目立つからな。気付かれないように、気付かれても見逃される程度に、調整しながら勝ち続けた。それでも3年くらい経った頃かな、さすがに元締めに見つかり、見逃してもらえなかった。ゲームセンターを出たところで裏に連れてかれて、ボコボコにされたよ。その元締っつーのが、この組織だ」
この組織――すなわち、青年やキィの属しているこの反社会的勢力のことだ。組織の事務所はタマムシシティゲームセンターの裏口から入って地下にある。つまりあのゲームセンターもろとも、組織のものなのだろう。
ギャンブラーたちから金を巻き上げ、社会問題も引き起こした賭場は反社組織のフロント側というわけである。
「複数人の男に取り囲まれて殴る蹴るされてな、身動きできなくなった。ここで死ぬのかなと命の危機を感じたよ。そこに通りがかったのが当時の若頭――今のボスだ」
飄々とした好青年だったという。一見、毒のなさそうな若者のようだが、服の裾や胸元から、ちらりと巨大蛇アーボックの入墨が覗いた。
その男が、身動きできずに路地裏に転がされたキィの前に屈み込んで、声をかけたのだそうだ。
――このままだと野垂れ死んじゃうね。若いのに、可哀想。なにか言い残したことはある? 聞いてあげるよ?
ふざけた男だと思った。だが、無言で死ぬのも癪だったので、最期の力を振り絞った。少しでもこの男共の記憶に残るようにと、噛み付いた。
――俺を殺して正解だ。生かせば、俺はいつかてめえらに復讐するだろうよ。いや、俺なんかを産み出した、この世界に復讐してやる。世界を、征服してやる。
死にかけて意識が朦朧としていたこともあり、支離滅裂なことを言い放った。
が、支離滅裂ではあるものの、本心であった。
自分を産み落としておきながら何一つ恵んではくれなかった。
この世界の全てが、敵だ。
人間もポケモンも、生きとし生けるもの全てに、復讐してやると。
本気でそう思ったのだ。
「その支離滅裂さが受けたのかな。死に損なった。『この組織で働かないか』と誘われて、今に至る」
キィを路地裏に連れ込んでボコボコにした構成員は、当然の如く反対したそうだ。――こんな生意気な若造を組織にいれてどうするんですか、と。
単純に自分の縄張りでイカサマを繰り返した若者に腹が立っていたのかもしれないし、暴行を加えたこと対する復讐を恐れたのかもしれない。
その真意は不明であるが、当時若頭であった好青年は、吠える構成員らをぴしゃりと黙らせた。――その生意気な若造にいくら持ってかれたんだ、てめえらは。悔しいならこいつより稼いでみやがれ。
そのような経緯で、組織に所属することとなったキィであるが、そこからめきめき頭角を現し、莫大な利益を組織へともたらすこととなった。
しかし、いくら利益をもたらしているとは言え、古参の構成員の中にはキィをよく思わないものも一定数いる。身内での揉め事ほど無駄なことはないと思っているキィは、――何しろ彼は組織内の内部抗争により、親を失っている――誰ともつかず離れず、目立った活躍もすることないよう配慮しながら、今まで穏便に過ごしてきた。
あえて、人の上に立つつもりなど、なかったのだ。
これまでは――。
「――だが、ここ数ヶ月、お前を見ていてわかったことがある」
「……。……俺を?」
キィの話をひたすら聞くに徹していた青年は、突如話の矛先が自分に向いたことに驚き、顔をあげた。
彼の壮絶な生い立ちを、聞くのは初めてであった。それを噛みしめることだけで手一杯なわけであり、この話の流れで自分が出てくることに違和感しか覚えない。
「俺なんかを見ていて……キィくんに、影響を与えることなんか、ないでしょ……」
故にぽつりと呟くと、「あるな」と前から低い声色で返事があった。
「お前を見ていて、つくづく思い知らされたんだ。――俺は、ここでしか生きていけない人間なのだ、と」
――ここでしか生きられない人間というのが、明確に存在する。だから、悪は確かに必要なものなんだ。
つい先程、彼はそのように語った。あれは彼自身のことを指していたのかと、ようやくその言葉の意味を理解する。
「もう、腹は括った。俺の居場所はここにしかない。燻ぶるも上り詰めるも、あとは俺次第だ――上を目指すのであれば、ここで、のし上がっていくしかない」
暗い山道の先に、ふと、光が見えてきた。キラキラと鬱蒼と生い茂る木々の葉の合間から差してくるのは、月光だ。
月が徐々に、近付いてくる。まもなく山頂に辿り着く兆候であろうか。
しかし、それにしては、周りに他の構成員の姿が見えなかった。全員目指す先は同じ、月の下に集うというピッピを狙い、山頂を目指しているはずだったのに、皆どこに行ってしまったのだろう。否、実を言うと、結構前から、自分たち意外の組織構成員の姿は見えなくなっていた。
キィは「こっちだ着いてこい」と迷う素振りも見せずにまっすぐここまで歩いてきたけれど、本当にこちらで道はあっていたのだろうか。キィが道を迷うとは思わないのだけれど――自分たちは、組織に指示されたのとは違う道を、歩いてきてしまったのでは?
そんな青年の疑問に答えるかのように、前を歩く男がぼそりと零した。
「この道は、俺が単独で見つけ出した抜け道だ。おそらく組織の他の連中には知られていない」
やはり、と思う。どうりで他の構成員の姿が見えないわけである。
ここは、彼しか知らない、秘めた道――果たして、その道の先はどこに繋がっているのだろう。
「このまままっすぐいくと、山の尾根に出る。ピッピが集うと言われている頂上付近のクレーターを見下ろしながら、そのまま抜けていくことが可能だ」
山頂付近が近づくと背の高い木々の数は減り、一気に視界が拓けていく。
雲一つない晴天だ。濃紺の空の帳に、ぽっかり浮かぶ満月は、まるで作り物みたいに美しい。
「あとは、この先の獣道を辿れ。まっすぐ下っていけば、ニビシティとトキワシティの間まで出ることができる」
「……。え……?」
絵画と見紛う美しい月に見惚れ、反応がワンテンポ遅れた。
自分たちは山頂を目指していたはずなのに、今この男は、「町までくだれ」とそう言わなかったか?
そしてそれは聞き違いなどではなかったらしく、男はさらに言葉を畳み掛けてきた。
「お前はこのまま逃げろ」
「逃げる……?」
「生まれ故郷へ――トキワシティの外れまで戻るんだ。そして二度と、この世界には戻ってくるな」
何を言われているのかわからず、眉根を寄せる。
逃げる――とは、どういう意味だ?
と、青年が逡巡していると、突如キィの手がこちらに伸びてきた。胸倉を掴まれ殴られるのでは、と一瞬身構えたが、理由もなく殴られるわけもない。
伸びてきた男の手は、青年の羽織っているジャケットのポケットへと伸べられて、その中に転がっていた石を掴んで持っていった。――山の入り口で青年が躓き転んだ謎の石である。てっきりこれが「月の石」なのかと思ったのだが、そうではなかった。正体不明の石だ。
「これは……太陽の石だな」
青年のポケットからそれを取り上げた男は、橙色に光る石の表面を撫でて厳つい顔を顰めてみせる。
「どうやって見つけ出したのか知らないが、月の石よりもさらに稀少なものだ。カントーで採掘された例を、俺は聞いたことがない」
「は……」
どうやって見つけ出したのか、と言われても、道に落ちてたのを拾っただけのことだ。特別なことは何もしていない。
何なら、これを拾ったせいで通りがかった他の構成員には馬鹿にされたのだ。お前は何も知らずにノコノコやってきたんだな、などと嘲笑混じりに言われて。
――ゆえに、これが月の石よりさらに稀少なものだと言われても、俄には信じられない。
「おそらく、これを売り飛ばせば、お前の借金のほとんどが返済できる」
「まさか……だって、組の連中にはこんなのただの石ころだって、笑われたぞ」
「価値のわからない奴にはわからない。それだけのことだ」
さらりと言って、キィはロングコートの内ポケットにその石をしまった。
「だから、お前はさっさと足を洗え」
「へ?」
「これを売り払って、お前の借金はチャラにしておいてやる」
何を言われているのか、さっぱり理解が追いつかなかった。
もとより、どうしてこんな山道で、凄惨な自分の生い立ちを語り始めたのか、そこから意味がわからなかったのだ。「何も信じられない」などと子供みたいにゴネた青年を宥めるために語り始めたのかとも思ったが、それにしては話題がヘビー過ぎる。
それに加えて、借金は返済しておいてやるから田舎に帰れだなんて――そもそも、青年をこの世界に引き入れたのは、他でもないキィではないか。なのにどうして、今更、突き放すようなことを言うのか。
「そんな……借金を肩代わりしてもらうだなんて、そんなことをしてもらう道理がない」
混乱する胸の内をどう伝えて良いのかわからず、そう告げると、
「肩代わりじゃない。お前の持ってた石をもらうんだ。ただ売っぱらうだけでも相当な金になるが、俺なら上手いこと稼げる。稼いだ分は俺の懐に入れさせてもらうよ」
などと、言う。であるからして、気にすることは何もないと、こちらの逃げ道を潰して。
「でも、これは俺の借金だろ……? それを、キィくんから返済するような真似……そんなことをして、俺を許してくれるのほど、この組織は生温いものなのか?」
「そこはなんとでもなるさ。俺はお前と違って賢いんだ。誤魔化す方法なんざ、いくらでもある」
彼が賢いことは、重々承知だ。だがやはり、彼にそこまでしてもらう理由にはならない。
「でも、だって、これはもともと俺の借金なんだ」
「お前の従兄弟のだろう」
「キィくんにとっては赤の他人だ。こんなことしてもらったって、俺は何のお礼も返せない」
「そんなもの、期待しちゃいない」
「なら、何の見返りも求めず、俺の、赤の他人の面倒を見てくれるというの?」
「見返りという意味なら、いずれ返してもらうつもりだ。巡り巡って、俺の得になるように、全ては仕組んでいるからな。人生はどこで誰と交差するかわからんものだ――」
言葉による応酬で、青年がキィに勝てるわけがなかった。ましてや、最後の方は、つまり何を言われているのかもわからない。
それでも納得できずに「だけど、だけど」と口籠れば、「いいから」と若干苛立ち交じりに言い放たれる。
「――いいから、さっさと行け」
「でも……でも、それなら、キィくんも一緒に……!!」
咄嗟に飛び出してきたそれは、青年の胸のうちにある、小さな希望のようなものであった。
トキワで彼と一緒に過ごした幼少時を、青年は未だに忘れたことはない。もしかしたら、近隣に疎んじられていた彼にとって、それは必ずしも美しい想い出ではないのかもしれないけれど。
それでも、あの時に戻って、また、田舎の町で一緒にのんびり暮らせたら――そう願ったのは、何も今に始まったことではないわけで。
しかしながら、当然の如く、彼から色好い返事が返ってくることはなかった。「ともに逃げよう」と、縋りついた青年の腕をほどいて、男は笑う。
「俺とお前とは、違うんだ。俺には逃げ場などない。――この世界でしか生きていけない人間だから」
どことなく、自嘲するような笑みである。
全てを悟り、全てを諦め、全てを受け入れたような面持ちだ。だがしかし、不幸な微笑みには見えない。そこには確かに未来を見据えた、強い意思のようなものを感じる。
「さあ、もう時間がない――ぐずぐずするな、行け」
その強い意思を帯びた表情を前に、これ以上食い下がることはできなかった。
「行け」と背中を押され、一歩ニ歩と前に歩き出す。「こんなことをしているところを他の奴らに見つかったら、さすがの俺でも面倒だ」と、追い討ちをかけられて、仕方なく、前進するしかなかった。
「振り返るな」
冷たい声色が背中に刺さる。
本当は、振り返って最後に一言、彼に言葉をかけたかったのだけれど、それすら許されなかった。走れと命ぜられたまま、駆け足になって、鬱蒼とした茂みを抜ける。
言われたとおりにまっすぐ走っていくと、やがて山の尾根に出た。
山の峰と峰とを繋いで高く隔たる道を進むと、十数メートル下へと窪んだクレーター状の広場が見えてくる。草木も生えない味気のないそのクレーターの中に、ピンク色のふわふわした生き物が、大量に集っているのが遠目にも見て取れた。
まるで綿菓子みたいな、マシュマロみたいな、甘いお菓子に見紛う愛らしい容姿。それでいて、どことなく妖艶で、不気味な、雰囲気をかんじた。
それらが大量に、月光を浴びながら、味気ない土色のクレーターの上を、飛び跳ね回っている。キンキンと耳鳴りがする、鈴の音のような鳴き声をあげながら、どんどん増殖していく。
それはまさに、月の妖精――否、あやかしだ。
その異様な光景に、自然への畏怖のようなものを覚えた。
煌々と地上を照らす満月は近く、地上に接近してくるのではないかと錯覚するほど。
美しさはときに恐怖を感じさせる。月光を浴びて月のあやかしの舞う様は、この世のものとは思えない、美しさ。魂を吸われて二度と戻ってこれないのではないか、なんて――背筋が凍りつくほどに、綺麗だ。
逃げろ、と命ぜられたままに、青年は尾根を走り抜けた。
月明かりに浮かぶ自分の影が、山の闇に溶けて消えていく。
少し捻った足首が傷むけれど、庇っている余裕はない。
走って走って、走り続けた。
そして、構成員にも、野生のポケモンにも遭遇することなく、山の麓まで逃げ切った。
実際のところ、お月見山で何が行われたのか、その後の真実を、青年には知る術がなかった。
なにしろ、言われたとおりの道を辿って地元まで抜けると、そこは紛うことなき表側の世界だったから。
世界は二分されているのだろうかと不思議に思うほど、表側の世界において、彼らの話を聞くことはなかった。
タマムシシティの地下で行われている地獄のような沙汰も、お月見山で行われたのかもしれない残虐非道な行為も、何も聞こえてこない。
ただ、ポケモンたちの生息する自然の秩序は保たれていて、月の石は相変わらずカントーにおいては稀少な存在だった。
表側の世界からは見えない裏側で、何かしら強大な力が働いているのではないかと、そんなふうに思ってしまう。
その後十年近く、青年が組織の片鱗を見ることはなかった。
青年は数奇な3ヶ月を経て、表の世界へと復帰したのである。