目覚めた瞬間、まず感じたのは「頭の重さ」と「視界の高さの違い」だった。
30代も半ばを過ぎ、最近は寝起きに腰が痛むのが常だったが、今朝はどうだ。体が羽のように軽い。だが、頭部の重心がおかしい。
「……あン?なんか枕元が邪魔くせぇな」
邪魔な髪を払おうと手を伸ばす。視界に入ったのは、白磁のように白く、華奢でしなやかな指先だった。
(んだよ。誰の手だ?)
そう思った瞬間、自分の腕だと気づく。飛び起きて鏡の前に立った俺は、絶句した。
鏡の中にいたのは、この世のものとは思えない美少女だった。
透き通るような紫の瞳、流れるような銀髪。そして、頭頂部にはピコピコと動く「獣の耳」。俺は震える手で頬を触る。
(おいおい、マジかよ……)
口から出た言葉は、俺の聞き慣れた低いダミ声ではなかった。鈴を転がしたような、気品あふれるソプラノボイス。しかも、勝手に脳内の言葉が変換されて出力される。
「あら、嘘でしょう……?」
自分の意思と裏腹に、極めて上品な言葉が出てしまったことに、俺──いや、「私(わたくし)」は戦慄した。
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とにかく、仕事だ。今日は大事な納期がある。この姿で出社できるわけがないが、無断欠勤は社会人としてありえない。俺はスマホを手に取り、職場へ電話をかけた。
『はい、〇〇建設です』
「あー、もしもし、俺だけど。ちょっと体調不良で……」
そう言おうとした。だが、口をついて出たのはこれだ。
「ごきげんよう。あの、わたくしですが……本日は体調が優れませんので、お休みをいただきたく存じますの」
『……は?どちら様ですか? 間違い電話ですよ』
ガチャリ。ツー、ツー、ツー。
そりゃそうだ。建設現場の作業員が、いきなり深窓の令嬢のような声で電話してくればそうなる。
俺は頭を抱えた。尻の方で、何かがブンブンと動く気配がする。振り返ると、立派な灰色の尻尾が、俺の焦りに呼応するように荒ぶっていた。
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パニックになる頭とは裏腹に、猛烈な飢餓感が襲ってきた。ただの空腹じゃない。胃袋がブラックホールになったような、生命の危機を感じるレベルの飢餓だ。
「くっ、腹が減っては戦ができませ……んわ」
冷蔵庫を開ける。昨日の残りの冷や飯(2合)、卵、納豆、ウインナー。普段なら十分な量だ。俺はそれらをかき込んだ。
美味い。死ぬほど美味い。だが──足りない。全く足りない。胃袋に入った瞬間、食物が消滅しているんじゃないかと思うほど、満腹中枢が反応しない。
「なんなのこれ!? 全然足りませんわ!!」
パン(普段はあまり食わないが非常用にあったもの)を食い尽くし、乾麺を齧り、それでも腹の虫は雷鳴のように鳴り響く。このままでは餓死する。本能がそう告げていた。
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俺は意を決してスーパーに行くことにした。だが、この耳と尻尾はどうする?よしんばコスプレだと思われても、近所の目は痛い。
俺はクローゼットから、冬用のニット帽と、ダボダボのグレーのスウェット上下を引っ張り出した。ニット帽を目深に被り、耳を無理やり収納する。窮屈だが我慢だ。尻尾はスウェットの中に押し込み、片足に巻き付けるようにして隠す。
鏡を見ると、そこには「ジャージ姿でも隠しきれない気品を放つ、怪しい美少女」がいた。違和感バリバリだが、背に腹は代えられない。
そうして足早に近所のスーパーに駆け込み、カゴを掴む。本能の赴くままに食材を放り込んだ。
米5キロ、パスタ、大量の肉、バナナ、スイーツ。カゴが一つでは足りず、二つ目へ。
特売のシールが貼られた牛肉を見ても、「これでは力が湧きませんわ!」と、無意識に国産のいい肉を選んでしまう。………味覚までお嬢様になっているのか?
レジで会計を済ませる時、店員が二度見した。
「お会計、10,850円になります」
「……は?」
思わず素の声が出そうになった。一食分の買い出しだぞ?震える手で万札を出す。財布の中身が急速に軽くなる。帰宅し、それらをすべて調理し、凄まじい速度で平らげた。
ようやく、人心地ついた感覚が訪れる。
「ふぅ……やっと落ち着きましたわ」
とろけるような心地で紅茶をすする俺。だが、冷静になって青ざめた。
一食で一万円。単純計算で、1日3万。月90万。今の給料じゃ、三日で破産する。そして、今の姿では仕事が続けられるのかは全くの不明瞭と来たもんだ。
「綺麗なお体ですけれど……ふざけてますの!?この燃費!」
自分の豊満で美しい太ももを叩きながら、俺は絶望の声を上げた。外見は誰もが羨む美少女。中身は金欠に怯えるおっさん。
この先、どうやって生きていけばいいんだ──。
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マックイーン(仮)が去った後のスーパーでは、店員と客たちがざわついていた。
「おい見たか?今の人」
「見た見た。ニット帽被ってたけど、銀髪ですげぇ美人だったぞ」
「モデルか何かかな?スッピンっぽかったのに、オーラが違ったよな」
「あんなダボダボのジャージ着てても、スタイルいいのが分かるってすげぇよ」
品出しをしていた若いバイト店員が、頬を染めて同僚に言った。
「次に会ったら、声かけてみようかな……『荷物持ちますよ』とか言って」
「やめとけって。お前じゃ釣り合わねーよ。高嶺の花ってやつだろ、あれは」
彼女の知らぬところで、「ジャージの銀髪美女」という謎の伝説が爆誕していたのだった。