メジロマックイーンになりまして。   作:灯火011

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23 老婆の昔話と、メジロの記憶

「走れるのかい?……その左足で」

 

 老婆の言葉に、俺はビクリと肩を震わせた。

 

 左足。――さっきの夢で激痛が走った場所だ。現実の俺(マックイーンの体)には何の異常もないはずなのに、老婆の視線はまるで、皮膚の下にある古傷を見ているかのようだった。

 

「……何のことですの?私の足は健康そのものですわ」

 

 俺は警戒しながら答えた。深夜の公園に一人でいる老婆。どう見てもカタギではない。妖怪か、幽霊か。だが、なぜか、恐怖よりも「懐かしさ」が勝るのが不思議だった。

 

 老婆はクスクスと笑った。

 

「隠さなくてもいいさね。……あんたの中には『二人』いる。違うかい?」

「ッ!?」

 

 心臓が跳ねた。バレている?いや、まさか。だが……もしかすると、この婆さんは、もっと根本的な「魂」の話をしているのかもしれない。

 

「あんたは『佐藤』という男であり……同時に『メジロ』の至宝でもある」

「……なぜ、それを」

 

 老婆は杖でトントンと芝生を叩いた。

 

「座んなさい。昔話をしてやろうかね。……とある、誇り高き『主演俳優』の話さ」

 

 

 俺は導かれるように、老婆の隣に座った。老婆は夜空を見上げ、語り始めた。

 

「昔々、ターフを沸かせた銀色の馬がいた。彼は強かった。誰よりもスタミナがあり、誰よりも優雅だった。菊花賞を制し、春の天皇賞を連覇し……『最強』の名を欲しいままにしていた」

 

 俺の頭の中に、見たこともない映像がフラッシュバックする。紫紺の勝負服。地鳴りのような歓声。そして、隣を走るライバルたち──皇帝の息子や、黒い刺客。

 

「だがね……神様ってのは意地悪だ」

 

 老婆の声が低くなる。

 

「彼は最強のまま、秋の天皇賞を目指していた。誰もが彼の勝利を信じ、彼自身も『世界』を見据えていた。……けれど、レースの直前。彼の左足が悲鳴を上げた」

 

 ズキリ。俺の左足に、またあの幻痛が走った。

 

「靭帯炎と言ってね。競走馬にとっては致命的な病気さ。結局は、彼は走れなかった。観客が待つターフに戻ることなく、引退を余儀なくされた。……心はまだ燃えているのに。体はまだ走れると叫んでいるのに」

 

 老婆は俺の方を向き、悲しげに言った。

 

「それが彼の『未練』さ。……わかるだろう?お前さんなら」

 

 

 俺は震えていた。その「未練」の味が、俺自身の人生と重なったからだ。

 

 俺もまた、何かを成し遂げた人間ではなかった。重機オペレーターとして真面目に働いてきたが、若い頃には「もっとデカいことをしたい」という夢があった。けれど、日々の生活に追われ、年齢を言い訳にし、いつの間にか「こんなもんか」と諦めていた。

 

「不完全燃焼……ですわね」

 

 俺はポツリと漏らした。

 

「ああ。燃え尽きることができなかった魂は、彷徨うものさ。……お前さんがこの体に選ばれたのは、偶然じゃない。お前さんの『くすぶっていた魂』と、彼の『走りたかった執念』が、共鳴したのかもしれないねぇ」

 

 老婆はシワだらけの手で、俺の手を握った。温かい。

 

「食べて、食べて、埋めようとしても埋まらない空腹。それは胃袋の空きじゃない。『走り足りない』という、魂の飢えなんだよ。あんたは、それが一等強かった」

「でも、そんな男は、ごまんといるはずですわ。なぜ」

「それこそ、女神様の気まぐれ、だろうね」

 

 

「……じゃあ、どうすればいいんですの。女神様の気まぐれだとしても、この空腹のせいで、私は生活もままなりません」

 

 俺は縋るように聞いた。

 

「はは。そんなものは火を見るよりも簡単さ」

 

 老婆はニカリと笑った。その顔は、一瞬だけ若く、美しい少女のように見えた。

 

「走りな。誰のためでもない。金のためでもない。ただ、風になるためだけに」

 

 老婆が背中をドンと叩いた。その衝撃で、俺は弾かれたように飛び出した。

 

 ダッ!!夜の公園。ただの芝生広場。だが、今の俺には「緑のターフ」に見えた。

 

 風を切る。先程までの重さが嘘のように、体が軽い。足裏が地面を噛む感触。全身のバネが躍動する感覚。

 

(速い……!)

 

 俺は今、風になっている。バイクを追いかけた時とも、SASUKEの時とも違う。純粋な、走る喜び。俺の中の「佐藤」と「マックイーン」が、一つに溶け合っていく。

 

『もっと速く!もっと遠くへ!』

 

 脳内に響く声。それは俺自身の声だ。俺は無心で駆け抜けた。ゴール板などない。この世界そのものが、俺のコースだ。

 

 

 どれくらい走っていただろうか。息を切らし、汗だくになって元のベンチに戻った時、そこにはもう誰もいなかった。

 

「……行っちゃいましたか」

 

 ベンチの上には、老婆が持っていたはずの杖の代わりに、一脚の「蹄鉄(ていてつ)」が置かれていた。古びているが、手入れの行き届いた銀色の蹄鉄。

 

 マックイーンはそれを手に取った。不思議と、左足の幻痛は消えていた。その代わり、胸の奥に、熱く静かな炎が灯っていた。

 

「……わかりましたわ」

 

 俺は蹄鉄を強く握りしめ、夜空の月に向かって誓った。

 

「食べるだけじゃありません。私は……走りますわ。この頂いた命(セカンドライフ)を、今度こそ、後悔のなきよう、燃やし尽くしてみせますわ!」

 

 彼女は蹄鉄をポケットにしまい、アパートへと歩き出した。その背中は、昨日までのおっさんの哀愁ではなく、未来を見据えた「主役」のオーラを纏っていた。

 

 翌日。

 

 彼女が「東京マラソン」への一般参加申し込み(もちろん女子の部で、目標タイムは世界記録)をしたことは、また新たな伝説の幕開けとなるのだが、それはまだ先の話だ。

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