メジロマックイーンになりまして。   作:灯火011

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26 2000メートルの静寂と、幻影のオーバーラップ

 全レース終了後。西日が差し込む東京競馬場。芝コースが黄金色に輝いている。

 

 2000mのスタート地点―――奇しくも、秋の天皇賞と同じ位置に、俺は一人で立った。

 

『さあ、いよいよデモランです!東京マラソンで世界を驚かせたあの脚が、府中のターフで何を見せるのか!』

 

 スタンドにはまだ多くの客が残っている。Sさんも、タカシも、ゴール前の特等席で見守っているはずだ。

 

「……いい芝ですわね」

 

 俺は足元の芝を踏みしめた。柔らかい。そして、反発力がある。コンクリートとは違う。ここは、サラブレッドたちが命を削って走る聖域。

 

 ――ふと、あの夜の公園で会った老婆の言葉が蘇る。

 

『お前さんの中には、二人がいる』

『走り足りないという、魂の飢え』

 

 俺は目を閉じた。左足の幻痛はない。あるのは、みなぎる力だけ。

 

(見ててください、本家(あなた)。……あなたの走れなかった秋の盾(天皇賞)。私が代わりに駆け抜けますわ)

 

 俺はスタートの構えを取った。ゲートはない。俺自身の意思が、スタートの合図だ。

 

 

「……行きますわよ!!」

 

 ダンッ!!マックイーンはターフを蹴った。その瞬間、スタンドの観客たちが息を飲んだ。

 

 速い。明らかに人間の走りではない。前傾姿勢で、頭の位置が全く変わらず、滑るように加速していく。銀色の髪が、尾を引く流星のようにたなびく。

 

『うおおおおお……!?』

 

 実況すら言葉を失うスピード。第1コーナー、第2コーナーを旋回し、向こう正面へ。

 

 彼女の視界には、何も映っていない。ただ、風と、芝と、自分だけ。

 

 ―――その時だった、観客席のオールドファンたちが、奇妙なものを見た。

 

 走っているのは、ただのコスプレ姿の美少女のはずだ。だが、西日に照らされたそのシルエットが、一瞬、ブレて重なった。

 

 ターフを悠々と走る、芦毛の巨体。しなやかで、しかし、力強い蹴り足。

 

 悠々と、しかし圧倒的な強さでターフを支配した、あの「メジロマックイーン」の姿に。

 

「……マックイーンだ」

 

 誰かが呟いた。

 

「おい、あれ……マックイーンが走ってるぞ……!」

 

 

『速い! 1000m通過、57秒フラット! このペースで最後まで持つのか!?』

 

 彼女はペースを落とさない。苦しくない。心臓が喜んでいる。筋肉が歌っている。

 

(これが……サラブレッドが見ていた景色……!)

 

 大欅(おおけやき)を過ぎる。最終コーナーが見えてきた。ここからが、府中の長い長い直線だ。

 

「さあ……舞台は整いましたわ!」

 

 彼女は、いよいよギアをトップに入れた。おっさんの根性と、名馬の記憶が融合する。

 

 彼女は今、世界で一番速い生き物だ。

 

 

 マックイーンが直線を向いた。視界が開ける。彼方にゴール板が見える。そして、地鳴りのような歓声が壁となって押し寄せてくる。

 

「うおおおおおおお!!」

「いっけええええええ!!」

「マックイーーーン!!」

 

 声援に応えるように、彼女はさらに加速した。ストライドが伸びる。一歩ごとに、芝をむしり取るほどの踏み込み。

 

『残り400! マックイーン、さらに加速! 落ちません! 全くスピードが落ちません! これが、これが人の走りなのでしょうか!?』

 

 彼女の隣には、誰もいない。

 

 だが、見守っていた彼らには感じられた。

 

 トウカイテイオーが、ライスシャワーが、イクノディクタスが。かつてのライバルたちが、幻影となって競り合っている気配が。

 

 そしてなにより、メジロマックイーンがそれを、一番感じ取っていた。

 

(負けませんわ……!私は、主演俳優(ヒーロー)なんですもの!―――私が走れていれば、私が走れていたのならば……!)

 

 

 残り100メートル。心臓が破裂しそうだ。肺が焼ききれそうだ。だが、足は止まらない。ゴール板が目の前に迫る。

 

「届けェェェェェッ!!」

 

 彼女は叫びながら、ゴールラインを駆け抜けた。

 

『ゴォォォォルッ!! メジロマックイーン! 見事な激走を見せてくれましたッ!!』

 

 彼女はそのまま勢いで数百メートル走り抜け、ようやく減速して立ち止まった。静寂が、競馬場を包む。

 

 そして、掲示板にタイムが表示される。

 

『レコード TIME 1:55.0』

 

 一瞬の間のあと、東京競馬場が爆発した。

 

「うおおおおお!?レコードだあああああ!!」

「化け物かよ!!」

「見たか今の!完全に馬だったぞ!!」

 

 

 俺は肩で息をしながら、スタンドへ戻ってきた。膝に手をつく。やりきった。全部出しきった。

 

「マックイーンさん!!」

 

 Sさんが駆け寄ってきた。その目には涙が浮かんでいる。

 

「すごいです……!私、本当にマックイーンが走ってるのが見えました……!」

 

 Sさんは俺に抱きついた。汗だくの俺を、気にすることなく。

 

「……ありがとう存じます。……夢が、叶いましたわ」

 

 そして、その後ろでタカシが崩れ落ちて号泣していた。

 

「うわぁぁぁぁん!佐藤ぉぉぉ!お前、最高だよぉぉぉ!」

「泣くなタカシ。みっともないですわよ」

 

 俺は笑いながら、タカシの肩を叩いた。

 

 

 スタンドから「マックイーン」コールが起きる。俺はSさんと、そしてタカシと共に、観客に向かって手を振った。

 

 今日、俺はただの「おっさんが入った美少女」から、真の意味で「メジロマックイーン」という伝説の一部になったのかもしれない。老婆が言っていた「魂の飢え」は、今、心地よい満腹感に変わっていた。

 

「……さて」

 

 俺は小声でタカシに言った。

 

「感動のフィナーレもいいですが……」

「なんだ?」

「腹が減りましたわ。……帰りに、二郎(ラーメン)食べていきませんこと?」

 

 タカシは涙を拭いて、呆れたように笑った。

 

「……へいへい。全マシマシな」

 

 夕暮れの東京競馬場。俺たちの長い一日は、最高の笑顔と、最上級の空腹と共に幕を閉じた。

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