全レース終了後。西日が差し込む東京競馬場。芝コースが黄金色に輝いている。
2000mのスタート地点―――奇しくも、秋の天皇賞と同じ位置に、俺は一人で立った。
『さあ、いよいよデモランです!東京マラソンで世界を驚かせたあの脚が、府中のターフで何を見せるのか!』
スタンドにはまだ多くの客が残っている。Sさんも、タカシも、ゴール前の特等席で見守っているはずだ。
「……いい芝ですわね」
俺は足元の芝を踏みしめた。柔らかい。そして、反発力がある。コンクリートとは違う。ここは、サラブレッドたちが命を削って走る聖域。
――ふと、あの夜の公園で会った老婆の言葉が蘇る。
『お前さんの中には、二人がいる』
『走り足りないという、魂の飢え』
俺は目を閉じた。左足の幻痛はない。あるのは、みなぎる力だけ。
(見ててください、本家(あなた)。……あなたの走れなかった秋の盾(天皇賞)。私が代わりに駆け抜けますわ)
俺はスタートの構えを取った。ゲートはない。俺自身の意思が、スタートの合図だ。
■
「……行きますわよ!!」
ダンッ!!マックイーンはターフを蹴った。その瞬間、スタンドの観客たちが息を飲んだ。
速い。明らかに人間の走りではない。前傾姿勢で、頭の位置が全く変わらず、滑るように加速していく。銀色の髪が、尾を引く流星のようにたなびく。
『うおおおおお……!?』
実況すら言葉を失うスピード。第1コーナー、第2コーナーを旋回し、向こう正面へ。
彼女の視界には、何も映っていない。ただ、風と、芝と、自分だけ。
―――その時だった、観客席のオールドファンたちが、奇妙なものを見た。
走っているのは、ただのコスプレ姿の美少女のはずだ。だが、西日に照らされたそのシルエットが、一瞬、ブレて重なった。
ターフを悠々と走る、芦毛の巨体。しなやかで、しかし、力強い蹴り足。
悠々と、しかし圧倒的な強さでターフを支配した、あの「メジロマックイーン」の姿に。
「……マックイーンだ」
誰かが呟いた。
「おい、あれ……マックイーンが走ってるぞ……!」
■
『速い! 1000m通過、57秒フラット! このペースで最後まで持つのか!?』
彼女はペースを落とさない。苦しくない。心臓が喜んでいる。筋肉が歌っている。
(これが……サラブレッドが見ていた景色……!)
大欅(おおけやき)を過ぎる。最終コーナーが見えてきた。ここからが、府中の長い長い直線だ。
「さあ……舞台は整いましたわ!」
彼女は、いよいよギアをトップに入れた。おっさんの根性と、名馬の記憶が融合する。
彼女は今、世界で一番速い生き物だ。
■
マックイーンが直線を向いた。視界が開ける。彼方にゴール板が見える。そして、地鳴りのような歓声が壁となって押し寄せてくる。
「うおおおおおおお!!」
「いっけええええええ!!」
「マックイーーーン!!」
声援に応えるように、彼女はさらに加速した。ストライドが伸びる。一歩ごとに、芝をむしり取るほどの踏み込み。
『残り400! マックイーン、さらに加速! 落ちません! 全くスピードが落ちません! これが、これが人の走りなのでしょうか!?』
彼女の隣には、誰もいない。
だが、見守っていた彼らには感じられた。
トウカイテイオーが、ライスシャワーが、イクノディクタスが。かつてのライバルたちが、幻影となって競り合っている気配が。
そしてなにより、メジロマックイーンがそれを、一番感じ取っていた。
(負けませんわ……!私は、主演俳優(ヒーロー)なんですもの!―――私が走れていれば、私が走れていたのならば……!)
■
残り100メートル。心臓が破裂しそうだ。肺が焼ききれそうだ。だが、足は止まらない。ゴール板が目の前に迫る。
「届けェェェェェッ!!」
彼女は叫びながら、ゴールラインを駆け抜けた。
『ゴォォォォルッ!! メジロマックイーン! 見事な激走を見せてくれましたッ!!』
彼女はそのまま勢いで数百メートル走り抜け、ようやく減速して立ち止まった。静寂が、競馬場を包む。
そして、掲示板にタイムが表示される。
『レコード TIME 1:55.0』
一瞬の間のあと、東京競馬場が爆発した。
「うおおおおお!?レコードだあああああ!!」
「化け物かよ!!」
「見たか今の!完全に馬だったぞ!!」
■
俺は肩で息をしながら、スタンドへ戻ってきた。膝に手をつく。やりきった。全部出しきった。
「マックイーンさん!!」
Sさんが駆け寄ってきた。その目には涙が浮かんでいる。
「すごいです……!私、本当にマックイーンが走ってるのが見えました……!」
Sさんは俺に抱きついた。汗だくの俺を、気にすることなく。
「……ありがとう存じます。……夢が、叶いましたわ」
そして、その後ろでタカシが崩れ落ちて号泣していた。
「うわぁぁぁぁん!佐藤ぉぉぉ!お前、最高だよぉぉぉ!」
「泣くなタカシ。みっともないですわよ」
俺は笑いながら、タカシの肩を叩いた。
■
スタンドから「マックイーン」コールが起きる。俺はSさんと、そしてタカシと共に、観客に向かって手を振った。
今日、俺はただの「おっさんが入った美少女」から、真の意味で「メジロマックイーン」という伝説の一部になったのかもしれない。老婆が言っていた「魂の飢え」は、今、心地よい満腹感に変わっていた。
「……さて」
俺は小声でタカシに言った。
「感動のフィナーレもいいですが……」
「なんだ?」
「腹が減りましたわ。……帰りに、二郎(ラーメン)食べていきませんこと?」
タカシは涙を拭いて、呆れたように笑った。
「……へいへい。全マシマシな」
夕暮れの東京競馬場。俺たちの長い一日は、最高の笑顔と、最上級の空腹と共に幕を閉じた。