メジロマックイーンになりまして。   作:灯火011

32 / 32
エピローグ

午前3時。

 

丑三つ時を過ぎ、夜明けの光が差すにはまだ早すぎる、深く静かな時間帯。

 

 

郊外のアパートの一室で、メジロマックイーン――かつて佐藤と呼ばれたその存在――は、ふと目を覚ました。

 

いつものような、胃袋を刺す空腹感はない。また、昨夜の深酒による尿意でもない。もっと深く、血管の中を流れる何かが、静かに、しかし強く彼女を呼んでいた。

 

「……」

 

居てもたってもいられずに、彼女は無言のまま布団を抜け出した。銀色の長い髪が、月明かりを浴びて鈍く光る。彼女は慣れた手つきでグレーのスウェット上下に着替えると、スニーカーを突っかけ、音もなく部屋を出た。

 

冷気を含んだ夜風が、酒で火照った頬に心地よい。彼女が向かったのは、以前、不思議な老婆と出会ったあの場所――かつて競馬場だったという、今はなき走路の跡地(公園)だった。

 

 

街灯もまばらな公園には、白色の霧が立ち込めていた。その霧の向こう、古びたベンチに、あの時の老婆が座っていた。

 

そして、その横には、巨大な影が佇んでいた。月光が雲の切れ間から差し込み、その影の輪郭を照らし出す。白銀の毛並み。闇夜に浮かび上がるような、気高く、美しい芦毛のサラブレッド。

 

本物の、「メジロマックイーン」だった。

 

彼女は立ち止まった。恐怖はなかった。むしろ、懐かしさと畏敬の念で胸が震えた。老婆がゆっくりと顔を上げ、しわくちゃの顔で優しく微笑んだ。

 

「来たねぇ。……待ちくたびれたよ」

 

老婆が馬の首筋をポンと叩く。馬が鼻を鳴らし、紫紺の瞳で彼女を見つめた。その瞳は、すべてを見透かすように澄んでいて、そしてどこか楽しげだった。

 

『走ろうか』

 

声に出したわけではない。けれど、確かにそう聞こえた。彼女の中の魂が、そして肉体に刻まれた本能が、激しく共鳴した。

 

彼女は深く息を吸い込み、重心を落とした。合図はいらない。馬が大地を蹴った瞬間、彼女もまた弾かれたように飛び出した。

 

―――ダッ、ダッ、ダッ、ダッ。

―――パカラ、パカラ、パカラ、パカラ。

 

二つの足音が重なり、夜の公園に響き渡る。

 

………いつしか、彼らの周りの風景は変容していた。

 

公園の芝生は、手入れの行き届いた極上のターフへ。

周囲の木々は、大観衆の埋まるスタンドへ。

ただし、そこには音がない。歓声もない。

あるのは、風を切る音と、互いの鼓動だけ。

 

 

―――速い。

 

彼女は歯を食いしばった。東京マラソンで、東京競馬場のターフで見せた、あの異次元の走りのままに。人間の枠を超え、世界記録すら叩き出した脚力。今の彼女なら、風さえも追い越せるはずだった。

 

だが、隣を走る「彼」は、さらにその上を行っていた。

 

力強く、それでいて柔らかいフットワーク。地面を叩くのではなく、掴んで投げるような推進力。「ステイヤー(長距離走者)」と呼ばれた彼にとって、この疾走は苦しみではなく、喜びそのものなのだ。

 

(ああ……すごいな……)

 

彼女の胸に、純粋な感動が広がる。これが本物。これが伝説。自分が背負っている名前の、これが「オリジナル」の輝きなのだ。

 

―――第4コーナーを回る。

 

彼女は渾身の力でスパートをかけた。肺が焼けつきそうだ。足が悲鳴を上げている。それでも、彼との距離は縮まらない。むしろ、彼は涼しげな顔で、さらに加速していく。

 

優雅に。圧倒的に。それはまるで、銀幕の中の俳優のように、彼はターフを染め上げていく。

 

そして、見えないゴール板を、馬が先に駆け抜けた。

 

――半馬身。いや、一馬身。決定的な、しかし清々しい敗北だった。

 

二つの影は減速し、霧の晴れ間へと戻ってきた。彼女は膝に手をつき、荒い息を吐いた。馬は息一つ乱さず、静かに彼女を見下ろしている。

 

「はぁ……はぁ……。やっぱり、あんたはすげぇよ……」

 

彼女は顔を上げ、汗に濡れた前髪をかき上げた。口調は完全に佐藤のそれへと戻っていた。だが、その表情は、少年のように晴れやかだった。

 

馬がゆっくりと近づいてくる。巨大な顔が、彼女の目の前に下りてくる。

 

もちろん、言葉はない。だが、互いの魂が触れ合うのを、マックイーンは感じていた。

 

「ありがとうな。……俺と、走ってくれて」

 

彼女は右手の拳を、そっと突き出した。それは、男同士の、無骨な挨拶だった。

 

馬は一瞬、紫紺の瞳を細めた。

 

そして、その温かく湿った鼻先を、彼女の小さな拳に、しっかりと押し付けた。

 

柔らかい感触。命の熱。

 

―――それは、過去から未来へ。

 

―――伝説から現代へ。

 

 

―――そして馬から(ウマ娘)へ。すべての想いが受け渡された瞬間だった。

 

 

『想いは確かに、受け継がれた』

 

 

老婆が満足そうに頷き、霧が濃くなる。馬の姿が、老婆の姿が、白い霧の中に溶けていく。

 

 

『"メジロ"を、頼んだよ』

 

 

最後に、風の音がそう囁いた気がした。

 

 

ふと気づくと、彼女は朝露に濡れた公園のベンチの前に一人で立っていた。

 

東の空が白み始めている。

 

午前4時。夜明けが近い時間だ。

 

彼女は自分の拳を見つめ、そして強く握りしめた。左足の痛みはない。腹の底から、新たな力が、そしていつもの空腹感が湧いてくるのを感じた。

 

「……さて」

 

彼女は朝日の方角へ向かって、大きく伸びをした。

 

「帰って、朝食にいたしましょうか」

 

気づけば口調は、『彼女』へと戻っていた。

 

『メジロのマックイーン』は銀髪をなびかせ、軽やかに走り出した。その背中は、かつての名馬のように力強く、そしてどこまでも自由だった。




(結)

メジロよ、永遠なれ。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

競馬ミリしらウマ娘ファンがウマ娘化されていないモブ(?)ウマ娘に転生したので、頑張って百合ハーレムを作ろうとする話(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ウマ娘に転生したから百合ハーレムを築きたい競馬ミリしら民のお話。▼ なお、名前はディープインパクトという。


総合評価:2154/評価:7.94/連載:20話/更新日時:2026年04月04日(土) 11:39 小説情報

地方トレセンを舐めるなよ!(作者:鼻毛王)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

▼才能に溢れすぎた、一人のウマ娘。▼地方トレセンの一つ、笠松トレセンの再興に助力し、中央一強体制を崩しにかかる。▼『中央のウマ娘の方が強い』▼そんな常識を叩き壊すお話。▼*シンデレラグレイに触発されて執筆した作品です。▼


総合評価:3160/評価:8.51/連載:48話/更新日時:2026年04月16日(木) 18:00 小説情報

ウマ娘恋愛相談掲示板 約束の絶景(作者:アマシロ)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

『異次元の寂しがり屋』のセルフ三次創作です。


総合評価:3532/評価:8.83/完結:8話/更新日時:2026年03月02日(月) 21:42 小説情報

癒しのヘッドスパ(作者:灯火011)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

ウマ娘のトレーナーが、ヘッドスパの才能があった世界線です。▼ウマ娘の耳周りとかすんげぇ凝ってると思うんですよね。ええ。▼※2026/04/15、連載に変更しております。▼※2026/05/06、完結いたしました。ご覧いただき感謝感激。


総合評価:3573/評価:8.42/完結:32話/更新日時:2026年05月06日(水) 19:00 小説情報

ライスシャワーはお義兄さまと結婚したい(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

ライスシャワーの義理の兄に転生したお兄様トレーナーとお兄様と結婚したいライスシャワーのラブコメ。▼ひとまず一区切り▼2026/1/27 日間ランキング一般総合7位▼2026/1/28 日間ランキング一般総合6位▼ありがとうございます。


総合評価:3256/評価:8.03/完結:23話/更新日時:2026年02月01日(日) 18:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>