午前3時。
丑三つ時を過ぎ、夜明けの光が差すにはまだ早すぎる、深く静かな時間帯。
■
郊外のアパートの一室で、メジロマックイーン――かつて佐藤と呼ばれたその存在――は、ふと目を覚ました。
いつものような、胃袋を刺す空腹感はない。また、昨夜の深酒による尿意でもない。もっと深く、血管の中を流れる何かが、静かに、しかし強く彼女を呼んでいた。
「……」
居てもたってもいられずに、彼女は無言のまま布団を抜け出した。銀色の長い髪が、月明かりを浴びて鈍く光る。彼女は慣れた手つきでグレーのスウェット上下に着替えると、スニーカーを突っかけ、音もなく部屋を出た。
冷気を含んだ夜風が、酒で火照った頬に心地よい。彼女が向かったのは、以前、不思議な老婆と出会ったあの場所――かつて競馬場だったという、今はなき走路の跡地(公園)だった。
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街灯もまばらな公園には、白色の霧が立ち込めていた。その霧の向こう、古びたベンチに、あの時の老婆が座っていた。
そして、その横には、巨大な影が佇んでいた。月光が雲の切れ間から差し込み、その影の輪郭を照らし出す。白銀の毛並み。闇夜に浮かび上がるような、気高く、美しい芦毛のサラブレッド。
本物の、「メジロマックイーン」だった。
彼女は立ち止まった。恐怖はなかった。むしろ、懐かしさと畏敬の念で胸が震えた。老婆がゆっくりと顔を上げ、しわくちゃの顔で優しく微笑んだ。
「来たねぇ。……待ちくたびれたよ」
老婆が馬の首筋をポンと叩く。馬が鼻を鳴らし、紫紺の瞳で彼女を見つめた。その瞳は、すべてを見透かすように澄んでいて、そしてどこか楽しげだった。
『走ろうか』
声に出したわけではない。けれど、確かにそう聞こえた。彼女の中の魂が、そして肉体に刻まれた本能が、激しく共鳴した。
彼女は深く息を吸い込み、重心を落とした。合図はいらない。馬が大地を蹴った瞬間、彼女もまた弾かれたように飛び出した。
―――ダッ、ダッ、ダッ、ダッ。
―――パカラ、パカラ、パカラ、パカラ。
二つの足音が重なり、夜の公園に響き渡る。
………いつしか、彼らの周りの風景は変容していた。
公園の芝生は、手入れの行き届いた極上のターフへ。
周囲の木々は、大観衆の埋まるスタンドへ。
ただし、そこには音がない。歓声もない。
あるのは、風を切る音と、互いの鼓動だけ。
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―――速い。
彼女は歯を食いしばった。東京マラソンで、東京競馬場のターフで見せた、あの異次元の走りのままに。人間の枠を超え、世界記録すら叩き出した脚力。今の彼女なら、風さえも追い越せるはずだった。
だが、隣を走る「彼」は、さらにその上を行っていた。
力強く、それでいて柔らかいフットワーク。地面を叩くのではなく、掴んで投げるような推進力。「ステイヤー(長距離走者)」と呼ばれた彼にとって、この疾走は苦しみではなく、喜びそのものなのだ。
(ああ……すごいな……)
彼女の胸に、純粋な感動が広がる。これが本物。これが伝説。自分が背負っている名前の、これが「オリジナル」の輝きなのだ。
―――第4コーナーを回る。
彼女は渾身の力でスパートをかけた。肺が焼けつきそうだ。足が悲鳴を上げている。それでも、彼との距離は縮まらない。むしろ、彼は涼しげな顔で、さらに加速していく。
優雅に。圧倒的に。それはまるで、銀幕の中の俳優のように、彼はターフを染め上げていく。
そして、見えないゴール板を、馬が先に駆け抜けた。
――半馬身。いや、一馬身。決定的な、しかし清々しい敗北だった。
二つの影は減速し、霧の晴れ間へと戻ってきた。彼女は膝に手をつき、荒い息を吐いた。馬は息一つ乱さず、静かに彼女を見下ろしている。
「はぁ……はぁ……。やっぱり、あんたはすげぇよ……」
彼女は顔を上げ、汗に濡れた前髪をかき上げた。口調は完全に佐藤のそれへと戻っていた。だが、その表情は、少年のように晴れやかだった。
馬がゆっくりと近づいてくる。巨大な顔が、彼女の目の前に下りてくる。
もちろん、言葉はない。だが、互いの魂が触れ合うのを、マックイーンは感じていた。
「ありがとうな。……俺と、走ってくれて」
彼女は右手の拳を、そっと突き出した。それは、男同士の、無骨な挨拶だった。
馬は一瞬、紫紺の瞳を細めた。
そして、その温かく湿った鼻先を、彼女の小さな拳に、しっかりと押し付けた。
柔らかい感触。命の熱。
―――それは、過去から未来へ。
―――伝説から現代へ。
―――そして馬から
『想いは確かに、受け継がれた』
老婆が満足そうに頷き、霧が濃くなる。馬の姿が、老婆の姿が、白い霧の中に溶けていく。
『"メジロ"を、頼んだよ』
最後に、風の音がそう囁いた気がした。
■
ふと気づくと、彼女は朝露に濡れた公園のベンチの前に一人で立っていた。
東の空が白み始めている。
午前4時。夜明けが近い時間だ。
彼女は自分の拳を見つめ、そして強く握りしめた。左足の痛みはない。腹の底から、新たな力が、そしていつもの空腹感が湧いてくるのを感じた。
「……さて」
彼女は朝日の方角へ向かって、大きく伸びをした。
「帰って、朝食にいたしましょうか」
気づけば口調は、『彼女』へと戻っていた。
『メジロのマックイーン』は銀髪をなびかせ、軽やかに走り出した。その背中は、かつての名馬のように力強く、そしてどこまでも自由だった。
(結)
メジロよ、永遠なれ。