貸さない本屋の相談屋   作:メグリくくる

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第二章 宗漢、下男になる 1

 月明かりすらない夜だった。闇はこちらを飲み込むようにどこまでも広がり、矢のように降ってくる雨で、体は震え、視界も霞む。

「―――!」

 自分の名を、誰かが呼んだ。そんな人は、一人しかいない。自分と一緒に旅に出た、その片割れだ。

「おっかさんっ!」

 泥濘む道を、一生懸命自分の手を引いてくれる母に、幼い自分がそう叫ぶ。

 両目から涙が溢れ、頬を雨粒以外の熱い雫が伝い落ちた。その熱も、この大雨の中では瞬く間に冷水へと変えられてしまう。

 自分たちは今、追われていた。

 誰に?

 わからない。

 けれども江戸に向かう途中、物取りに襲われている、何か恐ろしい物に追われているということだけは、幼い自分も理解出来ていた。

 物取りは、重罪だ。この時代、十両盗めば死罪になる。しかしそれは、捕まえられた場合。目撃者がいる場合に限られる。

 この雨の中では自分たちを襲う気配の数すら知れず、ましてや今自分たちが陥っている所を、神仏以外の誰かが見ているなんて考えられなかった。

 だか自分は、必死に祈った。

 神様仏様、どうか自分たちをお助けください!

 しかし、その願いは聞き届けられることはない。

 自分の歩幅に合わせなければ、母だけは逃げることが出来る。

 幼い自分はそう考えて、母だけでも逃げるようにと、そう言った。

「おっかあ! おっかさんだけでも、さきににげてっ!」

「馬鹿な事を言うのはおよしっ!」

 自分の願いは、母にすら聞き届けられることはなかった。

 そして、やがてあの時が訪れる。

 雷が落ち、自分へと迫り来る兇刃が煌めく。自分は、死を覚悟した。

 その瞬間。

 何かに、抱きしめられた。

 温かい。この上なく、温かかった。自分は今、母に抱きしめられている。

 この世に、これ以上の温かさなど存在しないのではないか? と、幼い自分はそう感じていた。

 母の愛情に抱かれて。

 愛情の味は血の味なんだと、自分は初めて知った。

 自分を身を挺して庇った母の体は、兇刃に切り裂かれていた。傷口から情け容赦無く、無残に暴かれた紅色の愛情が溢れ出し、自分を冷たい雨から温かさで守ってくれている。

 致命傷を負っても、母は自分の体を離そうとはしなかった。自分も離れようとは思わなかった。むしろ縋り付いた。

 自分も、母のもとにすぐに向かう。

 だが、その想いも叶うことはなかった。

「おい、生きているか! 生きているなら、返事をしろっ!」

 その声に応じるように、自分は目を覚ました。

 今日も、一日が始まる。

 

##########

 

「お亀ちゃん」

 自分の名前を呼ぶ声に、私は知らず知らずのうちに下がっていた視線を上げた。今私はお得意様を回っている最中だったのだが、夢見が悪かったせいか、今日はいまいち集中力に欠ける。

 いけない、と思いながら見上げた先にあったのは、大きな駕籠。

 武士やお殿様が乗るような装飾が施され、引き戸が付いている大名駕籠、とまではいかないが、木枠で作られた立派な法仙寺駕籠だった。

 普通私たちが乗るような辻駕籠とは違い、法仙寺駕籠は四方が板張りで春慶塗に仕立てられ、左右と前方にすだれ窓が設けられている。乗っている人の顔は、すだれがかかっているため見えない。しかしその駕籠に乗れるというだけで、私に声をかけてきた人が、いかに裕福なのかをうかがい知ることが出来た。

 自分の名を呼んだ艶やかな声が誰のものなのか、私は頭を巡らせる。やがて該当の人物の名前を頭の中から探り起こすと、私は自信なさげに口を開いた。

「……葵様でございますか?」

「ええ、そうよ。お久しぶりね」

 聞こえてきた声に、私は安堵のため息を漏らした。

 葵様は吉原の元花魁で、現在は吉原遊郭で自分の名前を冠した遊女屋『葵屋』を営んでいる。『相談屋』として相談事を引き受けたこともあり、うちの上得意でもあった。

 しかし、私はどうにも葵様が苦手だった。私自身が、遊女をあまり良く思っていないというのも、その大きな要因となっているのだろう。

 私がそう思っていると、駕籠のすだれから、わずかに白雪のような肌をした手が覗いた。

「大丈夫? お亀ちゃん。具合が悪そうだけれど」

「それで、お声がけ頂いたのですか?」

 私の鼓膜を、そっと撫ぜるようにしてかけられた優しい声に、私の心が罪悪感で鈍く痛む。そんな私の胸中を知ってか知らずか、葵様は鈴を転がすような声で笑った。

「ごめんなさい。わちきが最初に声をかけたのは、さっきだーさまを見かけたからなの。お亀ちゃんに伝えておこうと思って」

 その言葉に、私の頬が思わず引きつる。だーさまとは、遊女の言葉で旦那様、つまり自分を買ってくれた人のことを指す言葉だ。

 遊女たちは自分のもとを訪れる男性たちに、あなたは私と将来の仲を誓い合った旦那様、だーさまですよと甘言をかけ、何度も自分のもとへ訪れるように仕向けている。普通に考えれば自分以外にも愛想を振りまいていると気が付きそうなものだが、それに引っかかる男が多いから、今でもだーさまという言葉がなくならないのだろう。

 しかし、葵様は『元』花魁。彼女がそんなおべっかを使う必要性は、この場では全くない。

 だとすると葵様が言っただーさまとは、一体誰なのか? ということになるが、それに該当する人物となると、私には一人しか思い浮かばなかった。

「先生を、見かけられたのですか?」

「ええ、そうよ。でも、お亀ちゃんを心配したのも、本当よ」

「……ありがとうございます」

 本人にその気があるのかわからないが、葵様はうちの先生のことをだーさまと呼んでいる。懇意にしている『貸本屋』に対してのお世辞だと思っているのか、先生の方も気にした様子はない。

 しかし私は葵様の真意が気になり、駕籠に向かって疑問の視線を投げかける。しかしすだれがかかっているため、葵様の顔色をうかがい知ることは出来ない。

 それでも葵様は今妖艶に微笑んでいるに違いないと、何故だか私はそう確信していた。

「それで、どうするの? お亀ちゃん」

「……そうですね。嫌な予感がするので、先生の所に向かおうと思います」

 投げかけられた葵様の問で、私の意識は今聞かされたある一つの問題に集中する。

 普段は本ばかり読みふける、出不精の先生が外出している。

 先生は基本的に、あの家の中で一日中本を読みながら過ごす。外に出る時というのは竹さんから受けた様な相談事を解決するといった、何かしら問題を抱えている場合が多い。

 だが、そうした相談事は、特に今は持ち込まれていないはずだ。他にも所定の日に、素読の指南を頼まれた日などに先生が外出するということはあるが、今日はその日ではない。

 それなのにもかかわらず、先生は外出されている。嫌な予感しかしなかった。

 私は葵様から先生を見かけた場所を聞くと、一礼してその場を後にしようとする。その私の背中に、葵様の言葉が投げかけられた。

「また面白そうな相談事があれば、聞かせて頂戴ね。最近静かすぎて、退屈だわ」

 退屈と言われても、こちらとしては大事にならない方がいいに決まっている。

 一瞬言葉に詰まる私の皮膚の表面を、すっとなぞるような、葵様の悩ましげな声が聞こえてきた。

「やっぱりお亀ちゃん、素材がいいわねぇ。うちで働く気、ないかしら? そんな格好をせず身なりもちゃんと整えて、少しいじれば、すぐにでも花魁を目指せると思うのだけれど」

「……いえ、私には到底出来そうにありませんので」

「そんなことはないわ。色にだって色々あるのよ? 例えば、女に売る色も――」

「し、失礼しますっ!」

 上得意相手に、失礼だったかもしれないが、私は居ても立っても居られなくなり、その場から逃げ出すようにして駆け出した。

 後ろからは、相変わらず葵様の澄んだ笑い声が聞こえてくる。

 けれども今の私には、それは蛇が得物を前に舌なめずりをしている音にしか、聞こえなかった。

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