十月三十日、午後二十三時三十分。
扉を閉じると、警官の一人は泣き出した。
「ううっ……おれ、もう、いやだ……もう……っ」
両手で涙を拭う彼の肩にもう一人の警官は手を乗せて励ます。
連行した集団の中から女が一人、歩み出て警官たちに言った。
「どうなさいましたか? おクスリは使っていないんですか? ここにはいっぱいいっぱいあるはずですよね」
「それが、こいつ自分用も布教用も全部食ってもうたらしくて。今は落ち着いたんですが、交代のときなんかはバレそうでヒヤヒヤしましたよ。いや、今日は来てくださりありがとうございます。押収したヤクを警官がキメてたなんて表沙汰になったら大問題ですからね」
「ふふふ 今日は『押収分』の二十倍は置いていくので 心ゆくまで楽しんでくださいね」
「うう……っ、うううう……」
涙を流し、鼻をすする警官は女の前へと出る。
裾の細い黒のワンピース、露出した胸元と肩を白いケープで覆った、黒い長髪と白い前髪の女に警官は跪くと。
咽び泣きながら
「許してください聖女さまぁっ! おれ、もう『シス』が無いと、生きていけないぃ!」
「はい はい 素晴らしい それがあるべき姿ですよ おまわりさん」
「ああ! ああああなのに、おれは、ううっ……本官はぁっ!!」
「どうぞ 新しいおクスリです 今度はもぉっと気持ちよく」
「本官はあなたを裏切ってしまいましたああああああッ!!!!」
叫び、懺悔する男。呆気に取られる教会風の交番の中。
突如扉が蹴破られ、白い防護服に身を包んだ者たちが突入してくる。
「ガサや!!!! 全員そこ動くなァ!!!!」
防護服たちは
現場には女が服の袖からボロボロと溢し落としたシスタードラッグの他、ロッカーの中からは金貨のように積まれたコイン型のトローチが、棚に並んだファイルの隙間からはわたあめのような白い繊維のパックが続々と見つかる。
「お前、使ってもうたって!」
「ううううっ、やっぱりいやだ、捕まりたくない、うああああ……!」
一瞬のうちに外に集まった警察車両。手錠を嵌められた警官二人は布を被せられ連れていかれる。次はヤク教と見られる五人。時刻が確認され、体を抑え付けられた状態で一人一人しっかりと手錠を掛けられていく、その最後で。
「その服 息苦しそうですね」
ゴーグルの向こうから睨みつける氷色の眼鏡をした防護服の女へ、聖女はふっと笑いかけると。
大きく口を開け、着火したタバコで熱される煙玉を見せた。
「退避ぃいいいいいいっ!!!!」
バン! 破裂音と同時に濃霧のような煙が交番内に立ち込めていく。
警報器とスプリンクラーの作動音の中、ガサ入れの突入部隊は速やかに建物から逃げ出す。もくもくと白煙の溢れ出る交番の入り口から、一人のヤク教教徒が這い出して来る。
彼に注意が集まった一瞬、二階の窓から煙を纏った影が飛び出して。
スカートを裂いた女は全力で逃走を始めた。
「袂町交番一名逃走! 県道21号を
通信機を起動し防護服の女が叫ぶ。イヤホンから総司令官の澄んだ声色が冷静に告げた。
『本部了解。みなさん、作戦開始。作戦開始。
狙いを悟らせんよう、緊張せずにいきましょう』
◇
逃走する女が誰なのか、警察も陰陽師もその正体を確かに認識することはできない。
権能『
知ってか知らずかその力でこれまで何度も逃走を成功させてきた彼女は、しかし、奇妙に思っていた。
──今日はおまわりさんの動きが良い 先回りされています それに……
鋭い飛翔音が聞こえたかと思うと、女の目の前で何かが炸裂する。
ドーピングで活性化した動体視力だからわかる、その物体の正体。それは指の先ほどの獣の骨だった。大通りを走っていると時折誰かが何らかの手段で、どこかから獣骨による狙撃をしてくる。
実に奇怪。幾度となく修羅場を潜り抜けた逃げの勘が警鐘を鳴らす。今夜の相手はいつもの警察たちではない。
心当たるのは一人の少女。先週の土曜、ドラッグパーティーの帰りに事務所を襲撃されたとき現れた、白い髪をした「超能力者」。
──当たるとよくないかも 路地に入りましょう
歩道橋から飛び降りた女は転がった勢いのまま総合アミューズメント施設の駐輪場へと入り、ビルの密集する裏路地を南へ駆ける。パトカーの見えた車道を避けて左に曲がった。
そのとき。
「きゃ あわっ!?」
足元が突然浮かび上がる。けたたましいモーターの駆動音がして、体が瞬く間に縛られ空中に持ち上げられていく。
身動きがとれぬまま視線を動かすと、自分が網に絡めとられているとわかった。しかもそれは四機のドローンに結び付けられていて、真っすぐ上空へ飛び上がっていく。
──なんです? どうして空に? 墜落死でもさせたいのでしょうか……
頭で疑問が渦巻く。そんな彼女を待たずに遥かな夜空へと舞い上がったドローンはやがて、突然動きを止めた。
遠くに見える港庫タワーの高さから考えると高度は二百メートル近く。眼下には美しい
最期の余韻ということなのか。にしては凍えそうに寒いのが難点だ。そんな風に考えていた女はしかし、肌に感じる空気が徐々に暖かくなっていくのを感じた。
──あら? なんでしょう 暖かい…… あれ? いや ……熱い?
汗の雫が頬を垂れる。それがじゅわりと熱され乾いていく。
風はある。だがどんどんと熱風になっていく。霊安室のように冷たかった周囲は今や火葬装置の中のような灼熱の環境に変化していく。
パチッ。バチッ! 火が、女を絡め捕る網に灯る。一つの火は格子状に延焼して拘束を焼き切るが、女の身体は透明な板のような何かに着地して落ちない。
頭上に渦巻く火炎はしばし漂い、膨らみ、渦巻いたのち。蛇のように女へ襲い掛かり、呑み込む。制御された風が火炎をかき混ぜ、女に浄化の炎を食らわせる。
それは遠目に見ると四畳半ほど面を持つ直方体の空間にきっちりと納まっていた。上空に固定された匣の上下部外縁からは小さく火が噴きだし、中央の小さな七つの孔に空気と灰が流入していく。
陰陽道主・蘆屋炉満が秘奥、蘆屋家長女
八機のドローンに張り付けた除火災霊符で裏返しの防解火災結界『結界炉』を構築し、式神亜風伯の風と札の灰で一ツ火の炎を強化し続ける最大火力浄化儀式。
『熔葬灰燼祭』。
燦宮で最も高いタワーマンションの屋上から、
女はまんまと罠に誘い込まれ、対怪異特設火葬場に案内されたのだった。
──熱い 痛い 死んじゃいます! 消さないと なんとかして火を消さないと!
遠く空に浮かぶ朱い匣にわずかに白が滲むのを術師は見る。
何をしても無駄だ。完成したその術に逃げ道はない。思わず笑みが浮かぶのを堪える。
いつかの怪異との戦いを少女術師は思い出した。あのときは油断と接近を促すべく足元には結界を張らなかった。しかし此度の術は上下左右前後すべてが封鎖されており、空気孔は念のため人間が通れない幅に調整してある。
破るとしたら外側から、結界を形成している札付きドローンを撃ち落とすしかないだろうが、この空にシスターの味方は存在しない。
クロユリさんが決定付与した弱点、「修道服」と「
そう確信していた彼女が、
目を疑う事態が起こる。
衝撃波に押され、式神がコントロールを失い、煙に包まれた粒が墜落するのを見る。
結界炉が爆発した。
女が火を消そうと大量噴出した薬物、消火器のような効果を期待した粉末状の覚醒剤。それが亜風伯の風で掻き回され結界内に充満、一ツ火の熱に反応し粒子の外側が気化、引火、連鎖爆発。
いわゆる、「粉塵爆発」が起こったのだ。