時間がゆっくりと流れている。
呑んだ息が吐かれるまでののっぺりと伸ばされた一瞬。その間、
電車のドアの窓に映る醜悪な男の笑み。
涙でぼやけた震える手元、その向こうで呆れた溜息を吐く母親。
何度も現れる男。信じてくれない教師。過激になっていく行為。信じてくれない友人。
誰に言うことも諦めて、抵抗をやめて、自分を守ることすべてをやめて。
ずっとこの先もそうだとしたら?
そう思ってしまったなら、このホームから線路へと踏み出すのには何の躊躇いもなかった。
その感情に深衣も共感した。
こんな世界なら死んだ方がいい。
その方が、楽だ。
耳元で風を切る音が鉄のレールへの衝突を予告する。
あともう少し。
だけど、あたしは。
【【【【【【自殺してはいけない】】】】】】
ずきりと頭痛が走って、永遠のようだった一瞬は現実へと急加速していく。
「っは、助け……!」
線路へと頭を叩きつけられる……その直前で。
零れた助けを求める声に神が応えたかのように、深衣の体は風によって巻き上げられた。いや、風のような空気の塊に乗せられて、
「いやはや、とんでもないことしよるなーキミ」
わけもわからぬままホームにふわふわと帰還していく深衣へ、柔らかく清らかな声の関西弁で話しかけてくる少女がいた。
深衣と同じ鈴山学園高校の女子生徒の制服。リボンの色から二年生の先輩とわかる。そしてそれ以上に目を引く絹のように真っ白な三つ編みのおさげと、白いまつげに縁どられた真っ黒な瞳、浮かべた神秘的な微笑みの美貌。
学校の有名人。人気者の先輩。
蘆屋
以前いじめ問題で苦しんでいた深衣に、救いとなる指針を示唆してくれた恩人だ。
「あ、え、と……」
「ほいほいちょっとお待ちね」
小路は二つの鞄を持っていた。一つは学校が販売している肩掛けタイプの鞄で深衣も使っているもの。もう一つは軽音部の生徒が背負っている楽器ケースのような縦長の大きな黒い鞄。
肩掛け鞄を地べたに置き背中の鞄を引っ張ってくると、彼女はポケット収納から一枚の御札を取り出して、脱力してへたり込んでいる深衣の額に押し付けた。
「はよ出てきぃ。そんな子ん中おったら辛いやろ」
「へ……?」
ぽたり、手のひらに水滴の落ちる感覚がして深衣は手元を見る。ぽたり、もうひとしずく。それは知らずのうちに彼女の頬を滴り落ちたもの。
ふと視界の左端にスカートの裾が見えた。顔を上げるとそこには、手で目元を拭いながら泣きじゃくるあの女子高生の姿があった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」泣きながらそう繰り返す彼女の姿はみるみる薄くなっていき。小路が御札を離した瞬間にぷっつりと消えていなくなった。
「今の女の子は……」
「幽霊《ユーレイ》」
怪し気に微笑みながら白い少女は断言する。指先でつまんだ物々しい御札をひらひらと弄ぶ。
札にはいつの間にか火が付いていて、ジジジと燃える小さな音を立てて黒く細かな灰となっていき、彼女の手から離れて消えた。
一連の出来事を未だぼやける思考で振り返る深衣。
幽霊……霊媒体質のせいで人間だと思い込んでそれに声をかけ、体を乗っ取られ、線路に身を投げさせられた。
小路の謎の力でその窮地を助けられて、たった今彼女は除霊を完了した……。
そう、それは熟練の霊能者による速やかで、日常的な、「除霊」に他ならなかった。
「久しぶり。みーちゃん、やったよな。感心せーへんなあ、そんな霊媒体質ビッガビガのナリで霊に話しかけるなんて。まして共感するて。自殺行為やで?」
「蘆屋……小路先輩。あなたは、何者なのですか……?」
「…………ふ」
人差し指と中指を揃えて立てたままの右手をすっと動かして、印を結んだようなその手を唇の前に持ってくる。
──陰陽師。
無声で答えたその言葉を、唇の形から、心の声から、深衣はしっかりと聞き取った。
彼女の前に小路の白い手のひらが差し伸べられる。
「人目増えてまう前に行こ。歩きながら教えたげる」
◇
二人はバス停の横を通り過ぎて住宅地の方へ歩いていた。
鈴山学園への行き方は二つある。バスと徒歩だ。
バスでの登校は乗車料金がかかる、混雑する、正門前の急峻で長い坂は結局登らなければならないというデメリットがあるのだが、その利用者は圧倒的に多い。
徒歩ルートがあまりに過酷なためだ。
住宅地へ十分ほど歩いたころに丸い印の散らばった急坂が姿を現す。そこからの道のりはまるで登山。坂道、坂道、まだまだ坂道。急斜面を登り切り住宅地を抜けて裏門に到着したなら、今度は登り階段。天まで続くかのような長い長い階段、これを越えたその先には学園の第二グラウンドがあり、今度はその脇を回ってからまた坂道を登る。この最後の坂道を登ってようやく校舎が見えてくる。無論、教室までにまだいくつかの階段を登らねばならない。
故に、徒歩ルートを選ぶ生徒はごく限られている。
朝の閑静な住宅街で学校への道を今歩いているのは深衣と小路だけだった。
「陰陽師とは、ざっくり言ってまえば『陰陽術』を使ってお祓いをする霊能者のことを言います」
小路がやや改まった口調で語り出す。
日本最大の霊能者・安倍晴明で有名なその職業は、一般的には彼の活躍した平安時代だけのものと思われがちだ。
だが実際にはそうではない。鎌倉時代の幕府陰陽師『御簡衆《おふだしゅう》』や戦国時代『長篠合戦図屏風』に描かれた六芒星を縫い込んだ陣羽織の男たち、江戸時代は渋川春海と共に改暦事業に協力した土御門
歴史の表舞台に躍り出ることこそなかったが、彼らは長きに亘って人知れずこの国の魔を討ち祓う存在であり続ける、人界の影の守護者であった。
「明治維新の太政官布告で当時の陰陽道の総本家やった天社神道が禁止されて歴史的には陰陽師は潰えたことにされてるんやけど、実際に禁じられたんは宮廷陰陽師・土御門家嫡流の天社神道のみで、傍流や民間陰陽師の諸派は取り締まられんかった。廃仏毀釈や国家神道政策の活動においても黙認を貫かれて歴史の裏に隠された陰陽師と陰陽術は信仰を失って力を削がれこそしたものの超常的なその術の力は生き残って……」
「わ……」
「あー、ごめん。この説明の仕方やないな」
小路は立ち止まると、取り出したスマートフォンをすいすいと操作して表示した画面を深衣へと見せる。
『陰陽道総局 公式ホームページ - 組織図』
そこにはいくつかの名前が書かれていた。「局長 勘解由小路弓音」「総裁 大隈禅我」「副主祭・道主 蘆屋炉満」「総主祭 土御門顕仁」……
「特別顧問・晴明名代 土御門
「あーあーその辺はどうでもよくて。これこれ、この人」
白い指が指したのは「蘆屋炉満」という名前。「これ、ウチのお父上」指先を自分に指し直して言った。
「え」
「ウチは現代に生き残る陰陽師機関、NPO法人『陰陽道総局』の道主・蘆屋
平安時代の悪名高い法師《ほっし》陰陽師、蘆屋道満の子孫。
陰陽師・蘆屋小路。
突飛なことを真剣な眼差しで言う白い少女。
それが真実であることを、深衣は少しも疑うことはなかった。
怪異と対峙するカウンター的存在。それをすでに一人知っていたからだ。