夏服を着るのに抵抗を覚えず済んだのは、ミーコと出会えたおかげ。
右手で左の手首を触る。すーっと指先を引いてみる。もうコンシーラーを使わなくてもいいくらいだから、当然あのコリコリとしたかさぶたの感触はない。思い出すこともできない。ミーコと出会ってからの高校生活はそれくらい楽しかった。
「色んなとこ行ったよね」
「…………」
リコは答えてくれない。インスタを開いたスマホを見てもいないのにスワイプし続けて、トレーの上のハッシュドポテトとエッグマフィンが冷めていくのをそのままにしている。「そうだね」をもらうのは諦めるか。
もう一度左の手首を触る。今度は、右手を輪っかにして、締め上げるように掴む。ぎりぎりと、誰かさんをこうやって殺せたらなんて想いながら握る。
ありがとう。憧れる。愛してる、かも、なんて。
思っていたのを責め殺すように。
「ウチら別に悪くないよね」
「…………」
諦めたのを忘れて「そうだね」を求めてた。やめよう、やめなって。これ以上は無理じゃん。
手首から右手を引く。左手首に居場所がなくなったらどこに置けばいい? ちょっと迷って恐る恐る、ウチのトレーとリコのトレーの間に置いた。
もう少し伸ばせば、リコの左手首に届くところに。
「リコ。学校行く?」
「………………」
「昼からなら……いや、ごめん」
カルテに汚された制服を買い替える一週間の間で、ウチらは学校に行けなくなった。行くのが怖くて、行きたくなかった。あれから結局二週間、燦宮で昼間の時間を潰して夕方帰る生活をずっと送っている。
でもこのままじゃ、何にもならないじゃん。
右手に力が入る。掴まなきゃ、何かを掴まなきゃ。
このまま若い時間を無駄に食い潰して、何にもないままウチの高校生活が終わってくのかと思うと、嫌だ、嫌だって焦りでいらいらしてくる。
ウチは、何かを掴まなきゃ。何かにつかまって、ついて行かなきゃ。
頭も良くない、顔も普通、ぶりっ子もやれない、キラキラしたものなんにもないウチがキラキラした人生送るには、何かを掴んでなきゃいけないの。
何かを、掴まないと。
それは、この拗ね腐った負け犬の元いじめっ子の友達?
それとも……。
すぐそこにあるリコの手首には、真新しいリスカの痕があった。
手を下に伸ばせば、足元にはウチの学生鞄がある。紙の教科書で重いカバンが。
それ以上に重いこの右手をどちらに伸ばしたらいい? 殴り飛ばされた女か、それとも、殴り飛ばした女か。
ほんの少し、手は下に落ちかける。
「裏切り者」
どきりとして手を引っ込めた。
リコもびっくりしてた。目を丸く小さくしてウチを見てくる。
いやいやそっちが……じゃない、そうだ、今の声はウチの隣から聞こえた。
左隣の席の女の人が言ったんだ。
「大嫌い」
女の人はスマホをタップして電話を切って、それを乱暴にカウンターに置いた。そしてすぐに覆い被さるように上半身を伏せった。
揉め事……?
「別れ話?」
「え、さあ……」
突然リコに聞かれた。「彼氏に浮気された?」「結構美人じゃなかった?」と、なぜか興味ありげに質問を重ねてくる。ウチがわからないで答えあぐねていると、リコは席を立った。嘘でしょ、話しかけるつもり?
左隣を見る。ウチらより一回りは歳上に見える綺麗なお姉さんはもう起き上がっていて、バッグからカシャカシャと何かを取り出してトレーの上にぶちまけているところだった。
パッケージに入った大量の錠剤。
一度試してみたくて調べたことがあるからわかる。全部睡眠薬だ。
すべて飲めば間違いなく、オーバードーズになる。
「ちょっちょっ、ちょっと!」「お姉さんこんなところで!?」
「……あら?」
おっとりとした垂れ目をウチらに向けてくる、朝からファストフード店でODしようとするお姉さん。
まるで今気づいたかのように驚くと、恥ずかしそうに笑って赤くなり、手をブンブン振ってごまかした。
「わたくしったら! これは、その、気にしないで? いいえ、それよりもごめんなさい。こんなところでなんて……よくなかったわよね」
「わ、わたくしって……」
「お姉さんよくやるんですか? それ」
面食らっていたウチをよそに、リコはお姉さんのトレーを指さして聞く。興味あるんだ、ODに。絶対変な人なのに。公衆の場で堂々とODするなんておかしいのに。
「あぁー、あはは、時々……つらくて無理になったときに、ね」
山盛のパッケージの上にお姉さんはそっと手を乗せる。子供の頭を撫でる母親みたいに、そっと。それからぽつりぽつりと言う。ずっと仲良くしていた友達がいた。最近その友達がよそよそしくなった。変わってしまった。裏切られた。
「だからもう、捨てるしかなくなっちゃって」
大嫌い。そう言って電話を切った。けれどお姉さんの手は母親のようにパッケージの山を撫で続けて、やがて下敷きになっていたスマホを掘り出した。本当に大切そうにスマホを手に取った。画面が点灯する。通知はない。電話相手からの釈明や謝罪はないみたいだ。
「……えっと、」
「あなたたちは?」
「え?」
「おくすりは使う?」
体をウチらに向き直して聞くお姉さん。正面から見るとなんだか圧倒されるようなオーラがある。裾の細い黒のワンピースが引き立てるボディライン、半透明の白いケープがなんか神々しい、ロングの黒髪はなぜか前髪にハチマキのような白いラインが入っている……。
そんな風に呆気に取られていたウチをよそに、リコが答えていた。
「やってみたいかもって思ってたんです」
「あら、やっぱり。あなたからはなんだかわたくしと似たものを感じていたの」
「ほんとに気分良くなるもんなんですか?」
「少し試してみる?」
「いんですか? たくさん買うのって一工夫いるって聞いたんですけど」
「ツテがあるから。それに……こっちでよければ、一錠で十分楽になれるよ」
「えっ?」
お姉さんはバッグを漁り直して、一枚の小さなコインを取り出した。
コインの端をかりかりと引っ掻くと白い切れ端が出てきて、それが包装紙だとわかる。金色の紙から取り出した白い円。昼の空に浮かぶ月みたいなそれを半分に割って、片方をリコに、もう片方をウチに差し出してきた。
「トローチは知ってるよね? 舌の上で溶かして飲むだけでいいの」
「へぇー。ありがとうございます」
「ちょっ、待ってよリコ、これなんの……」
ウチが聞く前にリコは半月を呑んだ。もにゅもにゅと口を動かすようにして、トローチが溶けるのを待った。ウチはその様子を見守った。傍らのお姉さんは、笑っていた気がする。
そして、そのうち。リコはとろりととろけた目をして、へろへろにふやけた口を幸せそうに歪めた。
「ぇえ~~~~?」
「どーお? 楽になってきたかな」
「っはぁい。あ~~~~。ぜんぶ、なかったことになったみたいなぁ……」
「リコ……」
汗ばむ指先にトローチの粉が付く感触。気づかないうちにそれを撫でていた。リスカ痕を触れて確かめるのと同じように。こりこりとした感触の代わりになるものを求めて、知らぬ間にそれを、胸の高さまで持ってきていた。
「やめておく?」
「へっ!?」
綺麗な声で唐突に聞かれて飛び上がってしまう。見透かしたように微笑むお姉さんが、どうにも魅力的に見える。この人はきっと、ウチがこれを呑まなくても怒ったりしない。怒鳴らない。咎めない。どこまでも優しくいてくれそうな気がする。
だからこそ。
「んっ!」
「あら」
「あはははははっ!」
半月を口に入れる。舌の上に乗せて、歯の裏とか口の天井とかに押し当てて早く溶かそうとする。さっきリコがやってたみたいにもにゅもにゅと口を動かす。
ウチなんてきっと、何者にもなれない。
だから何者かになれる誰かにつかまっていなくちゃいけない。
そのために、何かを掴まなくちゃいけない。
だったらウチは、このお姉さんの手を掴みたい。
この人といたい。この人につかまっていたい。見放されたくない。捨てられたくない。愛、愛してほしい。ああ。 愛。 されたい。 あ。あれ? ええええ?
あはっ。
あははあ。
あああああああああ。
すごい、すごい、すごいきもちがする。とてもよくて あの なんだっけ?
ぽかぽかだ。 あついじゃない。 ふわふわもする。 ゆめをみたままふとんのなかだ。ふわふわ ふわふわ しあわせ しあわせ
おねえさん。おねえさん。 これ すごいですねぇ。
「うふふ ようこそ薬物の世界へ これであなたさまも わたくしの仲間です」
おねえさんわらった うちうれしい
いっしょあるいて くるまにのった