「お、あっことかええんちゃう?」
歩みを再開してから十分は経ったかというころ、ようやく二人は秘密の特訓にふさわしい場所を見つけた。
山頂を目指すルートから外れた場所で、片側は急斜面、他方は盛り上がった土や木の根で囲われた、教室の半分より少し狭いくらいの長方形に近い窪地。
中から塩の入った瓶と小皿、弊紙の付いた伸縮ポール、細い注連縄、そして紋様の描かれた札を取り出すと、手際よくそれを四隅に配して縄を渡し空間を仕切る。長方形の片端に置いた折りたたみ祭壇に米、酒、銀銭、ドライフルーツなどの供物を並べ……そこで陰陽師少女は同行者の理解を置き去りにしている可能性に思い当たり振り返った。
「ごめんごめん、説明もなしに」
「いえいえ、初心者のあたしでも陰陽術を使えるようにするため、なのですよね?」
「お、そっか、心読めるんやったな。まあわかりやすいようちゃんと説明させてもらうとな……」
陰陽師が扱う【陰陽術】は、怪異の一種である。
クロユリさんや深衣たちが「都市伝説怪異」と呼び、古くから陰陽師が「伝承怪異」と呼ぶそれらは、多くの人間から
そしてこのとき恐れられた逸話の内容が、しばしば怪異の出現に「条件」を設定する。「学校の三階にあるトイレの三番目の個室を三回ノックする」「深夜の高速道路を時速120キロで走行する」「二十歳になるまでその単語を覚えている」などのように。
陰陽師や陰陽術は表向き明治時代の始まりと共に淘汰されたことになっている。故に現在【陰陽術】を伝承怪異として畏れているのは陰陽師一族やその協力者のみであり、その発動に必要な条件は彼らしか知らない。
奈良時代から続く陰陽師の系譜が大切に保持してきた条件。それは至ってシンプル。「陰陽術を畏れ敬うこと」と「使えて当然と思うこと」である。
陰陽師の家の子供は生まれた瞬間から、陰陽術というある意味での怪現象が物理法則や自然の摂理と同列のものとして扱われる環境に置かれる。それを当たり前のものと信じて疑うことなく育つ。そして就学年齢に達すると家長による陰陽師教育が始まり、術がもたらす霊験の脅威と尊さを学ぶ。
こうして二つの条件を満たし、日々鍛錬を積むことで、霊威怪災に抗する秘術を現実の技術として発現させる職能者「陰陽師」が誕生するのだ。
では、陰陽師ではない一般人が新たに陰陽道に踏み入るにはどうすればいいのか?
無論、二つの条件を満たすのみ。陰陽術を畏れ敬い、同時に当たり前に使えるものだと信じ込めばよい。
術の怖ろしさやありがたさについては、禁七との戦いに同行した深衣はよくわかっている。問題となるのは後者。自分が陰陽術を当然のように使うというイメージ。
陰陽師・蘆屋小路を見ているからこそ、深衣には自分が彼女と同じ様に術や式を扱えるようになるという想像が難しい……はずだと小路は予測していた。
そしてその解決のため誂えたのがこの注連縄で囲った陣地。陰陽術を深衣も扱えると信じさせるための限定的空間。ある種の異界。「始祭内地」である。
「ここは清い気に満ちた霊山で、かつウチが直々に術力を込めて設営した陣地の中……簡単な術なら猫でも発動させることができる。みーちゃんにはまずここで基本中の基本である九字護身法を繰り返し発動させてもろて、みーちゃんにも扱えるものであるということを体で覚えてもらおうと思います」
「は、はいなのです」
「まあそんな身構えんでもだいじょぶだいじょぶ! 前も言うたけど、みーちゃんは呪い由来とはいえばりエグい術力持っとるし、気配まで読み取れるつよつよ見鬼もあるし、もう何回も怪異案件を潜り抜けてるわけやから。陣なんかなくてもできて当然レベルなんよ?」
「な、なるほど!」
共感の呪いでわかる。鼓舞する気持ちはあれど、そこに誇張は一切なかった。それが深衣の心にも伝播し、強力な自信として漲っていく。
「では、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしますなのです!」
「おし。ほんじゃまず九字護身法のやり方なんやけど……」
九字護身法。元は密教や修験道で用いられる魔除けの呪法であり、平安時代に陰陽術にも取り入れられた。縦に四本横に五本の線を交差させる格子紋様「九字」は陰陽道の歴史的人物・蘆屋道満のシンボルとしても有名である。
陰陽道総局が定める正式な作法では「臨兵闘者皆陣裂在前」と呪文を唱えながら独鈷印、大金剛輪印、外獅子印……と印を結んでいき、最後に刀印を結んで縦に四回横に五回線を空中に書いて格子紋様を完成させることで発動。局所的な霊的防壁を形成し霊怪の攻撃から身を守り、また邪を遠ざけるとされている。
「印は面倒なので省略します」
「大胆すぎるカットなのでは……?」
「もちろん理由があってな」と小路は語り出す。
初心者が術を失敗させる原因で最も大きなものは、手順にこだわるあまり術によって得るべき結果をイメージできないことである。
陰陽術の発生条件に必要な「畏れ」は、術が引き起こす現象を明確に想像できなければ生まれない。これを失念して形だけ真似た作法を繰り返しても成功することはなく、失敗を重ねていくうちにもう一つの条件「できて当然という意識」も遠のいてしまうのだ。
他にも、防御術なのに煩雑な工程に手間取って防御できませんでしたでは話にならないというのもある。「最悪、子々孫々しつこく付きまとうような呪いを受けることもある世界やから」と小路は自らの白い髪を摘まんで言った。
ましてこれは初歩中の初歩の儀礼術である。防御効果もさして大きくない。「前腕の長さ程度の幅の盾を数秒空中に展開する」くらいがせいぜいの術。極めるようなものではなく、やはり術を扱う感覚を養うためのものと割り切るべきなのだ。
故に、人差し指と中指をぴったり合わせて立てるだけの簡単な刀印で九字を引きながら呪文を唱える、略式の使用が公式に推奨されている。
「意外、と言っていいのかわかりませんが、あたしのような一般人に教えるときの様式があるのですね」
「せやね。年に二人か三人くらい一般人から陰陽師になりたいって総局を訪ねてくる人もおるから、一応マニュアルがあるんよ」
「ちゃ、ちゃんとしているのです……!」
「半分秘密組織やのに、な。んじゃ、そのマニュアルにしたがって、まずは手本見せたるな」
「はい、よろしくお願いしますです!」
小路は深衣から離れるように祭壇が置かれた方へ数歩歩き、広いスペースを確保する。それから自らの足元を指さし、何かを引きずり出すかのようにゆっくりと指を上に向けていった。指の動きに付随するように、彼女から少し離れたところで土埃が巻き起こる。指先が上っていくのに合わせて、高く大きな土煙になっていった。
蘆屋小路の使役する式神、風伯祭の霊威の化身「亜風伯」。普段は無色透明な空気の塊であるそれが、今は内部にたっぷりと砂を巻き込んで目に見えるようになっていた。
「これを怪異に見立てます」
「亜風伯さん、こんな姿だったのですね」
「んー、ほんまはちょっと違うんやけどね」
「え?」
「片腕。戻せんくなってもーたんよなあ」
筋骨隆々の巨人の上半身。土色に染まったことで初めて視認できた亜風伯のその姿には、右腕がない。事情を知らない小路がクロユリさんに戦闘を仕掛けたとき、返り討ちにされ切り刻まれた方の腕だ。
「この状態で感覚が慣れてもうたってのもあるんやろうけどこれも……、いや、今する話やないな。とにかく! 今からこの亜風伯にウチをつつくよう命じて、それを九字で防ぎます。よう見といて」
「はいなのです!」
亜風伯と小路との距離は教室の机二つ半ほど。土を含んだ巨人は仰々しく腕を引くと、ついと立てた人差し指をゆっくりと主人に向かって突き出し始めた。
対する主人は滑らかで丁寧な、素人にも見やすい動きで宙に格子模様を描き呪文を唱えていく。
「臨兵闘者皆陣裂在、前っ」
九本目の線が切られた瞬間、空中に九本線からなる格子が青白い光を放ちながら浮かび上がった。ちょうど同時に迫ってきていた式神の指がその格子紋様に触れる。
バチィッ!
稲妻のような強い光が瞬いて、巨人の腕はその体ごと後ろにのけぞっていた。
「こんなもん。簡単やろ? 呪文唱えつつタテヨコに線引くだけ」
「はい。ですがとても強力に見えたのです。亜風伯さんもちょっと後ろに下がっているような」
「そう、実はこれにはコツがあってな。敵の攻撃が来たのと同時に発動させるのがベストなんよ」
「ど、同時……!」
ゲームで言うと「パリィ」ってやつかな、と小路は独り言のように言う。
九字は切り終えた瞬間、紋様が完成し表出したその瞬間が最も高い防御力を持つ。時間が経つにつれその輝きは薄れていき、二秒もすれば防御効果は半減、四秒後には消えている場合がほとんど。
故にこの術は、怪異の攻撃にタイミングを合わせて発動させるのが最も効率のいい使い方となる。
「まあ最初からそこまでは求めへんよ。ゆくゆくはそうできるのが理想的ってだけで」
「は、はい……」
「最初は亜風伯の攻撃もなしで、術を成功させるところから。じゃ、時間もなくなってまうし早速始めよか!」
「はい!」
改めて小路が手順を説明をする。説明に合わせて深衣は指を振り呪文を唱える。
臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前……文言には集中してはいけない。枯れ葉の舞う目の前の景色に九字が浮かぶ様子、それが迫り来る魔の手を払い退ける未来を思い描く。
そしてそれは必ず現実になるのだと、信じる。
信じて振るう指が最後の一本を引き、深衣が呪文を唱え終わる。
すると。
「……うん。おめでとう、みーちゃん!」
清く涼しい山の空気を細かに震わせる格子紋様が、深衣の目の前で青白く輝いていた。