「臨兵闘者皆陣裂在、前っ、なのです!」
「なのですはいらんよー」
光線女の呪いを背負う少女、
初めての九字護身法、その発動成功から十五分。失敗は一度もなく、
その覚えの早さを、蘆屋家の長女は静かに目を細めて見つめていた。
──うわ、あかん、
「? 妹さんですか?」
「へっ!? あ、あー……伝わってもたか」
「いえ、こちらこそ勝手に聞いてしまってごめんなさいなのです。でも、少し気になって」
風の式神の動きを止め、小路はやや俯きながら結わえた白いおさげの片方をいじる。その姿からは複雑な感情が見て取れた。
眉は悲し気に垂れている。目元は恨めし気に歪んでいる。口元は懐かし気に緩んでいる。首の角度は思い出を眺めているよう。呼吸は不満の渦から噴き出すかのごとく重く。髪を遊ばせる指先は泥の中のようにぎこちない。
「
「……こみ先輩より、お強い陰陽師さんなのですね」
「……そうなんよ」
九歳で大人に混じって怪異退治を始め、十歳で調伏師に着任。二年で単独討伐数七体、討伐補助二十一体という異例のスピードで戦果をあげ、十二歳からは総局の特別顧問・土御門晴希付きの副官として海外に行っている。
現在十四歳で五体の式神を従える彼女、
──道瑠は、ウチの…………
「あかんあかん! 今はみーちゃんの特訓の時間! ウチの都合で申し訳ないけど最近ホンマ忙しくてぜんっぜん時間作れへんから、集中してやろ!」
「は、はい! そうでしたね! 頑張るのです!」
コントロールに乱れが生じ、強く速く迫ってきた亜風伯の指。
しかし深衣は動じることなく、完璧なタイミングで九字を切り弾いた。
光線女が焼き付けた「霊媒体質の呪い」それが与えた霊感・霊視・霊能力。それらは憐れな少女が祓い屋になるのを強力に助けていたのだった。
◇
橙に
百回連続発動が目前に迫っていた。
「いやすごいな……。カルテちゃんには悪いけど、ぜひ
この調子なら
カルテちゃんとの約束……いじめっ子だった頃のあたしに戻ってちゃんと謝罪すること。それを高校卒業までに達成できなければ、
先輩には申し訳ありませんが、あたしは、カルテちゃんの願いを叶えてあげなくては……罪を償って、カルテちゃんを「被害者」という立場から解放してあげなくてはならないのです。
……けれど。
不穏な考えが過る。
いや、それは世にとってはむしろ喜ばしいこと。望まれることである。
しかしこの世でただ一人、カルテだけが不幸になってしまうことであり。
則ち、冷杯深衣は、呪われた今のままの方が
共感の呪いは人の心を的確に癒せる。
いい子の呪いは人の生き方を善い方へ導ける。
霊媒体質の呪いは人の営みを霊災から守ることができる。
やがて死に至る反動の頭痛を術で打ち消すことができるのなら、彼女は今のままであるほうが世のため人のためになる。
必要とされる、求められる、愛される存在なのだ。
「あたしは……」
ほんのわずか、心が乱れ。九字紋様は式神の指より早く光る。
タイミングがズレたうえ、信仰の綻びが反映された隙間の大きな九字。こっそり徐々に強くしていた亜風伯のつつき攻撃はこれを容易く破った。
ガラスと金属の割れる音が混じったような聞きなれない音。それとほぼ同時に深衣は自分の体に猪のような質量がぶつかるのを感じた。
そのまま押し飛ばされ、体は宙を舞い、窪地の淵の土くれに背中をぶつけて着地した。
「おわああああごめんみーちゃん!! 大丈夫!?」
「あ、だ……い、痛いのです……」
【いい子は嘘をついてはいけない】
脳に
懐から紙の
「とりあえずこれで痛いのはよくなったと思うんやけど……みーちゃん?」
それを、当の深衣は意に介していない。
彼女の注意は腹や背中の痛みよりも、盛り上がる土の斜面に仰向けになったことで見えるようになったものに向いていた。
「こみ先輩。鈴が……」
姿勢をそのままに指を指す。延長線上にあるそれを、小路も見つける。
木の枝に引っかかったように樹上に浮く存在があった。
夕暮れの橙に照らされる巫女装束には粒のような金属光沢が無数。神楽鈴を幾つもぶら下げている。足首に、袴に、腰に、袖に、胸に、首に。顔はびっしりと並んだ鈴の前垂れで隠れて見えない。黒から灰、白へと薄れていく長い髪にも鈴が巻き付いていて、わずかでも動けばそれはけたたましく鈴の音を鳴らすだろうと予想された。
しかし。
視線に気づいてゆっくりと降下してきたその巫女の霊は、リン、と。慎ましやかに一つ分の音色を奏でるのみ。
二人の目の前で起こっていることはまさに、在り得べからざること。怪異だった。
緊張の滲む声色で小路は呟く。
「鈴の巫女って感じの見た目やな。いつからおったんやろ。全然気づかんかった」
「あたしも、全然気づきませんでした。存在感が薄いというか、姿に反してお静かというか……」
「害意や悪意がないっていうんもあるんやろな。悪霊怪異っていうよりは、精霊ってのが近い感じ……っ、みーちゃん、体起こして。近づいてきよるで」
山道に降り立った巫女は金の鈴を揺らしながら、しかしただ一つの鈴の音を鳴らして深衣たちの方へ歩いてくる。
立ち上がった深衣を後ろにやり、式神と共に前に立った小路は亜風伯から土埃を抜いてその指先で渦巻かせる。悪いモノではないとしても警戒するのが陰陽師。彼女はその一挙手一投足に注意深く目を光らせた。
「止まれ! その木の根よりこちらに来たら攻撃する!」
言語を解するとは思っていない。同行者への共有と、不明存在への表明のための宣言。何らかの形で意志を伝えることに意味があり、それが怪異に与える影響に意義がある。
鈴の巫女は尚も鈴のさえずりと共に迫ってくる。裸足にも関わらず草木や石の上を気にすることもなく歩いてくる。リン……リン……。小路が宣言した木の根まであと五歩、四歩、三歩、二歩……。
あと一歩。
そこで鈴の巫女は止まった。
そして、リン、と一音鳴らしながら右の腕を少し持ち上げて、その指でどこかを差し示した。
「見たらアカンでみーちゃん。まだ。目離したらアカン」
「…………」
「みーちゃん?」
「あっ、いえ、ごめんなさい。こみ先輩、この巫女さん、本当に敵意はないようで……」
「え?」
共感の呪いの前段階に当たる読心の効果は人間だけでなく怪異にも働く。心の声としてではなく、雰囲気や意識の方向性、そのニュアンスを感じ取るという形にはなるが、深衣は目の前の霊の佇まいや動作からそれを自らの心に写し取っていた。
この霊に敵意は欠片もない。あるのはただ、「迷惑なものを引き取ってほしい」という程度のニュアンスの、透明に近い懇願。
警戒を失くした深衣は、何の疑いもなく鈴の巫女の指差す方を見る。
途端、ジャラジャラジャラジャラッ!! 山のような鈴をかき鳴らす轟音が辺りに響いた。
薄れて消失していく鈴の巫女。まだ戦闘態勢でその様子を見つめる小路に、深衣は視線を外すことなく声を掛けた。
「こみ先輩、あっちに……」
「みーちゃん、こういうとき迂闊に相手の誘導に乗るんは危ないんよ。あともし何か言うことがあるんやったら言い淀まず端的に言うて。咄嗟の一言の有無が生死に直結することもあるから」
「は、はいなのです。さっきの巫女さんが指さした方に女の人がいて、こっちを見ているのです」
「はぁ!?」
見てもーたんか、という驚きと目撃者という存在への驚きで勢いよく振り返ってしまう陰陽師少女。後ろにいる深衣はあの巫女の霊のように指を指していた。
その先は山の急斜面。山道から外れた、落ち葉と草木に塗れる小谷。そこに隠れた女が、目を剥き口を大きく開いた顔を二人の方に向けているのを小路も見ることになった。
「あれは……、
「え……?」
まだ深衣には見分けられないその違い。
だが陰陽師の家に生まれて十六年になる少女にとってみれば、鑑別は容易なことだった。生気がなく物質的、しかし生々しい名残を持つもの。悪霊らしい恨みや未練も、怪異らしい害悪も不可思議も持ち合わせないそれ。
「人間の死体やわ、あれ」
遠く壮絶な表情で見つめてくる女の顔から、確かに、深衣は感情を読み取ることができなかった。