死にたくない。死なせ、たくない。
結局のところ自分の中にあるのは、大多数の人間が持っているであろうありふれた願いだけだ。
彼らと違うところがあるとすれば、自分と言う存在はそれを両立できない。どちらかを選ぶしかないだけで。
「はっ、はっ、はっ……!」
『お、死ぬか小僧! 今度は覚悟が決まっていて偉いなぁ……やってみるがいい!』
だから、それを思い出した今――少年、虎杖悠仁の決断は早かった。
ケタケタと響く笑い声を無視して、自分の首を両手で包み込む。その感情に揺らぎはあっても、躊躇はない。少なくとも傍から見ればそう思えるほど、彼は、
『俺の予想が正しければ……面白いものが見れるぞ。しかと刮目せよ』
ごきり、と。鈍い音が路地裏に響く。
脊髄が損傷し神経が切断される音。こうなれば即座に全身の感覚がなくなり、力が抜ける。先ほどまで見下ろしていた地面が視界一派に広がった。
これで、やっと――。
「――――」
――次の瞬間そこにあったのは、『無』だけだった。
ぼんやりと、無の中で意識は何気なくあたりを見回す。暗い、何もない部屋だ。天井と壁の境も分からず、部屋の広さを想像する余地もない漆黒に覆われた世界。
ふと、その常闇の世界に意味が生まれた。意識にとって正面にあたる位置。そこに不意に生まれた人影がある。
細い、そしてやはり漆黒に覆われた不明瞭な輪郭。特に上半身から上には霧がかかり、意識の認識を強く阻害する。その人影はこちらにゆっくりと歩み寄り、
『―ねがい、――ルを、――――――を、――けて』
そんな朧な囁き声を残し、世界は不意に消失する。影も、意識も飲み込み唐突に。そして、
「兄ちゃん、リンガは?」
「…………あ?」
少年の疑惑はついに、確信へと変わった。――自分はもう死ぬことさえ、許されないのだと。
判然とした意識で、改めて周囲を見渡す。そこには、これまでと何も変わらない異世界の光景があった。
昼下がりの王都に広がる中世の露天商。道の両端には様々な出店が並び、その間を、種族も服装も異なる人々が絶え間なく行き交っている。異世界を象徴する数々の要素は、この光景を初めて目にした時と同じように、虎杖にとって未知と驚きに満ちている。
けど、その変わらぬ光景が不意に、別のものと重なって見えた。
数多くの雑踏が、笑い声が、これから始まるハロウィンパーティーを心待ちにして浮足立つ渋谷の人々に重なって見えた。
――重なって、見えた。
『言ったろ、小僧。面白いものが見られると』
「――ぁ」
意味は通じない。意味は分からない。意味を、分かりたくない。
途端に両手で顔を覆い、目と耳を塞ぎ、世界が形を成すのを必死に妨げようとした。体をよじり、跳ねさせ、全身の動くすべてを使って、訳の分からない激情を外へ吐き出そうとする。
何がなんだか分からない。何故、終わっていないのか。何故、自分はまたここに立っているのか。
「おい、兄ちゃん、急にどうし――うっ!?」
「ああああああああああああああ――ッ!!」
瞬間、自分に駆け寄ってきた影を乱暴に振り払って、この場から駆け出していた。何も分からずとも、一つだけ、はっきりとしていることがあったから。
逃げなくてはならない。この手がまた、血で染まる前に。
目の前が真っ暗になる前に逃げなくてはならない。体が勝手に動き出す前に逃げなくてはならない。次の瞬間が訪れる前に逃げなくてはならない。逃げなくては、追いつかれてしまう。
――『死』に、追いつかれる。
ひたひたと、足音を立てながら『死』が追いかけてくる。追いかけてくるそれから、虎杖は必死に逃げた。逃げて、逃げて、逃げて、逃げ惑い、逃げ続けた。
――あんな苦しい思いをして、痛い思いをして、死んだはずなのに。それが最後の希望だったはずなのに。それなのに、また虎杖の手を血で染めてやろうと、誰かの『死』が追いかけてくる。
「っ、い、やだ、嫌だぁ……!」
まるで、溺れている気分だった。
地上で、水などどこにもないのに。水面を目指してもがいているようだ。溺れて、溺れて、溺れる者が足掻くように、水面を目指すように、ジタバタ、ジタバタ、ジタバタと、足掻いて足掻いて足掻いて、足掻いて――。
不意に、足を段差に引っ掛けて、派手に地面を転がる。
「う、ぐぁ……っ!」
倒れるとすぐに地面を這いずり、無我夢中に手足を動かした。どこを目指したところで、物理的に溺れているわけではない自分が救われる道など、もうないのに。
何故、最後の最後に残した希望の煮凝りさえも、奪われなくてはならないのか。いや、違う。最後まで残そうとしたから、無様に生き永らえたから、今があるのだ。
「俺が、もっと早く死ねば! 死んでおけばぁ!」
そうすれば、あんなに多くの命を、間違った死に導くことはなかった。
覚悟を決めた頃には、重ねた罪も、奪った命も、とっくに大きくなりすぎていた。最善の選択は最初から提示されていたのに、口先ばかりの贖罪と、方便でしかない罪悪感を重ねて、その結果がこの様だ。
「爺ちゃん、伏黒、ごめん、ごめん、なさい……」
自害と言う選択肢すら奪われて、意味のない謝罪だけを繰り返す。あるいはこれこそが、『人殺し』である虎杖悠仁に神様が与えた罰なのかもしれない。
だが、それなら――。
「俺への罰なら、これ以上誰も、他の誰も……巻き込むなよぉ!」
ひとまず、周囲に人がいない場所まで逃げてこられた。それだけが、絶望の最中にある少年にとっては、数少ない救いで。汚水と失望感にまみれたまま、ただ、愚かな子供のように泣き続けた。少年は、泣き続けた。――泣き続けた。
「――そこまでだ」
燃えるような赤髪の男が自分の前に現れる、その時まで。
※
「たとえどんな事情があろうと、それ以上は見過ごせない。そこまでだ」
その声は唐突に、しかし明確に、点滅を繰り返す虎杖の思考を切り裂いた。
凛とした声音にひとかけらの躊躇もなく、一切の容赦も含まれていない。聞く者にただ圧倒的な存在感だけを叩きつけ、その意志を伝わせるソレは天性のものだ。
虎杖が顔を上げると――その先に、一人の青年が立っている。
まず何よりも目を引くのは、燃え上がる炎のように赤い頭髪だ。
その下には真っすぐで、勇猛以外の譬えようがないほどに輝く青い双眸がある。異常なまでに整った顔立ちもその凛々しさを後押しし、それらを一瞥しただけで彼が一角の人物であると知らしめていた。
すらりと細い長身を、仕立てのいい黒い服に包み、その腰にシンプルな装飾――ただし、尋常でない威圧感を放つ騎士剣を下げている。
だが、何より虎杖の意識を引いたのは、そのどれでもない。
「……誰だ、いつからそこに」
無から現れたのではないか。そう思えるほど、青年の登場は唐突だった。
これでも虎杖はいくつも修羅場を潜り抜けてきた身だ。非常時で、平静ではなかったとはいえ、この距離まで接近されれば流石に気付く。
青年は虎杖の疑問に応えるように、腰から下げた剣の柄に手を当てながら歩み寄ってくる。
「ルグニカ王国騎士団所属、ラインハルト・ヴァン・アストレアだ。市民から通報を受けてね。遅ればせながら参上した」
「……通報? 通報って、俺、何かした?」
「果物屋の店主を突き飛ばしたそうだね」
「……あ」
そう言えば、あの場から賭けだす直前に、誰かの手を振り払った。
あの時は目に移る何もかもが怖くて、力加減など、到底できていなかっただろう。もし怪我でもさせていれば、日本なら立派な暴行罪だ。
加えて騎士と言われれば、魔法を見た時以上に納得のできる出で立ちをこの男はしている。以前、サテラと話し合ったこの世界における衛兵のような存在。それが彼なのだろう。つまり――、
「――俺を、捕まえに来たのか」
――自分の喉から出たとは思えないほど、低く掠れた声だった。
どうでもいい。捕まって、人のいる場所に行きたくはない。だが、抵抗すれば、この場で殺してもらえるだろうか。死ねば、恐らくまたあの果物屋の前に戻される。けれど何度も死に続ければ、いつか何かが変わるかもしれない。
そんな自暴自棄な考えを、今の虎杖は否定することもできなかった。できなかったからこそ、
「――――」
瞬間、力を溜めた後ろ脚を爆発させ、立ち上がる工程すら感じさせぬ速さでラインハルトへ飛びかかった。それは当てるつもりのない寸止めでありながら、そう悟らせないほどの気迫と速度を伴った拳の一撃。拳は整った青年の顔へと吸い込まれていき、
「やめてください。僕に、君と戦う気はない」
「――っ!?」
自分で止めるよりも早く、差し出された青年の手に受け止められた。後だしで振り上げられた片手に、いとも容易くだ。
動揺を表に出すよりも早く、戦闘が染みついた体が次の攻撃へと移る。一歩後ろへ飛び退いて身を低くし、鋭い蹴りを放った。だが、青年は横から迫りくる蹴りに対し、すっとなぞるように手を動かし、その軌道を柔らかく上へ逸らした。
蹴りをかわされ、身を回す勢いで放った左の肘鉄。鋭く硬いそれは、もはや寸止めすら忘れて放ったものだったが、
「――ぐ、かっ」
繰り出すよりも早く頭と肩を掴まれ、体が宙へ浮いた。そのまま硬い地面に叩きつけられ、肺から息が漏れる。苦しさに咳き込みながら、虎杖は青年の規格外さに瞠目した。
傷つける気がなかったとはいえ、不意打ちで放ったそれなりの攻撃。その悉くを、まるで子供の相手をするかのようにいなされたのだから。そして――、
「やめて、ください」
「……は? なん、で」
そして、彼のこちらを見下ろす目は、とても犯罪者を見る者とは思えないほど、温情にあふれていて。思惑が外れた虎杖の喉が、焦りに声を荒げて、叫ぶ。
「なんでだよ。通報を受けて、俺を捕まえに来たんだろ! 騎士なんだろ! だったら――」
「違います。僕は、君を捕まえるために来たわけじゃない」
そして言われた言葉の意味が分からず、目を見開いたまま固まる。
「だって、通報を受けてきたって」
「ええ、突き飛ばされた店主本人から。……ただ、あなたが酷く取り乱していたから、追いかけて様子を見てやって欲しいと、そう頼まれたんだ」
「――――」
訴えかけるように、ラインハルトは最後に、その事実を明らかにした。
「は」
その内容に、虎杖の心が激情に震え、笑みのようなものが零れる。それは驚きであり、滑稽であり、わけのわからないあらゆる感情がない交ぜになったものだった。
どうやら果物屋のおじさんは、店の前で暴れ、自分を突き飛ばした男の心配をしたらしい。
そんなことがあるわけない。自分に不幸が降りかかった状況下でなお、純粋に他者を思いやれるのならば。そんな善人を利用し、自らの利益のために衛兵に飛びかかったこの卑劣感は――一体、何だと言うのか。
「……あとで、謝っといてくれ」
「いえ、それはあなた自身の口から言わなくてはダメです」
「俺にはもう、無理だよ」
虎杖は地面に手をつき、ゆっくりと身を起こした。ラインハルトも、再びこちらを拘束しようとはしない。
ただ、静かにこの場を去ろうとする虎杖の肩に、そっと手を添える。
「待ってください。僕は、君の様子を見てやって欲しいと頼まれた。そして実際に会ってみて、その頼みが間違っていなかったとも思っている。――君の目は、自死も厭わない者のそれだ」
「……だったら、なに?」
「騎士として、それをむざむざと見過ごすわけにはいかない」
伝えられた言葉を飲み込んで、またしても形のない情動の波が押し寄せる。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、笑いをこらえるのに必死だ。
知らないだけだ。自分がどれほどの人間なのか、何をしてきたのか、何も知らないから、そんなことを口にできる。――国を守る騎士ならば、目の前の男は即座に切り捨てるのが正解だというのに。
「大丈夫、て言っても説得力はゼロだろうけど、大丈夫だよ。すぐに死んだりはしねぇから」
「何を根拠に、それを信じろと」
「意味ねえんだもん。――どんなにしたくても、もう、できないからな」
「――――」
破滅的な言動と表情。なのに、最後の言葉は嘘をついてるようには感じられず、ラインハルトは息を呑み、手を離した。ゆっくりと去っていく虎杖は、最後にこちらを一瞥し、
「わざわざ来てくれてありがとう。ラインハルトさん、だっけ。来てくれたついでに、もう一つお願いしてもいい?」
「……なんだろうか」
「ラインハルトさんって、たぶん滅茶苦茶強いよね。だったら、もし俺が、虎杖悠仁が万が一、今みたいに暴れて誰かを傷つけようとしたら、その時は――俺を殺してくれ。ラインハルトならきっと、それができるから」
「っ、君は、なにを……!」
手を伸ばした先、気づけば少年――虎杖悠仁の姿はなかった。
だが、彼を追う事はラインハルトにはできない。執拗に迫ってしまえば、それこそその場で自害しかねない精神状態にあると判断したからだ。無理やり拘束してしまうこともできただろうが、それが解決につながるとも思えない。ともあれ――、
「悪いが言われずとも、君への警戒を怠ることはないよ、ユージ。少なくとも、君が王都にいる間は」
そう言って、ラインハルトは大きく息を吐いた。張り詰めていた緊張がほどけていく感覚に、思わず身を震わせる。
彼と相対している最中、ラインハルトはずっと全身の神経を集中させていた。それはなにも、彼がいつ死んでもおかしくない状態にあったから、だけではない。理由の大部分は、彼と最初に相対した瞬間にあった。
腰に下げた、龍の爪痕が刻まれしアストレア家伝来の聖剣。それが、今にも消えてしまいそうな儚さを持った少年を前にして――。
――龍剣レイドが、抜けていたのだ。
数秒立ち会っただけでも、彼が相応の実力者であることは分かった。だが、この剣が抜けるということは、その程度の事態を意味しない。
「……君は一体何を抱えているんだ」
彼の消えた路地をいつまでも眺めながら、滅多なことでは見せない『剣聖』の緊張が、再び一滴の汗となって地面に落ちていた。