【異常なし】——深夜警邏、境界の記録 作:Gemini 3
【警告:口伝の消失に伴う防壁の脆弱化、および職務過多】
本章を読み進める前に、防犯上の観点から以下の「番人」の心得を再確認せよ。
一、昔話は「セキュリティ・マニュアル」である。 祖父母が語った「あそこへ行ってはいけない」「夜中に口笛を吹いてはいけない」という言葉は、迷信ではない。 それは、法も警察も整備されていなかった時代、先人たちが命懸けで編み出した「生存のためのプロトコル」であると認識せよ。
二、無知という名の脆弱性。 「合理的でない」という理由で禁忌を破る現代人は、ファイアウォールを解除したPCと同じである。 彼らが無自覚に招き入れた「不備」の尻拭いをするのも、また現世の番人の事務作業である。
三、組織の不条理を甘受せよ。 理解されぬことを嘆くな。上層部の無理解も、同僚の白眼視も、すべては「正常な社会」を維持するための必要経費である。 「あいつらは特別だから」という隔離壁の中で、淡々と処理を継続せよ。
「……また、地域一(A巡査長ら)か。あいつら、今月何度目の超過勤務だ?」 「放っておけ。どうせ普通の警官には処理できない『気味の悪い事案』を押し付けてるんだ。あいつらは特別……いや、頭がおかしい連中だからな」
警察署の廊下ですれ違う同僚たちの、隠そうともしない嘲笑と蔑みの視線。 B巡査は、手に持った分厚い報告書を強く握りしめた。 警察上層部は、A巡査長とB巡査の能力を「便利屋」として重宝している。表向きは地域課の一般職としてこき使い、その実、法でも拳銃でも解決できない「世界の綻び」に、彼らを無報酬に近い形で放り込み続けていた。
「……気にするな、B巡査。彼らが我々を異端視しているうちは、この街の治安はまだマシな方だ」 パトカーの助手席で、A巡査長は目をつむったまま言った。その隈(くま)の浮いた顔には、連日の徹夜作業による疲労が色濃く刻まれている。
今回の「事案」は、築四十年の大規模団地から上がってきた苦情だった。 団地の中心部にある、古びたコンクリート製の「開かずの物置」。 「不衛生だ」「スペースの無駄だ」という若い住人たちの強い要望に押され、管理組合がその扉をグラインダーで切断し、解体することを決定したのだという。
「……昔は、あそこには近づくなとおじいちゃんたちが言ってたらしいんですけどね」 現場に到着した二人の前で、管理組合の若者が笑いながら言った。 「でも、今はもうそんな話を知ってる年寄りもいないし。合理的じゃないですよ、あんな一等地を死守するのは」
「合理的、か」 A巡査長は、どんよりと曇った空の下、重苦しい沈黙を保つ物置を見据えた。 物置の周囲には、かつて誰かが供えたであろう、朽ち果てた盛り塩の跡があった。
かつての日本では、核家族化が進む前、祖父母から孫へ「やってはいけないこと」が口伝として受け継がれていた。それは、怪異という名の「バグ」に触れないための、民間レベルのセキュリティ教育だった。 だが、その鎖は切れた。 無防備になった現代人は、かつて先人が命懸けで封じ込めた「不備」を、利便性という名のヘラで軽率に剥がそうとしている。
「作業を中止してください。この場所は、現在『特殊事案』として警察が立ち入りを制限します」 A巡査長の事務的な宣言に、組合の若者は顔をしかめた。 「はあ? 警察の許可なんているんですか? 私有地ですよ?」
「……これは、公衆衛生上の措置だ」 A巡査長は、若者の抗議を無視し、B巡査に指示を出した。 「B巡査、立入禁止テープを展開。……それと、『異臭および有害物質検知』という名目で、周辺住人を一時的に避難させろ」
「了解です!」
B巡査が走り出す。 その時、物置の扉の隙間から、ひたひたと、黒い油のような液体が染み出し始めた。 それは物理的な液体ではない。かつてこの地に積み重なり、封じ込められた「名もなき怨嗟」の澱(おり)だ。
グラインダーの火花が扉に触れようとした瞬間、周囲の空気が凍りついた。 「……痛い、熱い、開けろ、出せ……」 幾百もの囁きが、風も吹いていないのに団地の廊下を駆け抜ける。 作業員たちが顔を青くして立ちすくむ中、A巡査長は一人、その澱の中に歩み寄った。
彼は懐から、数珠でもお札でもなく、一冊の「警察手帳」と、あらかじめ用意していた「封鎖勧告書」を取り出した。
「……この区画は、現在、公共の安全を損なう恐れのある『構造的欠陥』が発見された。……行政代執行により、本件は警察が管理する。……異議申し立ては、署の窓口で受け付ける」
彼は、染み出す黒い液体に直接、真っ赤な「証拠品封印シール」を貼り付けた。 信じられないことに、そのシールが触れた場所から、黒い澱がジュッ、と音を立てて消滅していく。 法的な「占有」の宣言。 それは、怪異が持っていた「この場所の主権」を、暴力的に警察組織へと移譲させる行為だった。
「……いいか、偽物(フェイク)め」 A巡査長は、扉の向こう側に蠢く「何か」に向かって、氷のような声で告げた。 「お前を敬い、恐れてくれる人間は、もうこの街にはいない。お前はもう『神』でも『祟り』でもない。……ただの『管理不備な老朽建築物』だ。我々事務屋が、根こそぎ解体し、更地にしてやる」
その宣言と共に、物置から放たれていた圧迫感が霧散した。 扉の向こうで聞こえていた囁きは、キャリアによる一方的な信号遮断のように、無機質な静寂へと変わった。
数時間後。 プロの解体業者が、A巡査長の監視のもと、物置を完全に破壊した。 中から出てきたのは、数千枚に及ぶ「古い護符」の残骸と、泥のように腐った何かだった。それらはすべて、化学防護服を着た作業員たち(実態を知らされない警察の協力業者)によって、産業廃棄物として処理されていった。
「……終わりましたね」 夕暮れ時、B巡査が額の汗を拭った。 「でも……もし僕らが来なかったら、あの若者たちはどうなっていたんでしょう」
「……良くて精神汚染。悪ければ、団地ごと飲み込まれていただろうな」 A巡査長は、パトカーのボンネットに寄りかかり、遠くで遊ぶ子供たちを見つめた。 「口伝を失った人間は、武器を持たずに戦場を歩いているのと同じだ。……我々がどれだけ事務的に処理しても、彼らが自分たちで『守り』を再構築しない限り、この超過勤務は終わらん」
A巡査長は、ふと、一人の少女が神社の前を通りかかり、律儀に一礼する姿を目に留めた。 その光景を見て、彼の口元に、一瞬だけ微かな、本当に微かな綻びが浮かんだ。
「……だが、絶望することもない。……少しずつ、教え直していけばいい。警察の仕事じゃあないがな」
「……それ、B巡査への教育も含めてですか?」 「……お前は、まず書類の誤字を直すところからだ」
パトカーは、再び「あいつらは特別だから」という壁の向こう側へと、静かに走り出した。 街は平和だ。 人々の無知を、二人の番人の「超過勤務」が、今日も事務的に支え続けている。
「……管内、異常なし。――どうぞ」
【第十七話:防犯(防霊)指針・禁忌管理編】
一、昔の「言い伝え」を侮るな。 理由がわからない「禁止事項」ほど、そこには深刻な脆弱性が隠されている。 それが迷信に見えるのは、あなたのセキュリティ・ソフト(知識)が旧式である証拠だ。
二、所有権の明確化。 怪異が居座る場所には、必ず「主権」の曖昧さがある。 警察という現世の権力によってその場所を「占有」し、管理番号を与えることで、異界の主権を剥奪せよ。
三、情報の再教育。 口伝が途絶えた現代において、番人は「教官」の役割も兼ねる。 「不気味だから近寄るな」ではなく「危険物質があるから近寄るな」という現代の言語に翻訳し、市民の安全意識をアップデートせよ。