【異常なし】——深夜警邏、境界の記録 作:Gemini 3
【警告:会計監査時における隠蔽、および緊急避難的対応】
本章を読み進める前に、防犯上の観点から以下の「番人」の心得を再確認せよ。
一、正論は最強の「隙」である。 「怪異など存在しない」という論理的な正しさは、時として防壁を無効化し、異物を引き寄せる誘蛾灯となる。 監査官があなたのロジックを破壊しようとしても、あなたはただ「現場の安全」だけを見据えよ。
二、備品は「正当性」を纏わせろ。 特殊な清掃剤は「特殊化学物質除去用」、封印シールは「証拠品損壊防止用」。 既存の行政用語へ適切に翻訳すること。事務の戦いにおいて、ネーミングは封印そのものである。
三、助けた後の「受理」こそが重要である。 救われた者は、その事実を脳が拒絶しようとする。 混乱に乗じて書類に印を突かせよ。行政上の「承認」さえ得られれば、あなたの逸脱した活動は「公式な職務」へと上書きされる。
「……説明になっていませんね、A巡査長。この『高純度銀イオン配合・特殊洗浄剤』の購入目的は? 警察の標準備品リストに、こんな高価な洗剤は存在しません」
警察署の取調室。重苦しい空気の中で、本庁から派遣された会計監査官、Cがタブレットを叩いた。眼鏡の奥にある瞳は、獲物を逃さない鷹のように鋭い。 隣で立ち会うB巡査は、滝のような冷汗を流していた。彼らにとって、怪異の咆哮よりも、C監査官が放つ「税金の無駄遣い」という指摘の方が、はるかに精神を削り取る攻撃だった。
「……当該洗浄剤は、特定の汚損物質に対する中和剤として使用しています。規程上、現場判断での特殊備品調達は認められているはずですが」 A巡査長は無表情に応じたが、Cは鼻で笑った。
「『特定の汚損物質』? 曖昧ですね。報告書には『黒い澱』としか書かれていない。そんな化学物質は存在しない。……A巡査長。あなたは優秀だと聞いていましたが、どうやらオカルト趣味に公金を投じる悪癖があるようだ。……この支出は承認できません。全額、あなたの自腹で補填していただきます。それと、懲罰委員会の――」
その時だった。 C監査官が、証拠品として机に置かれていた「第十七話の物置の破片」を指差した瞬間。 室内の蛍光灯が激しく点滅し、パチパチと嫌な音を立てて弾けた。
「……停電ですか? 非常電源は……」 Cが怪訝そうに周囲を見渡す。だが、そこにあるのはただの暗闇ではなかった。 監査官が放った「否定」と「疑念」という強烈な論理。それが、封印されたはずの残骸の中に眠っていた『禁忌の残り香』を、皮肉にも活性化させてしまったのだ。
机の上の破片が、生き物のように震え、黒い霧を吹き出した。 「……熱い、暗い、嘘つき、死ね……」 無数の怨嗟の声が密室に充満する。黒い霧は触手のように伸び、C監査官の喉元へと迫った。
「な、なんだこれは……!? 幻覚か、テロか!?」 エリート街道を歩んできたCが、初めて直面する「論理の通用しない暴力」。彼は椅子から転げ落ち、腰を抜かして震え上がった。
「B巡査、遮蔽展開。……監査官、動かないでください」 A巡査長の声は、驚くほど冷静だった。 彼は懐から、Cに「税金の無駄」だと断じられたばかりの、あの高価な洗浄剤を取り出した。 シュッ、という事務的な音と共に、霧の中へ液体が噴射される。
「……物件番号一〇八。監査業務を妨害する『不審な化学反応』を確認。……直ちに中和を開始する」
A巡査長は洗浄剤を監査官の周囲に円を描くように撒き、さらに「証拠品損壊防止用」と書かれた赤いシールを、実体化しかけた黒い触手の根元に、事務的な手際でパチンと貼り付けた。 断末魔のような悲鳴が部屋を揺らし、次の瞬間、黒い霧は霧散した。 室内の明かりが戻り、静寂が訪れる。
そこには、ただの汚れた破片と、腰を抜かしたままの監査官、そして「業務」を終えてスプレーのノズルを拭くA巡査長の姿があった。
「……ひ、ひいっ、ひいっ……」 C監査官は、荒い息をつきながら自分の手足を確認した。助かった。今、明らかに「現世ではない何か」に殺されかけていた。
「……C監査官。今の事象については、エアコンの冷媒ガス漏れによる一時的な幻覚、および静電気による発火現象として、私の方で事故報告書を作成しておきます」 A巡査長は、震えるCの前に、一枚の書類を差し出した。 『特殊備品使用承認申請書』。先ほど彼が全否定した洗剤の購入を認めるための書類だ。
「……承認、できません」 Cが、消え入るような声で呟いた。B巡査の顔が絶望に染まる。 だが、監査官は震える指で眼鏡を押し上げ、A巡査長を真っ直ぐに見据えた。
「……その洗剤の名前では、本庁のシステムを通りません。……私の権限で、品目を書き換えなさい」
「……書き換える、とは?」
Cは、恐怖をプロのプライドで押し殺し、冷徹な事務屋の顔に戻って言った。 「……『高度汚染地域における、未知の生物学的危害(バイオハザード)に対する緊急防護材』。……この名目なら、本庁の災害対策特別予算から無制限に引き出せます。……封印シールについても、『重要証拠品の法的同一性維持のための物理的ロック』として再登録しなさい」
B巡査が、息を呑んだ。 C監査官は、自らの目で見た怪異を「なかったこと」にはしなかった。代わりに、彼は「事務のプロ」として、怪異を「本庁が理解できる言語」へと翻訳し、予算の抜け道を作ったのだ。
「……A巡査長。私はあなたの『オカルト』は認めない。だが、あなたがこの街の『不備』を、現場の最前線で一人で食い止めているという『事実』は、会計監査上の実績として受理しました」
Cは立ち上がり、乱れたスーツを整えると、震える手でハンコを取り出し、A巡査長の書類に力強く、しかし事務的に印を突いた。
「……次回の監査までには、もう少しマシな『嘘』を書類に仕込んでおきなさい。……私の仕事が増えるのは、御免ですから」
監査官は、一度も振り返ることなく、取調室を去っていった。
「……巡査長。……あの人、かっこよかったですね」 B巡査が感嘆の声を漏らす。
「……ああ。……彼もまた、別の戦場を守る番人だ」 A巡査長は、承認印が押された書類を大切にクリアファイルに収めた。
警察という巨大なシステムの隙間で、今日も事務の歯車が噛み合う。 理解はされずとも、受理はされた。 それだけで、この街の絶縁は、また少しだけ強固になったのだ。
「……管内、および予算執行状況。……異常なし。――どうぞ」
【第十八話:防犯(防霊)指針・予算管理編】
一、正論を武器にする者への敬意。 この世界を支えているのは、怪異を信じず、法と規程を頑なに守る「無知なる誠実さ」である。 彼らが怪異に触れた際は、除霊ではなく、彼らの理解できる「言語」へと事象を翻訳し、世界観を保護せよ。
二、事務的な「ネーミング」の魔法。 特殊な事案も、適切な行政用語に置き換えることで、公的な予算と支援を得ることが可能になる。 「呪い」は「環境汚染」、「封印」は「証拠保全」。言葉を書き換えることは、現実の定義を書き換えることと同義である。
三、裏方の番人。 現場で戦う者だけが番人ではない。 書類の不備を指摘し、予算の穴を塞ぎ、システムの正常性を担保する監査官もまた、この世界の絶縁を維持する不可欠なパーツである。