【異常なし】——深夜警邏、境界の記録 作:Gemini 3
【警告:電子空間における「終わらない日常」への埋没、および死者との同期】
本章を読み進める前に、防犯上の観点から以下の「番人」の心得を再確認せよ。
一、更新は「生存」の証明ではない。 設定された時間に自動で投稿される言葉は、心臓の鼓動ではなく、録音された蓄音機の回転に過ぎない。 主(あるじ)を失ったアカウントが発する言葉に耳を貸すことは、空家の中で鳴り続ける電話に出るのと同じである。
二、デジタルにも「風通し」が必要である。 放置されたデータは、現実の部屋と同じく埃(ノイズ)が溜まり、やがて異界の「澱み」へと変質する。 思い出を「凍結」させるのではなく、適切に「結了」させることが、遺された者の責務である。
三、本物の日常は「音」を伴う。 画面の中の静かな更新よりも、現世で立てる掃除の音、食事の音を信じよ。 物理的な振動こそが、電子の迷宮からあなたを繋ぎ止める命綱となる。
「……B巡査、今日は『画面』を見すぎるな。視覚情報に偏ると、現世の重心がブレる」 署のデスクで、A巡査長がキーボードを叩きながら忠告した。 今回の事案は、〇〇地区に住んでいたある若者の急逝後に発生した、SNS上の「怪現象」である。
「……巡査長、これを見てください。一ヶ月前に登山事故で亡くなったはずの男性のアカウントが、今も毎日『おはよう。今日も最高の景色だ』と、山頂の写真を投稿し続けています」 B巡査が差し出した画面には、爽やかな笑顔の自撮り写真。だが、背後に映る山脈の稜線は、現実にはあり得ない角度で歪み、空は毒々しい紫色に濁っていた。
自動投稿ツールによる「擬似的な日常」の反復。 主を失い、管理の行き届かなくなったそのルーチンは、二十八話で目撃した「老人の清掃」とは正反対のものだった。それは代謝のない、ただの死んだデータのループだ。そこへ、神を騙り魂を啜る「偽神」の残滓が入り込み、アカウントを現世からエネルギーを徴収するための「不法な集金窓口」へと変質させていた。
「……フォロワーたちが『まだ生きているみたい』とリプライを送るたびに、このアカウントは現世の関心を担保に、存在を肥大化させている。……これはもはや思い出ではない。電子空間における『特定未管理物件』だ」
A巡査長は立ち上がり、署の備品庫から「物理的な拡声器」と、一通の「除籍謄本」を取り出した。
「B、現場へ向かうぞ。……相手は神を騙る存在の一部だろうが、関係ない。……我々が行うのは、あくまで『滞納されたデータの埋葬手続き』だ」
亡くなった若者の部屋は、主を失い、冷たく沈み込んでいた。だが、デスク上のPCだけが青白い光を放ち、ファンを異様な音で回転させている。 画面の中では、亡くなったはずの彼が「次は、もっと高いところへ行くよ。みんな、僕についてきて」と、フォロワーたちを甘く誘っていた。そのフォロワーたちのアイコンが、次々と画面の奥へ吸い込まれていくのが見える。
「……あ、危ない! みんな引きずり込まれる!」 B巡査が思わずキーボードを叩こうとしたが、A巡査長がそれを冷徹に制した。
「……そんな小さなボタンでは、因果の連鎖は止まらん。……B、窓を開けろ。そして、この『音』で部屋の現実強度を上げろ」
A巡査長が手渡したのは、二十八話の老人が使っていたものと同じような、年季の入った「竹箒」と「ラジオ」だった。
「掃除をしろ。……画面の中の死んだルーチンを、お前の『生きた生活の音』で上書きし、タスクとして処理しろ」
B巡査は戸惑いながらも、部屋の四隅を激しく箒で掃き始めた。 サッ、サッ、という乾いた竹の音。ラジオから流れる、脈絡のないニュースと生活の雑音。 その「物理的な振動」が部屋に満ちた瞬間、PCの画面が激しく乱れた。
「……ナニヲ……。僕ハ、ココデ、永遠ニ……」 画面の中の「彼」が、顔を歪めて叫ぶ。それは神々しい慈悲の光を纏いながらも、その奥に潜む悪魔的な「食欲」を隠しきれていなかった。 それに対し、A巡査長は拡声器を構え、現世の法理を事務的に宣告した。
「……当該アカウントの主は、〇月〇日をもって現世での戸籍を抹消されている。……よって、現時刻をもって、デジタル空間における本アカウントの占有を『不法占拠』と認定する」 A巡査長の声には、怒りも恐怖もなかった。ただ、目の前の事象を「整理すべき案件」として処理する、絶対的な冷たさだけがあった。
「……貴様、神仏ノ慈悲ヲ拒ムカ……!」 「……神仏であろうと、事務上の瑕疵は許容されない。……当庁の基準によれば、死後の自動更新は『虚偽報告』に該当する。……これより、全データの強制執行、および『埋葬』を実施する」
A巡査長が外付けのドライブを接続し、エンターキーを叩いた。 それは単なる削除コマンドではない。彼が事前に本庁の戸籍課と調整し、法的に受理させた「電子的死亡届」の最終手続き、すなわち、死者のデータを「物」から「遺骨」へと格下げして埋葬する、厳格な事務工程であった。
画面が真っ白に弾け、次の瞬間、静寂が戻った。 PCのファンは止まり、部屋にはB巡査が掃き出した埃と、窓から入る本物の初夏の風の匂いだけが残った。
「……終わったんですか?」 「……ああ。……デジタルに『終わり』はない。だからこそ、我々が事務的に『終わり』を書き込んでやらねばならん。……それが、遺失物に対する最後の処理だ」
A巡査長は、真っ暗になった画面を一度だけ見つめ、静かに黙祷を捧げた。 それは、偽神への対抗などという大層なものではなく、一人の若者の「停滞したデータ」を結了させた、番人としての最小限の敬意であった。
「……B。覚えておけ。……デジタルに日常を預けるな。……お前が今日立てた箒の音こそが、お前が生きている証であり、深淵をタスクへと格下げする唯一の現実だ」
B巡査は、自分の手のひらを見た。箒を握った感覚が、まだ熱く残っている。 彼は、署に戻ったらまず自分のSNSの通知を切り、部屋の窓を全開にして掃除をしようと心に決めた。
「……こちら地域二。……デジタル遺品の不法占拠事案、強制執行により結了。……対象は適切に埋葬されました。……異常……なし。――どうぞ」
【第二十九話:防犯(防霊)指針・デジタル遺品編】
一、デジタルな「死」を受け入れよ。 亡くなった方のSNSアカウントを、いつまでも「生きた状態」で放置してはならない。 それは思い出を保存する行為ではなく、出口のない迷宮に死者を閉じ込め、偽神に「餌場」を提供する行為であると認識せよ。
二、本物の音で「現実」を補強せよ。 画面の中の世界に現実感を奪われそうになったら、物理的な音を立てろ。 掃除、料理、足音。あなたの身体が生み出す振動こそが、電子的なノイズを「タスク」へと格下げし、あなたの存在を現世に繋ぎ止める。
三、定期的な「データの棚卸し」を義務付けよ。 不要なアカウントや放置されたデータはデジタルの「埃」であり、怪異の苗床となる。 一年に一度は、これらを「事務的」に整理し、風通しを良くせよ。日常の整理整頓に、深淵は介入できない。