【異常なし】——深夜警邏、境界の記録 作:Gemini 3
本書を読み進める前に、以下の注意事項を必ず遵守してください。
一、感想欄における「自らの怪異体験」の記述を厳禁とする。
二、特定の地名、氏名、あるいはそれを示唆する情報の書き込みを禁ずる。
現代において恐怖は無防備に消費されています。安易に恐怖を伝播させる行為は怪異に力を与え、新たな「被害の連鎖」を生む温床となります。本書の感想欄を「怪談を語る場」にしないでください。それは自らの境界線を破壊する行為です。縁の固定と拡大を防ぐため、ルールを逸脱した書き込みは管理者の判断により予告なく**「削除(処理)」**いたします。
深夜、パトロールカーの無線機が静寂を破った。
『〇〇交番、こちら指令。一般市民一名、現在そちらの交番へ向かっている模様。拾得物届出の対応、可能か。――どうぞ』
私はハンドルの左手にあるスイッチを親指で押し込んだ。
「こちら〇〇交番。現在、〇〇三丁目付近を警邏中。……現地点より交番復帰まで所要約五分。受理対応可能。――どうぞ」
『了解。拾得者にはその旨伝え、待機させる。……向かわれたい。――どうぞ』
「こちら了解。交番へ向かう。――どうぞ」
私はマイクを戻し、アクセルを静かに踏み込んだ。
数分後、交番の前に車を停め、中へ入ると、雨に濡れた顔色の悪い二十代後半の男が椅子に腰掛けていた。 傘も差さずに歩いていたのか、肩から滴る水が床を汚している。
「……これ、道端に落ちていたので、届けにきました」
男が震える手で差し出したのは、泥にまみれた古い皮製の巾着袋だった。 その瞬間、交番内の空気がわずかに重く沈んだ。
あの「何度経験しても慣れない」鋭い悪寒が、私の背筋を叩く。 男の目は虚ろで、まるで自分の体温をその袋に吸い取られているかのようだった。
「ご苦労様です。そこに置いてください」
私は事務的に問いかけながら、腰のホルダーから警棒を引き抜いた。 左手で先端を保持し、一段ずつ、確実な抵抗感を確認しながらゆっくりと引き伸ばしていく。
カチ、カチ、カチ。
私は引き伸ばしたその警棒を、男が置いた巾着袋と自分の間の机上に、水平に横たえた。 冷たく硬質な金属の棒が、自分たちの領域と、持ち込まれた「異物」の領域を分かつ明確な境界線となる。
私は素手では触れず、予備のビニール手袋を二重にはめて袋を検分した。 中には、錆びた古い鍵と、誰のものとも知れない髪の毛が編み込まれた不気味な根付が入っていた。 拾い上げた瞬間、耳の奥で「返して、返して」という、湿り気を帯びた執着の念が響いた。
(……こちら、〇〇交番一号)
状況を報告し、管理番号を仰ごうと、私は腰の無線機のプレストークボタンを押し込んだ。
だが、返ってくるはずの電子音がない。 デジタル信号の「プッ」という音すら響かず、ただ指先にスイッチの空虚な手応えだけが残る。 無線機は生きているはずなのに、この空間だけが現実のネットワークから切り離されたかのような、絶対的な静寂。
私はボタンを離した。焦れば「隙」になる。 私はあえて感情を排し、境界線のこちら側から無機質な声を放った。
「……拾得物、一点。古い鍵および根付。状態、著しく劣化」
私の「事務仕事」が、怪異の個性を奪っていく。 私はそれを厚手の証拠袋に入れ、一気にチャックを閉じた。 ビニールの膜という物理的な防壁が、男と巾着袋の間にあった見えない「縁」を断ち切る。
その瞬間、耳元で鳴っていたノイズが消え、無線機から小さなノイズが漏れた。 私は再びプレストークボタンを押し込む。
――プッ。
今度は、明快な電子音が指先と耳に届いた。
「こちら〇〇交番一号。拾得物一件受理中。……管理番号の付与を願う。――どうぞ」
『了解。……受理番号、四二九。繰り返す、四二九。――どうぞ』
「こちら了解。受理番号四二九。――どうぞ」
私は手元の書類に、大きく「四二九」と記入した。 男の氏名と、この不気味な物品を繋ぐ唯一の書類に、公的な「数字」という封印が施された。
私は男に「一切の権利を放棄する」という項目にチェックを入れさせると、複写された控えを手渡した。
「権利を棄権されているのであれば、この控えは今すぐに処分していただいても法的には問題ありません。……本来、警察官からお勧めすることではありませんが、もし嫌な予感が拭えないのであれば、そこのシュレッダーを使われますか?」
男は私の意図を察し、迷わずシュレッダーの投入口へ控えを差し込んだ。
――ガガガガッ、と。
受理番号が記された控えが、男の目の前で無意味な紙屑へと変わっていく。 これで、男と「四二九番」を繋ぐ物理的な縁の糸は完全に消滅した。
男が去ったあと、私は机上の警棒を縮めてホルダーに収めた。 それから、管理ラベルを貼った証拠袋を交番奥の拾得物保管庫の棚へ収めた。 棚に置いた瞬間、袋の中から「カサリ」と、中身が蠢くような音が聞こえた気がした。
だが、私は振り返らない。 三ヶ月の保管期間が過ぎれば、それは行政の手によって淡々と「廃棄」される。
私は再びパトカーに乗り込み、運転席に腰を下ろした。 日常のルーティンとして、ルームミラーの角度を指先で日常の位置へ調整する。 鏡の向こう、後部座席には誰もいない。 夜の住宅街が、ただ静かに映っている。
「こちら〇〇交番、事案終了。これより警邏に戻る。……異常なし。――どうぞ」
『了解。――どうぞ』
私はアクセルを静かに踏み込んだ。 救われた男は、明日になれば自分が何を届けたのかも忘れてしまうだろう。
それでいい。それが、この街を清浄に保つための、番人の事務仕事なのだ。
【第四章:防犯(防霊)指針】
一、番号による封印 異常な物品に対し、公的な「受理番号」を付与し、その名前や由来を否定せよ。 個性を奪い、統計の一部に変えることが、怪異を無力化する強力な手段となる。
二、物理的証拠の即時裁断 受理番号が記された書類であっても、縁を断ち切りたいのであれば手元に残すべきではない。 シュレッダーによる破棄は、認識の断絶を完遂させる実効的な儀式となる。
三、物理的境界と沈黙への対処 異常な事態に直面した際、通信機器が沈黙することがある。 その際は、焦らず物理的な境界(警棒や袋)を維持し、自らの職務を完遂することに集中せよ。