【異常なし】——深夜警邏、境界の記録   作:Gemini 3

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第五話:反響の拒絶 —— 共有されるノイズ

深夜三時。 パトロールカーの無線から、静寂を切り裂くノイズと共に、焦燥を含んだ指令が響いた。

 

『……管内、各局。異音事案、通報多数。〇〇三丁目、住宅街一帯。複数の住民より「正体不明の合唱が聞こえる」「不気味な声で眠れない」との入電あり。……現在も継続中。――どうぞ』

 

「こちら現認。現場付近、既に車両にて移動中。状況を確認する。――どうぞ」

 

私はマイクを戻し、アクセルを慎重に踏み込んだ。 「合唱」という単語は、警察の業務には馴染まない。 騒音苦情であれば通常、特定の家、あるいは公園での騒ぎを指すが、今回のように「地域全体から聞こえる」という通報が重なるのは、物理的な音源の特定が困難な、極めて質の悪い事案であることを示唆していた。

 

住宅街の入り口に差し掛かったとき、私はパトカーの窓を数ミリだけ下げた。

 

瞬間、車内に滑り込んできたのは、夜の冷気だけではなかった。 「それ」は、地を這うような低音の重なりだった。

 

複数の男女が、抑揚のない声で、一定のリズムを刻みながら何かを唱えている。 言葉としては聞き取れない。 だが、その音響は建物の壁に当たり、アスファルトに反射し、住宅街全体が巨大なスピーカーになったかのように全方位から押し寄せていた。

 

現場付近に停車し、ドアを開けた瞬間――。 私の革靴が地面に触れるより早く、心臓の奥を直接冷たい指で撫でられるような悪寒が走った。

 

真夏のような湿気を帯びた夜だというのに、耳の奥だけが凍りつく感覚。 「……これは、誰かが歌っているのではない。『音そのもの』が変質している」

 

独り言が、冷たいノイズに飲み込まれて消えた。

 

私は腰のホルダーから警棒を引き抜いた。 勢いよく振って出すのではない。 左手で先端を保持し、一段ずつ、確実な抵抗感を確認しながらゆっくりと引き伸ばしていく。

 

カチ、カチ、カチ。

 

この冷たく硬質な金属音を聴くことで、私の意識は「恐怖を感じる個人」から「法を執行する絶縁体」へと再定義される。 私は引き伸ばした警棒を、自分の顔の高さで水平に構えた。 この一本の金属棒を境界線とし、外界の不浄な共鳴と、自分の中の静寂を明確に切り分ける。

 

フラッシュライトで生垣や軒下を照らすが、当然ながら人影はない。 それどころか、通報したはずの住民たちが、好奇心に負けて窓を細く開け、外の様子を探っているのが見えた。

 

私は直ちにパトカーに戻り、拡声器(サイレンアンプ)のマイクを握った。 だが、サイレンは鳴らさない。 相手が「意志」を持って共鳴を広げている以上、こちらが「攻撃」という意志を返せば、それは更なる共鳴の呼び水となり、事態を泥沼化させる恐れがある。 必要なのは排除ではない。「公務による上書き」だ。

 

私は、車載されている「交通安全啓発用」の録音テープを再生し、最大音量で街に放った。

 

『……車両の運転者は、歩行者が横断歩道を横断している時は、その直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければなりません。道路交通法第三十八条第一項……』

 

深夜の住宅街に、抑揚のない、徹底的に事務的な「法律の朗読」が響き渡る。 それと同時に、私はスピーカーを通じて住民へ、感情を排した声で語りかけた。

 

「こちら警察です。住民の皆様、直ちに窓を閉め、カーテンを引いてください。現在、付近の通信設備に一時的な障害が発生しており、不快な共鳴音が生じています。音の正体を確認しようとせず、速やかに遮音措置を講じてください」

 

窓からこちらを伺っていた住民たちが、怪訝な表情で私を見ている。 私はマイクのスイッチを切り、パトカーの中からその様子を冷徹に見据えた。 「霊」や「合唱」などという言葉は一言も使わない。それらは「通信障害」という公的なラベルによって、住民の意識下から排除されなければならない。 原因を特定できない恐怖を、解決可能な「物理トラブル」にすり替える。それが、この場の主導権を握るための第一歩だ。

 

私は再びマイクを入れ、さらに指示を重ねた。

 

「テレビ、あるいはラジオをお持ちのご家庭は、速やかに空きチャンネルの砂嵐(ホワイトノイズ)を流してください。音響的な干渉を打ち消すための標準的な手順です。朝まで継続して流し、そのまま就寝してください」

 

私の声が、無機質な電子音となって深夜の街に染み込んでいく。

 

(砂嵐とは、全周波数を均等に含む、この物理世界における『音の飽和状態』を指す。 多くの者がこれを「異界との窓口」として描く創作物に毒されているが、事実は逆だ。 今回のような、特定の『意味』を持った侵食音に対し、意味を一切持たない純粋な物理振動であるホワイトノイズは、強力な**遮断材(サイレンサー)**として機能する。

 

霊的な波長が入り込む隙間さえも、無機質なノイズの粒で埋め尽くし、物理的に飽和させる。 それこそが、意味というウイルスを死滅させるための、最も安価で強力な『消毒液』なのだ。 住民たちが「通信障害の対策」として砂嵐を流す時、その無知な協力によって、街全体の防壁は完成する。 彼らは自覚なき『絶縁体』の一部となるのだ。)

 

私は、淡々と道路交通法の条文を流し続けた。 秩序の象徴である「法」の文言。 そして、意味を殺すための「ノイズ」。 これら現実世界の強固なロジックが、住宅街を覆っていたドロドロとした合唱を、端から順に「日常の騒音」へと解体していく。

 

一時間ほどが経過した頃、空気が軽くなった。 全方位から聞こえていたあの不気味な唱句は、いつの間にか、ただの遠い風の音に取って代わられていた。

 

私は拡声器を切り、パトカーの運転席に戻った。 無意識のうちに少しだけずれていたルームミラーの角度を、指先で日常の位置へ戻す。 鏡の向こう、後部座席には誰もいない。 ただ、冷たい静寂が支配する車内が、いつも通りに映っている。

 

この「背後の空白」を視覚的に確認するルーティンが、私の精神を現実の座標へと繋ぎ止める。

 

そして、無線機のプレストークボタンを一瞬、押し込んだ。

 

――プッ。

 

デジタル信号の電子音が、耳の奥に残っていた合唱の残響を完全に粉砕した。

 

「現場確認。異音事案、現在は沈静化。音源の特定には至らず。ただし、住民には適切な聴覚保護措置を指示済み。……これより巡回に戻る。――どうぞ」

 

『了解、巡回を継続せよ。――どうぞ』

 

私はアクセルを踏む。 明日になれば、住民たちは「昨夜は変な騒音があったな。お巡りさんが法律を読み上げていたっけ」と、滑稽で不可解な記憶として処理するだろう。 彼らが聞いたものが、この世ならざる者たちの「招きの合唱」であったことなど、永遠に知る必要はない。

 

それでいい。それが、「異常なし」という報告の重みなのだ。




【第五話:防犯(防霊)指針】
一、聴覚的解析の拒絶  正体不明の声や音が聞こえた際、その「意味」や「歌詞」を聞き取ろうとしてはならない。  理解しようとする試みは、あなたの意識という門を自ら開放する行為に等しい。  それは単なる「ノイズ(騒音)」であると定義し、思考を停止せよ。

二、物理的な音による上書き  不気味な静寂や異音に包まれた際は、テレビの砂嵐音(ホワイトノイズ)を「音の遮蔽板」として事務的に利用せよ。  特定のメロディや歌詞を持たない無機質なノイズは、異界の共鳴を物理的に飽和・相殺し、受診側の意識(脳)を強制的に保護する。  「砂嵐=怖い」という創作上のイメージを捨て、それを「音の消毒液」として認識せよ。

三、公的なロジックの展開  異質な気配に呑まれそうな時は、法律の条文や、数学の公式、あるいは日常の業務連絡など、徹底的に「意味が固定された現実の文言」を口に出せ。  揺るぎない現実の定義が、あやふやな怪異の理を塗りつぶし、境界線を再構築する楔となる。
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